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怨時空

作者:ミジンコ
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第三章 暗い過去

 恐怖に慄いた夜、桜庭は有無をいわせぬ泉美の力に抗しきれず、ふくよかな肉体に体
を埋めた。太った女に興奮する男の感覚は理解しかねるが、果たして、一瞬の悦楽にどれ
ほどの差があるのか判然としないまま、憮然と煙草をくゆらしていたものだ。
 結局、泉美は、香子を魔女にしたて、怯える振りをして桜庭にしな垂れかかり、桜庭
を強引に誘い込んだ。そして恐怖に打ち震える女を演じて、桜庭にも香子に対する恐怖を
感染させようとしたのではないのか。このように思えてならなかった。
 確かに泉美の狙いは、それなりの効果はあったのである。桜庭は香子に忙しくしばら
く会えないと電話したが、それは、香子に恐怖を感じたからに他ならない。近藤、そして
泉美と立て続けに、中条を殺したは香子だと言われれば不気味に思うのは当然である。
 しかし、禁断症状に陥った麻薬患者のように、桜庭の心には、いやもっと正確に言う
なら、自身の体内に、如何ともしがたい、じりじりとした焦燥とも渇望とも言えない何か
が蠢いていて、桜庭を苛立たせはじめた。
 そして、一週間を過ぎたところで、我慢の限界を超えたのだ。桜庭は震える手で香子
の携帯番号を押していたのである。携帯から香子のかすれたような声が響く。
「ずっと、ずっと、待ってた。お仕事だから絶対に邪魔してはいけないと思って、ずっと
我慢していたの。電話してくれてありがとう」
その声を聞いただけで、既に下半身はぱんぱんに張ってしまって痛いくらいだ。
「ご免、忙しくてどうしても連絡する暇もなかったんだ。今日、会える?」
「勿論よ、ずっと待ってたんですもの。ねえ、お料理作って待ってる。ねえ、何でも言っ
て。食べたいもの、何でも用意するから。肉、それとも魚、ねえ、何か言って、お願い」
桜庭の心には既に恐怖心の欠片も残っていない。愛おしさ、いや、欲望、いやいや、その
全てを含んだ熱情であろう。その熱情を前にしては、根拠のないあやふやな恐怖心など吹
き飛んでしまう。雌に食われると知ってか知らずか近付いてゆく雄カマキリのように。

 既に午前零時を過ぎている。胸の内ポケットが振動し、桜庭は相手に気付かれぬよう
携帯のスイッチを切ると、なみなみと注がれたビールを一気に飲み干した。山口先輩は、
桜庭のいつもの飲みっぷりの良さに驚嘆しつつ、ホステスの尻をまさぐっている。
 今を時めく山口に企画を持ち込めたのは、演劇部の先輩後輩のコネクションがあった
からだ。経営陣も桜庭に期待している。もし、失敗すれば期待された分、風当たりが強く
なるのは目に見えている。秘密にことを進めていたのだが、上司が会議の席でその場限り
の言い逃れのために、この件を上に漏らしてしまった。
 桜庭も必死にならざるを得ない。山口先輩は何だかんだと難癖をつけ、企画書を書き
換えさせるが、既に一月が経とうとしているにもかかわらず、一向に方向が定まらない。
既に最初の企画案など跡形もなく消えうせ、山口の思い込みばかりが一人歩きしている。
 そのくせ会議の後の接待では、2時3時まで馬鹿騒ぎを繰り返しているのだ。さすが
に切れそうになるのを何とか抑えて、桜庭は男芸者を演じ続けた。とはいえ、この山口も
陰に回れば演劇評論家の飯田先生に同じように努めていると思えば、社会の在り様はこん
なものかと妙に納得せざるを得ない。
 桜庭は何時開放されるのか分からず、接待用のお追従笑いを浮かべてはいるものの、
苛苛と時を過ごしていた。再び携帯が震えて、しかたなく、山口先輩に一礼してバーの外
に出た。
「もしもし、桜庭です」
香子の叫ぶ声が響いた。
「助けて、お願い助けて。怖いわ、桜庭さん、早く来て」
「おい、何があったんだ。いったい何が起きた」
「奥さんが、庭のいる。刃物を持っているみたい」
「馬鹿、それならちょうど良い。すぐに警察に電話しろ」
「もうしたわ。でもパトカーがまだ来ないのよ」
「子供はどうした」
「みんなで屋根裏部屋に隠れているの」
「そう言われても、今、大事な接待の真っ最中だ。抜け出すわけにはいかない」
「だって、今、貴方の奥さんがナイフみたいな物を持って、庭をうろついているのよ。私
たち親子が殺されかけているのよ。それより、接待が大事だと言うの」
そう言われれば断るわけにはいかない。分かったと言って電話を切った。ディレクターの
望月が今夜は徹夜だと言っていたのを思い出したのだ。すぐさま会社に電話を入れた。
「おい、望月、すぐにシャンテに来てくれ。三丁目のシャンテだ。どうせ、仕事は部下に
任せて遊んでいるんだろう」
「あれ、桜庭さん。今日は山口先生の接待じゃなかったの」
「その接待中だ。お袋が急病で病院に担ぎこまれた。俺はすぐに駆けつけなければならな
い。シャンテにいる山口先輩のお守りはお前に任す。頼んだぞ。繰り返すが、山口先輩に
は、俺のお袋が緊急入院したと言うんだ、分かったな」
桜庭は、山口先輩が売れていない頃、お袋が何かと面倒をみていたのを知っている。売れ
た今では、そんなことおくびにも出さず、知らん顔を決め込んでいる。そのお袋のことを
持ち出せば、急に帰ったと知っても怒らないと踏んだのだ。
 桜庭はその場でタクシーを拾った。バーに引き返せば、入院先を聞かれる。運転手に
一万円札を握らせ、狛江まで急がせた。さすがに零時を過ぎているものの、首都高に乗る
のまで思いのほか混んでおり、いらいらとして何度も時計に目をやった。

 タクシーを降りると、3台のパトカーの点滅するライトが桜庭の目に飛び込んできた。
ちょうど、泉美が警官に引かれて一台のパトカーに乗り込むところだった。桜庭は、泉美
に気付かれぬよう電柱の陰に隠れた。
 パトカーが去っても、隣近所の住人が鵜の目鷹の目で玄関のあたりを窺っている。城
島は煙草を取り出し、煙草に火をつけた。取り返しのつかない事態なら、警官が立ち去る
はずはない。香子も子供も無事だと確信した。次第に野次馬達も諦めてねぐらに戻り始め
た。
 桜庭がドアベルを押し、家の中に入ると、香子は玄関に立って待っていた。その腰に、
二人の子供が抱き付いている。桜庭の出現に、香子は子供の存在を忘れたようだ。一人、
飛ぶように桜庭に抱きついてきた。そしておいおいと泣いている。
 二人の子供はあっけにとられ、戸惑っている。桜庭は、微笑みかけ、そして手招きし
た。二人の子供も桜庭に抱き付いてきた。怖かったのであろう。「よしよし、もう心配な
い。おじさんが来たのだから」こう言うと子供はしゃくりあげながら泣き始めた。
 その日、子供達を寝かせつけ、二人は愛し合った。今までにない激しい抱擁だった。
香子は狂ったように桜庭を求め、桜庭はそれに応えた。異常な興奮が二人を包んでいる。
ライトの点滅がまだ二人の網膜から消えてはいなかったのだ。

 呼吸を整えながら、桜庭が言った。
「あいつは墓穴を掘った。刑事事件を起こせば、離婚には不利だ。たぶん」
「そうね、離婚届に判を押させるには良いチャンスかもしれない。嬉しい。これであなた
と一緒になれるかもしれない」
「ああ、明日、弁護士に相談してみるよ」
「ええ、そうして」
「ところで、二人とも可愛いじゃないか。確か上の子は小学4年生だったよね」
「ええ、香織っていうの。下の子はまだ3歳、詩織よ。二人とも可愛いの。女の子でよか
った。私、男の子は嫌い」
「しかし、子供って本当に可愛いな。詩織ちゃん、僕になついて、膝を離れようとしなか
った。子供達ともうまくやれそうだ」
「ええ、私もそう思うわ。ふふふふ」
しばらくして香子が聞いた。
「ところで、中条は、どんな学生だったの。大学時代のことは少しも話してくれなかった

「うん、いい奴だった」
こう言って、桜庭は目を閉じた。過去の厭な思い出に触れたくなかったのだ。びくびくし
て次の質問を待ったが、香子は黙っている。ふと、耳を澄ますとすーすーと寝息が聞こえ
た。桜庭も睡魔に襲われ、夢現のなか、あの事件の情景が浮かんでは消えた。

 共犯者の中条翔とは大学の演劇部で知り合った。桜庭がずぼらで大雑把な性格である
のに対し、中条は几帳面で神経質、どう考えても水と油だった。しかし不思議な縁で結ば
れていたのか、或いは互いに片親だという共通項があったからか二人は妙に気があった。
 大学の4年の夏休み、最後の公演も終わり、二人は九州に卒業旅行に出かけた。その
目的はナンパである。桜庭も中条もそちらの方は経験豊富だったが、今回の趣向はナンパ
した女性の数を競うというものであった。
 ルールは簡単だ。駅で降りると二手に分かれる。女性をゲットしたか否かは、ディナ
ーに同伴して互いに確認しあうという方法だ。肉体関係が出来れば、当然態度に出るし、
ディナーの後にホテルに行く場合もそれと分かる。
 成果は上々だった。何度も失敗はあったが、中条は一週間で三人、桜庭は5人の女を
ものにし、勝負は桜庭が勝ち、中条から10万円をもぎ取った。いずれにせよ、東京から
来た学生というフレーズが、九州の女性には魅力的に聞こえるらしい。
 最後は熊本の海辺のホテルに宿泊した。お互い、女に気を使うナンパに疲れ果ててい
たし、終いには数を稼ごうと、顔やスタイルなどお構いなしでナンパしたため、女に辟易
していた。ゆっくりと残りの休暇を過ごすことにしたのだ。
 久々に夜更かしもせずに寝たため、二人は朝早めに目覚め、海岸を散歩しようと部屋
を出た。エレベーターを降りるとラウンジには誰もいない。桜庭はソファにどっかりと腰
を落とすと新聞を広げた。中条はフロントのカウンター内に入って、中を物色していた。
 その時、自動ドアが開いて、一人の少女がおどおどしながらホテルに入ってきたのだ。
水玉のワンピースに運動靴を履いている。体は細く華奢なのだが胸はたわわに実っていた。
顔にはあどけなさが残っている。中条がようやく少女に気付き、少し躊躇していたようだ
が、カウンター越しに声を掛けた。
「やあ、おはよう。君も早目に起きちゃったの。ここに泊まっているんだろう」
少女はしばらく俯いていたが、小さな唇を動かした。蚊の鳴くような声だ。
「いいえ、家出して、歩き続けて、昨日、眠っていないんです」
予期せぬ返答に、中条はうろたえ、次ぎの言葉を捜していたのだが、なかなか思いつかな
い。桜庭が引き取った。煮え切らない女には高飛車に出るに限る。
「家はどこなんだ」
「八代です」
「お前、高校生だろう」
この言葉には有無を言わせぬ響きを込めた。少女は消え入るような声で答えた。
「えっ、ええ……」
桜庭は中学生だと踏んでいたのだが、それはこれから起こるかもしれない火遊びの言質を
取って置きたかっただけのことだ。これで、まさか中学生だとは思わなかった、という言
い訳が出来たことになる。
「後悔してるんだろう。家出したことは」
「はい……」
少女は俯いたまま答えた。恐らく、母親と喧嘩でもして家を飛び出してきたのだろう。そ
して今は、それを後悔している。そんな雰囲気だ。桜庭は電話番号を聞き出し、少女にキ
ー を渡すと、こう言った。
「家に電話しておいてやる。それに疲れているんだろう。俺達は散歩に行ってくるから部
屋で休んでいろ」
桜庭は出口に向かった。少女が深深と頭を下げた。
 海岸の波打ち際を歩いた。二人とも黙って歩き続けた。あの少女も、今までものにし
てきた女達と変わりはないはずだった。誰もが言葉で拒否しながら、下半身は濡れていた。
やってしまえばこっちのものだ。そんな思いが、この旅で得た二人の共通認識だった。
 それでも桜庭には躊躇があった。幼過ぎるのである。不安はそこにあった。中条は押
し黙り歩いていたが、突然立ち止まって振り返った。そして言った。
「本当に家に電話するのか。やっちまおうぜ、桜庭」
桜庭も立ち止まった。二人は見詰め合った。そして頷きあう。桜庭はくるりと踵を返し、
ホテルに向かった。暫く歩くとやはり迷いが生じ、桜庭は中条を振り返った。と、後に続
く中条の半パンの前がもっこりと膨らんでいる。もう後戻りは出来ないと思った。

 部屋の鍵は掛けられていなかった。二人はこそ泥のように部屋に入っていった。少女
はぐっすりと寝入っている。ワンピースの裾がまくれ白いパンティが剥き出しになってい
た。そしてその部分がもっこりと膨らんでいる。二人は思わず生唾を飲み込んだ。
二人は目で合図するとそっと近付いていった。桜庭がそっと耳打ちする。
「口説くといっても、こいつはまだ子供で、到底合意に持ち込むなんて無理だ。無理矢理
やっちまうしかない」
中条が血走った目で桜庭を見て大きく頷く。
「で、どうする」
桜庭が囁いた。
「お前は脚を押さえろ。脚をばたつかせられたんじゃ、たまったもんじゃない。先ず俺が
やる。いいな」
中条は「ああ」と返事したつもりだが、喉がからからに渇いて声には出なかった。
 桜庭はそっとベッドに這い上がり、いきなり少女の両手を掴んだ。同時に中条が脚を
押さえつける。少女がかっと目を見開いた。そして息を呑んだ。桜庭は一瞬微笑んで少女
の顔に唇を寄せた。
「止めてー、お願い、やめてー 」
少女の悲鳴に度肝を抜かれた桜庭は焦りに焦った。中条が声を振り絞る
「桜庭、手で口を押さえろ、手で押さえるんだ。隣に聞こえちまう」
桜庭は「黙れっ」と押し殺した声を発し、少女の唇を手で覆った。少女は顔を左右に振っ
て尚も声をあげようとする。と、中条が脚で蹴られて仰向けに倒れた。壁に頭を打ちつけ
た中条は、起き上がると少女の臀部を蹴りつけた。少女が苦悶の表情を浮かべ呻く。
 桜庭の手から唇がはずれた。少女が声を張り上げる。
「この、獣ー」
桜庭は、今度は「黙れっ」と声を出して言うと、拳で少女の頬を殴りつけた。一瞬、顔が
歪んで、少女の顔が横向きとなった。ふくよかな頬がゆらゆらと揺れている。桜庭の獣性
に火がついた。そして尚も殴り続けた。
「おい、やめろ、もういい」
中条の声に我に返った。桜庭は血だらけの少女の顎を掴みこう言い放った。
「おとなしくしろ、いいか、おとなしくするんだ。すぐに済む、ちょっとの我慢だ」
少女は体をだらりとさせ抵抗する気力を失っている。少女の頬に一滴涙が零れた。

 少女は泣き続けた。ベッドには少女の処女の痕跡が残されている。二人はさっさと用
をすませると、ここをどう切り抜けるかを思いあぐねていた。途中で合意をとりつけよう
と必死になったが、すべて徒労にに終わった。重く暗い現実がそこにあった。
 先ほどからため息を繰り返していた中条がおずおずと口を開いた。
「まさか、中学1年生だなんて思わなかった。君だって言ったじゃないか、高校生だって。
それに部屋で寝ていたってことは、誘いに乗ったってことだろう。大人の世界ではそれが
常識だ。いきなり暴れるからこっちも驚いちゃって……つい……」
桜庭がベッドから立ちあがりながら口添えした。
「そうだよ、男二人の部屋でパンツ丸出して寝ているんだもの、誘っているとしか思えな
かった。だから、最初に微笑みかけただろう。あれは、許してくれるんだね、仲良くしよ
うねっていう意味だったんだ。まさか暴れるなんて思わなかったんだ」
桜庭の言葉は少女の軽率さを非難するような響きがある。これを聞いて少女が泣きながら
抗議した。
「そんな言い訳、通りわけないじゃない。最初から二人して押さえつけていたじゃない。
それって、強姦でしょ。犯罪ってことよ」
二人は押し黙った。何をどう言い繕うと強姦に違いないのだ。この場を何事もなく収める
など神様でもできやしない。ではどうする。二人は口をつぐむしかなかった。頭を垂れ、
反省した振りをして謝るしかないのか。少女の涙声が二人を襲う。
「いい人だと思った。いい人にめぐり合ったと思った。お母さんに電話するって言ってく
れた。だから私は安心して寝ていたのに。それをいきなり襲うなんて最低よ。絶対に訴え
てやる。警察に訴えてやる」
中条の肩がぴくりと動いたかとおもうと、突然はいつくばり、土下座した。そして声を張
り上げた。
「申し訳ない。本当に申し訳なかった。この通り謝る。だから、警察沙汰だけは勘弁して
くれ。お願いだ。この通り謝る」
その変わり身の早さに、桜庭は唖然としたのだが、しかたなく桜庭もその横に並んで、頭
を床に着けた。突然、少女がドアに向かって走った。中条は、すぐさま立ちあがると後を
追って、少女の髪を掴み引き倒した。少女は仰け反って倒れた。
 中条が仰向けになった少女に馬乗りになる。両手で首を押さえ込み搾り出すような声
を発した。
「殺されたいのか。強情を張ると殺すぞ。本当に殺すぞ」
桜庭には、それが街で喧嘩になると、中条がしょっちゅう言葉にだすこけ脅しだと分かっ
た。しかし、二人にとって不幸だったのは少女がその言葉を本気にしたことだ。恐怖に顔
を引き攣らせ、少女が叫び声をあげた。
「誰か助けて、人殺しー、人殺しー。誰かー 」 
桜庭が慌ててベッドから飛び降り、少女の口を両手で塞ぐ。少女は激しく首を左右に振る。
体全体で抵抗を試みる。両拳で二人の顔を、胸を打ち、爪を立てて肌を裂く、脚は覆いか
ぶさる中条の後頭部蹴る。口を塞いだ手がずれて、「人殺しー」と叫び声が漏れた。二人
の目と目が合う。二人の手は知らず知らず力が入っていった。

少女は死んだ。ぐったりと身動きしない遺体を前に、二人は途方に暮れた。沈黙を破
って中条がうめくように言った。
「自首しよう。それしかない」
桜庭は黙っていた。これまでの苦労を思い出していたのだ。受験戦争に勝ち抜いてきた。
厳しい就職戦線も何とかクリアした。その苦労がすべて水の泡になってしまう。そんなこ
となど考えられない。桜庭が答えた。
「今までの苦労をふいにしろって言うのか。俺達とは縁もゆかりもない犯罪者と同じ牢獄
に入れって言うのか。俺は厭だ。俺はそんな奴等と一緒になるなんて絶対に厭だ」
「だってしょうがないだろう。俺達は犯罪を犯してしまったんだ」
「捨てよう。死体を捨てるんだ。幸い彼女をホテルで見た人間はいない。俺達が彼女を殺
害したなんて誰も想像だにしないだろう。ここから少し距離はあるが、自殺の名所となっ
ている崖がある。その崖の上から海に放り込むんだ」
そう言って、中条を睨んだ。中条は目の玉をぎょろぎょろとさせ、うろたえた。桜庭が声
を押し殺して言った。
「ここが正念場だ。ここで決断を誤れば、俺達の人生は台無しだ。冷静になれ、冷静にな
るんだ。誰も見ていないって」
中条はめそめそと泣き出した。深くため息をつき、桜庭が諭すように言った。
「中条、お袋さんのコネでようやく就職が決まったんだろう。お母さんも、喜んで泣いて
いたって言ってたじゃないか。女手一つで大学まで出してくれた、お母さんのことも少し
は考えろ」
そして、桜庭は低いドスの効いた声で言った。
「たとえ崖から落しても、遺体があがれば、その首の痣で、自殺でないことはばれてしま
う。万が一、捕まっても、いや、こんなことはありえないけど、お前が殺したなんて、絶
対に、口が裂けても、言わない」
中条はうな垂れ、涙ぐんだ。桜庭は、この一言によって、負うべき全責任が中条にあるこ
と認識させた。自分のしたことを思いだし、中条は泣き崩れた。そして助けを求めた。
「桜庭君。俺は殺すつもりなどなかった。気がついたら首を絞めていた。まさか、まさか、
死ぬなんて。あれは事故だった」
泣き崩れる中条の様子を見て、桜庭はようやく胸を撫で下ろした。
 少女の死体はレンタカーのトランクに隠した。そして、その夜、2時間がかりで崖に
たどり着いた。トランクから少女の死体を引きずり出し、二人で崖の上まで運んだ。何度
も躓き、死体を放りだした。中条は泣いていた。桜庭は泣きたい気持ちを抑えた。
 崖上に立ち、底を覗き込んだ。真っ暗で何も見えない。少女の運動靴とバッグを岩の
上に置いた。死体が上がらなければ自殺と判断されるだろう。桜庭が言った。
「さあ、やっちまおう。これで全てが終わる」
「桜庭、これで本当に全てが終わるのだろうか。俺にはそうは思えない」
「もう何も言うな。今朝あったことは、今日かぎり忘れるんだ。それに、いいか、俺たち
の部屋に少女がいたことを知っているのは、俺たちだけだ」
「分かった、分かったよ」
こう言って、桜庭は少女の脚を掴んだ。待っていると、中条がのろのろと立ち上がり、両
手で少女の頭を持ち上げた。二人は崖の上から、声を合わせ死体を放り投げた。鈍い音が
何度も響いた。肉がひき裂かれ、骨が砕ける音なのだ。二人はその場にしゃがみこんだ。
 しかし、遺体は一週間後に海岸に打ち上げられた。新聞の片隅に載った捜査本部設置
の記事を東京で見て、二人は震え上がった。しかし、捜査の手はとうとう二人には及ばな
かったのである。 
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