東條希包囲網
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東條希包囲網 前編
※ ※ ※
差し出された手を握ると、絵里は机から立ち上がった。
眩しく暖かい光が差し込む教室には、柔らかい笑顔をたたえた少女たち。
顔を上げ、彼女たちに微笑んだ絵里の顔は、呪縛から解き放たれたかのような、穏やかなものだった。
「絵里さん……」
「これで8人――」
穂乃果とことりは瞳を潤ませていた。
「8人……」
「? どうしました、絵里先輩?」
そこで絵里は、みんなの輪のから少しだけ外れていた同級生に視線を移した。
「希、貴女は――」
「ん?」
「貴女は、やってくれないの? スクールアイドル」
「えっ?」
絵里の突然とも思える懇願に、しかし彼女は一呼吸置いていつも通りの口調で応える。
「……確かに。占いにも出てたな。このグループは9人になった時、未来が開けるって」
「占い……?」
「だから名付けたんよ、9人の歌の女神『μ's』って」
『えぇーーっ?!』
メンバー全員の声が重なる。
「じゃ、じゃあ……あの名前つけてくれたのって、希先輩だったんですか?!」
「ふふっ――」
「なら、名付け親の責任くらいとったらどうなのよ?」
にこがジト目で焚き付ける。
それでも希は、躱すようにゆっくりと首を横に振って。
「ううん。ありがたいお話やけど、ウチはそういう柄やないよ――ウチに似合うとすれば、そうやな、みんなの活躍を舞台袖から応援するマネージャーくらいが、ちょうどええかな」
「希マネージャー……なんだか頼りになりそうにゃ~」
「あらほんま? ありがとね」
そう言って微笑むと、窓の向こうに視線を移す希。
手を掲げると太陽の光に眩しげに目を細めていた。
-1-
神田明神の男坂を登りきると、額にはすっかり汗が浮かんでいた。
太陽さんのパワーが全開になるこの季節は、普通に外を歩くだけでもしんどくなる。
――みんなこんなに暑いのに、よう外歩くなあ。
って、思うウチもその中の一人。
でも都内有数のパワースポットの参拝者は、“暑いから”なんて理由で減るはずもなく。
巫女見習いのウチは、今日も放課後に白と朱色の服に袖を通して、ほうきを持ってのお勤め中。
日焼け止めをしっかり塗って、水分もしっかりとって。
暑い夏を乗り切ろうやないの。
そう。ウチは特に、他にやることもないんやし、な――。
エリちには、あの後もよく会ってる。
――って、そらお互い生徒会の役員なんやから当然のこと。
ただ彼女には、ただでさえ忙しかった生徒会の仕事に加えて、μ'sの活動も加わった。
だからここ最近は、いっつもばたばたのてんてこ舞い。
生徒会室に顔を出したと思ったら、あっという間に書類を整理して。
ほいでもってウチらに仕事の指示を出したら「じゃあ、後は任せたわよ!」って、これまたぱぱっと出て行って。
そんなんやから、残されたウチらと役員は、くすくすって顔を合わせて苦笑い。
それでも、今までの倍――ううん、それ以上に忙しくなってるはずのエリちのその顔は。
疲れも見えたけれど、すっごく楽しそうで、生き生きしていて。ものすっっごい輝いていて――。
それが羨ましいって、ほんの少しだけ思ったりした。
それがほんの少しだけ羨ましいなって、ウチも思ったりしたりした。
「けどウチは、裏方になるって決めたかんな……」
小さくつぶやいた声は、けれど参拝に来ていた人達を、誰も振り向かすことはなかった。
代わりに注目を集めたのは、男坂の方の聞き覚えのあるかしましい声だった。
「はぁ、はぁ、はぁ~~。も、もうだめぇ。疲れたぁ~~」
「うわあぁ、かよちん汗びっしょり。大丈夫?」
「これくらいの走りこみでもうダウン? 全くだらしないわね」
「むぅ~、真夏に男坂の走りこみなんて、ふつうキツすぎて体力持たないにゃ!」
「だからこそ走ってるんでしょ? さ、五分休んだらもう一本行くわよ」
「むぅ~~~」
「ま、まぁまぁ。わたし頑張るから……」
そこではμ'sの一年生三人組が、いつもの練習着姿で特訓していた。
でもちょっと雲行きが怪しい感じ?
くすくす。
ほいじゃあちょっと、ちょっかいでも出しにいこうかな~。
そしてウチは、木陰に逃げ込んだ三人を追いかけるように、するするっと近付いていた。
「やっほー、お三人さん。こんな暑い中で練習やなんて、ご苦労さんやね」
「あ、副会長さん。こんにちはです」
「希先輩? こんにちはにゃ~」
「どうも。貴女はなにしてるの――って、見れば分かるわね」
「そ。ウチは巫女さん姿で、境内のお掃除中」
と、箒を片手に決めポーズ。
「……なによそれ」
突っ込む真紀ちゃんのキレもイマイチで、ああは言っていたけれどさすがに暑さでやられてるみたいだった。
――うーん、これはちとアカンかもな。
「ちょっと前から見とったけど、真姫ちゃんがそないにやる気出してるなんて珍しいな。なんかあったん?」
すると答えは隣の花陽ちゃんから返ってきた。
「それは、その――絵里先輩の加入が理由なんです」
「エリちの?」
「はい。μ'sは絵里先輩が加わって、グループとして今まで以上にダンスも歌もレベルアップしました。それ自体はとても嬉しいことなんですが……」
「つまりそれだけ、私たちにもレベルアップが求められてるってことよ」
言葉を引き継いだ真姫ちゃん。
少し唇を噛み、苦い表情を浮かべていた。
「ダンスも歌も、彼女だけが飛び抜けて上手い――それに追い付くためには、私達が基礎的な部分から底上げしないとダメなのよ」
「ふーん、なるほど――な」
元バレエダンサーのエリちに追いつこうと思って、まずは基礎から見直す。
その発想は間違ってないやろな。
「でもいきなり無理のしすぎは良くないで? 熱中症とかで倒れでもしたら元も子もあらへんし、な」
「――っ。確かに、そうかもしれないけど……」
「そうだよ~、やっぱり適度に休んだほうがいいにゃ~~!」
「それはわかってるけど……。でも凛はすぐ休み休みって言いすぎなよっ」
「ま、真姫ちゃんも凛ちゃんも落ち着いて――」
くすくす。
三人とも、あれこれと試行錯誤してるみたいやな。
「ウチのオススメは、今みたいな日中は避けて涼しい朝や夕方に集中して行い、そしてそれを毎日こつこつこなすこと。カードもそう言ってるみたいやし、な?」
「その格好で“カード”っていわれても説得力ないわよ」
「あ、そうやったな。失敗失敗」
ジト目で突っ込む真姫ちゃんに、ウチは小さく舌を出してごまかすのだった。
「じゃあ、明日からは朝と夕方に用事がなかったら練習っていう形にしましょう。内容は柔軟と男坂のダッシュと――」
真姫ちゃんの内容をまとめると、納得した様子の三人。そしてこの日は解散ということになった。
うん、ちょっと暴走気味かと思ったけど、これでおねーさんも安心安心。
――と、腰に手を当ててそう締めようとしていたところで、最後に残った真姫ちゃんが不意に言うのだった。
「で、貴女はいつ来るのよ?」
「えっ?」
「とぼけないで。いつ正式にμ'sに加入するかっていう話よ――って」
真姫ちゃんはそこで急に顔を赤くして。
「べ、べつに、アタシの希望とかじゃなくって、他の2年生と3年生がそう言ってたって話よ。勘違いしないでね!」
最初何のことか分からなかったウチも、その言葉で理解する。
「ウチが、正式にμ'sに?」
「そ、そうよ。みんな早く9人で練習したいって言ってたわよ?」
「…………」
その言葉にウチは黙ってしまった。
だって当然やん?ウチはまるっきり加入する気なんてあらへんかったし、部内でそんな話になっていたなんて思いもしてへんかった。
ならばここも、お得意の躱しテクニックの見せ所やね。
「う~ん、そうやな。真姫ちゃんがどーしても入って欲しいって頭下げてくれるんやったら、考えてあげるけど?」
「――んなっ!?」
すると真姫ちゃんは予想通り、顔を再び真っ赤にさせて声を荒らげた。
「だっ、だから私はどっちでもいいって言ってるでしょ!? もう知らない!」
赤くなった顔を隠すようにそっぽ向く。
これでなんとかなったかな――と、少し油断したところで。
「でも――」
蚊の鳴くような声で発せられた真姫ちゃんの言葉は。
「本当に、私が頭を下げるくらいで入るっていうなら……」
ウチにとって全くの予想外で。
「こんなもの、いくらでも下げてあげるわよ――」
ぶんって勢い良く頭を下げて、そのまま逃げるように走り去った真姫ちゃん。
その後姿にウチはなんにも声をかけられず。
喉がカラカラになるまでその場に立ち尽くしまっていた。
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