アンドレア=シェニエ
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第四幕その二
第四幕その二
しかし人々がそれに気付くまでに気の遠くなるような時間がかかった。それまでにどれだけの血が流れたか。だが神ならぬ身のシェニエはそこまではわからない。ただ危惧するだけであった。
「今日も眠れなかったな」
中庭はもう明るくなりだしている。夜が明けようとしていた。
彼は机に座っていた。その上には紙がある。
手にはペンがある。何か書きものをしていたようだ。
「もうすぐ終わるな」
それを見て満足気に微笑んだ。
「多分これが最後の詩になるだろう」
やがてペンを置いた。そして目を閉じた。106
「少し休むか」
休息に入った。中庭に誰かが姿を現わした。
「ここだね」
その男は顔中を髭で覆っていた。そしてサン=キュロットを着ている。ジャコバンのトリコロールだ。
「はい」
隣にいる案内役と思われる兵士が頷いた。
「よし」
髭の男はそれを聞き頷いた。そして懐から何かを取り出した。
「少ないがこれを」
それを兵士の手に渡した。
「有り難うございます」
「そのかわり少し時間を多めにね」
「わかっております」
兵士はその場を後にした。男は兵士が去ったのを見届けるとシェニエの牢に向かった。
「シェニエ」
そして彼に語り掛けた。
「ん!?」
彼はその言葉に目を開けた。そして鉄格子に顔を向けた。
「誰だい、君は」
その男の顔を見て怪訝な顔をして問うた。
「わからないか」
「残念だけれど」
ニヤリと笑う男に対してシェニエは首を傾げたままである。男は髭に手を当てた。
「これでわかるかな」
「あっ」
髭が外された。シェニエは彼の顔を見て思わず声をあげた。
「僕だよ」
それはルーシェであった。彼はシェニエに対し微笑んだ。
「ルーシェ、君は確か」
「途中までは逃げていたけれどね。引き返したんだ」
「何故だ、今このパリがどれだけ危険かわかっているだろう、ましてやこんなところにまで」
「それがわからないでここまで来ると思うかい?」
「・・・・・・いや」
シェニエは首を横に振った。
「君は聡明だ。それ位わかっている筈だ」
「いや、わかっていないのは君だ」
「そういうことだい?」
「聡明などということは人にとって全く不要なものだ。それが卑怯なものならばね」
「ルーシェ・・・・・・」
「シェニエ、僕は忘れてはいないよ、君との友情のことを」
彼等は若い頃より親友同士であった。そしてこの革命の中では苦楽を共にしていた。
「だから来たんだ。君との別れの為に」
「そうだったのか」
シェニエもようやく微笑んだ。
「有り難う、友よ。このことは死んでも忘れないよ」
「礼には及ばないさ。それよりも何か言い残すことはあるかい?良かったら他の人々にも伝えておくよ」
「遺言か」
「そういうことになるね」
ルーシェは表情を消した。やはり微笑んで言うことはできなかった。
「それなら」
シェニエは机に目を向けた。そこには先程まで書いていた詩がある。
机の前に進んだ。そしてそれが書かれた紙を手にする。
「これを」
そしてルーシェに手渡した。
「最後にまず読みたいのだけれど」
「いいとも」
ルーシェは頷いた。シェニエはそれを受けて口をゆっくりと開いた。
「ある五月の美しい日の様に」
彼は詩を朗しはじめた。
「それはそよ風に口づけと光の優しい愛撫を携えて、次第に大空に消えていくその陽の様に詩を司る女神の接吻と優しい愛撫と共に私は今私の人生の中で最も高貴なる頂を登っている」
ルーシェはそれを黙って聞いている。
「人の運命はそれぞれだ。私の運命は今終わろうとしている。おそらく私の詩の最後の一行が終わるよりも早く死神の鎌が私に死をもたらすだろう」
死という言葉を聞いたルーシェの顔が暗くなった。
「詩よ、私が愛した詩よ」
シェニエの声が強くなった。
「私にとって最後の詩の女神になってくれ。貴女に仕えるこの下僕に燃え上がる理想と不変なる情熱、この二つの炎をお与え下さい。そして私は貴方に捧げものをしましょう」
彼は顔を上げた。
「貴女が私の心に宿っている間にこの魂を。死に今向かおうとする男の最後の想いをこの詩に託して捧げましょう」
「シェニエ」
「ルーシェ、これで終わりだ」
シェニエはうっすらと微笑んだ。
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