アラベラ
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第二幕その三
第二幕その三
「けれどその時はもう少し待って頂けますか」
「どれ程ですか?」
「一時間程。娘時代に最後の別れを告げたいので」
「わかりました」
マンドリーカはそれを認めた。
「では私は喜んで待ちましょう。貴女がその清らかな時代に最後の別れを告げられるのを」
「有り難うございます」
だが礼を言う彼女の顔にすっと影が差した。マンドリーカは不意にそれに気付いた。
「どうされたのですか?」
「はい。やはり寂しいものですから」
彼女は力なく微笑んでそう答えた。
「楽しかった今までの娘時代。それが終わると思いますと」
「そうですね。私もそうでした」
マンドリーカにもそれはわかった。
「私もあの子供だった時が懐かしい。少年だった時も。今はもう戻ってはきませんが」
「ええ」
「それと別れを告げられに行かれるのですね。お辛いでしょう」
だがそれは誰もが潜り抜けなければならないものである。マンドリーカもそれはわかっていた。
「ええ。けれどやらなくてはなりませんから」
そう言ってまた微笑んだ。今度は強い笑みであった。
「それではこれで」
そして席を立った。マンドリーカは微笑みでそれを送る。
「どうぞ」
「はい」
こうして彼女は席を立ちその場を後にした。そして娘時代への決別に向かった。ここで不意に場内が騒がしくなった。
「!?」
マンドリーカはその騒がしくなった方に顔を向けた。見ればそこに大勢の人だかりができていた。
「パーティーのメインディッシュでも来たかな」
だがそれは違っていた。見れば誰かが来たらしい。
「身分のある方から。いや違うな」
そうだとするとここにいる者全てに声がかかる筈である。どうやらそういうものではないらしい。
「おい、フィアケルミリが来たぞ!」
その人だかりの中の誰かが言った。
「フィアケルミリ?誰だそれは」
マンドリーカは立ち上がってそれを見て呟いた。
「おや、御存知ないですか」
そこで側を通り掛かった男がそれに応えた。
「ええ、遠くにいましたので」
「そうですか。では仕方ありませんね」
彼はそれを聞き納得したように頷いた。
「今売れっ子の女優でして。歌手でもあります」
「女優ですか」
彼にはあまり縁のない職業であった。あまり劇場には行かない彼にとっては女優と言われてもピンとくるものはない。
「そうです、とにかく美しいと評判でしてね。一度御覧になられるべきかと」
「そうですか」
だが彼は動く気にはなれなかった。その場に立っていることにした。
「あの人が戻って来るまでここにいるとするか」
そして騒ぎをよそに一人酒や食べ物を楽しんでいた。
「ふむ」
少し武骨ではあるが気品は備わっている動きであった。
「いいな。やはりウィーンだけはある」
彼はテーブルの上の料理を食べながら呟いた。
「洗練されているというのはこうした料理を言うのかな。うちの料理とは違う」
だが彼はそう思いながらも故郷の料理も思い出していた。
「私にはどちらが合うかな」
それは自分でおおよそのことはわかっていた。だが今はこの都の酒と料理を楽しむことにした。
「土産話にはいいな」
彼は食べ続けた。そして騒ぎには背を向けるのであった。
その頃フィアケルミリは男達に囲まれながら螺旋階段のところに来ていた。
「皆さん」
彼女は高い声で周りにいる彼等に声をかけた。
小柄で丈の短い白いドレスを身に纏っている。明らかに舞踏用のドレスではない。どちらかと言うと演劇用であろうか。そして羽のついた絹の帽子を被っている。その帽子からは金色の巻いた毛が零れ落ちている。
その金色の巻き毛が覆う顔は白く可愛らしい顔立ちをしている。まるで少女のようにあどけない表情だ。そしてその中に湖よりも青い瞳と紅の薔薇の色をした唇がある。その唇の端の笑みはあどけない顔とは違って誘惑を漂わせている。少女の趣と娼婦の妖しさを併せ持った顔であった。そしてドレスの胸には深紅の花があった。
「皆さんは天文学にはお詳しいでしょうか」
彼女は彼等にそう尋ねた。
「いえ」
彼等はそれに対して首を横に振った。
「残念ながら私達は」
どうやらこの場には天文学者はいないようである。
「そうですか」
だが彼女にとってそれはどうでもいいことであるようだ。言葉を続けた。
「皆様は御自身のことがわかってはおられませんわ」
彼女はくすりと笑ってこう言った。
「といいますと」
「殿方は生まれついての天文学者ですわ。星を探し出すことの天才ですから」
「はて」
だが彼等はそれには首を傾げた。
「それはどういう意味ですかな」
「うふふ」
ここでフィアケルミリは笑い声を出した。それから答えた。
「皆さんは星を探し出されるとそれを崇められますわ。そしてその星とは」
螺旋階段の下に彼女がいた。アラベラである。
「こちらの方ですわ」
そう言いながら胸に差していた花を手にとった。そしてそれをこちらに顔を向けたアラベラに投げる。
アラベラはそれを手にした。そこで一同は歓声に包まれた。
「また賑やかだな」
マンドリーカはそれをよそにまだ食事を採っていた。そこに誰かがやって来た。
「あら」
それはアデライーデであった。
「貴方だけですね」
「はい」
彼はそれに答えた。
「アラベラは」
「別れを告げられに行かれました」
「別れを。誰にですか?」
「娘時代にです」
彼はそれに対して微笑んでそう答えた。
「新たな時代に足を踏み入れられる為に」
「そうだったのですか」
アデライーデもそれを聞いて微笑んだ。
「それでは安心ですわね」
「はい、あの方は素晴らしい方です」
彼はうっとりとした眼差しでこう言った。
「姿だけでなく心までも素晴らしい」
「それは買い被りですわ」
アデライーデは娘があまりにも褒められているので恐縮してしまった。
「いえ、私はそうは思いません」
だが彼はそれを否定した。
「私は決めました。あの方を妻に迎え入れたいです。そしてあの方もそれを受け入れて下さいました」
「まあ、それは」
「そして貴女と貴女の御主人をこれからは父、そして母と御呼びしたいのですが。宜しいでしょうか」
「喜んで」
彼女はそれを受けて静かに頭を下げた。二人もまた来たるべき幸福を楽しみに待っていたのであった。
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