乱世の確率事象改変
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従うモノ達の願いは
威風堂々と言った様相で進む部隊は、その数にしては纏う空気が異質過ぎた。たった二千と数百であるのに、一万……否、二万の軍に匹敵する程の威圧感。
翻る黒き旗と追随するモノを見た旅人も民も、全ての者がそこに希望を向ける。
あれこそ勇者の軍であるのだ。あれこそが無敵の軍勢なのだ、と。
先頭にて馬を進める三つの存在に向けられるのは、追随するモノ達からの信頼と敬愛。
一人は、その部隊を最初期から纏めてきた双つと無き副将。名を周倉と言った。しかし部隊の誰もがその名を呼ぶことは無く、一人の例外なく少しの畏怖を込めて違う名を呼ぶ。
『副長』……それは彼の片腕であり、自分達とは似て非なるモノである証。
どれだけ努力をして、どれだけ死線を潜り抜け、どれだけ誰かの事を考えているか。そこには絶対的な差があるのだ。
最古のモノ達はその異常な努力を間近で見てきた。そして引き摺られるようにその姿に追いつこうと努力した。
義勇軍時代からずっと……副長は地獄のような訓練の後に己が御大将と一騎打ちを繰り返してきていた。血反吐を吐こうと、練兵場で死んだように眠ろうと、毎日、毎日、彼に重要な用事のある日は早朝に、休むことなく。
ただの兵士であったはずの男は長い時間を掛けて、その凡才を叩き上げてきた。身を刃と化して鋭く研ぎ澄ましてきた。今では彼に幾太刀か浴びせ掛ける事が出来る程になっていた。
だからこそ、兵士達は副長に憧れる。平凡な男が彼に近付いていく姿に、彼に片腕と言わしめる程に支えられる存在になっていく事に希望を見出し、その言葉を疑う事は無く、彼になれないならばせめて副長のようになりたいと願うのだ。
この世界では男が女の武将に勝てる程の力を持つ事は無いのは周知の事実。ただ一人の例外を除いて。
兵士となった男であれば、誰しもが望んだ事をその例外は示してくれた。
『あの誇り高く、美しい武将達を守りたい』
それが出来る可能性を見つけてしまうと、男であればプライドを擽られぬはずが無い。
――何故、我らには出来ないのだ。彼には出来ているではないか。同じ男でありながら、彼だけは守れているではないか。
詰まる所、彼らはバカなのだ。男が守られるなど許せない、という想いの強かったバカ。俺達は守る側なのだと誰しもに示したい極上のバカ共である。
秋斗ですらそれは知らない。大徳の名が売れる前から所属していたモノ達のプライドからここまでなった事は副長以下の徐晃隊しか知らない。
しかし、初めは下らない自尊心からだとしても、彼とその影響を受けた副長が居る事によって変わっていく。
秋斗と副長に憧れ、着実に力を付けて、命を賭けた戦術で守る事が出来るようになっていったから変わっていく。
守れるとなれば欲が出る。もっと、もっと多くを救いたい、例えこの身が朽ち果てようと、自分達に誰かを救わせてくれ……と。
この時代では、命を賭けて多くを救いたい想いはある種の『誇り』と言えるだろう。
秋斗はその最たるモノ、指標となっている。それになりたい副長が続けば、彼らはそうあれかしと願い始める。自分の手で誰か多くを救いたいと言う願いが連鎖していく。
彼らが命を捨てるのは死にたいからでは無く、生きたいからでもあった。想いを繋ぐというのは本当の最後だけ。最後まで生にしがみ付いて、命を散らす最期にだけ彼を悲しませない為に、そして守る為に生き切った充足感から笑みを携えて、黒麒麟に想いの華を預けて行く。
死ぬことは怖い……だが、誰かを守れないのはもっと嫌だ。そんなわがままで傲慢なバカ共。
そうやって彼らは化け物となった。副長が居なければ、こんな化け物部隊を作る事は叶わなかったであろう。全ては秋斗から始まった……しかし数奇な巡り合わせで出会えたから、彼らは黒麒麟となれたのだ。
効率を重視するのは秋斗が多くを守る為の最善を選択しているという信頼から。最後に作り出してくれる平穏な世界を願って、彼らが戦って死ぬ事によって未来に生きる子供達を守れると知っているから。
その副長と徐晃隊員達は今回、秋斗から特別命令を受けた。
「徐晃隊全てのバカ共に告ぐ! 俺は一人残ろうとも泥を啜って生き残る事も出来るが……雛里は不可能だ! 雛里だけは必ず本隊まで送り届けろ! 例え何があってもだ!」
普段通りに、彼はいつでも最悪の場合を想定して命令を下す。徐晃隊にとって、事前に与えられたそれを守る事こそが重要となる。
頭脳明晰にして美しく、愛らしい少女を守れるのだと、徐晃隊は歓喜に震える。
しかしながら今回は違った。大きく守りたい理由が追加されている。
漸く報われた少女の恋を終わらせない為に、己が御大将が先の世界で幸せに暮らせる為に。
彼らが一番守りたいのは……己が家族を除けば、秋斗と雛里の二人であった。平穏な世界を作り出してくれるのはこの二人だと信じていた。
徐晃隊にとって秋斗は王、そして雛里はその軍師。他の部隊には誰も口を滑らせないが、それは共通認識として居座っている。
恋が実ったのなら、王に妃が出来るという事だ。それを守るは臣下として誉れ以外の何物でもない。
優しく弱いその王が、悠久の平穏を作り出す為には雛里が居なければならないのだと、彼らは意識を高めて行く。
彼らは他にも示された事に気付いていた。
自身にとって大切な存在の生命を預けてくれているのだと。鳳凰ならば、治世に於いて幾万幾億の人を救う事が出来るのも事実。
そして、彼が直接守らないのは、自分達を一人でも多く救う為に、血みどろになってその武を振るう為だと。
何故、急にこのような命を与えたのか。それは齎された事柄からであった。
まだ遠くだが分岐する二つの道。片や狭く区切られた崖の道に進む軍がいたこと、片や緩やかな丘中の道には幾多の旗が向かったとのこと。先程付近の村に徐晃隊の一人を向かわせ聞き込みを行い、村人からの情報が手に入ったからであった。
崖の道の方が豫洲国境への最短経路であり、丘中の道は少しだけ回り道をする事になる。
その時、既に二つが抑えられている事を聞いて、秋斗は夕の手際の良さに舌打ちを一つ。静かに聞いていた雛里が尋ねた事はどちらの道を抜けて行くか、であった。
大きく回り道をしていては時間の問題も深刻となり、今更街道を変更する為に引き返しては袁紹軍の本隊とぶつかってしまうという危険性がある。
どちらも一万程だとの話を受けて、強行突破をするのなら徐晃隊も本気を出さなければならないが、そのくらいなら楽に抜けると判断した。
秋斗がどちらがいいかと聞き、雛里が推したのは……緩やかな丘中の道。崖の上から射掛けられてはこの少数では抜け切れないのは確実である為に。
そしてもう一つ。丘中の道は三分の二ほど進んだ所、その西方に森があり、徐州の管理を行い始めた劉備軍文官しかしらない事であるが、そこには徐州の交通を便利にする為に作りかけている道があるとのこと。目的は豫洲との交易を行い易くする為と崖が万が一崩れた場合の合流。その森を抜ければ崖の道を抜けた先と繋がり、より早く本隊合流地点へと向かえる事になる。
秋斗はその選択に従った。
その為、徐晃隊に命令を告げたのだった。現在は分岐点まで五里ほどの道を進んでいる。
しかし――穏やかな日差しが皆を照らす行軍中。一人、先行させた物見役が帰ってくる。
「御大将! 分岐点直前に敵兵あり! 旗は郭! 軍勢は三千程です! そして……こちらに向かってきています!」
報告を受けて、秋斗も雛里もすぐさま理解した。情報をくれた民は袁家の息が掛かっていたのだと。意識から外されていたのは彼らの失態。大徳の風評に甘えていたとも言える。
民の誰しも己が命を大切にする。この状況、兵数差で劉備軍は確実に勝てないと村人に判断された事は明白であった。
相手の人心掌握の上手さに悔しさを堪えつつ瞬時に、雛里は思考を回す。進んで行っても伏兵がいるのは確実、だからどちらを選ぶかを判断しておかなければならない。自身が少数部隊戦闘の足手まといであると落ち込む心は既に捨てていた。
「やはり崖がある道は危険です。これだけ用意周到なら落石での分断も有り得ます。この少数でそれを行われてはひとたまりも無いでしょう。分岐後は丘が続いているので最初の丘を越えれば遠くまで見渡せますからそちらを」
「了解。確かにそれなら出来る限り視界がいいとこで無茶を押し通す方がいいわな。
……仕事だバカ共! 最初の敵は三千、後に一万を超えるだろう! それでも、俺とお前らなら簡単に貫けるだろうよ!」
士気高く、行軍の速度を維持したまま徐晃隊は進んで行く。焦りは無く、全ての者が次の戦闘に意識を尖らせていった。
半刻程であろうか。漸く敵影が見え始め……相手はピタリと脚を止める。不審に思っていたが、遠目に行われる動作が見え、秋斗は面倒くさいというように少し眉を顰めた。
金色の鎧は日輪の光を反射し、見える全ての兵は弓に矢をつがえ始めていた。
徐晃隊にとって弓兵が一番の大敵であった。彼らの装備は中型の木盾と投槍、そして剣であり、遠距離からの攻撃に対してはどうしても手こずってしまう。
弓兵部隊対策の戦術演習は行っているが、個人部隊だけで弓部隊と相対するのはこれが初めてであり、迅速な行動はそれが生かせるかどうかに掛かってくる。
「敵の前衛は弓が主体の部隊だな。雛里は安全の為に副長と同じ馬に乗れ。第一の百番までは俺と共に最少蜂矢陣形で中央突撃して攪乱させよう」
「残りの部隊を四つに分けますね。左に二つ、右に二つ、敵が弓を向ける先をばらけさせ、薄い包囲を築きましょう。徐晃隊は少数戦闘が一番得意ですから小隊毎の判断に任せて弓兵の殲滅重視がいいかと。後方の指示は任せてください。秋斗さんが突撃後、全てを合わせます」
方針が決まり、雛里に頷き返した秋斗が先頭の徐晃隊に聞こえる程度の声を出す。
「第一の百は俺と共に突撃する。俺が貫いた先を最小蜂矢陣形で貫き、後に回りの敵を一掃しろ。ただし、防御主体戦術を行って一人でも多く生き残れ」
応、と重厚な声が響き、秋斗は月光の上で振り向いた。
すっと目を細めて敵を見据え、前に剣を示す。
副長の馬に乗り換えていた雛里は素早く他の徐晃隊を縦四つに分けていた。
「さあ、地獄を作ろうか! 俺達の前に立った事を後悔させてやれ! いつも通りだ、俺に続け!」
声を合図に秋斗と徐晃隊の百は駆けて行く。その背を見やりながら副長が厳めしい声を上げた。
「御大将を守るのは俺達の仕事だ! 黒き麒麟となって全てを切り裂こうや! 行くぜ! 乱世に華をっ!」
『世に平穏をっ!』
地を轟かすかのような声が前方に届いたのか、それとも秋斗の突撃が思いの外早かったのか、敵は焦りから矢をばらばらと徐晃隊に向けて放ち始めた。
舌戦をするでなく、開かれた戦端は矢唸りから。
五つに分かれた部隊には面照射は出来ず、黒麒麟に放たれる矢は悉く正面で撃ち落とされ、徐晃隊に放たれた矢は盾の組み合わせの連携によってほぼ全てが防がれていく。
一本程度では怯むに及ばず、二本程度では生ぬるい。例えその身に刺さろうと、化け物兵を止めるに値せず。
蠢く徐晃隊はにわか雨のように矢が降り注ぐ戦場にて、血の華を咲かせて紅い道を作り出していった。
ただ、彼らは知らない。
遥か前方、幾多ものなだらかな丘を越えた先、悠々と楽しそうに笑う男がどれほどまでに悪辣であるのかを。
†
第一戦闘はつつがなく終えられた。被害は軽微と言える。幽州の戦で非道策を聞いていたから毒の心配をしていたがそれも無かった。
徐晃隊に叩き込んでいた対弓部隊防御戦術はなんとか上手くいったようだった。
約三千の部隊の半数は弓兵、半数は槍兵で構成されていたが主だった将は居らず、郭図もいなかった。
どうやら一当てして逃げるつもりだったらしく、弓を放ってからの敵は逃げ一辺倒だった。徐晃隊の練度のおかげで敵の壊滅は容易だったが。
逃走するモノも合わせて七割がたの数を減らせたので殲滅は行わず、一応どの道に逃げて行くのか兵を監視に当てさせておいた。
戦闘後の休息を取って一刻後に行軍を開始し、月光に跨りながら先の戦闘の様子を思い出していると、副長の馬の後ろに乗っている雛里が俺に知性の籠った瞳を向ける。
「敵は徐晃隊の最大兵数が七千だと聞いていたはずですので、私達の数を聞けば連続戦闘での士気低下を次の狙いにしてくるかと」
雛里の予測能力に舌を巻く。彼女が言いたいのは奇襲にしては敵の数が余りに少なすぎるという事だ。
つまり、先程の戦闘は威力偵察の意味が籠っている。こちらの数がどれくらいか、どの程度の力を持っているのか。そして少しでも数を減らす為に弓兵、追撃と騎兵防御の為に槍兵を送り込んだわけだ。
現状からの展開を考えて、ゾクリと寒気が一つ。気付いてしまえば早かった。
――そこまで手回しが的確なのか。戦略思考の高さが違い過ぎだ。
焦りを見せないように、気にしていないというよな無表情で、どうにか言葉を紡いでいく。
「なら、ゆっくり進むと今より拙い事態に追い詰められる」
「はい。兵数は向こうが圧倒的だと思われますので長い時間を掛けていられません。分岐後に最速での駆け抜けが必須でしょう」
「やっぱり……騎馬隊では無い徐晃隊では、迅速且つ被害を軽微に抑えて逃げ切る事はまずありえないという事か」
コクリと雛里が頷いて、副長が静かに目を瞑る。続く徐晃隊の面々達からは集中する為の大きく息を吐く音が聴こえた。
皆も分かっていた。これは絶望の戦場へと変わったのだと。一丸となって抜け、追撃を振り切る為にあの策を使わなければ全滅は確定的なのだと。
知らない内に絶望の選択肢しか残されていなかった。敵の策というのは、気付いた時には決まっているモノなのだと今、初めて思い知らされた。
敵の行軍速度を予測しすぎ、初めから一度の戦闘だけだと多寡を括っていたのが不味かったか。先読みしすぎるとたった一つの誤差から全てが悪い方へと向かっていくんだな。
白蓮に聞いた敵の実力から判断するに、相手が二万までなら徐晃隊でギリギリ抜けられる。現在の兵数は二千と数百……最終的に五十くらい残ればいい方だろう。
もし、明が先行部隊に含まれていてぶつかってしまえば、俺が抜けられる可能性も非常に低くなる。上手くいなせるかどうかに掛かってくるか。
森や山に隠れる事は出来ない。何時、どれだけの敵に囲まれるか分からなくなったのだから。救出も来るかわからない状態では戦って抜ける方が得策だ。
降る事は大徳の名から不可能で、さらには郭図という男が白蓮からの情報通りならばどんな輩だろうと殺されてもおかしくない。
いつ外道な手段を使ってくるか分からないのも不安が残る。それならやはり……
「……御大将」
「分かってるよ。お前らだって幽州を蹂躙したあの軍に従うのは嫌だろう? 俺だって降るなんざごめんだし、何処かで救出を待つ事も出来んさ」
覚悟を決めた男の瞳で見やる副長を見返してから振り向くと……驚く事に徐晃隊の奴等は笑っていた。一人残らず、不敵に、悪戯好きな子供っぽい笑顔で。
――ああ、やっぱりこいつらはバカなんだな。
眉を顰めながら見ていると、徐晃隊一番隊の一人が俺に声を上げた。
「御大将、俺らは羨ましかったんでさぁ。公孫賛様の部隊の奴等から幽州の話を聞きましてね。俺らが使うはずだった策を関靖様の部隊が使ったらしいじゃないっすか」
「そしてそいつらはやり通した。なら俺達に出来ねぇわけがないでしょうよ。あいつらは三倍程度だったらしいが、俺たちゃ十倍だろうと、二十倍だろうとやり通して見せやすぜ」
「そのために地獄のような訓練で体力つけてきたんすよ。御大将がぶち抜く、俺達が守り抜く、いつも通りじゃないっすか」
「なぁに、何時だって俺らはあんたの心に居る。だから命じてくれ。いつも通り、あんたの命令で死なせてくれよ」
口々に発する声は心底から楽しそうだった。
こいつらの願いは俺と雛里に生きて欲しいという事。本隊と合流さえすれば、隠した徐晃隊の奴等で仕返しが出来るから。そして俺と雛里がいれば、先の世まで想いを繋いでくれると信じているから。
すっと、隣に馬を並べた副長が雛里を抱え上げて俺に渡した。受けとり、何を考えているのかと無言で問いかけた。
「御大将、俺達はあんたの幸せを願ってる。あんたが幸せに生きて、平穏な世界を作り出してくれる事を願ってる。だから幸せに生きていけるって証拠をここで見せてくれ」
「はあ? どういう事だ?」
全く意味が分からずに問い返すと、後ろに続く徐晃隊のバカ共の目がにやにやと茶化す時のモノに変わっていく。雛里は不思議そうにバカ共を見回していた。
副長も同じように茶化す時のにやけ面に変わって笑いかけた。
「いやぁ、俺達の目にしっかり焼き付けておかなきゃ安心できねぇんだ。先に死んだ奴等への土産話にも出来るんで……月光の上で、御大将と鳳統様には平穏な世の為に誓いの口付けでもして貰いたい」
あんぐりと、口を開け放って驚くこと数瞬、俯きながらふるふると雛里が震えだしたのが伝わって漸く思考が回りだした。恥ずかしくて雛里の体温が上がったのか抱きしめてる腕が熱い。
「で、出来るわきゃねぇだろうが! しかもこんな戦のど真ん前で!」
「おんやぁ? じゃあ既に口付けはしたって事ですかい? つまりそういう関係になってるのは認めると」
真後ろを歩いていた一人が目を細めて言った一言で俺の顔が熱くなっていくのが分かった。
言い当てられて言葉に詰まってしまい、隣の一人がその隙を逃すまいと口を挟んできた。
「はい確定ー。もう逃げられやせんぜ御大将。なぁ皆! ちゃんと見せてくれねぇと俺たちゃ死んでも死にきれねぇよなぁ!?」
後ろを振り向きながら大きな声でそいつが言うと、全員がうんうんと一様に頷き、それぞれが楽しそうに、否、意地の悪い顔で俺を見てきた。
後に、ポンと副長に肩を叩かれ、
「漢を決めろ、御大将」
このバカもうんうんと頷きながら言ってきやがった。
雛里を見ると……じーっと、俺の事を涙目の赤らめた顔で見つめていた。ここで本当にするんですかと、そう言うように。
ここまでお膳立てされ、味方のバカげた策に嵌められ、何もしなければ男として終わってしまうのも事実。しかし何よりも雛里が嫌がる事はしたくない。
だから耳元で小さく問いかける事にした。
「雛里、お前が嫌ならバカ共を抑え付けてやる」
ただ、申し訳ない事に、
「でも……ごめん、正直俺はしたい」
欲望には勝てなかった。
身体を離すと、ぎゅっと目を瞑って恥ずかしさから震える身体の前で祈るように手を組んで、
「あぅ~……は、はじゅかしいですが……いいですよ」
小さく答えを口にした。
これから決死の戦場に向かうというのに、真剣な空気は何処へやら。
囃し立てる徐晃隊のバカ共の声を聞きながら、雛里を抱き上げつつ身体をずらし、皆によく見えるよう横向きに月光の上に座りなおすと、何故か相棒も急かすように嘶いた。
幾多のにやけた視線が集まる。
先程とは打って変わって驚くほど静かに俺達二人を見つめていた。
うるうると、涙を溜めた上目使いで俺を見やる雛里と視線を合わせ、彼女がゆっくりと目を閉じるのを合図に、ドクンと心臓が大きく跳ねた。
――結婚式の誓いの口付けもこんな感じなんだろうか。
的外れな考えが浮かぶも頭の隅に追いやって、跳ねる心臓をそのままに彼女に顔を近づけて目を閉じる。
そうして、ゆっくりと、俺は雛里に口付けを落とした。
瞬間、わっと歓声が上がって俺と雛里はどちらとも無く顔を離す。
「鳳統様! おめでとうございます!」
「いや、ほんと鈍感過ぎだろって話だぜ! 鳳統様を幸せにしねぇと承知しねぇからな御大将!」
「なんか娘が婚儀を上げた気分なんだが」
「よっしゃあ! これで御大将は幼女趣味って堂々と言いふらせる! ……うわっ、これじゃゆえゆえとえーりんもあぶねぇ!」
口々に祝いの言葉、というよりも茶化しの言葉を投げて来て、恥ずかしさからか雛里は俺の胸に顔を埋めてあわわと呟いた。
一寸だけ、がやついていた徐晃隊の者達であったが、突然グッと、副長がバカ共に向けて親指を立てた拳を突きだす。
それを受けて徐々に静まり返った徐晃隊は、副長がもう一方の空いた手で同じように拳を突きだすと一斉に、グッと拳を突きだした。
「これで思い残す事はねぇだろう! 俺達の心残りは晴れた! 黒麒麟に祝福を! 鳳凰に永久の幸あれ!」
『黒麒麟に祝福を! 鳳凰に永久の幸あれ!』
自分達は平穏な世の幸せな姿を見れない。それでも願ってるから、届けてやるからと。
奴等の想いが胸に響いて少しだけ涙が滲んだ。なら、俺に出来る事は一つだけ。
雛里を片手で抱きしめて、いつものように不敵に笑い、背中からスラリと剣を抜き放つ。
すっと掲げて天を突き、見据えるモノに命令を下した。
「我が身体たる徐晃隊に命ずる。命を賭けて鳳凰を守りきれ。助かれとはもはや言うまい。俺達の願いの為に戦い、俺達の願いの為に死ね。想いは俺と雛里が繋げて、多くの人々を救ってやる。だから安心して先にあの世で待っていろ」
応と、重苦しい声。ほんの少し涙を流して、笑顔を向けながらの。
雛里は涙を流しながらも笑っていた。きっと……自分の為に死ぬあいつらに、笑顔を残しておきたいからだろう。
俺達の力が足りないかったからこいつらは死ぬ。
俺達の自分勝手な理想の為にこいつらは死ぬ。
初めの戦からずっと戦ってきた戦友も、幸せを願ってくれる友も、俺達の為に切り捨てる。
心に重く圧しかかる重責はいつもより幾分か軽かった。
前を向いて、歓喜に溢れる徐晃隊の視線を背中に浴びながら、俺は何故か一番初めに決めた覚悟を思い出していた。
†
しばらく行軍する内に、物見にやった兵から、崖の道から敵兵が来たとの報告で第二の戦闘が開始される。
敵の数は五千。先程のように弓の部隊を前衛に。
次は逃走の時機を早めるだろうと見て、雛里の指示によって徐晃隊は同じ行動を起こす事も無く、秋斗を先頭に置いた蜂矢陣での強制突撃によって大打撃を与える事に成功する。
異常なまでの士気の高さに恐れた袁紹軍は逃げる兵が続出し、急ぎで撤退していった。
休むことなく行軍を続けて遂に辿り着いた分岐点。選んだのは丘中の道であった。
警戒を怠らずに進んで行くと、先程逃げた兵であるのか、それとも別の部隊であるのか……彼らの後背に旗の多く立ち並んだ部隊が現れたと、馬を持たせて後ろを監視させていた兵からの報告があった。
それを受けて、当初の計画通りに行軍の速度を速めて最初の丘の上に昇りきった時、秋斗と雛里は息を呑んだ。
眼前に見えるのは郭の旗の元に集う……少ない兵士達。それだけならば問題は無い。
左にも、右にも、逃げ場を塞ぐように幾多の陣が据えられていた。まるでここから逃がさないというように。
遠くで、陣の中で膝を組みながら郭図が嗤う。
「クカカ! こっちを選ぶと思ってたぜぇ? 少ない数でようこそ黒麒麟。歓迎しよう、盛大になぁ! 癪だが田豊の策で追い詰めてやんよ! 銅鑼を鳴らせぇ! 十面埋伏の計の始まりだ!」
日輪が中天から傾く丘に銅鑼の音が鳴り響く。大きな金属音が幾重も木霊する。同時に、全ての陣から敵兵が挙って出撃を開始した。
後背からも部隊が近づく砂埃が見えていた。雄叫びを上げながら、丘の上からは見えない左右の場所からも兵が走り込んできていた。最後に最前方の少数だと思っていた場所が一番多くなった。
合わせたその数、目算で一万二千。対して、徐晃隊の数は二千まで減らされていた。
袁紹軍は、否、夕は思考を読み、細かい兵の配置を事前に行った分岐先の限定によって丘中の道を選ばせた。全ての兵はここに配置され、もう一つの道はもぬけの殻である。戦略思考では雛里よりも彼女の方が上であったのだ。
戻る事も出来ず、彼らが向かう道はやはり一つしかない。
大きなため息が漏れ出た。徐晃隊の全てはそれが呆れから来るモノである事を知っていた。不敵に笑った秋斗は冷たい声を上げる。
「クク、なんでお前が十面埋伏陣を知ってんだよ。副長、雛里は任せたぞ。……なあ、お前ら! 十倍もいかない包囲網なんざ俺達の敵じゃあねえだろうよ! 前だけを、ただ前だけを見ろ! 真ん前のど真ん中を……俺と共に貫け徐晃隊!」
それだけで敵を殺す程の雄叫びが上がる。同時に、一つの生き物のように彼らは駆け出した。
秋斗を先頭として、雛里を乗せた副長の部隊を右に配置したそれはまさしく黒麒麟の如く。
ただ、正面は遠すぎた。そしてここは丘である為に徐晃隊は不利な場所へと追い詰められる事となってしまった。押し寄せる敵兵達はある程度の距離を以って、半数だけが次々と脚を止めて行く。突撃に向かうモノは変わりない、しかし……残りは弓を構えて行った。
キリキリと引き絞られる音が聴こえていたかのような絶妙な時期で、秋斗は声を張り上げた。
「矢が来るのなんざ分かってんだよバーカ。速度を上げろ! 届く前に駆け抜けろ! 後方分離、左右展開! 接敵後、後方追随!」
瞬時に、返事をせずとも、徐晃隊は三つに分かれ始めた。
弦の跳ねる音が一斉に丘に鳴り響く。まるでイナゴの群れのように空を埋め尽くした矢は、その部隊へと注ぎ込まれるはずだった。
しかし上がった速度によって届かず、さらには部隊が別れた事によって照準が安定せず、第二射もほぼ全てが大地に突き刺さる。
黒い影が踊り出す。振り返ることなく、ぐんと新緑の部隊から突出した影は、日輪の輝きを受けて一筋の光を敵兵に見せつけた。月光だけはその速さをさらに上げていた。
見やると敵は槍の部隊であった。先の二回のように正面からの矢による直射であれば、部隊だけでも脚を止められたであろう。
当然、月光へと突きだされた槍は一太刀でゴミと化し、返しの刃で三つの頸が宙を舞う。
紅い華が咲き誇る。遅れて、化け物の部隊は金色の兵を次々と平らげて行った。
敵兵はその姿に恐怖した。命を捨てるも覚悟の上で、ただ前へ前へと進む部隊に。それは彼の地での戦の再現のようであった。
ただ……今回は黒麒麟に追随する仲間はおらず。
袁紹軍の槍兵は後背へと回り込むことなく、喰らわれながらも徐々に、徐々に下がっていく。まるで何かに引き付けるように。遅れて辿り着いた敵兵もわらわらとその先へと向かい行く。
そして後背へ回り込むのは――弓兵。
数本の矢がその化け物に突き刺さった。さらに数本の矢が突き刺さる。にやりと得物を仕留めた事で笑みを深める袁紹軍の兵は、止めとばかりに次の矢をつがえようとしたが……その手を止める。
視線の先では、矢が背に突きたった徐晃隊員がクルリと反転して大地に剣と槍を突き刺し……その場で正面から数多の矢の的となって息絶えた。
幾人も、幾人も、同じようにハリネズミとなって死んでいく。彼らは決して倒れる事無くその場に立ち続けた。
ゾワリと肌が泡立ち、恐怖に震えたのは矢を放った兵達全てであった。笑みを携えて立ったまま死んでいるその姿は彼らを恐怖に落とし込む。
その弓兵達も、周りの弓兵達も、もはや暫らく使い物にならない。手が震え、狙いを定める事が出来なかった。脚が震え、芯を持つ事が出来なかった。
恐怖は伝搬する。
先を戦う袁紹軍の槍兵も、剣兵も、全ての兵が徐晃隊という化け物に恐怖の底に落とされていた。
美しい舞のような連携。どれだけ槍を突きだそうと、どれだけ剣を振ろうと弾かれ、隣から来る返しの刃で突き殺されてしまう。
大きな体躯に守られて、視線を合わせたモノを全て凍りつかせるような瞳で、纏わりつく軍の弱所を見定め指示を出す鳳凰によって、化け物部隊は変幻自在の動きを見せていた。
少しでも躊躇えば雪崩のように押しかけられ、どうにか突き崩そうと攻めても重厚な兵列配置によって即座に防御される。
今、黒麒麟の身体たる徐晃隊は鳳凰の翼に守られていた。
そして一番の恐怖は……黒き体躯に白き角、立ちふさがるモノを全て薙ぎ払うその名の通り黒麒麟の存在。
まさしく、格が違う。草原に揺蕩う草のように薙ぎ払われ、あぜ道に咲く彼岸花のように紅く彩られる。
近づけば殺される。その恐怖は決死の覚悟を持つモノでしか立ち向かえない。袁紹軍にはそれが無かった。
それでも、数というのは何者にも勝る強さである。
徐々に失速していく速度。原因は敵兵の並び方にあった。
一列に並んだ正面、左右はより強固に、隙間なく固められた兵列。それが幾重にも重なった隊列は如何な徐晃隊と言えども容易に抜くことが出来ず。
この兵力差で、下がりながら増える敵兵に対して未だ速度を落としながらも進んで行けるのは秋斗が先頭を切り拓いているからに他ならなかった。
「化け物が……張コウの部隊よりも厄介じゃねぇか。このまま部隊を引き攣れたままにされると押し切られるか。
伝令だ。あの場所まで引き込め。相対してる奴等にはいなすように動かせろ。抜けた瞬間に『鳴らして』合図してやれ」
遠く、陣の上から戦場を見渡していた郭図の判断は早かった。
既に戦闘が始まって三刻。たった二千の兵に食い散らかされる自軍の兵にも心動かさず、この程度は問題ないとばかりに次の策に移っていた。
「成功しようが失敗しようがどうでもいい。俺でも敵将を捕えられる事が出来ると証明出来れば最善、黒麒麟を逃がせば田豊の名が傷つくから最良。
殺しちまうのは鳳統だけでいい。ま、化け物部隊を失った黒麒麟はただの武将だ。さらにこれだけ疲れさせりゃ追撃させる文醜でも勝てるだろ」
†
剣戟の音。怨嗟を張り上げる断末魔。宙に舞い散る血霧。
地獄のような戦場はどれだけ続けても終わる事が無いかに思えていた。
重厚に敷き詰められた兵の肉壁によって俺の戦う正面からしか広げられず、戦いながら振り向いて確認すると徐晃隊の面々は三分の一の数が失われていた。
さらには、ある時期を以って敵兵の並び方が変わっている。
横を増やし、前を減らしている。何処かへと誘うように。
間違いなく、このまま進めば罠が待ち受けているのだろう。
俺の体力も無限では無い。今動ける内に少しでも進んでおかなければならないのも事実。ならば――
「徐晃隊全てのモノに告ぐ! 俺の抜ける先、紅き道を作り出せ! 今より我ら一つの槍とならん!」
その指示は駆け抜け重視の攻撃主体に切り替えるモノ。体力がギリギリ持つかどうかを見極めて、抜けきる為に行う最後の手段。
最初から最後まで走り続ける事は出来ないのだから、道を開きつつ着いてこれるように、俺だけは最初から全速力で駆けていない。雛里を生き残らせる為には必然の行動だった。
月光の腹を強く蹴る。それを受けて、相棒が大きく前脚を上げると恐れた敵兵が下がってほんの少しだけ間が出来た。
馬蹄が着いた瞬間、爆発的な速度を出して月光は地を駆り、一気に敵兵の間を切り広げて行く。
腕は重く、疲労から身体も気怠さがそこかしこにあった。それでも、諦める事は無く、生き残る事だけに意識を向けて行く。
罠があるならば、俺が確認してこよう。矢の雨であれ、火の壁であれ、俺と月光ならば耐えられるし抜けられる。
先にそれを行わせる事が出来たなら、部隊の奴等の被害は軽微に抑えられるだろう。
一人、二人、三人……幾人もの兵を斬り飛ばし、吹き飛ばし、血路を開いて進む先……月光の上から敵の部隊に切れ間が見えた。
予想通り、その向こうに構えるのは間を開けて列を為した弓兵。現在、後続の徐晃隊との距離は少し開いている。しかしあいつらなら問題なく抜け切れる事は分かっている。
矢というモノは、味方が邪魔だと曲射は出来ず、俺が抜ければ直射を行うしか無く、この間隔ならば単騎で掻き回すには足り得るだろう。
己が判断を信じて駆け抜けること幾分――――遂に敵の壁を突破した。
そこで……鳴るはずの無い、俺達にとって聞きなれた音が戦場に鳴り響いた。
一斉に吹かれた笛の音。
金属の音……では無く、竹を通した懐かしい音。平原で自らが広めた民を守る為のモノ。子供達を守る為に俺が作り出した最初の道具。
混乱を狙ったのならば下策。徐晃隊の奴等は音で命令を聞き分けているからそれに騙される事は無い。ましてや、攻撃主体の時に鳴らすモノでは無い故に、バカ共は間違うはずもない。
ただゾワリと、殺意が心に沸き立った。
――子供を守るためのモノを……人を殺す為に使ってんじゃねぇよ。
ギリと歯を噛みしめながら睨みつけて駆ける。直射の合図にでも使ったのだろう。
しかし敵兵は俺の予想とは全く異なる行動を起こした。
袁紹軍は……未だ徐晃隊が抜けきっていない、味方の兵が立ち並ぶその場所に……面としての矢の雨を降らせた。
直射の矢は一本も無く、俺を狙わずに、敵味方の区別なく、只々バカ共を殺す為にそれは行われたのだった。
思考に潜る事も、呆気にとられる事も無く、俺は反射的に振り向いてしまった。
何故かスローモーションに堕ちて行く矢は途切れる事が無く、第二射も、第三射でさえもそれに当てているようだった。
まだ遠く、宙を見上げている副長と雛里が見える。
大声で怒鳴る副長に、すっと……俺に視線を移す雛里。
遠いはずなのに、彼女の瞳の色が良く見えた。
大好きな翡翠の色は影を落とし、迫りくる死の恐怖に支配されていた。
そこには鳳凰は居らず、俺が守りたいモノの姿だけがあった。
その色を見てしまうと、俺は無意識の内に月光の背を蹴ってそこに向かっていた。
馬首を巡らせて向かう事もせず、ただ自分の身一つで彼女を助ける為に走り出していた。
一人ならば抜けられた。一人ならば生き残る事が出来た。一人ならば俺は桃香の元に辿り着けただろう。
でも……彼女がいなければ、もう俺は戦えなかった。
矢の雨が降り注ぐ直前、副長が雛里を抱きかかえて馬から飛び降りるのが見えていた。あそこまで行けば、俺もお前を守れるから。
肉に矢が突き刺さる嫌な音と、鎧に弾かれる乾いた音が延々と鳴り響くその戦場に――――ただ彼女を助ける為だけに俺は黒麒麟となった。
後書き
読んで頂きありがとうございます。
袁紹軍突破戦前半です。
六倍の兵による包囲網。
さらには十面埋伏陣。逃げ場は血路を開くしかありません。
抜けても追撃対策で捨て奸の使用は確定。
秋斗と雛里が生き残れるか全滅するかは四分六と言った所。
来来さんみたいに騎兵なら良かったんですけどね。
恋姫らしい戦を描けていたら幸いです。
ではまた
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