盃
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第四章
第四章
「俺が決めていいですね」
「決めてみせろ」
杉浦を見据えたままで中西を見てはいない。
「そのバットでな」
「わかりました。それじゃあ」
「来たぞ」
南海ナインが動いた。その中心には杉浦がいる。
「開戦だ。行けっ」
「はい」
「勝って来ます」
「一つだけ言っておく」
三原は戦場に向かう己の兵達に対してまた告げた。
「わし等の戦いはここで終わりじゃない」
「ここでですか」
「巨人だ」
腕を固く組んでの一言だった。
「また巨人を破る。いいな」
「ええ、わかってますよ」
「またあいつ等を」
彼等の言葉も引き締まった。
「潰してやらないといけませんからね」
「俺達のこの手で」
「だからこの戦いにも必ず勝つ」
選手を鼓舞する為の言葉だったがそれ以上に暗示をかけていた。その言葉こそまさに魔術であった。選手の心を戦場に向ける言葉だったからだ。
「必ずな」
まずは南海の先攻だった。それは瞬く間に終わり西鉄の番になった。マウンドにいるのはやはり杉浦だった。三原はその杉浦を見てまた言うのだった。
「今日は打てるな」
「打てますか」
「ああ、見てみろ」
コーチ達とナインに対して杉浦を見るように言った。
「どう思う?」
「そうですね」
ピッチングコーチが最初に応えた。
「動きが弱いですね。疲れですか」
「そう、疲れだ」
三原はそこを指摘した。
「今の杉浦は疲れている。それもかなりな」
「昨日の完封ですか」
「それもある」
だがそれだけではないと。言葉の中に添えていた。
「この一年あいつは投げ続けたな」
「はい」
「うちの稲尾と同じだ。しかしだ」
三原はここで付け加えたのだった。
「あいつは愛知に生まれて東京の大学にいた。稲尾はずっと九州にいた」
ここに大きな違いがあった。
「稲尾はずっと九州の暑さに馴れている。だから暑さにも平気だ」
「杉浦はそうではないと」
「大阪は暑い」
その暑さは三原も知っていた。後に彼は近鉄の監督に就任するがそこでもその暑さを実感することになる。
「杉浦には堪えるだろうな。特に馴れないうちはな」
「それですか」
「だから夏は恐い」
三原は言うのだった。
「乗り切っても疲れが残る。秋になろうとも」
「その疲れが杉浦にも残っていますか」
「人間だからな」
冷徹なまでの言葉が出される。それはまるでこれからの彼がどうなるかを見越しているかのようだった。だが三原の言葉はそれで終わりではなかった。
「そしてここに来た」
「九州。平和台にですか」
「わざわざここまでな。それだけで相当な体力を消耗するな」
「それでは今の杉浦は」
「昨日の完封も大きい。今までの杉浦ではないな」
それを聞いたナイン達の顔が晴れやかになる。今までの杉浦はどうしても打てなかった。ストレートの他はカーブとシュートしかないのがわかっていてもだ。そのカーブとシュート、支えるコントロールが抜群だったからだ。だから打てなかったのだ。
「そしてうちの打線は強い」
次に自分が鍛え上げ作り上げた打線を出した。当時の西鉄は文句なしに強力な打線であった。流線型打線は球界でも屈指の強さを誇っていたのだ。
「攻略は可能だ」
「わかりました。それでは」
「一気に攻めます」
「勢いだけは殺すな」
三原はまた選手達に告げた。
「一気に決めろ。いいな」
「はい!」
今マウンドの杉浦を見据える。杉浦は毅然として立っていた。表情からは何も読み取れない。しかしその身体からは疲労が見えた。微かにではあるがその微かに見えるものこそがあまりにも大きいのだった。
二番の小渕泰輔が内野安打で出た。これがはじまりだった。
「内野安打か」
「打ち取ったのにな」
南海ファン達はこの勝負は杉浦の勝ちだと断定した。彼等は杉浦を超人だと確信していた。しかしこれに危惧を抱く者が南海にも二人いた。
「まずいな」
「まずいで」
言葉が出された場所はそれぞれ違っていたが。監督である山本よキャッチャーである野村克也がそれぞれ今の内野安打を見て呟いた。彼等は杉浦が疲労の限界にあるのを見て取っていたのだ。
野村は山本の方を見た。危機を彼に目で伝えたのだ。
「監督、ノムが」
コーチの一人にもそれは伝わった。野村の仇名を口にして山本に伝える。
「あかんって言うてますで」
「ああ」
山本は腕を組み口を真一文字にしていた。彼にもそれは伝わっていたのだ。
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