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シンクロニシティ10

作者:ミジンコ
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第六章

 駒込駅の改札を抜けると、頭上を山手線外回りの電車がレールを軋ませながら通り過ぎて行く。見上げるとコンクリートで固められた天井が振動に震え、微細な塵が頭上を舞っていた。蕎麦汁の匂いが漂う駅構内抜けて左手に折れると、狭い路地の両側に軒を連ねて商店が並んでいるのが見える。
 右手前には手作りパンの店。一つ先に油臭い肉屋、その前にこじんまりとした喫茶店がある。男は手にしたバッグを持ち替えて喫茶店のドアノブを引いて中に消えた。牛田洋介はやや傾斜のある道をゆっくりと歩いて、ガラス越しに店の中を覗いた。
 男は店のママとなにやら話し込んでいる。二人の姿は洋介の視界からすぐに消えた。戻って喫茶店に入るべきか迷ったが、止めにした。喫茶店のママと何を話しているのか興味はあったが、あまりにも店が狭過ぎる。顔を覚えられる危険は避けるべきだ。
 そのまま歩いてアパートに向った。ここ駒込の地はかつて丘陵地帯であったらしく土地に高低差がある。細い道を左に折れると飲み屋が軒を連ねる路地だが、少し行くと小さな階段が幾つも続き、登り切ると広い通りに出る。
 その途中に洋介が新たに借りたアパートがあった。
晴美の元彼であるノボルの攻撃は執拗だった。しかたなく東長崎のアパートを引き払い、従兄弟のマンションにもぐり込んだ。その浮いたお金で駒込のアパートを借りたのだ。東長崎の家賃の半分で、正にボロアパートである。
 ドアを開けるとすぐに3畳の台所、便器とユニットバスは一体型、その先は六畳の和室、そして最低限の電化製品とベッド。ただそれだけの空間。場違いな望遠鏡とノートパソコンが妙に目立っていた。洋介はどっかりとベッドに座り、望遠鏡を覗き込んだ。
 望遠鏡の先は地上5階建ビルの三階の一室に固定されている。いつものように事務所には秘書兼総務の中年女性がパソコンに何やら打ち込んでいる。経理担当なのか爺さんが計算機を叩きながら、伝票を繰っている。彼は70歳を過ぎているはずだ。 
 もう一人は、40代の営業マンで、すこしヤクザっぽい感じのする優男だ。普段は地方に出張しているらしく、めったに事務所にはいないが、今日は珍しくどっかりと腰をすえて机に向っている。出張の清算でもしているのだろうか。
 たった4人の事務所。中国福建省、そしてギリシャから大理石を輸入し、加工して卸す輸入商社だ。建材としてではなく美術品として大理石を扱っている。都内に職人を数人抱え顧客の注文に応じて研磨して納める。時計や花瓶そして置物、中でも高級電気スタンドの台座は注文が多いという。
 バブルの頃、小野寺巌が不動産取引に乗り出した場所は新宿である。西口の高層ビルの一室に事務所を設けた。しかし、この古びた5階建てのビルではバブルとは関係なく粛々と業務を続けていたのである。
 レンズに小野寺の姿が映し出された。女性がすぐに立ちあがり、給湯室に入っていった。爺さんは相好を崩し出迎え、小野寺は椅子にどっかりと腰をおろすと爺さんの話に耳を傾ける。すぐに破顔一笑し何やら答えた。
 どう見てもバブル紳士とはイメージが違い過ぎる。かつてそうであった者が、バブルが弾け、本来の自分を取り戻したとでも言うのだろうか。不動産業者に特有の生き馬の目を抜くような機敏さや抜け目なさとは無縁で、むしろ知的で物静かなタイプと言える。
 本当に、妻の財産を無断で借用し、その殆どをバブルに投じて蕩尽したというのはこの男なのだろうか。そして妻に三行半を付きつけられ、家を出た。しかし、この2~3年、別居状態だが、決して離婚届には判を押さないで頑張っている。何故?晴美の言うように、残された財産を狙っているのか。
 当初、愛人がいないはずがないと思っていた。金持ちで端正な顔立ちの男を女が放って置くはずもなく、ましてホモでもなければ何年も女なしで居られるはずもない。そう思って探り始めたのだが、全くと言ってその匂いがしないのだ。
 小野寺のマンションに女の影はなく、洋介の1ヶ月に渡る張り込みは無駄に終った。洋介は望遠鏡から目を離し、ベッドに寝転んだ。この望遠鏡を買い込んだのも新たな切り口を探るためだ。事務所を見張って捜査線上に現れていない人物を見いだそうとした。
 しかし事務所を訪れるのは昼飯の出前持ちばかりで、年がら年中同じメンバーが決まった場所に陣取っている。皆定時退社だが、小野寺は1~2時間残業して家路に着く。夕飯は近所の一杯飲み屋で済ませ、マンションの部屋に消えると出かけることはない。12時には灯りも消える。
 真面目の典型のような生活だ。味も素っ気もない。顧客と飲む以外は友人と会うでもなく、まして愛人もいない。年に何回か仕入れのため海外出張するらしいが、そこで発散しているのかもしれない。しかし、それも年に二三回でしかないという。
初めのうちは根を詰めていたのだが、半年を過ぎた今では、週に一度、今日のように授業のない火曜日だけ、こうして探偵まがいのことを繰り返している。この男は何者なのだという疑問が洋介を突き動かしていた。
 受話器を握る小野寺の顔つきが一瞬変わった。柔和な顔に暗い影がさした。何か異変がおこったのか。瞬きして目を凝らすと、小野寺は笑って話を続けていた。電話が終ると、立ち上がって営業マンと何やら話し、トイレに消えた。
 洋介はがっくりと肩をおとし、溜息をつく。人の出入りも怪しい所業もない。暫くして、営業マンが立ち上がり、ロッカーから背広をだして羽織り、爺さんに声を掛けて事務所を出てゆく。まだ4時前だから帰るには早い。
 洋介はこの男をつけたことはない。捜査は閉塞状態が続いており、それを打開するために、何か新たな切り口が必要だった。この営業マンの後をつけてみようと思い立った。洋介はジャンパーとリックを握ると部屋を蹴って出た。ドアの鍵を掛ける暇もなく駅に急いだ。営業マンは東口、洋介は西口、ホームで捉えられるはずだ。
 切符を買うのももどかしく、改札を抜けた。階段を駆け上がり、ホームに出ると息を整えながら急ぎ西口の階段に向った。営業マンは、既にホームに立って新宿方面の電車を待っていた。洋介はかなりの距離を置き、上野方面の電車を待つ振りをした。
 新宿方面の電車が入って来る。じっと機会を窺がった。男が電車に乗り込む瞬間、踵を返した。電車に乗ってから距離を縮めた。夕刊を見る振りをしながら、視線だけは隣の車両に向け男の様子を窺がった。

 男は池袋で降り、ゆっくりと階段に向った。洋介は男の頭が階段で徐々に下がってゆき、それが消えた時、新聞をたたんで後を追った。見ると男は階段を降りきったところだ。洋介は気付かれぬよう距離を置いて人の影に隠れるように進んだ。
 地上に出て、男はスターバックスーに入っていった。洋介は迷ったが、煙草を一本吸い終えて、その店にに向った。歩きながら中を覗くと、男が道路に面した席で新聞を読んでいる。洋介は入り口のドアを押して中に入った。
レ ジでコーヒーを受け取り、男を背中で意識しながら奥に向った。ちょうど男を後から見える位置に席がとれた。スポーツ紙を広げ、男を見詰めた。男も新聞を読んでいる。10分もそうしていただろうか。
 男は新聞を読み終え、それをテーブルの上に置いたまま席を立った。洋介も立ちあがりかけたが、再び腰を落とした。男の隣にいた紳士然とした男が、テーブルに残された新聞を取り上げたのだ。そしてそれを読み始めた。
 ロマンスグレーの髪、高級そうな背広、肩幅が広くがっちりとした体躯、その男が、隣の男が捨てていったボロボロの新聞に手を出した。何か不自然さを感じた。しばらくして男が新聞を小脇にかかえて立ちあがろうとした時、何かがきらりと光った。新聞に何かが挟まれている。 男が店を出て右に折れた。洋介は男の後をつけた。男は池袋駅に向っている。新聞を脇に挟み右手はポケットに入れて、急ぎ足で階段を駆け下りてゆく。
 洋介は大股で階段に向かった。男が地下のコンコースに下り立つのが見えた。男は右手に回った。要町方面に向ったようだ。階段を降り切り、洋介もその跡を追った。
 
 男は10mほど先を歩いている。近付き過ぎているのは分かってはいたが、興奮が体全体を包んでいた。男は急ぎ足になっている。どうやらその先に見えるWCに入るらしい。男の姿がWCに消えた。洋介は駆け出して、便所の入り口に立って中を覗いた。
 男は、右手でジッパを下げると、下の物を手探りしている。今がチャンスだった。男が下の物を取りだし、尿を放出し始めれば暫くは動けない。洋介は覚悟を決めた。ほとばしる音を聞いた途端、洋介は動いた。男に近付くと脇に挟んだ新聞をさっと引き抜いた。
 男の視線はまるでスローモーションのように洋介を追うだけだ。動こうにも放出は続いていた。余程焦っていたのだろう、あっと声をあげ、体の向きを変えた途端、小便を床に撒き散らし、そこにいた男達の罵声を浴びた。洋介は新聞を右手に持って駆け出していた。「待て、この野郎」と言う叫び声を後に聞きながら、全力失踪していた。

 池袋駅構内で男をまいたことは間違いない。改札でふり返って見たが、男の姿は何処にもなかった。階段を駆け上がって、ホームに入って来た電車に飛び乗った。電車はすぐに発車した。ドアの窓から過ぎ行くホームを覗いたが後を追う者はいない。
 新聞は固い物が挟み込まれており、そこを握り締めていたため汗でぼろぼろになっている。新聞を広げると、そこにはケースに入ったMD(ミニディスク)がガムテープで止められていた。洋介は新聞を網棚に放り投げ、それを背中のベルトに差し込んだ。
 高田馬場でドアが開くと電車を降りた。ちょうど、反対ホームに内回り電車が入って来るところだ。洋介は先頭車両に乗るため前方に急いだ。ジャケットを脱いでリックに押し込み電車に乗り込んだ。電車は池袋駅に入ってゆく。プラットホームに立つ人々に目を凝らしたが、それらしき男はいない。
 銀髪の大男だ。見逃すはずもない。電車のドアが閉まり、洋介はふーと長い息を吐いて空いている席に腰を落とした。下谷の従兄弟のマンションに向かうことにした。駒込で降りてアパートの後処理をしようかとも思ったが、あの男に会う可能性もある。
 会えば態度がぎくしゃくするに決まっている。それほど緊張しているのだった。腰を上げて後方の車両を覗いてみた。通路を歩いてくる男が見えた。あの銀髪ではない。2つ後ろの車両を、人を掻き分けこちらに向かって歩いて来る。
 洋介は後頭部を窓ガラスにつけて、目を閉じた。まさかあの銀髪の仲間ということはないだろう。そう思い込もうとするのだが、胸の奥に巣くっている不安が振動しながら喉元までせりあがってくる。がばっと身を起こし男の方を窺った。
 その男は黒の背広の上下にグレーのカッターシャツをラフに着こなしている。両サイドに目を配り、誰かを探している様子だ。体中の汗腺から冷や汗がじっとりと吹き出した。掌の汗をリックで拭いた。奴の仲間だろうか。
 男は学生風の二人連れに近付き、片方の若者のリックを持ちあげてラベルを見た。若者は血相を変えて抗議しているようだが、男は相手にしない。手に持ったリックを突き放すと若者がよろけた。男は悠然と次ぎの車両に移った。
 グレゴリーのリックだ。ジーンズの上下にグレゴリーのリックを背負った若者を捜している。洋介は膝に乗せたリックを見詰めた。大枚3万も叩いて買ったのだ。しかし、今はそんなことを言って惜しがっている場合ではない。
 ふと、隣を見ると、予備校生らしき若者が膝に参考書を広げたまま寝入っている。洋介は立ちあがり、そっとリックを若者の上の網棚に載せた。電車は既に大塚を過ぎ、巣鴨の駅に入ろうとしている。洋介は思い切って男に向って歩き始めた。両手をポケットに入れ、外の流れる景色を見ながら歩いた。
 スポットライトに照らされ桜の木々が浮かびあがった。桜の蕾がほころびはじめている。春の訪れを感じ、季節の移り変わり眺めている。そう自分に言い聞かせた。冷や汗が滲む。袖で額の汗を拭う。男がだんだん近付いて来た。
 男に気付かれぬよう深呼吸をした。落ち付け、落ち付けと何度も自分に言い聞かせた。男との距離は5メートル。早咲きの桜が目に飛び込んで来た。立ち止まって目で追った。「へーもう3分咲きじゃねえか。」と独り言を呟いた。
 桜を振りかえっている最中に男と擦れ違った。ゆっくりと歩き出した。徐々に早足になる。車両の間のドアを後手に閉めた時、男を振りかえった。男は予備校生にグレゴリーのリックを突き付けている。
 洋介は走り出した。「すいません」と声を掛けながら走った。巣鴨の駅に電車が入った。振りかえると男も走り始めた。なかなかドアが開かない。数人の若者がたむろしている。洋介が叫んだ。「すんません、急いでいます」と。若者達が道を開けてくれた。男との距離は一両しかない。徐々に電車のスピードが落ちてゆく。
 次ぎの車両で振りかえると、若者の一人が男の袖を掴んで、何やら怒鳴っている。どうやらぶつかって因縁をつけられているのだろう。ほくそえんでいたが、次ぎの瞬間、度肝を抜かれた。男が拳銃を若者達に向けている。
 洋介は必死で走った。大変な奴等を敵に回してしまったらしい。電車がようやく止って、ドアが開いた。幸いにも階段の手前だ。電車を飛び降り、階段を駆けあがった。男がホームに飛び出して叫んだ。「まてーこの野郎。」
 後を振り向かなかった。足がすくみそうになるのを必死で堪えて走りに走った。脚には自信があった。改札を飛び越えた。目の前にタクシーが止っている。そいつに乗り込んだ。
「急いでいる。追われている。何処でも良いから、兎に角、早く出してくれ。」
洋介はそう叫んだ。見ると男が改札を抜けるところだ。タクシーが急発進した。ほっと胸を撫で下ろした。バックミラーを見ながら、運転手が訊ねた。
「相手はヤクザかい。」
「ええ、ちょっと喧嘩になって。」
洋介が振りかえって見ると、男は携帯電話で誰かに連絡を入れている。右手には洋介のリックを握っていた。
「そりゃー、あんた相手が悪いよ。喧嘩するときには相手を良く見なけりゃ。俺も若い時、やったことがあるけど、その時は勝った。だけど、後になってそいつが仲間と一緒にやって来て袋叩きにされちゃったよ。おっと、見ろ、あいつもタクシーを捕まえたぞ。」
「ちくしょう、しつこい奴だ。そうだ、運転手さん、1万円やるから、次ぎの角を曲がったら俺を降ろして、そのまま暫く走ってくれないか。」
「あいよ、でも、降りる時、後続車には気を付けてくれよ。」

 十字路を左に曲がって5メートル程行ったところで急ブレーキが踏まれ、車が止まった。洋介は飛び降りると、目の前のビルに飛び込んで大きな立て看板の後に隠れた。タクシーは再び急発進して遠ざかる。
 10秒ほど遅れて、男の乗ったタクシーが十字路に入ってきた。男は運転席に手をかけ前を睨んでいる。一瞬、男の獰猛そうな目の輝きを捕らえた。まるで狩人の目を思わせた。洋介はテイルランプが闇に消えるまで見詰めていた。

 タクシーを乗り換え、下谷の従兄弟のマンションに辿り付いた時、膝ががくがくで部屋に入るなりベッドに倒れ込んだ。恐怖と悔恨が一緒になって洋介の心を苛んだ。背筋が凍りつくような感覚だ。どうやら自分は大変なことに首を突っ込んでしまったらしい。
 しかし、あの銀髪からMDを奪って、5分から10分の間に、仲間が池袋駅に現れている。とすれば、仲間は池袋付近にいたことになる。あの男は、或いは集められた男達のうちの一人でしかなく、彼らは分散して池袋から山の手線に乗ったのかもしれない。
 いずれにせよ、暫くは池袋で降りるのは危険だ。大学はどうする。もうすぐ新学期が始まる。しかし、相手は拳銃を振り回すような男達だ。殺されることを思えば、大学どころの話ではない。1年休学するか。どうせ法律なんて飽き飽きしていたのだから。
 寝返りをうった時、背中に挟んだMDの存在を思い出した。すっかり忘れていた。そうだ、これが全ての原因だった。まず、男が必死で取り戻そうとしたこのMDの中身を知ることが先決だ。従兄弟のパソコンデスクに向った。
 MDを指し込み、マイコンピューターを開いた。MDをクリックして、画面を覗き込んだ。暫くして大文字と小文字のアルファベットと数字の羅列が画面に映し出された。
 何の意味も見出せないまま時が過ぎた。高校時代数学を捨てていたことを後悔していた。入学当初から文系私立を選択していたのだ。確か数列という授業があったはずだ。しかし、知っているのはその言葉のみで内容は全く思い出しもしない。
 携帯を取りだし、晴美を呼び出した。幸い晴美はすぐに出た。
「もしもし、洋介、どうして電話くれなかったの。もう3日も会ってないのよ。ずっと留守電になっているし、折り返し連絡してって言っているのに、ぜんぜん…。」
「おい、晴海、今、それどころじゃないんだ。大変なことになった。思いもしない事態に巻きこまれたんだ。」
「大変って。」
「お前の、親父さん、何かやばいことやっているんじゃないか。スパイとか何かやばいことだ。ただの会社経営者とは思えない。」
「スパイですって、そんな馬鹿な。あの人がスパイなら、私はさしずめ殺し屋ってとこだわ。実際、そんなのあり得ないわよ、馬鹿馬鹿しい。」
「でも、今日あったことは、どう考えても、ちょっとヤバイって感じなんだ。俺は拳銃を持った男に追いかけられたんだ。」
「嘘、それって嘘でしょう。まして、拳銃なんて言っても玩具の拳銃かもしれないじゃない。あなたにそれを見分けられる。本物そっくりな拳銃なんてどこでも手に入るわ。」
「そうかもしれない。でも追いかけて来た奴はまともな男じゃない。絶対ヤクザだよ、あの雰囲気は絶対にヤクザに違いないって。」
「分かったわよ、そういうことにしておくから、その絶対なんて言葉は何度も言わないで。利口そうに聞こえないわよ。何があったのか、詳しく話して。」

 洋介は混乱した頭を整理しながら一部始終を話した。聞き終わって、暫く晴美も沈黙していた。洋介が言った。
「おい、何とか言えよ。俺は、嘘は言っていない。これはすべて今日、俺が体験したことだ。お前の父親がもしかしたら営業マンにMDを渡したのかもしれない。」
漸く晴美が口を開いた。
「そんなことあるわけないでしょう。パパがスパイで、そのMDには国家機密か何かが入っているってわけ。それに、安部さん、その営業マン、安部さんて言うんだけど、彼が独自でやったことかもしれないでしょう。パパは関係ないわよ。」
「それは、そうかもしれない。でも、可能性は常に考えておかないと。それから、中身を開いてみたが、何がなんだかさっぱり分からない。アルファベットと数字の羅列だ。もしかしたら、暗号化されているのかもしれない。お前、誰か知っていないか。こういう電子的なこと詳しいやつ。」
「知らない、私の回りにそんな人いるわけないでしょう。」
 晴美は苛立っているようだ。たとえ憎んでいる父親であったとしても、スパイなどという暗い非日常の世界と繋がっていると思いたくないようだ。洋介は一歩引くことにした。
「それもそうだ、まして晴美は高校生だもんな。」
この言葉に晴美はほっとして、その忌まわしい洋介の物語を心の片隅に追いやった。そして言った。
「あっ、そう言えば、仁さんが詳しいみたい。CADとかいうパソコンをやっているって言っていたわ。」
「CADか、ああ、何か聞いたことあるな、それ。それに仁さんは、確か理数系だったよな。それにパソコンやっているなら俺より詳しいに違いない。仁さんのメールアドレス分かるか。」
「ええ、確か名刺に書いてあったはずよ。この前デートした時、貰っておいたの。ちょっと待ってて。」
電話口の向こうで、ごそごそと音が聞こえてくる。アドレスと一緒に電話番号も聞いておいたほうがよさそうだ。晴美に電話させてから、メールを送る。その後、電話で話を聞けばよい。
「ねえ、これから会えない。もう3日も会っていないのよ。」
 晴海の切なくせがむような声は、いつもなら洋介の下半身をカチカチにしたものだが、今日に限ってそうはならなかった。強がりを言う気にもならないほど怯えている自分が惨めで、弱虫に思われるのはしゃくだが、恐怖のほうが勝った。
 その日、洋介は夜になってから、晴美に聞いた石田仁のアドレスにメールを発信した。晴海も見たいというので送っておくことにした。晴海に分かるわけがないとは思うのだが、自分だけでこれを所有していることも不安だったのだ。

 石田は晴美から連絡のあった翌日、さっそくメールを開いてみた。画面には訳の分からないアルファベッドと数字の羅列が並んでいる。数列かと思い数字を書き出してみた。しかし、何の規則性も見出されなかった。アルファベッドの羅列も全く意味が分からない。
 しかたなく、いくつか持っている暗号ソフトにかけてみた。結果は更に訳の分からない文字の羅列が現れただけだ。石田はあっさりと晴美の要請を諦めた。ここで頼りがいのある父親を演じたかったのだが、無理なものは無理だ。
 石田はその場で大学の後輩に電話を入れた。彼は電子工学科だったが、高校の後輩だったこともあり親しく付き合った。今は大学院に残って助手になっていた。暗号化についても詳しいはずだ。石田が名乗ると、うれしそうに返事が返ってきた。
「先輩、お久しぶりです、しばらく会ってませんね。お元気ですか。」
この声を聞いて、ぽっちゃりとしたあの丸顔を思い出した。
「実は、ちょっと頼まれてほしいんだ。俺も友人から頼まれたんだが、俺の腕ではさっぱりだ。こういうことなら押田しかいないと思って電話してみたんだが。」
「なんです。先輩の依頼じゃ断れませんけど、とりあえず話を聞きましょう。」
「実は暗号解読なんだ。」
「へー、面白そうじゃないですか。早速メールで送って下さい、やってみますよ。」
「それじゃぁ、メールアドレスを教えてくれ。」
 
 石田は電話を終えるとパソコンに向った。仕事の方は石田の予想した通りJRが設計変更を申し入れてきたのだ。東芝電鉄との話し合いは思い通りに運ばなかったらしい。氏家部長は最初からそうなると思っていたなどとうそぶいている。
 東芝電鉄の後輩の話を出して、思い出させても良いのだが、敢えて言うのは止めにした。また休暇を取ろうと思っているからだ。亜由美の父親の叔父が北九州にいることが分かったのだ。
 亜由美の山梨の実家は競売に掛けられ、家財道具一式他人の手に渡っていたが、ダンボール8箱分の私物が残され引き取り手のないまま銀行の倉庫に眠っていた。先日問い合わせがあり、石田が引き取ることにしたのだ。
 その中に住所録があり、その叔父の住所がわかったのだ。北九州市に家族で身を寄せている可能性がある。そう思うと居ても立ってもいられない気分だった。亜由美のことを思うと可哀想でしかたがない。
 亜由美は惨めさに耐えられるだろうか。何不自由なく育った亜由美が年老いた両親と逃亡生活を送っている。住民票は移しておらず、行方は探りようがない。借金取りから逃れるにはしかたなかったのかもしれない。
 かつて、石田が甲府の亜由美の実家を訊ねた時、父親である戸塚修三は上機嫌で石田を迎えた。石田が技術屋であることが修三を喜ばせた。宝石の卸商に限界を感じていたようで、技術屋という言葉を何度も満足そうに口にしていた。
 修三は押し出しの強い自信家で石田の苦手なタイプであったが、娘婿を心から歓迎してくれた。一人娘にもかかわらず、外に出すことも覚悟していたし、家業が自分で終りになることも納得していた。
 
 亜由美は父親を心から尊敬していた。父親が被害者になった詐欺事件が新聞紙上を賑わせたときでさえ、その父親を信じ切っていた。絶対に大丈夫と言って憚らなかった。だからこそ、その父親を捨て切れなかったのだろう。
 石田が最初に修三に逆らったのは、結婚後の新居のことだった。修三は3500万円する新居をプレゼントするというのだ。まだ、修三も景気が良かった頃で、亜由美は当然のごとくそれを受け入れていた。しかし、石田にはどうしても納得できなかったのだ。
 石田は両親が残してくれた千葉の家を売って、その物件を買った。修三は何が不満なのか分からなかったようだし、亜由美も不服そうだった。その物件を内緒で抵当に入れていたのだから、亜由美は石田に会わす顔がなかったのだろう。
 しかし、何故相談してくれなかったのか。相談してくれれば最悪の事態は免れたはずだ。もしマンションを売ってくれと頼まれれば躊躇なく売って義父を助けた。詐欺事件の時、或る程度覚悟はしていたのだ。相談さえしてくれれば、と思う。
 石田は夫婦互いに信頼しあっていると思っていた。何の問題もないと、そう信じていた。しかし、二人はどこかで擦れ違っていたのだ。仕事が忙し過ぎたこともあったが、それだけではない、何かがあったのだ。

 亜由美は石田ではなく父親を選んだ。この事実が石田の自信を失わせた。亜由美が相談しなかったことは、やはり二人の間には知らぬ間に溝が出来ていたことを物語っていた。石田が信じて疑わなかった家族の絆は単に幻想でしかなかたのかもしれない。
 石田は目の前にあるパソコンの実行キーを押した。図面が現れた。何度も描き直した図面だ。これが、またしても変更になる。馬鹿野郎と図面に書きなぐった。氏家部長はそれを見て、後ろで「俺は最初からこうなると思っていたんだ。」と言って笑った。その言葉に嫌悪感を抱きながらも、笑顔を作って振り向いた。休暇届を手にしながら。 
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