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ラ=トスカ

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第一幕その一


第一幕その一

           第一幕 聖タンドレア=デッラ=ヴァッレ教会
 ローマには多くの教会がある。その一つとして聖タンドレア=デッラ=ヴァッレ教会がある。俗にデッラ=ヴァッレ教会と呼ばれるこの教会はローマの教会の中でも特に有名なものの一つである。内部は高窓から差し込む黄金色の光で眩く照らされカルロ=マデルナの建てた巨大なドームがそれを覆っている。カルロ=ライナルディの造ったバロック様式の
ファザード、ランフランコ兄弟の楽園と聖アンドレアを描いたフラスコ画等多くの芸術作品で飾られている。その中にはまだ作成途中の絵画もある。そして礼拝堂も。
 長い歴史を誇る教会なだけはありローマの高名な貴族達の家それぞれの礼拝堂がある。どれもその権勢を誇示するかの様に豪奢な装飾が為されているがその一つにアンジェロッティ家のものがある。
 ローマ、いやイタリアでアンジェロッティ家をしらぬ者はいない。ローマで代々重要な役を担ってきた侯爵家でありハプスブルグ家やブルボン家とも繋がりがある。古い家の多いローマでも五本の指に入る名門でありその権勢と富はイタリアに知れ渡っている。同時に代々進歩的な人物を輩出していることでも有名でありことに当代の主チェーザレはフランス、それもジャコバン派の熱狂的な支持者であった。
 当初彼はさして急進的なでもなくどちらかと言えばオーストリア寄りの保守的な人物であった。オーストリアの外交官としてナポリやローマに赴任したことがある。この時フランスは革命の業火の中にあった。
 フランスの情勢を把握する為にアンジェロッティは派遣されたわけであるが彼はこの時のフランスを調べるうちに革命派に惹かれていった。
 そこでナポレオンという若者に出会ったのは彼にとって幸だったのか禍だったのか。幾度となくナポレオンと語り合ううちに彼はナポレオンの虜となってしまった。
 常にナポレオンの側にいるようになった彼をオーストリアは嫌うようになった。外交官を罷免され宮中への出入りも禁じられた。だが彼はそれを全く意に介さなかった。ナポレオンの第一次イタリア遠征に従軍しフランス軍がローマに入城しローマ共和国という傀儡国家を建てるとその領事となった。領事とはいえナポレオンの操り人形である事は誰の目からも明白であったがこの時彼の心は絶頂の中にあった。しかし運命の女神達は時として人に残酷な運命を与えるものである。アンジェロッティは神を信じてはいなかった。ましてや遠い北の人々に忘れ去られた神々なぞ知りもしなかったかもしれない。だが運命の女神達は実に皮肉屋であった。信じられない程奇妙な時の糸で彼を捕らえた。
 領事として各国の大使や外交官達を招いたパーティの会場でナポリより招かれたイギリス公使ハミルトン伯とその若い妻に会った時彼の顔は思わず凍りついた。
 ハミルトン伯の若い妻、エマ=ハミルトンと名乗る美しい女性、それはアンジェロッティがロンドンにオーストリアの外交官として派遣されていた頃よく通っていいた高級娼館の娼婦だったのだ。
 貧しい鍛冶屋の家に生まれた彼女は美貌に恵まれていた。当時日々の糧に困る女が就く仕事といえば真っ先に挙げられるものが娼婦であった。エマ=ハミルトンも例外ではなかった。だが美貌だけでなく頭も良かった彼女は裕福な貴族達を次々と篭絡し、遂にハミルトン伯の後妻となったのである。
 夫がナポリ公使に任命されるとその美貌と知性によりナポリ社交界、そして王妃マリア=カロリーネに気に入られ絶大な信頼と影響力を手に入れた。その二つは夫のそれを凌ぐ程であった。特に外交手腕は見事でありロイヤル=ネービーがナイルの海戦でフランス軍に対し勝利を収めたのも彼女の尽力でシチリアの制海権を得たことによるのが大きかった。
 その様に大きな力を持つ彼女が一つ恐れる事があった。それは娼婦として生きていたという自らの忌まわしい過去が暴かれる事であった。母国イギリスではナポリ公使を務める有力者の妻ということもありそれを完全に消してしまう事が出来た。ナポリではその様な事知るよしも無い。だが目の前に彼女の過去を、しかもそれを直接的に知る者がいたのである。
 彼女は怖れた。自らの過去が暴かれ事は彼女にとって今の栄華が崩れ去ることに他ならなかった。彼女にとってアンジェロッティという男は災厄そのものであった。
 
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