渦巻く滄海 紅き空 【上】
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七十二 前夜
「…――いよいよ明日、ですね」
酷く硬い声が白の空間に響き渡る。傍らでそう呟いた彼女を綱手はちらりと見遣った。強張った面持ちに、わざとらしく溜息をつく。
「そんなに身構えなくてもいいだろ。取って食われるわけじゃないんだから」
「緊張しますよ!相手はあの、大蛇丸なんですから!!」
むしろ食われるだけでは済みませんよ、と叫ぶシズネに、綱手は眉を顰めた。非難する。
「静かにしな。此処を何処だと思ってるんだい」
更に言い募ろうとしたシズネがハッと言葉を呑み込む。病院、それもアマルが寝入る病室の正面だったと改めて思い出し、彼女は口を噤んだ。
六日前、綱手とシズネの前に堂々と現れたのは、あの『大蛇丸』。綱手と同じく『伝説の三忍』の一人であり、今現在は木ノ葉の抜け忍だ。
やにわに出現するや否や、師たる三代目火影を『木ノ葉崩し』にて殺害したとわざわざ明言した彼は、その上で医療スペシャリストたる綱手へ三代目との戦闘で負った腕の治療をせがんできた。その際、予定外にもアマルに致命傷を負わせた大蛇丸は、彼女さえも取り引きの材料にした。
即ち、綱手の亡き弟と恋人及び弟子たるアマルを生き返らせてほしくば治療に応じるよう脅してきたのである。
事実、アマルは瀕死の重傷だった。
忌々しいが大蛇丸の付き人であるカブトの言う通り、出血は致死量を遙かに超えていたし、何時死んでもおかしくない状況だった。
大蛇丸の宣言通りアマルを見殺しになどさせられない。だからこそ綱手とシズネは共に全力で治療に手を尽くした。その甲斐あって、アマルは奇跡的に持ち直し、目を覚ましたのだ。
実際、カブトの診断は間違っていない。アマルの容態はせいぜい三日しかもたないはずで、普通の医者ならとっくに匙を投げていただろう。シズネの眼から見ても生還出来たのが不思議なくらいだ。
だが現にアマルは全快に向かっている。むしろその快復には目を見張るものがあり、シズネは驚くと共に改めて綱手の腕に感服していた。
やはり医療スペシャリストとして名を馳せた伝説の三忍は伊達では無い。
その張本人である綱手は、先ほどからずっと病室の扉を眺めている。室内のベッドにて横たわるアマルの無事を確認するかのように、視線を扉の白に固定したまま動かぬ彼女の横顔をシズネはおそるおそる窺った。
やがて意を決し、問い掛ける。
「――――取り引きに、応じるおつもりですか?」
返事はない。一向にこちらを見ない綱手に焦れて、シズネは声を潜めつつも張り上げた。
「大蛇丸…奴の怪我を治療したらどうなるのか、既に結果は見えています!腕が治り次第、アイツは―――」
シズネの必死の主張にも、綱手の様子は普段と別段変わりない。彼女の平然とした態度をシズネは訝しげに見つめた。
同じ三忍であるが故に、大蛇丸の恐ろしさを知っているはずの綱手。その彼女がやけに余裕染みている風情に益々顔を顰める。
怪訝な顔のシズネの前で、やがて綱手は軽く肩を竦めてみせた。
「…大方また、木ノ葉を襲うだろうな」
シズネは息を呑んだ。断定に近い綱手の一言は彼女の不安を更に煽る。シズネの動揺を余所に、綱手は更に言葉を続けた。
「アイツは完璧主義者な所があったからね。三代目だけじゃなく、木ノ葉の里までも完璧に潰さないと気が済まないだろうさ……全く性質が悪い」
「そこまで解っているのなら…ッ、」
苦い笑みで告げる綱手の発言に、シズネは勢い込んだ。だが途中で思い直したのか、大きく息をつく。ややあって話し出した声音は寸前より幾分か落ち着いていた。
「ですが、綱手様以上の医療忍者は他にいません。もし貴女が奴の誘いを断れば、もう二度と…―――」
「…それは断言出来ないね」
「な、何故です!?」
しかしながら、ゆるゆると頭を振った綱手の言葉で、やはり彼女は声を荒げた。
「私が見た限りでも、あの腕の傷は誰にも治せない…!他ならぬ綱手様、貴女以外には――」
「…………」
意義を唱えるシズネに対し、綱手は暫し無言だった。猶も食い下がり、「綱手様が治さなければ…あの腕は一生使い物にならないでしょう」とシズネはきっぱり言い切ってみせる。しかしながら、その結論にも綱手は何の反応も示さなかった。
自身の意見に同意を示さぬ彼女の態度を見て取って、シズネは顔を伏せた。一瞬逡巡した後、低い声で訊ねる。
「…それとも綱手様は、」
硬い表情を崩さぬまま、問う。その詰問は、ひっそりとした廊下で静かに響き渡った。
「奴らの……口車に乗るおつもりですか」
廊下の片隅。壁を背に沈黙を貫いていた綱手は、視線で返答を急かすシズネから顔を逸らした。腕を組み直す。
更に問い質そうとシズネは口を開きかけるが、綱手の眼がそれを良しとしなかった。
「シズネ、お前…いつからそんな口が利けるようになったんだい」
決して大きくない。だが有無を言わさぬ押し殺したその声は、シズネの身体を強張らせた。
鋭い眼光に射抜かれ、顔を上げる事すら叶わない。動けぬ彼女を綱手は暫し眺めていたが、やがて深く息を吐いた。ゆるゆると頭を振る。
「……勘違いするな。ただ、」
そこまで言って、綱手は出かかった次の言葉を静かに呑み込んだ。途切れた会話の中、シズネが顔を上げるより先に、当たり障りのない答えを告げる。
「…私に頼らずとも、奴なら腕を治す方法を他にも考えつきそうだと思ったまでさ」
不満げだが、やむなくシズネは頷いた。それでも猶物言いたげな彼女を、綱手はいい加減休むよう肩をぽんっと叩いて急き立てる。
アマルの件でここ最近二人には気が休まる暇など無かった。綱手同様、徹夜続きであるシズネに休息を取るよう促す。
しぶしぶ休憩所へ向かうシズネの背中を見送ってから、綱手は当初自身が思い当った事を改めて口にした。その小声は、既に遠く離れたシズネの耳には入らない。
「…―――私以上の医療忍者がいなければの話だけどね」
アマルが寝入る病室の扉を一瞥し、綱手もまた白一色の廊下を遠ざかってゆく。
どこからか漂ってきた薬品の微かな香りが、病院特有の匂いに雑じり、やがて消えていった。
夜の帳もすっかり下りた城下町。
今からが本番だと賑わう歓楽街の明るさに対し、街並みを一望出来る小高い丘は暗く、立ち木が疎らに生えている。
奇妙な事に、それらの木は何れも変わった模様の木目を成していた。木肌の渦模様は大小と大きさも異なり、果てには抉れているものまである。
突如、凄まじい風が吹き荒れた。
突風に煽られ、木々の枝々がざっくりと折れる。風は一瞬で止み、再び静寂が訪れた。後に残ったのは、荒い息遣い。
そして、夜にしては眩い金の髪が地に大きく広がっていた。
「……くっ」
ギリリと唇を噛み締める。手を上げようと力を入れるが、腕すら持ち上がらない。横になったまま、首を動かしてみると、手は指先から肘に掛けて小刻みに震えていた。
「経絡系に負担がきとる。チャクラの使い過ぎだのう」
不意に影と共に呆れた声が落ちてくる。見上げれば、彼女の師が苦笑を漏らしていた。
「全く。宿にも帰らずに修行とは…」
そう言いながら手を覗き込んだ自来也はひっそりと眉を顰めた。
弟子の手のひらは火傷で真っ赤に腫れ上がっている。その傷跡から、どれだけ高密度のチャクラを練り続けているのかが窺えて、内心自来也は感心していた。
今現在、弟子のナルが必死になって会得しようとしている術は【螺旋丸】。
難易度Aランクの超高等忍術であり、これを会得するには三段階の修行を乗り越えなければならない。
まずは第一段階の『回転』。
片手に持った水風船の中でチャクラを乱回転させ、水風船を割る修行。これは拳上に集中維持したチャクラを放出し続け、その上で押し掻き回す……要はチャクラの流れを作っているのだ。
次に第二段階の『威力』。
第一段階同様チャクラを乱回転させて割る修行だが、割る対象は水風船ではなくゴムボールである。水風船と違い、ちょっとやそっとじゃ割れない硬いボールを割るには第一段階以上に威力が必要となる。必要な箇所のみに集中維持して、最大威力でチャクラを乱回転させる修行だ。
そして最後の第三段階『留める』。
これが今現在ナルの頭を悩ませている修行である。
第二段階で成功した最大威力の乱回転を、今度は一定の大きさに留めなければならない。この最大限の威力を凝縮する事で、【螺旋丸】の攻撃力は格段に跳ね上がるのだが、ここでナルは行き詰ってしまっていた。
第二段階まではなんとかクリアしたものの、どうしてもこの第三段階が上手くいかないのだ。
しかしながら、ちょっと自分が眼を離した途端コレか、と相変わらず無茶をする弟子に、自来也は僅かに眉を顰めた。
「…っ、エロ仙人!!」
一方のナルは師匠の姿を認めるや否や、飛び起きた。両手の激痛にも構わず意気込んで訊ねる。
「アマルは!?アマルはどうなったんだってばよ!?」
縋るように掴みかかる。当初修行に付き合っていた自来也だが、ナルの懇願に折れて、先ほどまで病院に行っていたのである。
切羽詰まった様子で、アマルの容態はどうだったのかと聞くナルを自来也は宥めた。なるべく物柔らかな声で告げる。
「安心しろ。アマルは、」
〈意識を取り戻したぞ。今はぐっすり寝とる〉
だが自来也の渾身の台詞は、無情にも傍らの犬に強奪されてしまった。
「…ッ!本当だってば!?…よかった―――」
はらはらと固唾を呑んでいたナルは、自来也より先に答えたパックンの言葉でほっと安堵した。ふにゃりと笑う。そのまま緊張の糸が切れたのか、彼女はすとんと意識を失った。
「おい、ナル!?」
寸前同様、ばったりと地に伏せたナルを自来也は慌てて揺すった。覗いた顔は濃い疲労の色が表れており、眼の下には若干隈がある。どうやらチャクラの枯渇と身体を酷使し過ぎたらしい。
顔色からそう判断した自来也に、同じくナルの顔を覗き込んだパックンが付け加えた。
〈ナルの奴、ぶっ通しで修行しとったからな。その疲れが出たんだろう〉
「…見ればわかるわい」
ナルを安心させる一言を横取りされた自来也は不貞腐れたように唇を尖らせた。気絶したナルの身体を背負う。
そして、足下でナルを心配そうに見上げるパックンを眼の端に捉え、眉間に皺を寄せた。
実はダンゾウの火影就任という凶報を持って来たあの夜から今日まで、畑カカシの忍犬であるパックンはずっとナルもしくは自来也の傍にいるのである。カカシに派遣され、ダンゾウの件を知らせに走ってきた事は理解出来るが、なぜ未だに木ノ葉に戻らないのか。
まるでこちらを見張っているようで、自来也はパックンを疑惑の眼差しで眺めた。
確かに逸早く綱手達の許へ辿り着けたのは、忍犬たるパックンの助力によるものだ。だが本来忍犬は己の役目を全うすれば、自ら【口寄せの術】を解くのではないのか。
パックンの行動に疑心を抱きつつも、自来也はナルを宿へ連れ帰った。静かにじっと見つめるトントンの前で、すっかり熟睡している彼女を布団に乗せる。掛け布団をそっと掛けたところで、部屋の扉を叩くノック音が響いた。
ナルの傍らに座り込むパックンを不審に思いながらも、ノックの音に急かされる。扉を僅かに開け、その隙間から彼は廊下を覗き見た。
其処に立っている人物の姿を目にした途端、自来也の口から驚きの声が漏れる。
「…!珍しいな、お前から訪ねて来るなんて…」
共に連れ立って外へ向かう二人の後ろ姿を、宿の猫が通路の片隅で静かに見送っていた。
空が白ばんでいた。
薄明に包まれた山向こう、空に残る有明の月が徐々に翳んでゆく。東雲の微光の中、夜明けを知らせる清々しい空気。
仄かな明かりが夜を染め上げ、どこからか鳥の声が聞こえてくる。夜と朝の境は静けさに満ちていた。
だがその静寂を轟音が切り裂いた。
大きな湖のあちこちで巨大な水飛沫が上がっている。凄まじい音を立てて激しく飛び散るそれらはもはや水柱に近い。その凄まじい音を立てる飛沫はある一つの影を追い駆けていた。
次々と立ち上る水柱を掻い潜る。自身の術を尽く避ける人物を鬼鮫は驚嘆の眼差しで眺めた。
「流石ですねぇ」
笑った瞬間、飛んでくる手裏剣。それを己の愛刀で叩き落とす。そして印を結ぶや否や、やにわに手を水面につける。指先から流れるチャクラ。
「【水遁・五食鮫】!!」
途端、足下の水からザバリと飛び出す。何れも鋭い歯を剥き出しにしている五匹の鮫。
一気に対象目掛けて突進してくるそれらは水中に潜んでよく見えない。どこから来るのかわからぬ恐怖が獲物を襲う。
しかし突如、鬼鮫はハッとして印を結んだ。
「【水遁・水陣壁】!!」
瞬間、四方から襲撃する水の塊。回転する水塊は圧縮しており、殺傷力が高い巨大な牙のようだ。
(何時の間に【水遁・水牙弾】を!?)
辛うじて発動した水の壁で、なんとか身を守る。突然の不意打ちに驚いたものの、【水陣壁】で容易に打ち消せた事に鬼鮫は内心落胆した。
だがすぐさま彼はククッ、と口角を吊り上げる。
視界を遮る水の壁。その術を解いたと同時に鬼鮫の左頬を何かが掠った。つうっと血が滴る。
「【水牙弾】を囮にして、私の鮫達を仕留めるとは…流石、イタチさん」
「…………」
【水牙弾】で鬼鮫の気を逸らした瞬間に【五食鮫】の鮫を尽く仕留め、おまけにクナイまで投擲してきた張本人。
ボンッと軽い破裂音と共にあちこちで立ち上る白煙を目にして、鬼鮫は肩を竦めた。自身を狙ったクナイが沈みゆく様を、目を細めて眺める。
かつてコンビを組んでいた、そして今現在追われる身となった――うちはイタチ。
表情一つ変えない彼を鬼鮫は愉快げに見据えた。ニィ、と口許に弧を描く。
「前々から貴方とは一度手合わせしてみたかったんです」
一方的に話し掛ける鬼鮫の顔をイタチは無表情に見返した。ひしひしと伝わる高揚感に眉を顰める。
イタチが沈黙を貫く一方、鬼鮫は昂る気を抑えられなかった。
愉しくて仕方が無いとばかりに肩を震わせる。イタチが『暁』を裏切った、と聞いた当初、鬼鮫の心中を占めたのは遺憾や悲懐などではなく、歓喜だった。
一度戦ってみたいと思っていただけに、嬉々として彼はイタチの後を逸早く追ったのである。
「やはり削りがいのある御方だ…」
頬から滴る血が糸を引く。唇まで垂れてきた鮮やかな赤を鬼鮫はぺろりと舐めた。
間髪容れず、物凄い速さで突撃する。主同様、大刀『鮫肌』が舌舐めずりした。その巨大な口を開ける。イタチが静かに身構えた。
瞬間、脳裏に声が轟く。
『止めろ、鬼鮫』
突然頭に響いたペインの声。
だしぬけに聞こえてきた『暁』のリーダーの発言に、鬼鮫の動きが一瞬遅くなる。その僅かな隙をイタチが逃すはずもない。
「【火遁・豪火球の術】!」
巨大な火球が鬼鮫目掛けて遅い来る。己を包み込むほどの火の玉を目の当たりにして、鬼鮫は慌てて印を結んだ。
凄まじい白煙が天を衝く。
「邪魔しないでくださいよ!」
棚引く煙からザッと身を引く。どうにか水遁で火を打ち消した鬼鮫は、【幻灯身の術】で交信してくるペインに苦情を申し立てた。
しかしながら文句を受け流したペインから思いもよらぬ言葉を聞き、顔を歪ませる。
『イタチを追うな。戻れ』
「冗談言わないでください。獲物を前にして狩らないなんて…ッ」
『奴の相手は他の者がする。そいつに任せろ』
不満げな顔を露にする。目の前にいるイタチに視線を這わし、鬼鮫はふんっと鼻で笑った。
「裏切り者には死を―――。その格言はこの私が実現させます」
『鬼鮫!!』
ペインの叱責を無視して、鬼鮫は再び鮫肌を振り被った。イタチ目掛けて振り落とす。
巨大な歯が見えるほど迫り来る大刀。それをイタチは何の気なしに見ていた。身動き一つしない。
避けようとも反撃しようともしない彼を、鬼鮫は訝しげに見た。
刹那、鬼鮫の顔が凍りつく。
バシャッと上がる水飛沫。鮫肌が手から零れ落ちた。眼を見開いたまま、ゆっくりと倒れゆく。
突然卒倒した鬼鮫をイタチは黙って見下ろした。完全に意識を失っているのを見て取って、おもむろに顔を上げる。
【火遁・豪火球の術】を相殺した名残か、辺りは水蒸気に満ちている。靄の中、寸前まで鬼鮫が立っていた場所でゆらりと影が揺れた。
それを目にして初めて、イタチは表情を崩した。微笑む。
「また会えて嬉しいよ、ナルトくん」
「俺は会いたくなかったよ、イタチ」
徐々に晴れゆく霞。曙の空を背に、彼は黒き赤雲の羽織を揺らした。哀しげに目を細める。
「こんな形で会いたくはなかった…」
天から降り注ぐ陽光が彼の髪をより一層輝かせる。暁の空に映えるナルトの金の髪を、イタチは眩しげに見つめた。
朝の訪れを知らせる鳥の鳴き声がその場に物悲しく響き渡った。
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