シンクロニシティ10
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第七章
浅い眠りのなか、背中が汗でびっしょりと濡れているのを意識した。その瞬間、恐怖におののいてた今という現実が夢だったことに気付いた。ほっと安堵の溜息を漏らし夢から覚めた。まさに悪夢としか言いようがなかった。
男に羽交い締めされていた。ぬるぬるとした手で下着を脱がそうとする。洋介は、必死でもがきながらその手を押さえようとするのだが、人間とは思えない力で押し返される。下着がびりびりと破られ、洋介は必死で肛門を手で押さえた。
しかし、その手は捻じ曲げられ、しかたなく尻の筋肉に最大限の力を込める。男の下半身がそれを無理矢理こじ開けようとしている。洋介は悲鳴を上げたが、誰も助けてはくれない。目覚めたのはちょうどその時だった。
溜息とともに冷や汗が頬を伝わった。あいつだ。あの男だ。臭い息を耳元に吹きかけられた時の悪寒が蘇った。夢とは思えないほど、リアルな映像がよみがえる。タクシーで見た男の粘り気のある視線を思い出した。
洋介はこの一週間、従兄弟のマンションに閉じこもっていた。従兄弟は帰省中で一人ぼっちだった。恐ろしさで身動き出来ない。晴海が外で会おうというのも、マンションに来たいというのも何故か危険な気がして断った。
奴等の手に渡ったリックには洋介をたどる何物もなかったはずだ。ジャケットにはネームも入っていないし、クリーニングのおろしたてだった。奴等がこの住所に辿り着くことなど殆ど不可能だ。
しかし、アパートに残してきたノートパソコンが気になってしかたなかった。あの中には自分の名前も住所も記録されている。ましてドアの鍵をかけてこなかったことが不安を掻き立てた。しかも一週間不在にしているのだ。
洋介はようやく重い腰をあげることにした。従兄弟の背広を拝借し、ついでに眼鏡も借りた。コンタクトをはずすと、度はちょうどよい。人相も雰囲気も別人になった。鏡に自分の姿を映し出し何度も頷いて、漸く出かける気になった。
駒込駅では、小野寺のビルとは反対側の池袋寄りの改札を抜けた。駅前のロータリーには2台の車が駐車しており、一台には男が二人、改札をチェックでもしているのか、鋭い視線を注いでいる。
洋介は冷や冷やしながら男達の前を通り過ぎた。数メートル進んで、車のドアがバタンと閉まる音を聞いて、早足になりながらちらりと後を見た。車から出た男は改札に向って歩いてゆく。
洋介はほっとして歩を緩めた。懐かしいボロアパートに着いて階段を駆け上がろうとした矢先、携帯が鳴った。洋介は胸のポケットから携帯を取りだし、画面を覗いた。非通知で誰なのか分からない。
「もしもし、牛山です。」
「牛山洋介君だね、部屋には入らないほうが良い。入るとそのアパートの一番奥の部屋にいるヤクザに、君が来たことを知らせることになる。」
洋介は声を押し殺して聞いた。
「あんたは誰だ。」
「そんなことはどうでもよい。今君は敵の罠に嵌ろうとしている。すぐに、その場所から離れることだ。もう十分ほどしたらもう一度電話をいれる。」
背筋にひやりとする感覚が走った。洋介は脱兎のごとく駆け出した。広い通りに出て、滝野川方面に走った。しばらく走って、ちょうど歩行者用信号が青になったところで、反対側に渡った。後ろを振り返りつつ、歩道を走りに走った。
タクシーが近付いてくる。通りに出て、手を上げた。タクシーが止り、乗り込んだ。自分を見張っていた男からも逃れたかったのだ。しばらくして、携帯が鳴った。
「まさに脱兎のごとくとはよく言ったものだ。ハッハッハ」
男の高笑いに洋介はかっとなって叫んだ。
「あんはたは誰なんだ。なんで、俺のことが分かったんだ。」
「俺が誰だろうと、君には関係ない。だが、何故分かった教えてやろう。実は君が興味を示した男を、俺は何日も見張っていた。あの、便所で失態を演じた男だ。奴は情報ブローカーだ。しかし、君も思い切ったことをしたもんだ。もっとも君がやらなけば俺がやっていたがな。」
「でも、あいつ等は何故俺のことが分かったんだ。」
「君のリックが奴等の手に渡った。そのリックに君のクレジットカードのレシートが残されていた。」
洋介は思い当った。先日西武デパートで靴を買ったのだ。リックに靴を放り込んだのを思い出した。その時、レシートも一緒だったのだ。
「それに君は、今のアパートを借りる時、住民票を移しただろう。そんなことをすれば直ぐに足がついてしまう。」
「だけど、あんたはどうやって奴等の動きをキャッチしんだ?奴等が俺のアパートを張っているこがどうして分かったんだ。」
「簡単なことだ。あの日、洋介君を見失ってから、君を追いかけていたヤクザっぽい男の後をつけた。」
「あのヤクザの部屋を突き止め、見張った?」
「そういうことだ。ところで、MDはどうした。」
「持っている、いや部屋に置いてある。」
「どこの部屋だ。」
「それは言いたくない。それより、あの男が情報ブローカって言っていたけど、それってどういうこと。」
「つまり産業スパイだ。おもに技術情報を盗んで、競業他者に売り付けている。便所の御仁は元ヤクザだ。お前を追ったヤクザは池袋に事務所を持つ上村組。どうやら奴等は組んでいるようだ。」
「あんたは警察関係者じゃないの?」
「まあ、元警察関係者ではあるが今は民間だ。実は私のクライアントが新製品を開発した。元親分はその情報へ何度もアプローチしていた。だから張っていたわけだ。とにかく、あのMDがクライアントの開発に関するものか否か確かめたい。MDを送ってくれないか、中身が見たい。」
「ああ、もうあんなモン手元に置いておきたくありません。どこに送ればよろしいのでしょう?」
いつのまにか丁寧語になっている。
「中央郵便局、私書箱125だ。」
「ええ、分かりました。もう、こんなこと、こりごりです。」
「それが分かればいい、ところで、誰かにMDを見せたり、メールしたりしていないか。」
「いいや、誰にも見せてないし、メールもしていません。」
沈黙が二人を包んだ。洋介は晴美と石田の二人に迷惑をかけたくなかったのだ。男は笑いながら皮肉っぽい声で言った。
「それならいい。兎に角、暫く姿を隠すことだ。この電話を切ってから、非通知設定を切り替えて、君の携帯に電話を入れる。それを登録しろ。相談に乗るよ。俺の名前は、そうだな、えーと、モンスターってことにしよう。」
「分かりましたよ、モンスターさん。あんたに頼らざるを得ない。兎に角、僕を助けて下さい。相談に乗って下さい。」
「ああ、分かった。それよりMDを大至急送ってくれ、もしそれが我クライアントに関するものなら、流失経路を探り出さなければならない。」
電話が切られて暫く放心状態が続いた。タクシーの運転手が話しかけてきた。
「何か物騒な話をしてましたね。」
洋介は「はあ」と声をだしたものの、曖昧な笑いで誤魔化した。脱力感が体を支配し、腹に力が入らず話す気にもならなかったのだ。
石田に電話を掛けたのは、下谷のマンションに着いてからだ。携帯は使いたくなかった。石田は直ぐに出た。
「やあ、洋介君か。例の件だけど、さっぱり駄目だ。僕の手には負えない。だから大学の後輩に任せてある。そいつは専門家だから何とかなるかもしれない。」
洋介はそんなことはどうでもよかった。
「石田さん、その、晴美からMDをどうやって入手したか何か聞いてますか?」
「晴海は洋介君が拾った鞄の中に入っていたって言っていたけど。」
「実は違うんです。ちょっと言いづらいことなんですけど、…」
洋介は本当のことをしゃべった。もはや隠し立てしている余裕はない。晴海の父親に対する疑念もあっさりとしゃべった。そして、一週間前やくざの追跡をかわしたこと、今日モンスターから聞いたことも全て話した。
聞き終えると、石田が溜息混じりに口を開いた。
「しかし、君も思い切ったことをしたね。これからどうする、身を隠すのか?」
「ええ、そのつもりです。とにかくヤクザ絡みですし、身を隠せとモンスターが言ってましたから。」
「私の友人に警視庁の刑事がいる。そいつはマル防ではないけど力になってくれるかもしれない。」
「実は、そのことがあったので電話したんです。晴海から、いえ、あの、晴美さんから聞いていましたから。榊原さんでしょう。何とか話をつないでもらえませんか。僕も何年も姿を隠すなんて無理ですから。」
「ああ分かった。今日にでも電話しておく。」
「ありがとうございます。僕の番号を言いますので、よろしいですか。」
「いや、その必要はない。この電話に記憶されている。」
「兎に角、僕は窮地に立たされています。よろしくお願いします。」
「ああ、分かった。」
電話を切って、すぐに榊原に電話を入れたが、携帯は繋がらなかった。次に警視庁に電話をいれると、会議中とのことだったので連絡をくれるように頼んだ。
その頃、榊原は総務部長室の深いソファーでごそごそと尻の落とし所を探していた。そのまま座れば、まるでふんぞり返っているような姿勢になってしまう。実際、目の前には小川総務部長がにこにことしながらふんぞり返っている。
ようやく前屈みになる位置を探り当て、背筋を伸ばした。本来、雲上人であるキャリアの個室に、警部補風情が出入りすることなどあり得ない。警察機構において、警部補以下は大阪人の言う“じゃこ”、つまり漁師も捨ててしまう雑魚である。
そのじゃこである榊原がこうしてキャリアと親しく接することが出来るのは、悔しいが父親のお陰なのだ。小川総務部長は26歳で広島県警へ警務部長として着任し、そこで榊原の父親と親しくなり、家にもよく遊びに来ていた。
榊原は当時中学生で、夕飯時に現れ、柔和な顔をさらにほころばせる小川をよく覚えていた。2年たらずでその姿を見せなくなったものの、父親との親交は続いていたらしく、榊原が卒配で赴任した丸の内署にわざわざ訪ねて来てくれた。
それ以来、何かと力になってくれてはいるが、例の一件だけは如何ともし難いらしい。榊原が殴った駒田は小川さえ仰ぎ見る警察庁の幹部の甥っ子なのだ。せめてそのことを知っていたら、榊原も爆発を押さえたかもしない。
小川は運ばれたお茶に手を伸ばしながら口を開いた。
「どうだ、ひさびさの捜査本部は。」
「やはり足が鈍っています。本庁勤めも5年になりますから。」
それを聞くと、小川はにやりとして茶碗を置いた。
「そろそろ、外にでるか?」
やはりという諦めが心を萎えさせ、と同時に、たとえ左遷でもせめて刑事でありたいという渇望が喉元まで駆け上がる。しかし、声には出さずぐっと飲み込んだ。
「君は数々の実績を上げた。誰一人、君以上の実績を上げることなど出来ようはずもない。しかし、私も来年は転勤だ。大阪方面になるだろう。そして、今度の捜査四課長は君のよく知っている男だ。」
顔を上げ榊原がその名前をあげた。
「駒田一郎、ですか?」
「そうだ、あの駒田だ。蛇のようにしつこい男だ。」
ここに至って、石川警部が衆目のなか、榊原を怒鳴った意味を了解した。石川はいち早くこの人事情報を察知していた。だからこそ、あの気の小さな男が思い切った態度に出た。駒田というキャリアに取り入るための武勇伝を演出したのだ。
そもそも警察庁のキャリアは警察官ではない。自らは全警察機構の監督、必要な法律の整備、予算獲得、そしてその管理を司るとしている。その僅か500名弱のキャリアがノンキャリアと呼ばれる全国24万の現場警察官の遥か頭上に君臨している。
彼らは2年という短い周期で現場を経験し出世街道を駆け上ってゆく。警視庁であれば捜査2課、4課はその指定席だ。あの駒田が四課長に就任するという事実に、榊原の理性は制御不能に陥っていた。それに追い討ちを駆けるように小川の言葉が続いた。
「それともうひとつ。今度の総務部長も駒田の系列だ。つまり日比谷東大ラインだよ。君にとって居心地が悪くなるのは目に見えている。どうだ。俺がいるうちに外に出る気はないか?」
榊原の口から思ってもいない言葉が飛び出した。
「いえ、結構です。もし、報復人事があったら辞職します。その覚悟は出来ていますから。決して外に出たくないとか、今の職にしがみ付いていたいわけではありません。敵前逃亡は嫌なのです。」
「しかし、よく考えたまえ。君を欲しがっている所はいくらでもある。そこに行けば、あいつらだって手は出せん。」
「部長、そんなことは一時しのぎに過ぎません。駒田がもし報復人事をするなら、私も報復して刺し違えます。」
「それはどういうことだ?」
小川が気色ばんだ。榊原の脳細胞は戦闘モードに入っており、既に冷静さを取り戻している。冷静でなければ喧嘩には勝てない。
「では、高嶋捜査四課長は何処に行かれるのですか。」
「警視庁の方面本部長だ。」
「あの方とは親しくさせて頂いていますけど、あの方にも迷惑をかけることになるかもしれませんね。」
「おいおい、いったい君は何を考えているんだ。」
榊原は冷然として席を立った。
小川は父親の友人などではない。単に接待相手に過ぎなかった。母親も必死だったのだろう。小川が来ると、一オクターブも高い声で出迎え、大柄な父親は体を屈めて卑屈な笑みを浮かべてお酌をしていた。その時の屈辱は今でも忘れられない。
父親は最終的には田舎の警察署長を勤め上げ、定年退職した。しかし、それが何だというのだ。息子に軽蔑されて本当に幸せな老後だろうか。父親が小川に、丸の内署に息子がいることを年賀状に書いて、面倒を見てくれるよう頼んだのは分かっている。榊原は今その小川に逆らったのだ。
ここ数ヶ月悩み苦しんだ結果が、これまで後ろ盾になってくれた人との決別だった。中にいる限り流れに逆らうことなど出来ない。少しでも逆らえば組織からはじき出される。掌を返すような冷酷な仕打ちが、手ぐすねを引いて榊原を待ち構えているのだ。そんな事例を何度も見てきた。
石川警部のあの勝ち誇った顔が思い浮かぶ。薄目を開けて、見下すような視線を投げかけてくる。ふつふつと湧き起こる憎悪と恨み、じっと耐えた月日が榊原を激情へと走らせた。面白い、やるならやってみろと心の中で叫んでいた。
榊原の顔に不敵な笑みが浮かぶ。駒田が捜査四課長になるのであればちょうど良い。何年か前、山口県警の不祥事で県警本部長が起訴された。キャリアが起訴されたのだ。その驚きと感動が蘇る。怒声が胸に響く。
『自分達は警察官を管理するだと。何が管理だ。現場を知らぬ者が、どうして管理なんか出来る。昇進試験なんてふざけるんじゃねえ。人としての実力や人間性を抜きにした評価がまかり通る。筆記試験で人間の何が分かるというのだ。』
榊原の罵詈雑言は続く。鬱積していた感情が捌け口を求めて奔流のように脳内を駆け巡る。猜疑心と不安を吹き飛ばすために、激情を野放しにするしかない。強い人間とは、自分の弱さを知っている人間のことだ。弱いからこそ強くなる必要があったのだ。
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