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Cross Ballade

作者:SPIRIT
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第1部:学祭前
  第5話『迷走』

「伊藤君!」
 コンビニ近くで誠を見かけ、唯は駈け出した。

 しかし目の前で、世界が先に誠の腕に飛びつく。
「あ…………」
「これで、わかったでしょう?」
 唯の前に、短髪でボーイッシュ、長身の女子学生が現れる。
 唯はその子が、以前ムギの言っていた甘露寺七海であることに、すぐ気付いた。
「伊藤には、すでに西園寺世界っていう彼女がいるんですよ。無礼だとは思いますけど、貴方みたいなのにウロチョロされると、困るんですよね」
「そ、そ、それは……。で、でも……」
 見下ろされるような鋭い眼光に、唯はたじろいだ。
「伊藤に近づかないでくださいな」
 低い、ドスの効いた七海の声である。
 とても近づくのは無理。
 唯はそう感じて、すごすごと七海から離れた。
「あ……。別に落ち込まなくていいですよ。
伊藤にちょっかい出さなければそれでいいんですから。放課後ティータイムの演奏、楽しみにしてるって、世界言ってましたし」
 七海は唯に同情したのか、うって変わってねぎらいの言葉をかける。
 しかし、唯の耳に届くことはなかった。


「光、そっちのほうはどうだ?」
 七海は、同じく世界と誠を見張っていた光に声をかけた。
「桂が来たわよ」
 光は、ツインテールをイカリングのように留めた独特の髪を気にしつつ、答えた。
「案の定、来たか」
「あいつ、全然読めてないわね、今の状況。『西園寺さんは誠君の彼女ではないです。誠君の彼女は私です。』なんて言ってるし」
「ったく……まあ、中学時代からムカつく奴だったけどさ、桂の奴」
「しっかし、世界の頼みとはいえ、何で私が伊藤のお守をしないといけないのかしら」
 光がため息をつくと、七海はニッコリ笑顔を浮かべ、
「何言ってんだよ。世界がそれで幸せならば、それでいいじゃないか」
「そう……」光はいささか不満げの様子で、「平沢って子のほうは、来た?」
「来たよ。私が止めに入ったら、すぐにがっくりして行っちゃったけど。さすがにちょっと可哀そうだったな」


 誠は、刹那の視線を感じ取った。
「……」
「どうしたの、誠?」
 世界が気づいて、眉をひそめる。
「いや……清浦も、甘露寺も、黒田も、さっきから俺たちにまとわりついて、なにやってるのやら……」
「私たちの仲が気になるんでしょう。みんな友達思いだから」
 素知らぬ顔で世界は答える。実を言うと彼女自身が頼んだのだが。
 唯や言葉が、誠に近づかないようにと。
「あれから見かけなくなったな……。言葉も、平沢さんも」

 世界は疑惑の目を彼に向け、
「……誠の彼女、私じゃないの?」
「え……? あ、ああ。」
「あの2人がいると、不安になるの」
「そ、そうか……ごめん…………」
 例のコンビニにつくと、いつもの光景が見える。
 右手に雑誌や漫画がおいてあって、左手に豆板醤チキンやポテトの入ったヒーターが置かれていて……。
 でも、どこか物足りなく感じるようになったのは、なぜだろう。
 誠は世界から離れ、漫画雑誌を読んでみる。
 いつもこうして読んでいると、
「伊藤くーん!」
 平沢さんの声が聞こえてきていた。
 世界が言葉や平沢さんを警戒するようになってから、そういうことが全くなくなってしまった。
 俺の彼女は世界。
 それは分かっている。
 でも、どこか物足りない。平沢さんに会えなくなってからは特に。


 自分が榊野学園に入学して、このコンビニに通うようになってから、たまに見かけるようになったな。
 世界や泰介とつるんでいるとき、あの子もよくコンビニにいて、よく漫画を読んでいた。
 ギターケースを肩にかけて、友達や後輩と笑っていたものだった。
 理由はわからないけど、いつの間にやら、それが気になっていて・・・。
 こうして漫画を読んでいると、また
「伊藤くーん!」
 と呼んでくれるような気がした。


「誠!!」
 はきはきした声で、誠は我に帰る。
「わ! あー、びっくりした、世界か……」
「びっくりしたはないでしょ。」
 世界は疑り深い目でにらむ。
「いや、夢中になってたから……すまん。でもいい時期なんだぜ、『ワンピーク』。人魚島で麦わら一味が集結して、元・秩父会のドンベエと一緒に悪党どもに大反撃ということになって……」
 ごまかして漫画の話をする。世界はきょとんとしながらも、表情を和らげ、
「そういえばそうね。いいところいってるかも」
「『ナルコ』はどうなってるかな。世界は好きなんだろ」
「まあね。ナルコとサスケが敵城侵入のあたりまでいったかな。火影になることを目前に控えて。」
「そう言えば、言葉は『金魂』が好きだそうだな……」
 お互いにくすくす笑いあって、
「私もちょっとびっくりしたなあ…あんな清楚な子が金魂ねえ……」
「SF時代劇なんて言ってる割に、下ネタばかりが多いからなあ、あの漫画……」
 けたけた笑う誠だが、なぜか、心の奥底から笑えなかった。
 携帯が気になった。
 世界の頼みで、言葉と唯の携帯が着信拒否になっている。
 平沢さんとは一度として、メール交換も電話もできなかったな……。
 なんでこうなるのやら……。


 そんな日々が、一週間ほど続いた。
 今日も、学校の勉強も学祭の会議も耳に入らず、誠は帰宅した。
 世界もついていっている。
「最近だけど、いつもボーっとしてるね、誠……」
「まさか、そんなことねえよ」
 誠は懸命にはぐらかす。

「誰かほかの女の子のこと、考えたりしてない? 桂さんや、平沢さんとか……」
「それはっ……!」
 図星であった。
「やっぱり! 誠、あの二人のことが!!」
「……それは……」
 そんなに、独占したいのだろうか、自分を。
「だから私には、嫌そうな顔をしてるんだ」
「違う! 俺は!……俺は……」
 理由は分からないが、焦りと、苛立ちがいつの間にやらグツグツ湧き上っていた。
「私はただ、誠のえっちの相手でしかないというの!?」
「そんなわけない!!」
 声をいつの間にやら荒げていた。
 そんなに自分が他の人を気にするのが、いやだというのか?
 自分だって迷ってるのに?
「わかったよ!! そんなにおまえが俺を独占したいのならっ……!!」
 このっ…!
 怒りで何も分からなくなっていた。
 勢いのままに、世界を押し倒していた。
「ちょ…ちょっと、やめてよ! 嫌!!」
「うるさいっ!!」
 バタバタ暴れ出す世界の手足も、やがて緩慢になってゆく。


 なんであんなことをしたのか。
 言葉や平沢さんに近付けなくなってイライラしていたのは確か。
 でも…でもなんで世界に八つ当たりしてしまったのか…。
 苛立ちのままに、事を7回ほど済ませ、やっと気が済んだ。
 眼に涙をにじませ、ふらりふらりと帰っていく世界の姿が目に浮かんだ。

「伊藤!」
 教室に入って最初に、光にどやされた。
「なんで世界に暴力振るうのよ!!」光に肩を掴まれて詰め寄られる。「世界今日、具合が悪いって休んでいるのよ!!」
「それは…悪いと思っているけど…」
 言い訳など、できるわけがなかった。

「伊藤、最近笑わなくなったね」
 誠の目を見つめ、隣にいた刹那は怒りというより、心配そうな声で言った。
「な、何言ってんだよ清浦、ほら、こうやって笑顔なんて簡単に…」
 ごまかすために、誠は口角をあげるが、心に空洞があって上手く上げられない。
「…笑えてない。目も笑ってない」素早く刹那は悟り、「私達が、桂さんや平沢さんを見はるようになってから、だよね」
「だ、だから違う!!」
 ごまかしても、刹那は既に多くを読み取ったようだ。
 怒り心頭の光の表情。刹那は思案顔になっていた。
「とにかく、学校終わったら、お見舞いに行くから」
 二人の顔から眼をそむけ、急いでトイレに向かった。
 トイレで一人になってから、錆びつきくすんだタイルに向かって、誠は拳をたたいた。
「くそ! くそ! くそーっ!!」


 昼の委員会活動。
 学級委員たちが向い合せに座り、弁当を食べながら学祭のテーマについて話し合っている。
 どしゃっ!
 急に大きな音がしたので、言葉はそちらを向く。

 自分のすぐそばで、パン屑が散らばっていた。
「桂さーん、パン屑がこぼれてるんだけどー」
 言葉は4人の女子学生に取り囲まれた。
「え? で、でも…私は今日は、和食ですし…」
「つべこべ言わないの! あんたの周りにこぼれてるんだから、あんたがひっくり返したんでしょ?」
 意図的にちぎってこぼしたかのような、無数のパン屑の前に突き飛ばされる。
 4人の剣幕に根負けし、言葉は黙ってパン屑を拾い始めた。
 そんな彼女を、その場に居合わせた刹那はじっと見つめ…。


 言葉を無視して、4人は再び学祭の話し合いを始めた。

「手伝おうか?」
 かがんでパン屑を拾う言葉に声がかかる。
 そちらのほうを向くと、刹那がいた。
「いいんですか? …ありがとうございます」
 言葉は頭を下げた。
 刹那は何も言わず、言葉の隣でパン屑を拾い始めた。
「ねえ」
「何ですか?」
「伊藤のことなんだけど…」
 話題にされたくない話。眉をひそめ、言葉は刹那を見つめる。
「私も世界の幼馴染だから、正直、貴方が伊藤にちょっかいをかけるのは嫌」
「ちょっかいなんかじゃありません。寝とったのは西園寺さんのほうでしょう?」
 息巻く言葉に、刹那は直接は答えず、
「でも、伊藤以外に頼れる人間がいるなら、頼ったほうがいいと思う。例えば、先生とか、家族とか」
「頼れる人間…」
「私が言えることはこれくらいだよ」
「…とはいっても、私の両親は共働きだし。 聞いてくれるかどうか…」
 それは本音であった。
 両親は大きな会社の社長と重役だが、共働きで忙しく、とても自分の悩みなんて聞いてやれるひまなどないのだ。
 妹はまだ純真で、男女の愛憎なんかわかりっこない。
 ならば…。
 まだあの人の腹の中は、わからないが…。
「私がアドバイスできるのは、これだけ」
 刹那はそれ以上何もいわず、パン屑と格闘を始めた。


 刹那が去った後、言葉は携帯電話の電話帳を開いてみる。
 そこには、桜ケ丘の秋山澪のアドレスが登録されていた。
 あの人、何で自分に親切にしてくれたんだろう…。
 ともあれ、もう自分だけでは誠に近づけないかもしれない…。
 ………
 言葉は、新規メール作成のボタンを押した。


 誠に近づけなくなってからというもの、唯のやる気は一気にダウンした。
 ひどく朝寝坊をして、1時間目の途中から教室に入る。先生の小言を聞き流して机に座り、あくびと居眠りばかりして授業に臨む。軽音部でも、いつもの、いや、いつもよりひどくのろのろして不機嫌に、ムギの紅茶と菓子を食べる。
「…唯先輩、あの時のやる気はどうしたんですか…」
 ギターをとった梓が、声をかける。
「何の話?」
 机に突っ伏しながら、低―いこえで唯は答えた。
「あれだけやる気満々だったじゃないですか。一生懸命に練習して、ライブに備えるんじゃなかったんですか?」
「もうどーでもいいよ…テキトーにやるから、私」
「お願いですから、恋のことよりライブのこと考えてくださいよ…みんなが大恥かいちゃうんですから。まったく、唯先輩も律先輩も、ライブより恋愛のナンパの考えていて困ったもんですよ…」
「おいー、」律が文句をあげて、「私だって少しはライブのこと考えているんだぜ、トークとかさあ」
「トークはあくまでも箸休めでしょうが」
「はあ…」澪はため息をつきながら、「気持ちはわかるけどさ、今はライブのことを考えようぜ、唯。伊藤って奴とは、学祭の日にきっと会えるだろうしさ」
 嫌な予感が的中したか。澪は心の底から思った。
「だって…見張られてるんだよ…近づけないんだよ…。電話とメールだって、通じないんだよ…」
「まあ、そのうち伊藤が一人になることもあるだろ。その時に近づけばいいじゃん」
 言ってから、ふと思った。
 桂は? 伊藤に近づけているのか?
「唯ちゃん、」続いてムギが声をかけてきた。「ねえ、もう少し頑張れない? 榊野の学祭が終わったら、みんなでケーキバイキングに行きましょうよ」
「ケーキバイキング!?」
 皆の目が、一瞬輝いた。
 唯を除いて。
「でも、いつにします? 榊野学祭当日は休日だから、今の時期だともう予約いっぱいだと思うけど…」
 と、梓。
「だいじょうぶ、私のお父さんに頼めば何とかしてくれるから。終わったらすぐバイキングに行きましょう」
 ムギは大企業の社長の娘で、様々なホテルや店にコネがある。これまでも、唯のギターを購入する時、修理する時、彼女の力で値段を大きくおまけしてもらっていた。
「…しかしね、ムギの力も今更ながら凄いもんだなあ」
 唖然としつつ、澪は答える。
 唯は…。
 今日のムギのケーキとお茶も、喉を通らなかった。
 なぜ誠に電話しても、メールしても、通じないのか。
 正直このことが、ケーキ以上に大きなものとして自分の頭の中に存在するのは、信じられなかった。
「ひょっとしたら榊野学祭、去年以上に有意義な思い出になると思うわよ。甘露寺さんに会って、ケーキを食べ放題で…」
 甘露寺、と聞いて、もはや唯は耐え切れなくなり、
「…ごめん、帰る」
「え?ちょっと、唯、まだ練習の途中なんだよ」
「やる気にならないんだよ」
 唖然とする周りを無視して、唯は音楽室を後にした。


「唯先輩…困ったものですよ」
 唯の去った音楽室で、梓は一人、愚痴る。
「恋は盲目、だからね」
 ムギが苦笑いを浮かべながら、食器を回収していく。
 太陽は西に傾き、雲が空の多くを覆い隠していた。
「…初めてだな」
 澪の言葉に、皆はそちらを向く。
「唯の奴、伊藤と親しくなってから、いつもより思いっきり笑うようになって、そして今は、思いっきり不機嫌になってる…」
「澪、どういうことだ?」
「波がついてきたってことだよ。いつもダラダラしていたいつものあいつじゃない」
「それに、」口を挟んできたのは、さわ子。「苦しみは魂を強くさせるからねえ。恋愛をすると、時々すごく苦しんで、時々すごいハイテンションになるものよ。それを繰り返して人は大人になっていくもの」
「おいおい、」律はあきれ果て、「さわちゃんは101回振られている割に大人っぽくねえだろ。顧問のくせに全然仕切らないし、やたらと部員にコスプレ衣装着せたがるし」
「ほっといてよ。」
「まあ、そんなことはどうでもいいな。どうにか、ベストなコンセプトで学祭に臨めるといいんだがな…」
 澪は廊下を見ながら、つぶやいた。
「唯の奴、最近は遅刻ばっかりだしよ。恋の病ってこええもんだよ」
 律は頬杖をつきながら、クッキーをかじる。
「…まあ、お前と同じで、もともと真面目でないけどな。…いてて」
「どういう意味だ、こら」
 澪の耳を引っ張りながら、律はなじった。
「冗談だ、冗談」
 その時澪のポケットの中から、音のしない振動が伝わってきた。
 メールを開いてみる。
 差出人を見て、澪は目を見張った。
「桂…?」
「桂って、」律が横からメールを覗き込みながら、「以前唯に絡んできた、あいつ?」
「ああ。しっかし、『初めてメールいたします。桂言葉です。この間はありがとうございました。』なんて、ずいぶん礼儀正しいなあ」
「ちょっと正しすぎる気もするけどな。高校生とは思えん」
「まあ、いいじゃんか」澪はメールに目を通しながら、「清楚なお嬢さんなんだよ。私らと違ってさ」
「おいおい、『私ら』ってなあ…」
「『今までのいきさつ、すべて説明します。』って……」
 澪は目で言葉のメールを追っていく。律も横から携帯画面を見つめる。
 登下校の電車で、誠と一緒に居合わせることが多かったこと。
 世界の紹介で、誠と付き合うようになったこと。
 そして、言葉の異性恐怖症によるすれ違い。
 その間に、世界が誠と関係を持ち、そのまま彼女になってしまったこと…。
 返してといわれても断られてしまったこと…。
 詳しく書かれていた。
「…しかしね、」律が苦笑いを浮かべながら「『西園寺さんが誠君に突かれて…』って、どんだけ生々しいこと書いてんだこいつ」
 澪も顔を赤らめ、
「それだけ印象が深いってことだね。まあ、そんなところを見てしまえば、疑心暗鬼になるのも無理ないけどな」
 澪はすぐに、新規メール作成のボタンを押した。
「あの…澪先輩、」梓が不安げな表情で机を乗り出す。「あんまり深く関わると、面倒なことになると思いますよ」
「そうよ、澪ちゃん。よく言うじゃない。『人の恋路を邪魔する奴は、馬にけられてなんとやら』って」
 ムギも懸念の表情であるが、澪は無視して、次のような返信をした。
『好きだった恋人をとられて、すごいショックだったんだね。友人と話してもうまくいかなかったのか。思い切って、恋人に直接会ってみたらどうだ。本人から直接思いを聞くといいよ』
 太陽の半分が雲に隠れる。
「そういえば澪、桂のことになると目の色が変わるな…」
 夢中でメールを入力する澪を見つめながら、律は独りごちた。


 音楽室を飛び出し、トイレに入りこみ、唯は携帯電話を取り、誠に電話をしてみる。
『おかけになった電話番号は、電波の届かない所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』
 そのメッセージが、また届いた。
 三回繰り返した。
 何回やっても同じだった。
「どうして……どうしてなのよ……マコちゃん………!」
 気がつくと一心不乱に走り出していた。
 いつ校内を出たのかも、いつ校門を出たのかも、分からなかった。

 気がついたら、既に家の玄関にいた。
 無言で入っていく唯に、
「お姉ちゃん…?」
 憂の声がかかる。
 憂はリビングで、何か紙に書いていたようだ。
「憂…。今日は、早いね」
 憂もなぜか元気がなく、目がうつろになっている。
「お姉ちゃんこそ。部活はどうしたの?」
「ごめん…。やる気にならない」
「え、何故…?」
唖然とする憂に、唯は答えた。
「マコちゃんに会えない…マコちゃんが、私に返事してくれない…。
もうやる気、出ないよ」
 その後、一気に階段を駆け上がって自分の部屋に入り、ベッドの上に突っ伏した。
「…やっぱりお姉ちゃんには、伊藤さんが私以上に大切な人なんだね」
 ドア越しに呟く憂の声も、聞こえなかった。
 顔を伏せているため、何も見えなかったが、誠の笑顔が視界によぎっていた。


「唯―! ごはんよー!!」
 母の声で、唯は我に返った。
 窓を見ると、日はもうとっくに暮れ、にび色の雲が空全体を覆う中で、傘を被った満月が顔をのぞかせていた。
 うつ伏せになっている間に、寝てしまったらしい。
 蒲団が少し濡れているのが気になった。
 一つあくびをしてから、唯は部屋を出た。
「あれ、お母さん、早いね」
「仕事が早く終わってね。今日はお父さんも来てるわよ」
「本当に?」
 唯の両親が仕事から帰って来て、今日は家族4人で夕食ということに。久々に家族だんらんができそうだ。
 唯も気分転換にと思い、部屋着に着替えて、テーブルに座る。
「おえっ!」
「ま、まずい…」
 しかし、その日の料理は、これまでにない位まずかった。
 唯だけではなく、両親までもがそう感じた…。
「…え…そう…?」
 晩御飯を作った憂が、ぼんやりした表情で、ぼそりと答える。
「憂…砂糖と塩、間違えてる…」
 渋い顔をして、唯が言った。
 ぼんやりした表情でかたまった憂だったが、やがて、
「ご、ごめんなさい! …ごめんなさい…作り直すわ」
 あわてて台所へ戻る。
「どうしちゃったのかしら、憂…いつもはこんな失敗しないのに」
 不思議がる母の隣で、唯は憂を見つめて、言った。
「そう言えば憂、少し痩せたね…」
 ふと、憂のポケットから、小さな紙切れがはらりと落ちる。
 唯はさっと拾って、中身を見て思わず…
 息をのんだ。
 そこには
『伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね』
 と、百辺ほど繰り返し書かれていた。


 無数の白い電燈が、ぼんやりと道を照らし、そこに秋雨が入りこんでいる。
 その横にある、年季の入った安アパート。
 そこが世界の家である。
 ぼんやりした思いを抱えつつ、誠はその前に来ていた。
「伊藤、何しに来た?」
 七海が、アパートの前にいる。刹那もいる。
「何って、世界のお見舞いだよ」
「いまさら謝っても、許してくれないとは思うけどな」
「…わかってるよ…」
 ゆっくりとアパートに入る。
 整理されている世界の家。彼女の部屋は玄関からすぐ右手。

 ノックをし、
「誠だ。あけてくれ」
「帰ってよ…」
「分かってる…昨日は俺が悪かった。世界の言葉に、つい腹を立ててしまって」
「もういいよ…ホント、帰ってってば…あの、ホント、桂さんのところにでも、平沢さんのところにでも、好きなところ行きなよ…」
「行けないよ…。俺は、世界が好きだから…」
 入れないのは理解していた。
 ドア越しに会話を続ける。
「ただ…、」誠は、少し黙ってから、口を開いた。「俺にも、ずっと忘れられない気持ちがあるんだ。消したいとは思ってるんだよ…。その気持ち、わかってくれないか?」
「…わからないよ…」
「忘れたいとは思ってる。でも、忘れられない…」本当は忘れたくない。忘れるべきことなのに。「世界だけを見ていたいとは、思っているけど…」
「……」
 あんなことをして、許してもらえないとは、分かっていた。でも、世界が一番好き、なはず。けれども、言葉や唯のことも、忘れられない。
「手土産、おいていくよ。ババロア。お前の好物なんだろ。世界の母さんと一緒に食べてくれ」
 手に提げてきた、おしゃれな黄色い鞄を一つおいて、誠は家を後にした。

 世界は部屋を出て、玄関を見てみた。
 そこには、誠が置いて行ったババロアの折詰がある。
 帰りにデパートで買ってきたものと思われる。包装を破り、一つ食べてみた。
「…おいしい…」
 それでも、誠の手作りのババロアには、劣る気がした。


 雨の中を去っていく誠を見ながら、刹那は呟くように言った。
「七海」
「ん?」
 刹那は、頭を少し下げて答える。
「私たちが桂さんや、平沢さんをマークするようになってから、伊藤、結構暗くなってる」
「おいおい、伊藤は世界の彼氏なんだぜ。他の子に目移りするあいつが悪いんだろうが」
 刹那は、七海に直接答えず、
「これは私個人の意見だから、七海は七海のやり方でやればいい。
ただ私、思うんだ。
桂さんや平沢さんを力づくで遠ざけても、伊藤の心は乱れるだけ。世界も不幸になってしまう。
伊藤自身が、最終的には好きな人を一人決めなきゃいけない気がするんだ」
 七海も思案顔になる。
「とはいえ、あのカイショウナシじゃあねえ…」
「それでも、伊藤の結論を待つしかないよ」
「だけどよ、もし桂や平沢さんを選んだとしたら?」
「伊藤が世界ではなく、あの二人のどちらかを選ぶのなら、仕方がないよ」


 マンションの周りには、いくつもの曲がりくねった電燈が、雨に打たれながらも、ぎらつく光を照らしている。
 誠はボーっとして蝙蝠傘の滴を落とし、マンションのエレベーターに乗った。
 雨がよく降る。
 泰介からも、最近暗くなったといわれるけど、それは満たされない思いがあるから。
 でもそれは、満たしてはいけない。
 しかし…そのことで、世界を深く傷つけてしまって…。
 言葉…はともかく、平沢さんのことは、忘れた方がいいのではなかろうか、でも…。

「誠君!」
 ぎょっとして顔を上げると、家の入口に言葉がいる。
「言葉…」
「えへへへ、来ちゃいました」
「どうして…」
「教員室で、3組の名簿を見て、住所を調べて」
 ほほえみを浮かべながら言葉は答えた。
「誠君の家、お母さんの帰りが遅いんですか?」
「ああ」
「うちと一緒です。うちも、帰りが遅かったり、帰ってこなかったり…。仕事ばっかりですよ」
 まさか自分の家に言葉が来るとは。
 ひょっとしたら、何度も電話やメールをしているのに自分が応じないから、怒っているのかもしれない。
「あの…誠君?」
「何?」
「あがっていって、いいですか…?」
「え…?」
「誠君の家に、来たかったんです」
「…」
 わざわざここまで来てくれたのに、追い返すわけにもいかなかった。電話やメールのことも、断れなかった自分がいけないのだから。
「…結構、部屋散らかってるけど、それでもいいなら」
「いえ。…では、お邪魔します…」


 誠は母との二人暮らしだが、母が看護師の仕事で帰りが遅かったり、夜勤で帰ってこなかったりしている。
 そのため、彼はほとんど独り暮らしに近い生活を送っていた。
 どちらかと言うと整理整頓は苦手なほうだが、誰が来ても恥ずかしくないように、休日には必ず掃除をする。
「きれいなところですね…」
 リビングで古い黒いソファーに座り、言葉はつぶやく。
「言葉のおうちと比べられると、厳しいけどね」
 誠はティーバックで紅茶を作り、紅茶を差し出した。
「はあ…おいしい」
「ふつうのお茶だよ」
「なんだか、思い出します」言葉はふと、遠い目をする。「屋上で食べたご飯、三人で仲良くご飯食べて、三人で笑って、三人で話して…」
 世界の仲介で、言葉と知り合ったころ。
 上手く話せない二人を世界がサポートし、何とか話を盛り上げていた。
 言葉とすれ違うこともなく、世界とも関係を持たなかった頃の話である。
「あの頃はよかったね、何もなく…」
「ねえ、私、レモネード持ってきたのを覚えていますか?」
「ああ、あれはおいしかったな」
「はい、あの時のレモネード、すごく温かかったです…。ほんとよかった…、最近、電話もメールも通じなくて…。ほんと怖かった……」
 誠は胸を突かれた。
 世界の強引な口調があったとはいえ、流されるままに着信拒否にしてしまったこと。世界には悪いとは思うものの、自分自身、それでは不満だったのを引きずっていたこと。
 やはり自分は、駄目だなと思った。

 紅茶を一口飲むと、言葉は真顔で誠を見つめ、
「誠君、逃げてるから…」
「逃げてる?」
「私が、やだって拒絶してから、ずっと…。だから、連れ戻しに来たんです」
「連れ戻しに、来た…?」
 言葉はそこで、顔を近づけ、
「誠君…私のこと、好きですか…?」
「へ?」
 誠はぽっと顔を赤らめた。
「いや、ずいぶん単刀直入な…どうして、んなことを」
「いいから答えてください」
 真剣な言葉のまなざしに、誠はつぶやくように、
「……好きだよ。でも、俺は…俺には…」
 言葉は、誠が次のセリフを言うのより早く、
「西園寺さんや、平沢さんとのことは許してあげます」
「え…」
「西園寺さんにされても、平沢さんに強引に引っ張られても…たとえあの二人が、誠君を返してくれなくても…」
「そうじゃなくて…俺は…」
「私も分かっています。西園寺さんや、平沢さんの気持ちも。二人を誠君が、気にしているということも」
「言葉…」
「だけど、私のほうがもっと好きですから。もっと、誠君になんでもしてあげられますから。…そのかわり、私のお願い、受け入れてくれますか?」
「お願い? 構わないけど」
「その…あの…」
 言葉は、顔を真っ赤にして、手を組む。
 と、突然、彼女がずいっと近づき、
「え…わ!」
 気がつくと誠は、黒いソファーの上に押し倒されていた。
 きゃしゃな体のどこに、こんな強い力があるのか。
「私の全て…受け入れてください。私もう、拒まないですから…怖がらないですから…」
 潤んだ目で言葉は、誠を見つめた。
「言葉…!?」
「だから…だから…」誠の肩をつかむ言葉の両手に、力が入る。「私と、本当の恋人になってください…」
「言葉…」
 胸がドキドキする。思わず言葉の頬に、右手を当てる。
「誠君…」
 思わず誠は、火照った顔を自覚しつつ、目を閉じ、言葉に顔を近づける。
 雨の降る音に木枯らしが加わり、ピオーと音がし始めた。


 その時、金属がこすれあう音が、ガララ、ガチャッと鳴った。
 誠はすぐに、母が帰ってきたものと察する。
 その勘が正しい証拠に「誠―、帰ってるのー?」と、玄関から間延びした声。
「母さんだ!」
 思わず自分の上に馬乗りになっている言葉を突き飛ばし、乱れた服を整えなおした。
 言葉も顔を赤らめて彼から離れ、制服を着直す。
「誠、帰ってるなら返事しなさい…あら、お友達? 何という名前?」
 リビングに母が、顔だけのぞかせる。

「あ、俺の友達の、」恋人、というには余りに恥ずかしかった。「桂言葉。しかし母さん、今日は早いな」
「彼女です」言葉が誠の声を遮るようにいい。「はじめまして、桂言葉です。勝手にお邪魔して申し訳ありません」
 頭を下げた。
「あらら、誠の母です。息子が大変お世話になってます」
「はい」

 二人とも以心伝心で気が合うと感じたらしい。たがいに満面の笑顔を浮かべている。
 ようやく誠も、心から頬が緩んだ。
「誠も隅におけないのね」母はニヤニヤしながら、「今日は本部から助っ人が来てくれてね、婦長もお母さんを気遣ってくれて、早めに帰れたのよ。そうだ、せっかくだから言葉さん、何か食べていかない?」
「あ…。ありがとうございます」
「母さん、俺も手伝おうか?」
 誠が腰を浮かせるが、
「いいのいいの。いつも誠には自炊させて申し訳ないと思ってたから。言葉さんとおしゃべりしてなさい」
 母は、奥の台所へ急いだ。

 再び、誠と言葉は2人きりになった。ソファーで隣り合わせに座っている。
「誠君…ありがとうございます」
「え?」
「誠君の本音、聞けましたから…。でも、誠君、西園寺さんや平沢さんに誘惑されて、いまどうかしてます」
「どう…なんなんだろうな…」
 正直、あの2人も好きなのである。
「やっぱり、勇気を出して来た甲斐はありました」
 言葉は携帯を取り出し、受信メールを開いた。
 誠はこっそりと、彼女のメールを横から見る。
 どうやら言葉は、この人の励ましでここに来たようであった。
 送信者は、秋山澪。
 知らない人である。


 3人で夕食を済ませた後、言葉を車で送り、誠と母は、帰途へ着いた。
 助手席に座っている誠は、下から上へと過ぎ去っていく電燈をぼんやりと眺める。
 ワイパーが激しく動いている。

「それにしても、貴方も隅におけないわねえ。あんなかわいい子を彼女にしていたなんて。
きっといいお嫁さんになるわよ。言葉さん」
 車を運転している母が、あっけらかんとした表情で話しかけてきた。
「…彼女、というわけじゃ、ないんだ…」
 重い声で、誠は答えた。
「そうかなあ、仲よさそうだったんだけど…」
「ち、違うんだ」誠は首を振って、言った。「嫌いではないし、気になってはいるんだけど」
「…どういうこと?」
「もともと俺が好きだったのは、違う人だったんだ。
だけど、二学期になってから、その人の紹介で、言葉と知り合った。言葉も嫌いではなかったし、もともと憧れていた子だったんだ」
「そう…」
「でも…でも、好きな人をあきらめることができなくて、その人のアタックを気が付いたら受け入れていて…。自分も、思いを告げていた」
「でも…貴方は言葉さんも好きなんでしょ?」
「そうだよ…。でも…その人はそれ以上に好きな人でもあるし、けど…最近はそうでもないんだ…」
 母は妙な顔になった。要領を得ない答え方に戸惑っているのだろう。

「俺の気になる人は、もう一人いて…、」誠は左手にある川を見つめながら、別の人の話をする。「その人は桜ケ丘高校の人で、軽音部をやっているんだ。
少し前に、あの人に、ちょっと強引に誘われて、一緒に登下校したり、喫茶店に行ったりしてた。
ちょっと天然だけど、すっごく笑顔が魅力的で、それにすごい癒されて…。
それは、さっき話した子や、言葉にはないもので…。
強引に誘われても気にしなくなったし、もっとそばにいてほしいと、思うようになっちゃって…。
最近なかなか会えなくなって、なんか俺、どうかしちゃったよ」
「………」
「正直、だれが好きなのか、もう分からないんだ。
誰が俺にとっての『1番』なのか……」

 しばらくお互いに、何も言わなかった。
 母も、何も言えなかったのかもしれない。
 車は、水かさの増した川を横切り、マンションやファミレスの林立する街並みを通過していく。
 夜空には何もない。月も見えない。
「くわしいことは母さん、よくわからないけれど、」母がやっと口を開いた。「じっくり決めていけばいいんじゃないの? まだ貴方は子供なんだし。時間はたっぷりあるんだし」
「でも、学祭まで、もうあまり時間がないから」
「学祭にこだわらなくてもいいじゃない。貴方の思い通りにすればいいことよ。マイペースで、じっくり頭と心で考えて、3人の中から1人選べば」
「マイペースか…。そうだな…」
 ふと誠は、車のサイドブレーキの隣にある母のかばんに、一枚の写真があるのを見つけた。
「母さん、それは…」
 自分が幼いころに撮ったと思われる、家族4人の写真。
 父と、母と、妹と、自分。
 なぜか父の顔が見えないように、トリミングが施してある。
 おもわずくっくっ笑って、
「親父の顔、わざわざ消したのか」
「ええ…」陰った表情で、母は答えた。「最近、また外で子を作ったって噂よ…」
「そうか。…ま、今となってはどうでもいいけどな…」
「いたるは気になるけどね」母は気丈な表情にもどし、「今も仕事の帰りに、お土産買ったりしてるけどね。いつも聞かれるわよ。『おにーちゃんはげんきー?』とか、『いつおにーちゃんのはんばーぐたべれるー?』とか」
「ははは、頼りにされて、うれしいような大変なような」
 誠は笑いながらも、すぐに表情を曇らせ、
「なあ母さん…俺も、親父と同じなのかな」
「え…?」
「俺もなんだかんだで、二股も三股もかけてる。言葉や、世界や、平沢さんを傷つけていて…」
 また、しばらく沈黙が流れた。
 車は、誠のマンションの駐車場にたどりついていた。
 車のタイヤが水たまりをけり上げる。
「…大丈夫、あなたはあの人と違って、相手を思いやれる優しい心があるから」
 そういわれると、胸がきりきりする気がした。
 いままで、自分は父と同じだと思っていたから…。
「思いやれる、優しい心、ね…」気がつくと目が熱くなり、鼻汁のグスグスいう音が聞こえていた。「あれだけ、人を傷つけているのに…。でも、ありがとう、母さん」
 携帯の電話帳を開く。
「言葉……。平沢さん……」
2人にかけていた、着信拒否を解除した。


 秋の天気は変わりやすい。
 その翌日、残暑とでもいうべき30℃の暑さと、快晴が戻ってきた。

「あ、マコちゃん!!」
 唯は軽音部の部室で、高い声をあげた。思わず周りがそちらを向く。
 唯の携帯に、誠からお詫びのメールが届いたのだ。
『平沢さん、メールの返事が遅れてすみません。
ちょっと携帯の調子が悪くてね。
俺は学祭の準備、頑張っています。
桜ケ丘のみんなや、平沢さんをしっかりでむかえたいし』
「ばんざーい!! 嫌われていなかったんだ!」
 両手をあげて喜ぶ唯。

 そんな彼女を、澪は目を細め、ただし心の一部に妙なしこりを抱えながら見つめていた。
 ふと、携帯から音のない振動が届く。メールが来たようだ。
 開いてみる。
「桂…。伊藤に会えたのか」
 澪の表情が、和らいだ。
『秋山さんに励まされて、勇気百倍になりました。
誠君も、私のこと好きだって言ってくれて…。
私、もう一度やり直してみようと思います。そして学祭で、いい思い出を作りたいです』
「桂…」
「でもよ」横から律が首を突っ込んでくる、「西園寺って奴や、唯のことはそいつ、なんて言ってたんだ?」
「いや…何も言ってない。となると、伊藤が一番好きな奴って、分からないな…」
 唯は、その事には気にも留めず、
「ばんざーい! ばんざーい! ばんざーい!」
 と三唱を繰り返す。


「澪先輩も、あの桂って人に会ってから、なんだか変わっちゃいましたね…」
 梓が横眼で見ながら、つぶやく。
「桂って奴が結構、澪の好みに合ってるんだろう。
これも一種の『恋』なんだろうさ。
好きな人に尽くすのは悪くないと思うぜ」
「恋っていうわけじゃないけどさ、というか私はレズじゃないぞ」澪は律を小突きながら、「でも、何となくほっとけない、助けたいようなはかなさが、何となく感じられたんだ」
 澪はそう言うと、練習のためベースを取り出す。
 唯もやる気が戻り、ギターでドレミファソラシドと弾いている。

「ま、あんなところだな。黙って見守るしかないな」
 律は呆れて肩をすくめる。
「ですけどね、ひっじょーに込み入ったところに二人とも、入っている気がするんですよ。
正直もう、あいつらとは関わりたくないですよ! 伊藤って奴とも、桂って人とも、他のみんなとも!!
どんどんややこしくなるばかりじゃないですか!!」
「…まあ、私たちはそれでもいいかもしれないけどね、
唯や澪はそうはいくまい。本気であいつらが気にかかるみたいだから」ため息をつきながら、律は言った。「まあとりあえず、あたしらはあたしらで頑張ろうぜ。
ライブを済ませてさ、逆ナンパをしてさ、うちらにふさわしい彼氏を作ってさ、チェリーを卒業してさ、キャンプファイヤーで踊ってさ。
いい思い出を作ろうぜ」
「そうね、学祭の後にはケーキバイキングもあるし。みんなでたくさん食べましょう」
 ムギもうなずく。
「ま、以前にも言ったよね。苦しみが人を成長させるって。私もできる限りあなたたちのサポートはするから、楽しんできなさい」
 さわ子も腕組みをしながら、穏やかに言った。
 梓は一人、呟いた。
「もう地獄めぐりの気分…私たち、ただで帰れないかも…」


そして、学祭の日……



続く
 
 

 
後書き
第1部『学祭前』はこれにて終結。
これから学祭に入り、平沢唯と伊藤誠、周りの人達の関係は佳境を迎えます。
とはいえ、唯も誠もちょっと勝手だなあ。
ここからぐっとそれぞれの目的に向かってぐっと立ちますけどね。

周りの人達の人間関係にも注目です。 
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