名犬駄犬
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第二章
第二章
世話は一樹が主にやることになった。だがやはり子供なので真美子もかなり世話をした。ところが。
コロはソーニャとは似ても似つかないどん臭い犬だった。何をするにも遅く、ヘマばかりするのだ。
「また食器ひっくり返して」
食べる時もそうだった。不器用なのでドッグフードや水を入れている食器をすぐにひっくり返してしまうのだ。
トイレも。しょっちゅうそこいらでする。
「こらっ」
怒るとシュンとした様子になる。けれど同じ失敗を何度もする。
買い物なぞ出来る筈もない。弱虫でそのうえ身体も小さく番犬にもならない。一樹の遊び相手どころか遊ばれている始末だ。とてもソーニャとは比べ物にならない。
「貴方って本当に駄目ね」
ある日真美子は小屋の中で小さくうずくまっているコロに対して言った。
「ちょっとはソーニャを見習いなさい。愚図なんだから」
そんなことを言われてコロはやはりシュンとしている。しかしそれでもそのどん臭さは変わりはしない。相変わらず失敗ばかりしていた。
真美子はついついソーニャと比べてしまう。だが一樹はそうでもなかった。
「じゃあ行って来るね」
「ええ、気をつけてね」
散歩に行く時も一緒だ。一樹はコロを可愛がっていたのだ。そんな息子の様子が少し信じられなかった。
「どうしてかしら」
真美子は思った。
「あんな愚図な犬、何処がいいのかしら」
そう思う。外見も不細工だ。いいところなぞ何もないように見える。やはりソーニャと比べると完全に駄犬と言っていい。しかし一樹はそんなコロを可愛がっているのだ。
一樹はいつもコロと一緒にいた。ソーニャも一緒にいるがコロとはもっと親密だった。
「ねえ一樹」
部屋の中でテーブルに座り向かい合っておやつを食べている時に尋ねた。夫はこの時書斎に篭もって仕事をしていて二人だった。
「何、お母さん」
一樹はケーキを食べるその手を止めて母親に顔を向けてきた。
「最近貴方いつもコロと一緒にいるわね」
「うん」
何も考えることなく返事を返してきた。
「そうだけれど。それがどうかしたの?」
「別に」
何か言うのが気まずく感じた。
「ただね」
「ただ、何?」
それでも言おうとする。だが一樹は母が何を言いたいのかわかってはいなかった。
「コロとソーニャ。どちらがいいの、貴方は」
「どっちかって言われても」
一樹はやはり迷いも何もなかった。
「僕はどっちとも言えないよ」
「そうなの」
「お母さんは違うの?」
「えっ!?」
逆に息子に言われて少し戸惑いを感じた。
「お母さんはコロのことは嫌いなの?」
「そ、それは」
一瞬何と言っていいのかわからなかった。
「嫌いじゃないよね。飼うの賛成してくれたし」
「え、ええ」
何とか感情を表に出さずに応えた。
「コロって可愛いでしょ」
「まあね」
実はとてもそうは思えない。不細工な顔だと今でも思っている。
「それにね。優しいんだよ」
「優しい!?」
「そうだよ。だって散歩してる時ね」
「ええ」
「お花を見たら立ち止まってじっと見ているんだよ。虫とかは絶対に虐めないし」
「そうなの」
ソーニャも虫を虐めたりはしないがこれはそもそもソーニャが非常にできた犬だからである。これは驚かなかった。
しかし花を好きな犬というのは。かなり意外だった。
「道に咲いているお花見たらいつもじっと見ているんだ。お母さんも見てみるといいよ」
「ええ、わかったわ」
軽い返事だった。だがどうにも信じられない。しかし一樹がコロを好きなのはわかった。どうやら自分とは好みが違うようだと思っただけだったが。
「ねえコロ」
真美子はその話の後でコロに餌をやりに言った。餌自体はソーニャと同じものだがコロは身体が小さいのでその量はあまり多くはない。
「貴方、お花が好きなのね」
だがそれには応えはしない。餌を見て目を輝かせているだけである。
「それと餌かしら」
やはりそれを思うとつまらない犬に思える。
餌を食べているコロはガツガツしていてあまり品がないように思えた。それに対してソーニャは上品に食べる。やはりソーニャと比べて見てしまう。そして駄目な犬だと思った。
「後で散歩行く?」
それを聞くとソーニャは耳をピンと立てるものだがコロにはそれはない。ただ餌をガツガツと食べるだけであった。
「まあいいわ。行くわよ」
それに構わずにこう言った。餌を食べ終わったのを見てソーニャと一緒に散歩に連れて行くのであった。
散歩に連れて行くとやはり遅い。大きさの関係もあるがソーニャがスタスタと歩くのに対してコロのそれはトコトコといった感じである。それにあちこちで用をたす。その度に立ち止まってしまう。
「またなの?」
また用をたすコロに呆れてしまった。今は電柱に用をたしている。
その前は橋に。しょっちゅう用をたしているのだ。
「本当に。歩くのは遅いし」
やはりコロが嫌になる。ソーニャと比べて劣っているようにしか見えない。
「一樹も。こんな犬の何処がいいのかしら」
「あ、ほら見て」
そこへ女学生達が通る。
「シベリアン=ハスキーよ」
「何か格好いいわよね」
ソーニャのことだとすぐにわかった。それを聞いて思わず心の中で勝ち誇る。
「すっごく賢そうだし」
「目の色も左右で違うし。綺麗よね」
女学生達の声が心地よい。それが彼女にとって何よりの誇りだった。
だがコロに対しては。そうではなかった。
「あれ、あの犬」
女学生達もコロに気付いた。
「何か情けない顔してるわよね」
「そうね。間抜けな顔してるわね」
(間抜け・・・・・・)
さっきとは全く別の感情を抱いた。彼女達の口さがない言葉に真美子は不愉快なものを感じた。
そしてそれは女学生達には向けられなかった。言われているコロに向けられたのである。
「だっさいわよね」
「そうよね。不細工だし鈍そうだし」
「人間だったら何か付き合いたくないよね」
「そうよね。あんな鈍そうだと」
そんなことを言いながら去って行った。真美子はその後でコロを不機嫌そのものの顔で見下ろして言った。
「コロ」
コロは何もわからない。ただ真美子を見上げるばかりである。
「あんなこと言われて。本当に貴方は駄目ね」
悪いことを言われているのはわかる。するとシュンとしょげかえった。
「全く。ノロマだし不細工だし。何もいいところがないのね」
そう言いながらコロを見下ろす。
「少しはソーニャを見習いなさい。そんなのだから駄目なのよ」
ソーニャは特にコロを見たりはしていない。意に関せずといったところだった。
だが真美子は違っていた。とにかくコロが言われたことをそのまま自分のものとして受け止めていたのだ。だからコロが許せなかったのだ。
「一樹が気に入ってるからいいけど。しっかりしなさい」
しょげかえって座ったまま聞いている。如何にも申し訳なさそうだ。
だが結局コロはコロなのだ。不細工で動きも遅い。それがわかっているから真美子は余計にイライラしていたのだ。どうしようもないことこそそうしたイライラが募るものなのだ。
情けなくなる。自分のことではないのに。それでもコロは変わりはしない。鈍く、小さく、そして不細工なままだ。いい加減嫌にさえなる。
だがそれでもこの犬を邪険にするわけにはいかなかった。一樹が気に入っているし、その一樹の教育の為だ。ここは我慢するしかなかった。
一樹は相変わらずコロを可愛がっている。ソーニャに対するそれとは態度が全然違っていた。そう、まるで友人の様であった。それに気付いた真美子はまた一樹に尋ねた。今度はコロの小屋の前だった。そこで話をした。コロは一樹の足元でゆっくりと寝ていた。のどかなものだった。
「コロといつも一緒にいるわね」
同じ質問だった。
「だって凄く優しい犬だもの」
「そうなの」
やはり返事も同じようなものだった。真美子は心の中で溜息をついた。こんな犬の何処がいいのかと。
「お母さんはわからないの?コロのよさが」
「それは」
「僕、わかってるんだ」
一樹は顔を暗くさせた。目も母親である真美子を咎める目であった。
「お母さん、コロ嫌いでしょう?」
「・・・・・・・・・」
反論出来なかった。その通りだったからだ。はじめて息子に対して何も言えなくなった。
「いつもソーニャばかり見てるからわかるんだ。コロのことちっとも見ていないから」
「そうじゃないけれど」
「そうじゃなかったら馬鹿にした目で見てる。お母さんはコロなんかどうだっていいんだ。いや、いなくなってしまえばいいと思ってるんだ」
「それは・・・・・・」
言い返せない。息子に。こんなことを言われたのは夫にすらなかった。
「だからコロのよさがわからないんだ。コロはコロなんだよ」
「一樹・・・・・・」
「ソーニャとは違うんだよ。お母さんはそれがわかっていないんだ」
「それはわかっているけれど」
俯いてしまった。わかってはいるつもりだが。
「ソーニャと違うのはわかっているわ」
「じゃあ比べてるんだ」
一樹はまた母に対して言った。
「だからコロを嫌うんだよ。お母さんはコロのことわかろうともしていないんだ」
「そんなことはないけれど」
しかしその言葉は弱かった。
「あのね、一樹」
「いいよ、言い訳なんか」
息子の方が先に言った。
「コロのこと何もわかっていないのに。お母さんは間違ってるよ」
「・・・・・・・・・」
やはり何も言えなかった。息子の言葉がここまで堪えたのもはじめてだった。
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