渦巻く滄海 紅き空 【上】
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二十四 対面
ズザッと砂利の擦れる音が微かにする。だがその音は、遅れて響いたけたたましい音によって完全に打ち消された。轟音は室内に反響するだけじゃ飽き足らず、床を通して香燐の身体にもその衝撃の強さを伝えて来る。
音の発信源は瓦礫を派手に撒き散らし、吹き飛んだ男が原因だった。壁に激突し、大きく呻く。顔を歪める彼をナルトは冷やかに見下ろした。
「八ヵ所、外したか…」
しなやかな身のこなしで神農から離れる。間合いから既に脱したナルトはくるりと踵を返した。
己の身に何が起きたのか把握出来ず、暫し呆然とする神農。未だに尾を引いているのか、【柔拳】の余韻が彼の全身にいつまでも残っていた。
不意に「やはり俄か暗記じゃ本家には敵わないな」と、舌打ち混じりにナルトが呟く。その一言で正気に戻った神農は、ようやっと口を開いた。上擦った声を上げる。
「き、貴様は…日向一族か!?」
「…言っただろう?本家には敵わないって。白眼なんて持ってないからね」
崩れた瓦礫を押し退け、神農は起き上がった。ナルトは振り向かない。それを好機と考え、拳に力を込める。紫の渦は徐々にその姿を変えてゆき、円球へと変形した。
【超活性拳】を繰り出そうと神農が身構えても、ナルトは後ろに視線すら寄越さない。その無防備同然の小柄な背中目掛け、腕を振り上げる。
瞬間、振り返ることなく、ナルトは口元に微笑を湛えた。
「だがまあ…今回は、それで充分」
ぱぁんッと弾け飛ぶ。拳から掻き消えた円球を神農は愕然と見つめた。目を疑うと同時に、全身を駆け抜ける激痛。
とても立っていられなくなり、神農はガクンッと床に膝をつく。脂汗を額に滲ませながら彼はゆっくり顔を上げた。空中に漂う紫紺の火花を透かして、ナルトを睨みつける。
日向一族でないのなら、なぜ点穴を突けたのか。そう訴える鋭い瞳をナルトは静かに見返した。
チャクラの流れを止めたり増幅させたり、といったチャクラ調節。それを可能にするためには経絡系上にある点穴を正確に突かねばならない。日向一族の『白眼』がないと難しいだろう。
(ハッタリか…)
内心冷や汗を掻きながらも、神農は立ち上がった。深く息を吐いて気を静める。そしてぐいっと肩を聳やかすと、ふてぶてしい面構えで口を開いた。
「ふん…。この世に渦巻く心の闇は腐るほどある。特にあの病気のガキが手中にある限り、わしは無敵だ。今すぐ【活性の術】で…ッ」
「止めておいたほうがいい」
言葉を遮る。やはり振り向かないままそう言うナルトに、神農は眉根を寄せた。本気で警告している彼の声音に苛立ちが募る。
「嘘をつくなら相手を選ぶんだな。わしは仮にも世界を渡り歩いた医師だぞ?日向一族でなければ点穴を見る事すら出来ないなどお見通しだ。出任せを言うな!」
居丈高にそう叫ぶと、下腹に力を入れる。闇のチャクラを纏おうと躍起になる彼を、ナルトはただじっと見つめていた。その眼差しがどこか憐れんでいるように感じ、神農は益々いきり立つ。【肉体活性の術】における自然治癒。更に強靭な肉体へと変化しようと試みる。
「……ッ!!」
刹那、神農は顔を強張らせた。
先ほど以上の痛みが、全身、いや全神経の末端に至るまで駆け廻る。がくがくと揺れる膝に、乱れる呼吸。激しく波打つ心臓の音が彼の耳朶を大きく打つ。あまりの激痛に、神農はその場に崩れ落ちた。
彼を警戒していた香燐がギクリと後ずさる。次に起こった出来事を目の当たりにし、彼女は慄然とした。
眼前に展開される悪夢の如き一場面。あまりにもおぞましい現象に、思わず目を覆う。
神農の、張りのあった瑞々しい肌。そこに刻まれる幾重もの皺に、深く落ち窪んだ双眸。ふさふさと波打っていた黒髪はごっそり抜け落ち、残ったのは僅かな白髪。露出した上半身は皺に覆われ、老醜を曝け出していた。
あの鍛え抜かれた若々しい肉体など見る影も無い。そこにいるのは醜く朽ち果てた、か弱い老人の姿。そして紛れもなく、神農の哀れな末路であった。
変わり果てた己の身体を、信じられないとばかりに見下ろす神農。力なく瞳を瞬かせ、何度も確認する。だが自身の体力の衰えがはっきりと彼に事実を突きつけていた。
「な、にをし…た……ッ?」
乾き切った唇から漏らした声すらも酷く擦れている。それが非常に歯痒く、神農はぐっと下唇を噛み締めた。翳んだ視野に浮かぶナルトの全身をはっきり捉えようと目を凝らす。
「だから言ったのに…」
辛うじて聞き取れたナルトの微かな声を耳にし、弱々しく顔を上げる。途端、波のように襲い来る吐き気。額に大粒の玉の汗を流して顔を歪める神農を、香燐はおそるおそる窺った。
チャクラが乱れている。それどころか完全に堰き止められている経絡系。点穴を突かれている証拠だ。
次いで彼女はナルトと神農、そして部屋の中央に視線を這わす。床の中心に施された円環を目にして、はっと息を呑んだ。
(まさか…。【表蓮華】も鋼糸も狙いは…ッ、)
ナルトに目を向ける。彼女の視線に気がついたナルトは笑みを返した。それが答えだった。
ナルトが最初に仕掛けたのは【表蓮華】。だがその狙いは神農ではなく、床に施された円環にあった。
闇のチャクラを己のチャクラに変換する。零尾から石盤へ、そして神農へチャクラを送り込む――媒介のようなモノ。
そのための術式が必ずどこかにあるはずだと彼は踏んでいた。そのため、床に施された如何にも妖しい円環を注視する。
案の定、神農が闇のチャクラをその身に纏うたび、円環の縁に刻まれた特殊な紋様が光り輝いていた。装飾に見せ掛けているそれら紋様は、その実、石盤と同じ術式の一部である。
神農が闇のチャクラを使うたびに光る円環の輝きを、ナルトは見過ごさなかった。そこまで解れば、如何に闇のチャクラを還元出来るかは考察するまでもない。精微な術式であるが故にどこか一部でも欠けたら、それはもう使い物にならなくなる。
神農に攻撃しているように見せ掛け、実際は床を執拗に傷つける。その手段の一つが【表蓮華】。神農のような巨体が高速落下すれば当然床は瓦解する。だがよほど頑丈なのか、円環には罅が入った程度。だから次の一手を考えた。
鋼糸で大理石の山を広間の中央に集結させる。さすれば例え山を崩されても床は瓦礫で傷つくだろう。飛び散った破片は、床に施されている円環に亀裂を走らせる。円環の術式は【表蓮華】の衝撃、それに大理石によってズレを生じた。
ナルトは最初から円環一点に集中攻撃していたのだ。
次に神農自身のチャクラの流れを乱す。そのための対策が【柔拳法・八卦―六十四掌】である。
経絡系や点穴を視界に捉えられる『白眼』。柔拳はその眼を持つ、日向一族のみに許された体術だ。だがそれは逆を言えば、経絡系や点穴の正確な位置を把握していればよいということ。特殊な眼がなくとも不可能ではない。勿論逆に相手のチャクラを急増させてしまう可能性もあるので、生半可な知識では扱えない。
この要塞に潜入した際、ナルトと香燐は隠し扉を見つけた。図書館のようにぎっしり書棚に並べられていた書物は、神農が世界中から掻き集めたもの。そしてナルトがあの時、目を通していた資料の内容は、人体にある点穴についてだった。
【活性拳】の円球が弾け、そしてまた神農自身の姿が変貌したのも、全てはチャクラ不足が原因である。
究極肉体を維持するには膨大なチャクラが必要不可欠。チャクラを枯渇することなく使い続けるには、よそから持ってくるしかない。だから神農は零尾を使い、闇のチャクラを自身のチャクラに変換していた。その役割を担う円環の術式が少しでも欠落すれば、当然チャクラの循環が狂い始める。
チャクラを大量に消費する神農と闇のチャクラを生み出す零尾は、言わば需要と供給の間柄である。だがナルトによってその均衡状態は崩されてしまった。
チャクラが乱れた事を知らずに、大量のチャクラを使おうとすれば神農の身体は変化に耐え切れない。既に究極肉体を維持するだけのチャクラが足りないからだ。
だから無理に【肉体活性の術】を使おうとした神農は衰弱した…―――自らの寿命を縮める結果になってしまったのだ。
究極肉体を持つ神農に通用しない【表蓮華】を繰り出したのも、無駄だと知りつつ大理石の山で押し潰そうとしたのも、全ては【八卦―六十四掌】に繋げるための伏線だったのである。もっとも正確に連打出来たのは五十六ヵ所で、八ヵ所は少し位置がズレてしまったようだが。
自身の身に起きた不可解な現象を、神農はようやく解明出来た。ナルトの思惑通り事が運んでしまった。その事実が非常に腹立たしい。
「まだだ…!」
僅かに残された体力を振り絞る。石柱を支えに、彼はよろよろと立ち上がった。無線機同様、なんらかの紋様を押すと、壁に埋め込まれた蓋が自動的に開く。その中にあるレバーに手を掛け、神農はにいっと口角を上げた。
「まだ、何も終わってはいない…ッ!!」
高らかに叫ぶ。同時に彼の足下がぱかりと口を開いた。突如として床の一部が抜けたのだ。
「ハーハハハハッ……」
落下しながら神農は哄笑する。その高笑いの反響は広間中に跳ね返り、やがて尾を曳いて消えていった。
ナルトと香燐が急いで駆け寄る。だが既に神農が落ちていった穴の扉はぴたりと塞がれ、普通の床に戻っていた。神農が消えていった地点を目の端に捉えつつ、香燐はナルトの様子を窺う。
「香燐。神農の居場所は解るか?」
足下を見下ろしながらナルトが訊いた。その言葉の意味を一瞬理解出来ず、香燐は彼の顔をまじまじと見つめた。返事が無いことに訝しんだのか視線を投げてきたナルトに、慌てて「あ、ああ」と答える。
「じゃあ、行こうか」
そう言うなり広間の出口へと向かうナルト。それを追い駆けながら、彼の背中に向かって香燐は尋ねた。
「何しに行くんだ?」
彼女の問いに、ナルトは肩越しに振り返った。そして微笑する。
「決着をつけに」
鉛のように重い手足を引き摺り、神農は要塞の中枢へ向かっていた。荒い息を吐き、空を仰ぐ。案の定追い駆けてきたナルトと香燐の姿に、彼はにやりと笑みを浮かべた。
「のこのこついて来おって…。この馬鹿者どもめ!!」
してやったり、といった表情をする神農。だが香燐は神農よりも、目前のソレから目が離せなかった。
数多の術式が施された石盤。その石盤に蜘蛛の糸の如く、何十本もの細い糸が絡みついている。その繋がれた先にある、巨大な繭。
…………ドクン……ドクン……ドクン……ドクン
そして、心臓の鼓動らしい音。
生命の音を確かに耳にした香燐は、呆然とソレを見上げ息を呑んだ。
半透明であるため、繭の中は透けて見える。さながら胎児のように丸まっているその何かは、先ほど香燐に憑依し、彼女の精神を脅かした――――零尾、そのものだった。
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