虹との約束
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第一部
第一章
体育祭
前書き
5月の運動会―中学時代、みなさんはいかがお過ごしだったでしょうか。
勝ち・負けがありますね。熱血もいれば、冷めたやつもいますね。
でも、みんな素直で、でも、頑固ですね。
そんな中での、ちょっとした青少年のハートの動きです
時は過ぎて、五月になった。
億劫な体育祭の練習が始まった。
これは悲運というものだろうか。祐二と真里は違う組だった。全校が四組に別れるので、考えて見ればほぼ当然のことだった。だが、優勝杯は一つだった。
けれど、祐二は手を抜くつもりなどなかった。いくら彼女が違う組でも、共に練習し、勝利を狙う仲間達に対して、それはあまりにも無礼なことだからだ。それに加えて、不正に与えた勝利など、真里は喜ぶはずがなかった。それは、一ヶ月間同じクラスで過ごしてきた、祐二の直感だった。
いよいよ、最初の練習日が訪れた。
「さて、もう体育祭まで一ヶ月を切った。授業も体育祭練習に変わる。」
体育の先生である坂原が厳格な口調で言った。いつもは温厚なのに、口調がはきはきしていて違和感があった。
なぜか、祐二は知っていた。校庭の日陰で、授業がない先生が練習を見ているのだ。体育祭練習とはそういうものだ。そうして、涼しげな場所から罵声を浴びせてくるのだ。
一つの行事を一ヶ月で完成させる以上、彼らが緊迫し、厳しくなるのは当然であると思った。だが、繊細で、且つ不安定な反抗期の精神を持つ祐二達にとって、それは苛立ちに過ぎなかった。楽しいバスケ試合が、一瞬のうちに軍隊の訓練のように豹変するのだ。
そうして、いよいよ行進練習が始まった。背の順に並べだの、幅はこれくらいにしろだの、果てしなく是正が繰り返された。天気は快晴。春の涼しさはもうぽかぽかした陽気へと変わっていった。足を振り上げ、入れ替え、列を整え・・・くだらないことなのに、いつしか祐二の額には汗が滲み始めていた。
その時だった。
ツッ
舌打ちの音がした。それはよくあることだったが、最大の問題は、近くに先生がいたことだった。
「おい。今誰か舌打ちしたろ。誰だよ。」
坂原先生が祐二を含む赤組を睨み付ける。雰囲気が凍り付いた。祐二は後方を睨んだ。明らかに後ろから聞こえた。たぶん、長浦だろう。ちょっと荒れた奴だった。
「ふざけてんなよ。お前らは一年生にウチの体育祭を見せなきゃいけないんだからな。」
先生がそう言うと、また行進が再開された。とりあえずほっとした。いくら温厚とはいえ、坂原先生はキレると怖いことで有名だった。
祐二は腕時計を見た。装着は禁止されていたが、祐二はそれを付けていると、束縛から逃れているような気分になって落ち着けた。いつのまにか時間が経って、あと十分になっていた。四十分間も行進練習をしていると思うと、気が滅入った。入れ替えや配置の設定のために、ほとんどの時間が荒怠なものだったが、だからといってその時間が祐二達の気を晴らすわけではなかった。
空を見ると、そこには青空がある。いつかの雨が嘘のようだった。
暑いな…拷問だろ…
祐二は心の中でつぶやいた。先ほど舌打ちをした生徒はかなり問題だ。先生にあれはまずい。けれど…
彼と、そうでない人々の差も、紙一重と言えた。
そんな日々が続いて、一週間が経った。体育祭もいよいよ目前に迫ってきて、合同練習や応援練習も始まろうとしていた。
体育祭練習の休み時間、祐二はクラスメートの直哉と話していた。
「面倒くさい。何か身体がぐだれて逆に疲れるよな。」
祐二は笑いながら言った。じりじりと夏も近付き、長期的な練習もピークを迎えている。気怠く、逃れようない疲れが溜まってきていた。
「言ってみれば、ぐだ疲れか。」
「そうそう。」
ぐだ疲れ。よい表現だった。さすが時期が時期だし、慣れても来たので、練習には本気で取り組んでいた。本気で走り、本気で応援し、本気で行進をした。
が、体育祭練習というのは、いささか空白の時間が多すぎる。
「お、黄組がまだ練習してるぞ。ソーラン節の練習だ。」
直哉が指さす。校庭の隅っこで、黄組が練習していた。そういえば、黄組は真里の組だ…
これほど離れているのに、自然と目を離してしまう。自分では実に馬鹿馬鹿しく思えるのに。だが、どうしても気になって、そっと上目遣いでまた黄組を眺める。
「どうしたんだよ?あ、あ、あ、あ。」
一連の動作を見た直哉が一人で興奮し始める。
「何だよ。」
慌てて聞き返す。直哉はこういうところでは侮れない奴だ。
「お前、黄組に何か思い入れがあるな。」
直哉が変なことを言い始めた。疲れ切っていたはずの顔に、好奇の表情が浮かんでいた。
「思い入れ?そんなものないよ。」
笑ってごまかす。思い入れまでいかなくても、多少意識している女性がいることは確かだ。
「はっはっはー。お前単純だからすぐわかる。意識だろ。気になる奴でもいんのか。おら、タイプ教えろよ。タイプ!」
「そ、そんな奴いないよ!」
ズバリ見透かされてつい大声を出してしまう。ますます疑われそうだ。直哉の人間観察力にはつくづく驚かされる。それとも、彼の言うとおり祐二が単純なのか。
好きなんだな、真里が―
改めて思った。が、考えるだけでなんだか恥ずかしくなって、それを意識の外に追いやる。
「おーい。始めるぞー。」
坂原先生の声が聞こえる。このときほどその合図がありがたかったことはなかった。
夕方、祐二は河川敷の原っぱに寝転がっていた。祐二は何か考え事をするとき、決まってそうしていた。
どうして直哉は、あれほどまでにぴったりと当てられたのだろう。自分の気持ちは誰に対しても打ち明けてはいないし、この心の内にある気持ちが恋心なのかどうか、自分でもまだはっきり理解することはできなかった。
少し向こうに、身体を寄せ合うカップルがいた。ふと思う。もし、真里とああいう風に想い合えたら・・・
これが、恋…!?
祐二は思った。いつまでも彼女と一緒にいたいと思う。愛し合いたいと思う。他の女子とは違って、彼女が特別な存在に見える。彼女と話すだけで、なんだか衝動に駆られるような、幸せな気持ちにもなれる。
これが、恋なのか?
祐二は、今ひとつ自分の気持ちを整理することができなかった。
いよいよ、体育祭の日が訪れた。
校長の話も、開会宣言も終わり、あっという間に競技が始まった。
その日は曇りだった。天気予報は、曇り後雨。あまり適した天候ではなかったが、雨は夜からと報道されており、体育祭には影響がないとされた。
リレーが始まった。祐二の組は順調に勝ち進んでおり、二位まで昇進していた。一位である黄組を追い越そうと、応援団も鼓舞激励していた。
祐二に番が回ってきた。速度を速めながら走っていく。バトンが右手に触れた瞬間、全速力を出せるように待機していた。
まだか まだか
バトンが来ない。何を手こずっているのだろう。このままではラインを越えてしまう。
来ない 来ない
なぜだ。だが振り返ったらその分速度が落ちてしまう。
来いよ
黄組がバトン受け渡しを終え、走り抜けていく。
来いよ!
その時、やっと、バトンの感触が手に伝わってきた。間隙もなく、祐二は全速力で走り抜けた。力を振り絞って大地を駆けた。相手は黄組。真里の組だ。
だが、祐二は決意をしていた。その決意が、祐二の走力を二倍にも三倍にも高めた。
もう少しだ―
もう三十メートルほどだった。すぐ横に黄組選手がいる。
祐二は前を見た。黄組選手ではなく、眼前のゴールを見た。人は目先の物事ではなく、終着点を目指さなければ、勝利など手にはできないからだ。
その時だった。黄組選手の視線を、祐二は背後に感じた。
行ける!
祐二は風の如く走った。自信があった。勝てる。またそれは、油断へと繋がらない自信だった。
勝てる 勝てる 勝てる
祐二は頭の中で繰り返した。
とたん、黄組選手が視界から消えた。応援団の歓声が聞こえる。
勝った!
祐二は雄叫びをあげた。もっともそれは本当にあげていたのか、心の中であげただけなのかはわからない。だが、確実なこと。それは、祐二が、黄組の彼に、心で勝ったことだった。
次の走者にバトンを渡した。係に誘導されながら、得点ボードを見る。赤組と黄組は同点だ。そして走者を見る。どんどん黄組との距離が開いていく。
赤組は、最有力優勝候補となった。それは祐二の、揺るがぬ決意が生んだものだった。
赤組は他の組をどんどん抜かしていき、閉会式直前には最下位の組と百点差を生むに至った。祭典というのは夢の如くあっという間に終わってしまうもので、あれよあれよと閉会式になった。
無事赤組は優勝を収めた。応援団長が胴上げされ、宴のような解散会が行われた。戦った友と笑い合った。記念撮影もした。祐二はそれを楽しんだ。それは、至福のひとときだった。それは、勝者の特権だった。
だが、宴の高揚が終わり、教室に戻るとき、祐二はあるものを見た。
彼女の涙だ。
祐二は慰めてあげたいと思った。けれど、それは祐二にはできないことだった。すぐにでも近付いて、あの涙を拭き取ってあげたい。自分と同じように、笑顔を作ってあげたい。けれど、今彼女の方へ走っていくことは、決してできなかった。自分と彼女に、決して乗り越えることのできない、絶壁ができあがってしまった気がした。
勝利がこれほどまでに喜ばしいのは、その数倍の敗者がいるからなんだ・・・
祐二は思った。だが、その事実を受け入れることよりも遙かに、「大丈夫だよ、真里。」と言えないことの方が、祐二には苦だった。
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