ソードアート・オンライン 穹色の風
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アインクラッド編
偽善の持つ優しさ
「……マサキ、これって……」
「どう見ても、某国民的青タヌキ、だな」
マサキとトウマがお互いの顔を見て硬直する横で、アルゴが笑い転げている。さらにその横では、真新しい黒いコートに身を包んだ片手剣使いが自分と同じ境遇の二人を哀れむような視線を向ける。ひっそりとした山奥に、暫しの間、甲高い笑い声だけが響いていた。
――時は数十分ほど巻き戻る。
マサキとアルゴは無事にはじまりの街まで辿り着き、トウマと合流、三人で喫茶店に入っていた。
「――ところで、あのネペントの群れはどうやったんダ?」
目の前に置かれたミルクティーを口に運びながら、アルゴが訊いた。それに対し、マサキは持ち上げていたコーヒーカップを、一度ソーサーに置く。
「なに、簡単なことさ。あるだろう? たった一本のピックで奴等の大群を呼び寄せる、お手軽な方法が」
「ひょっとしテ……《実付き》カ?」
「正解。俺とお前の敏捷力なら、十分逃げられるからな。いい脅しになっただろう?」
「…………」
呆気に取られるアルゴをよそに、マサキは再びカップを持ち上げた。要するにマサキは、意図的に実付きネペントの、しかも実の部分を攻撃し、大量のネペントを呼び寄せたというのだ。もし一度攻撃を受ければ、連続攻撃によって一瞬でHPを喰らい尽くされてもおかしくはないというのに。
「……さて、それじゃあ次はこちらの質問に答えてもらおうか。……“エクストラスキル”ってのは?」
「いヤ、それハ……」
死への恐怖が欠落しているとしか思えない考えに開きっぱなしになっていたアルゴの口は、マサキが口にした質問によって再び閉じられた。腕を組み、「うーん」と唸りつつ考え込む。アルゴが答えを口にしたのは、それから数秒後のことだった。
「……解っタ。オイラも、二人には助けてもらった恩と情報提供が遅れたお詫びがあるからナ。――けど、これだけは約束してくレ。絶対に、何があっても、オイラを恨まないでくれヨ!」
「いいだろう。――交渉成立だ」
マサキとアルゴがお互いににやりと笑うと、残っていたカップの中身をぐいと呷った。トウマとマサキは、アルゴの先導に従ってフィールドへと向かったのだった。
「修行の道は辛く険しいぞ?」
「構わない」
アルゴに連れられて“体術スキル”なるものを会得しに来た二人は、クエスト開始地点であるスキンヘッドのNPCと短く会話した後、クエストを行う場所に向かうべく、前方をのっしのっしと歩いていく中年男性に続いていた。
不意に、前を歩くNPCの動きが止まる。トウマが辺りを見回すと、そこは岸壁に囲まれた庭の隅だった。
そして、静寂の中、滑らかな光沢を放つ黒いコートをはためかせながら、一人の少年が一心不乱に眼前の岸壁を殴りつけていた。少し距離があるために顔までは判断できないが、かなり必死に壁を殴りつけているようだ。
このSAOに存在する物質には、大きく分けて二つのカテゴリが存在する。即ち、“破壊可能か否か”だ。前者はプレイヤーの武器・防具類などが、後者はこの世界に最初から配置されている木や建物などがそうだ。そして、この庭を囲んでいる岸壁は恐らく後者、いわゆる《破壊不能オブジェクト》に分類されるはずだ。つまり、黒コートの彼がしている行為は、全くの無駄ということになる。――尤も、もしあの岸壁が破壊可能だったからといって、他人の家の壁を壊すことに何らかの意味が存在するとは、到底思えないが。
そんなことをトウマが考えているとは知るはずもなく、数メートル先の少年は必死に壁に拳をたたきつけている。あまり寝ていないのか、体の動きにどこかキレがなく、微妙に視認できる線の細い輪郭には疲れが滲んでいる。
(……あれ? もしかして……?)
ここで、トウマの頭に一つの疑問がよぎった。今まで以上に彼に注目する。すると、その疑問はだんだんと濃さを増していき、やがて確信へと変わる。
「ひょっとして……「キリトか?」うわっ!?」
恐る恐る、と形容するのが妥当であろうトウマの質問はしかし、突如割り込んだ相方のそれによって、意味を成さない素っ頓狂な声に変換された。抗議の意味を込めてマサキを一瞥するが、彼は左手を挙げつつ視線を投げ、サラリと受け流す。すると、トウマの耳に聞き覚えのある声が響いた。
「マサキ? それにトウマ?」
マサキに視線を注いでいたトウマは、疑問系で投げかけられたその言葉に、慌てて振り返る。するとそこにあったのは、予想通りの人物の姿だった。
露になった中性的な顔立ちを見て、トウマは体が強張るのを感じた。自分がβテスターであることを見抜かれてしまわないか、という不安がこみ上げてくる。
――でも、大丈夫。
トウマは一度深呼吸し、心を落ち着けた。数日前までの自分だったら、何とかしてこの場から逃げ出そうと考えていただろうが、今は違う。自らの秘密を理解してくれた、マサキという存在が、トウマに自信を与えていた。
トウマはもう一度息を吐き出し、彼の行動についての素朴な疑問をぶつけようとする。
が、しかし。
「ふ、二人とも、さっさと逃げないと――!」
青ざめた表情のキリトから発せられた警告と、突然瞬いた剣閃にも似た光が、その疑問が言葉に変換されるのを邪魔した。驚いたトウマが振り向くと、ついさっきまで何やら喋っていたはずの中年男性NPCが、のっしのっしと小屋の中に帰って行く。
(……あ、ヤバい。クエスト内容聞き逃した)
予想外の人物との遭遇によって忘却の彼方へと追いやられていた目的が、今更ながらトウマの脳内を駆け抜けた。完全に脳を右から左へ通り抜けていった情報と、今起こった謎の剣閃の詳細を訊こうと相方に目をやる。
そして、彼の顔に描かれた三本の線に、目が釘付けになった。こちらの心中を悟ったらしいマサキが、相変わらずのポーカーフェイスで口を開く。
「クエスト条件はこの岩を素手で破壊すること。ちなみに、このペイントはお前にも描かれてる」
「え?」
マサキの、表情同様に淡々とした口調で語られた情報を整理するのに、トウマは数秒の時間を要した。そして、暫しの沈黙の後、先ほどの剣閃が自らの顔にペイントを施していたものだと悟る。そういえば、今まで見ていたキリトの顔にも、見慣れない三本線がくっきりと描かれていた。何故数分前の自分はあのペイントをスルーできたのか、疑問を通り越して呆れさえ感じる。だが、トウマの思考はこの時、もう一つの情報に対する疑問で占められていた。
「ん? 岩?」
マサキはクエスト条件として、“岩を素手で割る”ことを挙げたが、この庭にあるのは岸壁ばかりで、岩などは見当たらない。トウマが向けた疑問のまなざしにマサキが答え、顎で方向を示すが、その方向に岩などはなく、あるのは延々と続く岸壁――、
ではなかった。上に視線を向けると天辺が円形になっているのがよくわかる。つまり、今までトウマが壁だと思っていたものは全てクエスト用の大岩であり、キリトが必死に拳をぶつけていたのもこれだったのだ。そして、自分もまた、この岩を素手で砕かなければならない。
「…………」
トウマは言葉を失い、酸素を求める金魚さながらに、茫然自失の状態で口をパクパクと開閉させる。と、ここで限界を迎えたアルゴが膝から崩れ落ち、マサキ、トウマ、キリトの三人が作り出す静寂を、アルゴが甲高い笑い声で上書きした。
ここで話は最初に戻る。
目の前に立ちはだかる、というよりも、もはやそびえ立っているという表現のほうが適切なのではないかと思わせるような大岩を見上げ、マサキの横で、トウマは「……マジかよ……」と嘆いた。その声は一番近くにいたマサキ以外には聞こえないほどに小さかったが、それが逆に衝撃の大きさを物語っている。数メートルほど離れたキリトも、二人にクエストを中止させられなかったことに罪の意識を感じ、言葉を発することはない。
だが、三人のうちマサキだけは、彼らと同じく無言ながら、頭の中ではまったく別のことを考えていた。
そもそも、この庭に連れてこられた時点で、三つの大岩、さらにそれを殴る一つの人影、という二つのピースから、ある程度この状況を推し量っていた。そして、それでもクエストから逃げ出さなかったのは、このクエストにおけるショートカットの方法や、その方法が通用しなかった場合のリカバリー方法まで考えていたからに他ならない。
マサキはもう一度頭の中で思いついた方法を反復すると、未だ顔を伏せたままのキリトに声を飛ばした。
「キリト、お前はいつからこれをやってる?」
「え? ええと、三日前からだけど……」
「なるほど」
この浮遊城に閉じ込められた一万人の中でもトップクラスのレベルを持っているキリトが、三日かかっても壊せないということは、この岩は《破壊不可オブジェクト》に次いだ硬さを持っていると判断していいだろう。
「となると、次は……」
マサキはぼそりと呟くと、何を思ったか、岩に耳をくっつけてペタペタと触ったり、スイカの良し悪しを確かめる八百屋のように、コンコンと叩いたりし始めた。さらにホロウインドウを開き、左手で数式らしきものを書き込んでいる。それを見たトウマが声をかけようとするが、「恐らく岩質は基本的な安山岩……となると構造は……」等と何やらぶつぶつと呟きながら岩を触っているマサキの表情が真剣そのものだったため、断念して見守ることにする。
やがて、数分ほど経ったとき、マサキは短く「よし」と発し、立ち上がった。そのまま岩の中心辺りに掌をかざすと、マサキの行動の真意が全く理解できていないトウマに向き直る。
「トウマ、ここだ」
「へ?」
「だから、ここ。ここ殴れ」
「え、あ、ああ……」
そんなもの、何処を叩こうが何かが変わることはないだろうと思いつつも、せめてこの絶望感を目の前の岩にぶつけることでいくらか発散させようと、トウマはマサキが示した場所に、思い切り拳を叩きつけ――。
「「「え(エ)?」」
トウマ、キリト、アルゴの三人が、殴られた岩を目にして、そして辺りに響き渡った、“ピシリ”という音を耳にして、目を丸くした。なんと、キリトが三日かけても割れなかった大岩に、たった一度のパンチでヒビが入ったではないか。
一瞬、目を丸くして硬直していたトウマだったが、気を取り直すと、二発目、三発目を叩き込む。その度に岩に刻まれた裂け目は広がっていき、ヒビが入ることを示すピシリという音も段々と大きくなっていく。
「さて、キリト。お前はここだ」
目の前の光景に目を奪われていたキリトは、マサキがいつの間にかキリトが壊すべき岩の前に移動していたことを、声をかけられて初めて理解した。トウマの岩と自分の岩とでは、システムエラーか何かの影響で硬さが全く別物なのではないか――などと、今起きたことには未だ半信半疑ながら、マサキに指示された場所に拳を打ちつける。今まで壊れる素振りも見せなかった大岩に、いとも容易く裂け目が広がっていき――。
なんと今度は、裂け目が岩を一周し、あろうことかガラガラと音を立てて崩れてしまった。
「……ウソだろ……」
「現実だ、間違いなくな。……尤も、頬をつねったところで、痛くはないだろうが」
目の前で起きた事象が理解できず、知らず知らずのうちに頬をつねっていたキリトに、マサキは苦笑しながら言った。続けて、「何故?」と問いかける目線に答え、説明を開始する。
「原則として、このSAOに存在するオブジェクトは、一部の《破壊不能オブジェクト》を除いて、現実の物理法則に従う。……つまり、全てのものに構造上の弱点が存在するわけだ。だから、あの岩の性質や重さ、直径なんかが解れば、後は方程式を解くだけで割れやすい場所が計算できる。――さて、それじゃあ最後は俺か。……ここだな……ん?」
先ほどまでとは違った意味で呆然と立ち尽くしているトウマたちをよそに、マサキが岩に狙いを定め、腕を振りかぶろうとした、その時。
マサキの脳に、ピリッという、まるで誰かに見られているような感覚が走った。すぐに振り返り、視線と索敵スキルを併用して辺りの人影を探すが、どちらにも反応はない。
(……気のせい、か)
マサキは再び構えを取り、岩にパンチをぶつけ始める。
十分後、きれいさっぱり崩れ去った三つの大岩を見て、キリトは思わずにはいられなかった。
……自分がこれまでに費やした三日間は、一体何だったのだろう、と。
「いやー、食った食った!」
「お前は間違いなく食いすぎだ」
「えー、いいじゃん、奢ってくれるって言われたんだから」
「……それが俺のおかげだってこと、お前理解してるか?」
「してますしてます。どれもこれも、マサキ様のおかげですます」
「……ハァ。どうだか」
見事大岩を砕き、《体術スキル》を獲得したマサキたちは、アルゴたちとの食事の後、どっぷりと日が暮れたウルバスの街並みを、宿に向かって歩いていた。この辺りのフィールドは夜になると出現モンスターのレベルが上がるため、昼間は人の波がうねっているこの通りも、今出歩いているプレイヤーは皆無。そしてそのことが、ただでさえ冷たい空気の温度をさらに下げている。
やがて二人が宿泊する宿の看板が視界に入った頃。トウマが不意に呟いた。
「――でもさ。今日改めて思ったけど、やっぱマサキって優しいよな」
「……え?」
その、何の脈絡も存在しない声に、マサキは驚きの声を上げ、立ち止まってしまった。すると、トウマが楽しげな笑みを浮かべて振り返る。
「だってさ、アルゴに情報渡してたじゃん。あれ、あいつのことを思ってのことだろ?」
「…………」
マサキは立ち止まったまま、理解できないことを表情に滲ませた。
――確かに、マサキはアルゴを交えた食事会で、アルゴに《体術クエスト》に出現する大岩の、弱点の場所を教えた。だがそれは、あれほど日常的に追い掛け回されていたら、こちらが依頼した情報の調査に手間取ってしまうのではないか、という懸念を払拭するためだ。それに、食事代金の奢りという形で情報量も支払ってもらった。そして、そのときの思考回路にあったのは、あくまで打算。トウマが言うような感情などは、一片たりとも存在してはいなかった。
だが、そんなマサキを気にもせず、トウマは尚も笑顔で続ける。
「それに、キリトのことも許してたし。だから、やっぱり――」
「違う」
普段のマサキだったなら、「だろう?」と冗談めかし、流していた場面。けれど、何処からか沸いて出た苦しさが胸を締め上げて。
突如空気を切り裂いたマサキの言葉が、楽しげなトウマの声を上書きした。
「……お前は少し、人を疑ったほうがいい。俺がアルゴに情報を渡したのも、キリトを許したのも、自分に利益が出ることを見越したから。ただそれだけだ。――もしこれを善と呼ぶのなら。それは、ただの欲と打算で薄汚れた偽善に過ぎない」
マサキは目を伏せると、再び歩き始めた。まるで隣のトウマから逃げるように歩を進め、宿屋へと体を滑り込ませる。そのまま自分が借りている部屋がある二階へと続く階段に向かい――、
「待てよ、マサキ」
「…………」
駆け寄ってきたトウマに、手首を掴まれた。ぐいぐいと引っ張ってみるが、ここまで敏捷にステータスのほぼ全てを振ってきたマサキと筋力優先で強化してきたトウマとでは、筋力値が違いすぎた。マサキが諦めて力を抜くと、さっきとは打って変わって真剣な表情で、トウマが前へ回り込む。
トウマは暫しマサキの瞳をじっと見つめた後、再びその爽やかな顔に微笑を浮かべた。
「でもさ、例えマサキが偽善だと思っていても、相手がそれをされて嬉しかったり、感謝したりしていれば、それって結局、善と変わらないんだと思う。……だから、どんなにマサキが違うって言っても、マサキがしたことは善だし、やっぱりマサキは優しいんだよ」
「……馬鹿馬鹿しいな。仮に善か偽善かの判断基準が相手の感じ方次第だとしても、相手がどう思っているかなんて、解るわけが――」
「解る」
両手を肩まで挙げて歩き出そうとするマサキの言葉を、今度はトウマが遮った。三度マサキの前に出て、二階へと続く階段を、一段だけ登る。
「マサキの行動が偽善じゃなくて善なんだって、俺は解る。……だって、俺、マサキに助けられたから。――俺がマサキと出会わなかったら、多分、俺、自殺してた。あの時マサキが声をかけてくれなかったら、あの柵から飛び降りてた。俺が今ここにいられるのは、マサキのおかげなんだ。だから、俺はマサキに感謝してるし、実はマサキが誰よりも優しいやつなんだって解る」
「……もう、話す気にもならない」
一言だけ吐き捨てると、マサキはトウマを押しのけて階段を上る。
だが、二十段程度の階段を上りきったとき、またしてもトウマに呼び止められた。振り返ると、トウマはいつもの爽やかな笑みを浮かべ、拳をこちらに差し出している。
「おやすみ。また明日」
「……ああ」
一瞬の逡巡の後、マサキも右手で作った拳をぶつけようと持ち上げる。
だが。あとたった数センチで拳が触れ合うというところで、マサキの動きがピタリと止まった。全身全霊の力を込めて右手を前に突き出そうとするが、まるで二人の間に透明な壁があるかのように、彼我距離は一向に縮まらない。それどころか、先ほどから胸に居座っている息苦しさが、さらに活発に活動を始めた。それは肺でも心臓でもない、胸のもっと奥深くをチクチクと刺し、キリキリと締め上げる。
「……済まない」
マサキは一言だけ残すと、さっと身を翻し、自室へとなだれ込んだ。そのまま部屋を横断し、備え付けられた窓を開け放つ。
途端に外から流入してくる冷気に、いつになく困惑し、疲れ果てたマサキの呟きが響いた。
「……何だってんだ、一体……」
しゃがれた声と共に零れ出た息は、冬の外気に晒されて白く染まり、街頭に照らされることによってキラキラと煌いて――。
そして、星なき夜の闇に染まった空へと、溶け込んでいった。
後書き
さて、これにてプログレッシブは終了といたしまして、次話より、少しの間オリジナル展開を挟んで以降と思います……が……
……何といいますか、最近少しスランプ気味なんですよね……。思っているものと書いたものとが全く違うというか、前の話の方が良い出来に思えてきたりとか……。
もしよろしければ、感想など頂けるとありがたいです。
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