ボリス=ゴドゥノフ
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第五幕その三
第五幕その三
ロシアはさらに苦しくなろうとしていた。皇子を騙るグレゴーリィの軍はモスクワに向けて進軍を続けており、ボリスの送る軍は敗戦を続けていた。その危機の中ボリスは健康を崩していた。そしてもっぱら貴族達が会議により国家の危機にあたっていたのであった。
クレムリンの中のグラノヴィータヤ宮である。ここの広間に彼等は集まっていた。
ロシアらしい大造りな広間である。ただ広く、装飾もまた大きい。その中で貴族達は何かと話し込んでいた。
「あの皇子は何者なのだ」
長く濃い髭の貴族達が話し合う。
「偽者なのか?」
「それとも本物か」
「馬鹿を言え」
ここでその中の一人が言った。
「あれは偽者と決まっている。わしはこの目で皇子が馬車から落ちられるところを見たのじゃ」
「では間違いないな」
「うむ」
「反逆者は死刑。それで宜しかろう」
「いや、待たれよ」
だがそこに制止が入った。
「どう為された」
「逮捕が先かと」
「そちらが先か」
「左様、そして拷問にかけてから」
雷帝、いやタタールからの残忍なやり方であった。
「屍は吊るして烏の餌にしようぞ」
「いや、火炙りにすべきだ」
貴族達は口々に言う。
「炎で焼き尽くし、灰は散るに任せよ」
「どちらにしろ反逆者達には惨たらしい死を。そうであろう」
「うむ、反逆者達には死こそ相応しい」
「それもこの世で最も恐ろしい刑罰で」
そんな話をしていた。だが今一つまとまりがなかった。
彼等もそれに気付いた。そして誰かが言った。
「ところで」
「どうされた?」
「シュイスキー公爵がおられませんな」
「おや」
「そういえば」
言われてようやく気付いた。
「こんな時におられぬとは」
「また何か企んでおられるのでは」
彼等もシュイスキーが信用ならない男であると知っていた。時にはボリスにつき、時には裏切る。だが平然として常に彼の側にいる。野心の為なら何でもする男と皆知っていたのだ。
「しかし公爵抜きではどうにも」
「ですな」
彼等は少し困っていた。
「いい案が出ないどうしたものか」
「いや、失礼」
「おや」
だがここでその当人がやって来た。
「申し訳ない。遅れてしまいました」
「今度は何の御用件ですかな」
その中の一人が意地悪い笑みを浮かべて彼に問う。
「何のとは」
「今回も貴方の仕業ではないですかな?」
一人が尋ねる。
「何のことでしょうか」
シュイスキーはキョトンとした顔でその尋ねて貴族に対して逆に尋ね返す。
「偽皇子の件ですよ」
「知りませんな」
彼は素っ気無く答えた。
「まことに?」
「私はポーランドとは関係ありませんので」
彼は言う。
「大体ロシア正教ならばどのみちカトリックにとっては敵。違いますかな」
「確かに」
「では今回は信じて宜しいのですな」
「今回と言わず常に信じて頂きたいですな」
シュイスキーはしれっとしてこう述べた。
「私の様に無二の心を持つ男を捕まえて」
「御冗談を」
だがそれは皆によって一笑に伏された。
「貴方のしてきたことを考えれば」
「それはできないでしょう」
「困ったことですな」
だがシュイスキーの方が一枚上手であった。平然と返す。
「私の心は誰にも理解してもらえない」
これは間違いであった。皆彼が心の奥底で何を持っているか知っているからだ。
「それでは」
戯言なぞ聞きたくもないと思ったのだろうか。また貴族の中の一人が彼に問うてきた。
「はい」
「今回遅れた理由は何でございましょう」
「何かあったのですかな?」
「陛下に呼ばれていまして」
彼は答えた。
「陛下に」
「左様で」
彼は言う。
「御容態はどうですかな」
ボリスが病を得ているということはもう周知の事実である。
「それがどうも」
シュイスキーは残念そうに首を横に振った。
「雷帝の御最後と」
「何ということか」
それを聞いた貴族達は苦虫を噛み潰した。
「酷く憔悴され。そして顔には血の気がなく」
「危ないな」
「はい。冷たい汗をかき、身体を震わせておられます。まるで何かに怯える様に」
「しかし妙ではないのか?」
それを聞いた貴族の一人が言った。
「といいますと」
「何をそんなに怯えておられるのだ?偽皇子をか?」
「まさか」
だが他の者がそれを否定した。
「山師なぞ。何故恐れる必要がある」
「所詮ポーランドの傀儡。何も恐れることは」
「では何故陛下は恐れておられるのだ?」
問いは続いた。
「そこまで。何故だ」
「ディミトーリィ様のことで」
シュイスキーは言った。
「皇子のことでか」
「左様」
ここで皇子とは幼い時に事故で死んだ本物の方である。
「陛下は御自身が皇子を殺したと思い込む様になっておられます」
「わからん」
貴族達はシュイスキーの言葉を聞いて首を傾げた。
「あれは事故だ」
「はい」
「そして今いるのは偽者だ。それに本当に害されていたとしたら」
「あの偽者は本物ということになる。陛下はどうして」
「そこまではわかりませんが陛下が皇子を殺したのは自分だと考えておられるのは事実です」
シュイスキーはまた答えた。
「そしてそれにより今」
「心を病んでおられるのか」
「おいたわしや」
「あの、皆々様」
ここで侍従が部屋に入って来た。
「どうした」
貴族達は一斉に彼に顔を向けた。見れば顔を真っ青にして狼狽している。
「大変です、陛下が」
「陛下が!?」
「どうされたのだ」
一同の顔に不吉な色が走る。シュイスキーも顔を顰めさせた。
「こちらに来られています。何かを追い払う動作をされながら」
「何と」
「遂に御心が」
「寄るな、寄るな」
ボリスの声が聞こえてきた。そしてそれは次第にこちらに近付いて来る。
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