乱世の確率事象改変
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瞬刻の平穏
胸に溢れる想いは止めどなく
自身の心から零れたいと喚いていた。
行かせまいと引き摺るのは数多の繋いだ想いの鎖と……自責と言う名の足枷。
日輪の如く弾けるような笑顔も
信頼と信愛を向けてくれる翡翠の瞳も
甘く耳に響く声音も
全てがただ愛おしく
自身の心に気付いてしまえば
どこまでも欲しいと願ってしまう自分は
存外、まだ人であるようだった。
人の本質は恐ろしく、板挟みの感情の渦にキリキリと押し潰されていく。
もう……彼女無しでは立っていられないのだろう
彼女が……自分を『人』に戻してくれる最終線だったのだろう
それほどまでに深く、自身の根幹に居座ってしまっている事にも気付いていて
きっと切り捨てたら莫大な痛みを伴って壊れる事も理解している
ならば……全てを手に入れよう
大切になった彼女も、生き残る全ての平穏も
傲慢に、欲深く、殺してきた人の為に、生き残る人の為に、何よりも……自分だけの願いの為に
全てを手に入れてしまおう
だからどうか……この嘘つきな自分の事を……
その場の空気は引き絞られた弓弦の如く張りつめていた。
ゆったりと椅子に腰を掛けて膝を組む秋斗と、慎ましく手を膝の上に乗せて隣に座る雛里。膝を着いている一人の兵士は、膨大な汗を流してその異質な空気に呑まれている。
くくっと自嘲気味に喉を小さく鳴らす音が聞こえ、雛里は静かに瞼を閉じた。
本城にて、彼らは桃香の判断を待っていた。余りに遅すぎる返答から、先の三つの内一つ目も非常に少ない確率でも在り得るやもしれないとして個別で対応の準備を行いながら。
そこに早馬によって齎されたのは、伝令の殺害によって報告が遅れ、白蓮到着によって漸く決断が下されたとの情報。
彼らが頭の中で立てていた予定よりも四日超の遅れである。
絶望の表情で言葉を区切る兵を見つめながら秋斗は目を細め、思考を回しながら小さく顎を引いて続けろと無言で伝える。
桃香の決断、そして朱里からの行動指示は――
「諸葛亮様からの指示は……曹操軍と同盟し、両袁家と戦を行う為に直ちに本隊と合流せよ。豫洲との境ギリギリに陣を組むらしいのですが、袁紹軍にぶつからないように最短経路とは別の道で来られたしとの事」
どうやって同盟を組むのか、とは二人も聞かない。朱里の能力への信頼から。伝令がそれだけしか無いという事は自分達の行動に集中して本隊は任せろという意味でもあるのだと分かっている為に。
そのまま兵に対して副長に徐晃隊を纏めさせろと指示を出し、ほっと息を付いた兵が扉を閉めて二人だけになると同時に、雛里と秋斗は目を合わせた。
不安の渦巻く雛里の瞳と、絶望の闇色の中に覚悟の燃える秋斗の瞳が交差して、数瞬だけ見つめ合った後にどちらもが視線を落とす。
「返答が遅いと思ったら……まさか伝令すら潰されていたとはな。どうやらあちらさんも簡単には行かせてくれないようだ」
口角を吊り上げて遠い目をしながら床に溶け込ませた言葉。既に起こってしまった事だと割り切り、ここからどうするかが一番重要である為に二人は瞬時に思考を回していく。
「……本城から十里ほど離れた場所に潜ませた徐晃隊、四つの部隊を再度結集している時間はありません。物見に向かわせた兵も全て帰って来ないので袁紹軍がどの程度動いているか分からず……どうしますか?」
「分けたのはそのままで構わんさ。どうせこの後両袁家に対して奇襲を仕掛けられるんだからな。
大切なのは袁家を徐州から早い内に追い出す事だろうし……本城に残す徐晃隊五百もそのままでいい。敵の行軍を遅らせる為の悪戯も上手く行く。田豊が袁家の為に戦っていようといまいと、どちらにしろ時間が稼げる事に変わりない。
雛里の計算ではどの程度行けると読んでるんだ?」
「初めの情報の後に敵が部隊を分けているのでしたらギリギリ間に合うか、くらいかと。経路が変わったのでぶつかるとしても一回です。敵は私達が戦場を維持しながら同盟交渉を行う事を想定しているでしょう。大徳の名を考えると戦わずして本隊を豫洲の国境まで動かすのは異質な事ですから。
幽州での戦から見るに、袁紹軍の本隊は此処に物資の調達と私達の補給経路断絶を必ず狙ってきますので最低でも三日は遅れるでしょう」
「ならいい。だが……やはりそうだよな。民の希望が初めから他に頼ってちゃあいけないけど……早い内に結果を示す事さえ出来れば、少しの不振は与えてしまうが人々に受け入れられるから問題ないわけだ」
秋斗は大きく息を付いて顔を上げた。ぼんやりと宙を見つめ、頭の中でこれからの展開を組み立てて行く。
伝令を送ってから直ぐ、彼らも極秘で行動を起こしていた。奇襲を仕掛けられるようにただでさえ少ない徐晃隊を振り分けていたのだった。
その狙いは多数の軍が入り乱れる戦の場に少数での連続奇襲を掛けて混乱を誘発し、袁紹軍だけでも早期決着で追い返す事。分けた部隊は千を四つ。本城の警戒を強めて情報漏えいも防いでいる。
同時にもう一つ。本城にも袁家を縛り付ける為の手を打っていた。五百の徐晃隊員に申し付けたそれは、掌で踊らせてくれた夕へのちょっとした意趣返しを込めて。
二人は始めから桃香が二番目を選ぶと予測していたから準備をした、いや、そうなる事は分かりきっていたからこそ徐晃隊の特殊な絶対服従を使った動きを組み立てた。最長日数の制限さえ行えば、どのような事態になろうとも徐晃隊は一人の例外無く秋斗の元に集う事は確実なのだから。
現在の桃香の目指す所には絶対に必要な選択肢、それが他の国との同盟。今回の事は最終目的の為の大きな足掛かりとなる事は確定的であり、さらには優しい彼女が民を守る為、そして味方全ての犠牲を減らす為に行うとすればそれしかない。黄巾の時に曹操と関わりがある為、余計にそれを選んでしまう。
すっと立ち上がった秋斗は窓に近付いて外を見やった。視界に広がるのは穏やかな日差しが差し込む中庭、もうすぐ戦が始まるとは思えない程に平穏な世界。
僅かに微笑んだ秋斗は振り向かずに雛里に話しかけた。
「月と詠を先に送っておいて良かったな。送りにやった第五の奴らは……まあ、袁紹軍と一番遠いから分かれて本隊へ向かう護衛の百も直ぐ合流出来るだろう。……後は同盟交渉の結果がどうなるかだ」
最後に秋斗の声が冷たく重たくなった。来る敵を思ってか、それとも何か別の事を思ってか。
秋斗は月と詠には二つの選択肢を示していた。袁家の目を考えて先に本隊と合流するか、それとも秋斗の知り合いの所に預けるかという二択。
徐州に残るとしたら、一時的に城を抑えられてしまうと僅かでも正体が露見する可能性がある為に侍女として留まる事は不可能。先に本隊と合流し、兵の食糧配給の為の手伝いをさせ、朱里と共に軍の展開を話し合わせておく方が得策と言えた。
もう一つ。秋斗の知り合いの所に預ける……というのは、個人的な繋がりから一番安全な場所があるからであった。
その場所の名は『娘娘』という高級料理飯店。現状、大陸で一番安全な曹操の元に、旅人に偽装させた徐晃隊数名を護衛に当て、商人の馬車に乗せて送り出す事。後に戦が落ち着いてから機を見て呼び寄せる事を考えていた。
選択を示されて二人が選んだのは前者。徐晃隊と共に居ると非力な自分達では足手まといになるやもしれない事も考え、自分達は少しでも描く未来を作り出す手伝いをしているのだから安全な所でぬくぬくとしている事は出来ない、と強く言って先に本隊へと向かっていた。
「同盟締結の対価。割に合うモノを朱里が提案して承諾されれば成功、出来なければ失敗、か」
少しの寂しさを宿している秋斗の声を聞いて、雛里は急な胸の痛みに自身を抱きしめた。その声に、もしかしたら彼と自分は違うモノを思い描いているのでは無いかと考えて、震える声を彼の背に掛けた。
「朱里ちゃんは何を対価として支払うかを私達に明言していませんが、恐らく今回の同盟交渉では対価として徐州を売り渡すつもりでしょう。しかし曹操さんはそれを対価としては認めてくれません。
例え乱世を早く大きく治める為、桃香様に益州等の南西の平定を代わりに行わせるつもりであっても」
「……うん。そうだな」
短い返答。二人共がこの時に答え合わせをするつもりでいた為に、彼も雛里の答えに口を挟まず。
「そ、曹操さんは……この先侵略を開始すれば手に入る土地を買うほど浅はかな方では無いですから」
「なら……何を対価に求める?」
一寸だけ笑いを含んだその声に雛里の心は冷えて行く。何を対価に求められるか、袁紹軍侵攻の報を聞いてから、彼女は頭の中でずっと考えていた。それを彼も承知の上だとなのではないかと予測を立てていた。
「……最低でも大徳の将、黒麒麟徐晃だけは……必ず求めると思われます。同盟の締結に対してお決まりの贈り物、それは綺麗な女の人や名馬と昔から決まっていますが……曹操さんの場合、欲しいのは戦乱の世を乗り越える為の有力な将なんですから」
彼女が行き着いた答えに数瞬の間を置いて、秋斗は肩を震わせて大きく笑った。乾いた笑い声は二人だけの部屋によく響いた。からから、からからと。
「クク、ははっ、あはははっ! そうだよなぁ……やっぱりそうなるよなぁ。俺が曹操の立場なら愛紗とか星みたいな有能な将を欲しがるだろうしなぁ。
俺が侵略も辞さない王なら土地なんかより人材が欲しい、どうせ侵略したら手に入る領地なんざそういう輩にとってはタダ同然だ。そんなもんは同盟の対価にすらなりゃあしない。それに……これだけ名が売れちまったんだ。徐州を手に入れたら安定させるのは容易いし他にも与えられる効果があるか。大徳の風評ってのは波状効果が多様過ぎるなぁ……実際の俺なんか雛里達に支えて貰わないと立ってられないちっぽけな人間だってのに」
憐憫と自嘲を含んだ秋斗の言は、楽しそうに紡いでいるが本心からである事が分かり、雛里の耳に突き刺さった。
来るのは歓喜と悲哀の背反した感情。彼に頼って貰えている事が嬉しくて、彼が弱っている事が哀しい。しかし彼が考えている事が読み取れて、悲しみの方が大きかった。
ゆっくりと、雛里は椅子から立ち上がって秋斗の元へ歩みを進める。一歩……二歩……三歩でぎゅっと腰に抱きついた。
「秋斗さんは……曹操さんの所へ向かうおつもりですか?」
震える声で告げる。求められたら彼がどうするのか、雛里には分からなかったのだ。頭では秋斗が誰の元にいるのが一番自由に出来るのか分かっているが、ナニカに引き摺られ続ける彼の思考は読めなかった。
抱きつかれても彼は何も言わず、大きく息を吐いただけだった。
しばしの静寂が部屋を包み、秋斗は抱きついている雛里の腕に優しく手を乗せた。
「雛里、桃香の選択ばかりに気を取られてちゃダメだ」
問いかけの答えとは別の事を話す彼はいつも通り。それを受けて、雛里は思考を回していく。
「同盟が確実に拒否される……という事ですか? でも曹操さんを引き込む為に本隊の早期撤退を行ったんですよ? お互いの兵の被害も抑えられてある程度の連携も取れますし、窮地の大徳を救う事によって曹操さんの風評も上がります。袁家に大打撃を与えられて且つ有能な将も手に入れられるとなれば、これ以上の利は無いと思いますが……」
浮かぶのは朱里の行おうとしている事柄。彼女が曹操を引き込む為に何を考えて動いているかを、雛里は長い時間一緒に過ごしてきた為に看破していた。というよりも、己が思惑と重なると信じていた。
ただ、理想と現実を天秤にかけさせ最後にどちらを選ぶかで決まる一番重要な選択。それについて、雛里が考えていた時機はもっと後であったのだが、その大前提を揺るがす波紋を与えられて困惑に染まる思考。
「ああ、全く以ってその通りだ。間違いなく王として、乱世の先を見据えて動くならその判断は正しい。大敵である袁紹軍に大打撃を与える好機となるだろう。
でもな、それは普通の王だったら、の話なんだよ。あのどうしようも無く強大な覇王なら……きっと違う道を示す事もある」
きゅっと腰に抱きつく手を強めて、雛里は思考に潜っていく。それでも、彼の考えている事は分からなかった。それは一重に、この時代にしては異質な価値観と発想からくる戦略思考を持ったまま、理不尽と犠牲を呑み込んで進み続けてきた秋斗の方が気付きやすいモノであったが故に。
「まあ、俺の下らない予想程度でしか無いんだけどな。曹操が取る選択肢の中にもう一つ追加出来るんだよ。俺なら間違いなくそうする。俺が気付いてるって事は頭の良い曹操は必ず気付いてる。こっちの方が乱世を進む内に利が大きくなるから」
そう言って秋斗は雛里の腕を外して振り返り、
「いいか? 曹操は――――」
膝を折って彼女の耳元に口を近づけ、己が考えを囁いた。最後に秋斗がどうするつもりかを苦笑と共に付け足して。
目を見開き、彼女は恐怖に打ち震える。それを聞いてしまうと、もはやそれが行われるとしか思えなかった。そして行われた後の選択がどうであろうと、彼がどうなるかも理解してしまった。
途端に溢れんばかりの涙を目に溜めて、彼の首に腕を回してぎゅっと抱きついた。
「でもっ……桃香様がそれを選ぶとは思えませんっ」
飛び跳ねるように彼の耳元で、自分がずっと抱えていた事を言う。
もう彼女は、これ以上彼が自分を追い詰めていく事に耐えられなかった。何処までも桃香の事を歪んだまま信じ過ぎている秋斗を助けたかった。
ゆっくりと頭を撫でつけて、小さな子供をあやすように、空いた手で一定のリズムを刻んで雛里の背中を叩きながら、秋斗は優しく微笑んだ。
「大丈夫、桃香はちゃんと選ぶさ。あいつは理想より現実を選んで俺達と同じモノを目指すようになる。何も心配はいらないんだ。桃香は俺みたいに先の世の為に切り捨てたんだから。先の世の平穏を願うというのなら行き着く所は同じに出来るんだ」
茫然と、雛里は零れる涙をそのままにしゃくりあげるだけであった。彼女は一度甘い理想に溺れている為に、どれだけ今の状態から変わる事が困難か把握している。
――秋斗さんは……白蓮さんと再会したから、より強固に桃香様を信じてしまった。彼と同じ選択を自分で行ったのだからと、理想の為に大切な誰かを切り捨てたのだからと。
でも……桃香様は現実を選ばない事もあるのに……逃げるで無く、迷うでなく、優しい王に成長してしまったから……変わらない事もあるのに。むしろ……
思考を回しても、今の状態では何をすれば彼に違う道を示せるか雛里には分からなかった。ただ、与えられる温もりを感じてしまうと……少しでも離れたくない気持ちが大きく溢れ出す。
――そうか……その時はこうすれば、きっと彼は救われる。だから……今は何も言わないでいい。
考えが幾つも浮かび、彼女の明晰な頭脳はどのような場合でも彼を支えられるようにと思考を向けて、一つの解へと行き着いた。
奇しくも、それは朱里の狙いと同じであった。齎される結果は違えども、伏竜と鳳雛の目指す所は一つであった。
その時の彼の絶望を考えてビシリと胸に痛みが走るも、雛里は歯を噛みしめてそれに耐える。
それでも耐えられなくて身体を離し、雛里は秋斗と目を合わせる。身体が離れ、秋斗も雛里と視線を合わせた。
ドクンと大きく胸が鳴った。向ける想いは交錯する事無く、視線に乗って真っ直ぐに互いへと伝わっていく。
見つめ合う事数瞬
悲哀に暮れる雛里の瞳は翡翠が揺れる。
寂寥が支配する秋斗の瞳は黒が渦巻く。
――どうか壊れないで。どんなになっても私がずっと支えますから。
これから起こるであろう事態を思って、彼女は自身の感情を抑える事が出来なかった。
――どうか哀しまないでくれ。平穏な世になったら、もうお前は傷つかなくていいから。
これから向かうであろう先を考えて、彼も感情を抑えようとはしなかった。
絡み合う視線は徐々に近づいていく。
雛里は高鳴る想いをそのままに、目を閉じた
秋斗は溢れる想いを抑え付けず、瞼を降ろした
それぞれに、無意識の内では無く、お互いに意識を向けたまま……
彼と彼女の影は一つに重なった。
互いの心を確かめ合うように、短い時間重なっていた影はほんの少し切り離されても
自然と、再び重なり合う。幾度も……幾度も……
どれほどか、温もりを感じ合えるようにより大きく、二つは一つになっていった。
思惑は決して交わらず、されども……二人の想いはたった一つだった。
口付けを交わし、お互いの顔がぼやける程の距離で見つめ合う度に、切なく甘い瞳を向けられて、跳ねる心臓と溢れる想い、そして沸き立つ欲。
平時であれば、溶け合うように互いを求め合う事も許されたであろう。漸く通い合った想いを確かめ合い、育み合い、貪り合い、己が全てで伝え合う事も叶ったであろう。
しかし迫る問題は重く、二人の欲を無理やりに抑え付けさせる。
優しく微笑んで、くしゃりと雛里の頭を撫でた秋斗は、彼女を緩く抱きしめ耳元でボソリと小さく想いの欠片を渡し、それを受け取った雛里もポツリと想いの欠片を彼に返した。
また身体を少しだけ離して数瞬、名残惜しそうに見つめていた雛里から、突然口付けを落とされた。
呆気に取られた後、悪戯っぽく舌をペロリと出してから満面の笑顔で幸せを表現する彼女に、
「クク、雛里には敵わないな」
いつも通りの言葉と笑顔を秋斗は返した。
それを受けてじわじわと、雛里は自分達が行っていた行為がどのようなモノかに至って反芻し始め、そして交し合った想いが嬉し過ぎて最後に自分から行った大胆な行動を思い返して、みるみる内に顔を茹で上がらせていった。
「あわわぁ~」
風船から空気が抜けるように……ふにゃり、と床に座り込む。
恥ずかしすぎて顔を両手で覆い、あわあわと呟き続ける雛里が愛らしくも可笑しくて、小さく苦笑した秋斗はまた抱きしめたい衝動に駆られそうになるも、気を持ち直して片手を差し出した。
「そろそろ徐晃隊の準備も終わった頃合いだろうから行こうか」
もじもじと小さな身体を揺すり、両手の指を開いた隙間から秋斗を覗いて、再度顔を赤らめた雛里は……彼の顔を見ないように俯きながらその手を取って立ち上がった。
「しょ、しょの……秋斗しゃ……う~っ」
手を離され、言葉を紡ごうとするも、恥ずかしさと緊張からどうしても彼の事を意識してしまい上手く喋れず、目をぎゅっと瞑って堪える。
――お前は俺を萌え死にさせるつもりなのか。……今は我慢しなきゃならんのだから勘弁してくれ。
その可愛らしすぎる仕草に、秋斗は暴走し始める自身を律するのに必死であった。
ふるふると頭を振るってどうにか追い遣り、胸の前で手を握りしめながら震えて身悶えている雛里の手を再度取った。自身も少しだけ、恥ずかしさと緊張に跳ねる心臓を誤魔化しながら。
「あわっ! し、秋斗さ――」
「何かあるなら歩きながら聞こう。それと、さっきのもあって恥ずかしいが……雛里が居る平穏な日々をちょっとでも感じさせてくれ。戦前にどうかとも思うけど先の事を考えると、な」
「ひゃ、ひゃい」
珍しく顔を赤らめた秋斗は本心を口にしながらも雛里の顔を見れずに目を逸らす。
噛みながら返事を行い、隣を歩きつつチラと彼を見やった雛里は小さく笑う。彼のそんな姿が愛おしく感じて。
伝え合った想いも、通じ合った心も、無言で手を繋いで歩きながら確かめて行く。
雛里は彼とのこれからを思うと胸が締め付けられる。しかし同時に安堵があった。
桃香がどちらを選ぼうと、秋斗が耐えたとしても、耐えれずとも、彼はもう何も矛盾を背負わなくて済むから、と。
彼女の頭に浮かび上がる道は……三つ。
一つは、雛里個人にとっては一番辛い道。それでも秋斗が望むなら……耐えてみせようと心を固めて行く。
後の二つは、秋斗にとっての絶望の後に出来る道。彼さえいればそれでいいと……彼女は少しだけ願ってしまった。
そうして自分達がどうするか考える内、雛里は親友とした約束を思い出して二つの感情が胸に来る。己が親友を裏切ってしまった罪悪感と、彼自体が自身を想ってくれている事を知っての優越感。
混ざり合う二つのモノを消化するのは難しい。ゆっくりと雛里は一つの決意を固めていく。
――朱里ちゃんには正直に全てを話そう。嫌われるだろうけどそれでもいい。私は彼との道を選んだんだからそうしないとダメだ。
もやもやと、その時に朱里が自分に対してどうするかを予想しながら、もうすぐ徐晃隊に構えさせた場所に着く辺りで立ち止まり、一つの提案をすることを決める。
「……どうした?」
「秋斗さん。桃香様達の所に着いて交渉の結果を聞いたら……そ、その……もう一度私から伝えさせてください」
急に立ち止まった雛里を不思議そうに見ていた秋斗は少し驚き、
「ん、分かった」
眉を寄せ、一寸の後悔が見える雛里の瞳の色を見て、何かあるんだろうと予想して頷き、ポンと頭に手を置いて帽子越しに撫でて、何も聞かずに前を向いて歩き出した。
とててっと急いで雛里も倣って歩き出し、心の中で懺悔を呟く。
――ごめんね朱里ちゃん。もし……全てを話した後に私を許してくれて、それでも秋斗さんの事が好きだって言うのなら、また私と一緒に歩いて欲しいな。私は秋斗さんの事を独り占めするつもりは無いから。私は……彼にとっての『特別』になれたら、それだけでいいから。
それは願いと欲。裏切ってしまった親友に対して、彼の事を想うモノに対しての。そして少しでも多くの人に彼を支えて欲しいが為のモノ。
彼女は気付いている。
月がどこか特別な感情を抱き始めている事も、詠が徐々にではあるが女として心を許し始めている事も。まだまだ時間が掛かるとしても、確実に二人は秋斗に対して自身と同じ感情を向け始めるだろうと。そして既に慕っている星も朱里もいる。
彼女とて嫉妬はする。しかし自分の事を顧みない程に歪んでしまった彼が、たくさんの生きている人から生きて欲しいと想いを向けられて、自身の平穏を感じてくれるならそのくらい抑えようと考えていた。
どこまで行っても彼の幸せを願っている彼女は、あと一つ角を曲がれば徐晃隊の待つ場所となった時に手を離す。秋斗もほぼ同時に、平時の自分を閉じ込めてしまおうと手を離していた。
くくっと喉を鳴らし、彼女の方を向いた秋斗はニッと微笑んだ。
「さあ、行こうか。ここを曲がれば俺達はバカ共と一緒に戦う黒麒麟と鳳凰だ。でも……そうさな、非日常に繰り出す前に言っておこうかな」
首を傾げる雛里は彼が何を言おうとしているのか予測出来ず。
秋斗は悪戯っぽく笑いながら、濁りの無い綺麗な漆黒の瞳を向けて、
「これまで死んでいった人の為に、これから殺してしまう人の為に、生き残る全ての人の為に、そして俺自身の為に……俺と一緒に世界を変えてくれ。この乱世が終わってもずーっとな」
己が想いを口にする。最後に、綺麗な笑顔に変わって、
「お前を愛してる、雛里」
ただの秋斗としての想いの欠片をそっと渡した。
一瞬の硬直の後、顔を赤くして目に涙を溜めた雛里はコクコクと何度も頷いた。
まだ伝えられないのなら、先に自分だけもう一度伝えてやろうという秋斗の悪戯に、
――私も、あなたの事を愛しています。秋斗さん。
心の内で返していた。
ゆっくりと秋斗は背を向ける。ぎゅっと目を瞑って抱きつきたい衝動を堪えながら、雛里は後ろを着いて行く。
整列する徐晃隊の前に立った二人は幸せに満ちていた。その穏やかな雰囲気に、徐晃隊の面々からは息が漏れ出る。
彼らは最も長く付き従ってきたモノ達であるが故に察していた。漸く、御大将は自分から幸せになろうとしているのだと。
副長と十数名、最古の徐晃隊の者達は特にその違いを感じていた。在りし日の、幽州で初めに出会った優しい男に戻れたのだと。
静かに礼を取る副長の横に並んだ時、繋がった絆から来る偶然であるのか、二人は同時に目を瞑る。
後に、開いた目には凍えるような冷たさを宿しており、彼らは既に切り替わっていた。ピシリと張りつめた空気に、彼らを見やる全ての者達も意識を切り替えて行く。
「これより袁紹軍撃退の為の行動を開始する。いつも通り心に刻め、俺達の想いを!
乱世に華を! 世に平穏を!」
『乱世に華を! 世に平穏を!』
夕暮れの橙が照らすその場には、黒麒麟と鳳凰しか居らず。
まほろばでの出来事のような一時を心の中にしまって、二人は人々が願う平穏の為の化け物となり、住処たる戦場へ向かって行く。
後書き
読んで頂きありがとうございます。
二人とも生殺しなお話。
感情を抑えられなかったのは主人公がこれからしようと思っている事が大きいです。
華琳様が何をすると予想して、彼が何をしようとしているのかは後ほど。
雛里ちゃんはちょっと黒いですよー。
最初のは主人公のモノローグです。
恋愛シーンは難しいですね。
主人公、雛里ちゃん、朱里ちゃんの狙いが何か考えて頂ければ嬉しいです。
ではまた
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