名犬駄犬
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第一章
第一章
名犬駄犬
中尾真美子の自慢は血統書付の愛犬だった。黒いシベリアン=ハスキーのソーニャを彼女はいたく自慢していた。
ソーニャは雌犬である。ハスキーらしく身体は大きく、右目は青、左目は黒とハスキーにはよくあるフェアリーアイズであった。その為顔も非常によかったし、毛並みも整っていた。
それだけでなく主思いで頭も非常によかった。一匹で買い物に行くことができるし、まだ小学生の自分の子供一樹の遊び相手をしてくれたりもする。本当に自慢の可愛い犬であった。
「ソーニャはもうペットなんかじゃないわ」
彼女は心からそう言っていた。
「家族なのよ。そして私の親友なの」
本当にそう思っていた。彼女はソーニャを信頼していたし、愛していた。ソーニャより賢くて優しくて美しい犬は他にはいないとさえ思っていた。
家にはソーニャさえいれば充分だと思っていた。ところがここで思わぬ来訪者がやって来た。
「ねえお母さん」
ある日その我が子である一樹が上目遣いに彼女に話し掛けてきたのである。
「何?」
真美子はそれを受けて一樹を見た。真美子は実はあまり背が大きくはない。小学生の一樹を見下ろすその顔も彼とあまり離れてはいない。あと二年か三年もすれば追い抜かれる背だった。
だが今はまだ我が子よりは大きい。そして見下ろしていた。
「もう一匹、犬飼っていいかな」
「犬!?」
真美子はそれを聞いて思わず声をあげた。
「うん。友達の犬がね、子供産んで」
一樹は母を見上げてもじもじしながら言う。
「それで貰ってくれる家を探してるんだ。一匹ずつ」
「それでお母さんに言ってきたのね」
「うん」
一樹はそこまで言うとこくりと頷いた。
「で、うちはどうかな、って」
「うちにはソーニャがいるじゃない」
真美子はまずはこう言った。
「あんな素晴らしい犬他にはいないわよ」
「それはわかってるけど」
実はもう一匹買う余裕はある。夫は作家でありそれなりに売れている。真美子自身もイラストレーターとしてそこそこ地位を得ている。だから経済的な余裕はあるのだ。
「それでも飼いたいの?」
「うん」
一樹はまた頷いた。
「お母さんがよかったらだけど」
家のことは真美子が全部取り仕切っている。夫のことも一樹のことも全てだ。まあこれはどの家の妻も母親も同じであるが。女は家庭と子供を持ったその時に絶対者となるのだ。そういう人もいる。
「駄目だったらいいけど」
(随分弱気なのね)
真美子はもじもじする一樹を見て心の中で呟いた。
別に咎める気も意地悪なことを言う気もない。だが息子のそんな態度がどうも気に入らなかった。
「一樹」
彼女は息子の名を呼んだ。
「う、うん」
息子はそれに対してやはりもぞもじ、いやおどおどした声で返してきた。
「お母さんが駄目って言ったらどうするの?」
まずはこう尋ねた。
「それは・・・・・・」
その言葉に対して一樹はやはりおどおどしたものであった。
「素直に諦めるの?どうなの?」
真美子は問うた。
「どうなの?言いなさい」
「飼いたい」
一樹は俯いて言った。
「飼いたいの?」
「うん」
そしてこくりと頷いた。
「飼いたいけれど」
「一樹は飼いたいっていうのね」
「うん」
「わかったわ」
真美子はここでこう言った。
「それじゃあいいわ」
「えっ!?」
「ただし」
顔をあげた一樹に対して言う。
「ちゃんと世話はすること。いいわね」
「うん」
一樹の声は明るいものになっていた。見ればその顔も実に明るくなっていた。それを見れば彼が本当に犬をもう一匹飼いたいのがわかった。だが真美子は心の中で思っていた。
(ソーニャよりいい犬がいるかしら)
彼女にとってはソーニャ以外の犬はどうも考えられなかった。自分でも言っているがソーニャはもう只の飼い犬ではない。家族なのだ。そのかけがえのない家族以上の犬かどうか考えていたのだ。
「で、そのわんちゃんは何時おうちに来るの?」
「一週間後」
一樹は答えた。
「落ち着いてから渡してくれるらしいから。それまでに小屋とか用意しておくよ」
「種類は何?」
「雑種」
「雑種」
それを聞いた真美子の顔が一瞬暗くなった。
「雑種なの」
「そうだけど。何か悪いの?」
「いえ、別に」
まさか自分の子供の前で血筋がどうとか言うわけにもいかなかった。それが教育に悪いのは彼女も承知していた。例え犬であってもだ。彼女もそれはわきまえていた。
「悪くはないわ」
「じゃあいいんだよね」
「お母さんに二言はありません」
これも教育だ。そう簡単に自分の考えをあれこれと変えるものではない。これも真美子の教育方針であった。だがどうも一樹は優柔不断でおどおどしたところがあるのが不安だった。
「あまり大きくならないみたいだから」
「そうなの」
ソーニャはシベリアンハスキーだからかなり大きくなる。それを考えるとあまり大きくならないのは助かると言えば助かる。それに子供の一樹も世話がし易いだろうと思った。
「じゃあ一週間後に連れて来るね」
「ええ、わかったわ」
夫に伝えると彼も悪い顔をしなかった。これでもう一匹犬が家にやって来ることになった。
その一週間が経った。一樹がその犬を連れて来た。
「・・・・・・・・・」
真美子はその犬を見てまずは沈黙してしまった。
「ねえ一樹」
「何?」
「そのわんちゃんよね」
「うん、そうだけど」
彼はにこにこした顔でその手に子犬を抱いていた。
見ればその子犬はこげ茶色で黒いぶちがあった。そして小さく、毛並みも何かよくない。それに目も小さく耳も小さい。鼻も顔立ちも何処となく不恰好でソーニャとは似ても似つかない外見だった。
そして舌を出してへっへっ、と息をしている。とても賢そうには見えなかった。
「可愛いよね」
「ええ、まあ」
一応受け答えはするがそうは思えなかった。どう見ても不細工だった。
「あの、一樹」
「何、お母さん」
「そのわんちゃんよね」
もう一度問うた。ソーニャと比べるとあまりにも不細工だからだ。
「そうだけど。駄目?」
「いえ、そんなことはないわ」
今更そんなことは言えない。それに一樹には人は容姿で判断するなと教えている。実際に彼女もそうではあるのだがこれは犬だ。やはり判断してしまう。
「それじゃあ小屋に入れとくね」
「え、ええ」
一樹は喜んでその犬を小屋に入れた。もう買って家に置いておいたのだ。
「すぐに首輪をつけて鎖をする。これでもう完全に家の犬になった。
真美子はそれを少し戸惑いながら見ていた。だがもう言ってしまったからには仕方ない。これで決まってしまっていた。
「お母さん」
一樹は鎖までつけ終えると真美子に声をかけてきた。
「何?」
「名前。どうするの?」
「あっ、名前ね」
言われてようやく気付いた。
「そうよね。やっぱり名前がないとね」
雑種でも何でも名前が必要だ。この子犬もそれは同じなのだ。
「何にしようかしら」
「コロなんてどうかな」
「コロ」
「うん、こいつ小さくてコロコロしてるから」
一樹はコロを撫でながら言っている。
「丁度いい名前だと思うんだけれど」
「コロねえ」
だが真美子はその名前が気に入らなかった。
やはりソーニャを思い出してしまう。折角ロシアの有名な作家の小説のヒロインからとったというのに。それと比べるとコロなどという名前は実にちっぽけで格好の悪い名前に思えたのだ。
「何か」
「嫌なの?」
一樹はそれを聞いてまた問うてきた。
「コロって名前で。駄目かなあ」
「そうじゃないけれど」
真美子には真美子の好みがあるのだ。コロなどという名前は気に入らないのだ。
「もうちょっと」
「これでいいと思うけれど」
「でもね」
そうは言ってもどうにもいい名前が思いつかない。
「じゃあお母さん考えてよ」
「うっ」
案の定息子に下駄を預けられた。困ったことになったと思った。
「他にいい名前をさ」
「そう言われても」
咄嗟に言われても考えつかない。
「ウラジミールなんてどうかしら」
「嫌だよ、そんなの」
一樹は顔と声でそれを拒んだ。
「それじゃあイワン」
「馬鹿になりそうな名前だね」
イワンの馬鹿は一樹も名前だけ知っているのだ。だからこう断られたのだ。
「そんな名前嫌だよ、僕は」
「けれど」
「やっぱりコロでいいじゃない」
どうやら一樹はその名前が気に入ったようであった。
「呼び易いしさ。それでいいと思うけれど」
「それでいいのね」
「うん」
その明るい声と笑顔に負けた。息子にそんな顔をされるととても嫌とは言えないのが母親だ。
仕方ないと言えば仕方ないがここは一樹の意見を尊重することにした。その名前で落ち着くことにしたのだ。
「それじゃあそのわんちゃんの名前は決まったわね」
「よかったな、コロ」
一樹はコロと名付けられたその子犬を抱いて嬉しそうな笑顔を浮かべていた。こうしてコロは真美子達の新しい家族となったのであった。
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