盃
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第三章
第三章
そうして杉浦の番になった。彼はまずはじっと山本の顔を見た。自分と同じ顔をしているのがはっきりとわかった。戦場に赴く顔であった。
「スギ」
山本は彼に声をかけた。
「わかっとるな」
杉浦は彼の言葉に無言で頷く。それで充分であった。
頷いた彼の手にする盃に酒が注がれる。そうしてそれを飲む。彼もまた意を決したのであった。
南海ナインは今戦場に向かう。誰もが無言だった。しかしそこにははっきりとわかる闘志があった。だが。戦場はそれだけではないのだ。
「来たか」
三原は三塁側ベンチに姿を現わした山本と杉浦、そして南海ナインを見て一言呟いた。
「この戦いで全てが決まるな」
「はい」
コーチの一人が彼の言葉に頷く。
「決戦の時ですね」
「巨人と戦う前のな」
三原は絶対に勝つつもりだった。だからこその言葉だった。
「決戦だ。こっちも覚悟はできているな」
「はい」
ベンチから一斉に声が返ってきた。まるで野武士の彷徨の様な声が。
「何時でもいけます」
「監督、いよいよですね」
「いいか」
三原は彼等の方を見ずに言った。
「この戦いが全てだ。全てここで決まる」
「ええ」
「だから俺達も」
「その意気だ。しかしだ」
ここではじめて首を動かした。稲尾を見た。
「御前はまだ出さないぞ」
「まだですか」
「カードには切り方がある」
稲尾に対してそう告げるのだった。
「今はな。だからだ」
「今日はわしは投げない」
「それは言わん」
あえて言わないとした。
「まだだ。わかったな」
「わかりました。けれど監督」
「向こうのことはわかってる」
三原はまた三塁側ベンチに顔を見て言った。そこには彼がいた。
「昨日投げて。今日も投げるな」
「ですね」
コーチ達もそれに応える。そこには杉浦がいる。
既に昨日の戦いで先発を務めていた。十回を一人で投げ抜いている。昨日は彼の力投の前に西鉄の流線型打線は沈黙した。しかし南海打線も沈黙し双方点を入れられなかったのだ。延長戦までもつれ込みながら引き分けに終わったのである。
「凄いピッチャーだ。間違いなく歴史に残る」
三原は杉浦を見て呟いた。
「どれを取っても最高の水準にある。あの杉浦がいてこそ南海はここまで来た」
「ええ」
「それはこちらも同じ」
また稲尾を見た。
「柱になるエースがいてこそ野球になる。柱があってこそな」
「柱ですか」
「その柱をどうするかだ」
また三塁側にいる杉浦を見た。
「いいか」
そのうえで自分達の選手に声をかけた。
「杉浦は確かに凄い。だが人間だ」
「人間ですか」
「御前達と同じ人間だ。それを忘れるな」
「化け物じゃないんですね」
「何度でも言う」
三原の言葉は毅然としていた。さながら戦場で全軍を鼓舞する将軍のようであった。彼もまたビルマでの戦いを生き抜いてきて選手獲得等で裏の世界の人間達と渡り合ってきた。策士だけではないのだ。恐ろしいまでの人間としての凄みもまた併せ持っていた。
「あいつも人間だ。わかったな」
「わかりました」
「じゃあ監督」
主砲の一人中西が出て来た。あまり大きくはない身体だが異様なまでの威圧感がそこにはあった。それは主砲のみが持てるものであった。
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