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第三章


第三章

「見ました」
「ではそれは何だ」
 師匠は如是自身にそれが何かも問うた。
「それは何だった」
「宇宙です」
 それだというのである。
「虚無。そうしたものです」
「そうだ。それだ」
「私はそれを見ました」
 如是はまた己の師匠に話した。
「稽古の中で」
「そうだ。能とはだ」
「はい、能とは」
「無だ」
 それだというのである。
「無こそがその真なのだ」
「何処かで聞いたことはありますが」
「聞いただけでは駄目なのだ」
「それがわからなくてはなのですね」
「己がその中に入ればわかる」
 こうも話した。弟子に対して。
「だからだ。御前に稽古をさせたのだ」
「成程、それでだったのですか」
「如是、御前は能の世界の入り口に立ったのだ」
「入り口ですか」
「そうだ、入り口だ」
 そこにだというのである。
「ようやくそこに立ったのだ」
「そしてこれからですね」
「入れ。そして極めよ」
 またで詩に告げた。
「よいな。そうするのだ」
「わかりました。それでは」
 こうしてであった。如是はだった。
 それからも能の道を進んだ。何時しか彼は当世随一の能の演者として知られるようになった。極めたとさえ言われた。しかし彼は常にこう言うのであった。
「まだまだ先があります」
 こうだ。常に周囲に話すのだった。
「私は玄関に入ってもいません」
「玄関にもですか」
「入っていませんか」
「玄関に入ってもまだ屋敷の中があります」
 それもあるのだと。さらに話すのだった。
「ですから。私はまだ極めてはいません」
「左様ですか」
「そうだと」
「はい、それはまだです」
 落ち着いて達観して述べる。
「それはこれからなのです」
「これからですか」
「屋敷の中に入られるのは」
「そうです。この人生でそこまでいけるか」
 深い話だった。それを続けるのであった。
「わかりませんが。それでもです」
「目指されるのですか」
「その最後を」
「はい、私はそうします」
 こう話す。
「無限の。能の世界をです」
 こう言ってだ。自身の言葉通り能の世界を進むのであった。
 これが彼の見たものである。そして彼はその生涯を能に捧げた。そうしていったのである。
 そんな彼を人々は能神とまで呼んだ。だが彼はそれについて思うことなくだ。ただ能の無限の中にいた。彼のいるべき世界の中に。


能   完


                 2011・2・1
 
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