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愛と哀しみのラストショー

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第一章


第一章

               愛と哀しみのラストショー
「馬鹿だね。泣くなよ」
 俺は笑ってそう言った。あいつはそれでも泣くのを止めなかった。
 波音が遠くから聞こえてくる。俺はこの時駅に一人でいた。そして去っていく電車を見送っていた。
 儚い思い出だった。一夏の。俺はこの夏恋に落ちてそして失恋した。ほんの一時の思い出だった。
 俺は生まれた時からここに住んでいる。海辺にある避暑地だ。湖もあってその側で暮らしている。多分ずっとここで暮らしていくことだろう。
 夏になればここは避暑にやって来た金持ちや観光客で賑わう。軽井沢みたいなものだ。俺の家もそうした金持ちや観光客を相手にして暮らしている。そしてあの時も俺は店で親の仕事を手伝っていた。
 夏休みがはじまったばかりで忙しくなってきた頃だった。俺は親に言われて店の前を掃除していた。その時目の前をあいつが通り掛かった。それがはじめてだった。
 白いワンピースに白い帽子を被っていた。その後ろに見える青い空が白い服によく合っていた。あいつはそこで明るく笑っていた。まだ日に焼けていない白い顔で。明るく笑っていた。
 その時はよくいる観光客の一人だと思った。夏になるとそうした格好の観光客で溢れ返る。だから一々そんなことに構ってはいられなかった。けれどその黒くて長い髪と大きな黒い瞳が印象的だった。まるで漫画に出て来るみたいな感じだったのをよく覚えている。
 それからニ三日経って俺は海にいた。連れと一緒にいい女を探していた。
「誰かいないかな」
 俺達はジーンズにシャツを着てサングラスをかけていた。ラフな格好で好みの女を探していた。
 見つけたら後は声をかけるだけだ。地元だから案内すると言ってそのまま仲良くなる。まあ地元に住んでいる特権だった。これで毎年いい思いもしている。
 それでこの日もいい思いをするつもりだった。けれどそこであいつにまた会った。
「あっ」
 あいつを見て思わず声を出しちまった。サングラスの向こうに白いワンピースの水着のあいつがいた。海辺でもあいつは白だった。
「どうかしたのかよ」
 連れは俺の声を聞いて声をかけてきた。
「急に声なんか出してよ」
「いや、何でもねえよ」
 俺は咄嗟に誤魔化した。
「ちょっとな」
「可愛い娘ちゃんでも見つけたのかよ」
「馬鹿、そんなんじゃねえよ」
 俺は怒ったような声を出してまた誤魔化した。
「じゃあ何なんだよ」
「何でもねえよ」
 そう言って海辺から立ち去った。けれどあの姿が余計に目に入った。その日はそれが忘れられなかった。寝るまで海辺でのことと店の前でのことが頭の中で浮かびっぱなしだった。
 次の日俺は店がはじまるまで湖の方へ行った。何か起きてもあの白い服が好きな女のことが忘れられなかったからだ。何かぼんやりとした気持ちでどうにもいたたまれなかったからだ。
 俺はそうした時や落ち込んだ時よく湖の方へ行った。そこへ行くと何か落ち着くのだ。そして落ち込んだ気持ちも幾分ましになるからだ。
 この時もそうだった。頭の中があの女のことで一杯でどうにもならない。そんな頭の中をましにしたかったのだ。俺は自転車で湖まで行った。
 そこは周りが森に包まれた静かな場所だ。岸辺には草が生い茂りボートも置かれている。ここでもとびきりのいい場所だ。観光客も殆ど来ない。だから俺は何かあったらいつもここに来る。誰にも邪魔されたくはなかったからだ。
 自転車から降りた。鍵だけ抜いてふらりと湖の方へ行く。岸の方へ行こうと思った。あそこが一番好きだからだ。
 まだ日差しも強くなかった。朝の露が草に残ってきらきらと輝いていた。蜘蛛の巣の糸も露で銀色に光ってこの時ばかりは綺麗だ。森からは虫の鳴き声が静かに聴こえてくる。俺はその声を聴きながら岸に向かって歩いていく。ボート乗り場のところまで行った。
 するとそこにあいつがいた。最初に会った時と同じ白いワンピースに白い幅の広い帽子を被っていた。俺に背を向けて湖の方を見ていた。髪が風に微かに揺れ動いていた。
「またあいつか」
 俺はそれを見て心の中で呟いた。
「これって何かの縁なのかな」
 そう思わざるを得なかった。これで会ったのは三度目だからだ。
 そして俺の心の中のもやもやとしたものはまた大きくなった。ここに来ればそれが晴れると思ったのにとんだ見当違いだった。けれど同時にどういうわけか笑いたくなるものがあった。
「なあ」
 俺は声をかけた。
「どうしたんだい、こんなところで」 
 あいつはそれに釣られて顔を俺の方に向けてきた。あの黒くて大きな目で俺を見ていた。
「こんな人気のない場所で」
「ちょっとね」
 あいつは俺の言葉に応えてうっすらと笑った。
「久し振りにここに来たから」
「久し振り?」
 俺はその言葉にふと興味を覚えた。
「前にもここに来たことがあったのかい?」
「ええ、子供の頃に」
 あいつは湖の方へ顔を戻して俺に言った。
「もう。殆ど覚えていないけれど」
「そうだったのか」
 旅行か避暑で来たのだろうと思った。ここに来る奴は皆そうだからだ。
「で、覚えている限りじゃどうなんだい?」
 俺は尋ねた。
「変わったかい?」
「いえ、全然」
 首を横に振ってそれを否定した。
「子供の頃だったから殆ど覚えていないけれど」
 そう断ったうえで言う。
「覚えているのと全然変わらないわ」
「まあそうだろうな」
 俺はその言葉に頷いた。
「ここはな。昔から全然変わっちゃいねえよ」
「そうなの」
「ペンションがあって喫茶店があって」
 俺は言った。
「海があって。そしてこの湖があってな」
 何も変わっちゃいない。俺が生まれた時からずっとこうした姿だ。夏は人が多いがそれでも静かな避暑地だ。
「何も変わりはしないさ。ずっとな」
「だからボートもあるのね」
「まあな」
 ボートも。昔からあった。
「そのままさ。ずっとな」
「そうみたいん。よかったわ」
「よかった?」
「久し振りにここに来たから」
 そしてまたこう言った。
「変わってなくて。嬉しいの」
「そうか」
 何かそう思うのが不思議に思えた。俺にとっちゃどうでもいいことだからだ。ここが変わっても変わらなくても家の商売が傾かなければそれでよかった。そうしたところは親父やお袋と同じ考えだった。
「今度ここに来る時は」
「今度は?」
「ううん、何でもないの」
 どういうわけかここでまた首を横に振った。その理由はこの時はわからなかった。それから徐々にわかってきたことだった。
 
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