道化師
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第一幕その三
第一幕その三
「そうした冗談はね」
「好きではないのかい?」
「芝居と現実の生活は違いますよ。そりゃ舞台の上で女房が色男と同じ部屋にいてもおどけた御説教で済ませます。しかし」
「本当だったら?」
あえて問うてみせる。
「そんなあっさりとはいかないでしょうね。そりゃ当然です」
「そうなのか」
「そういうことです。何せ私は女房がいない生活なんてもう考えられませんから」
「惚れてるんだね」
「ぞっこんでさ」
笑って答える。
「いいねえ、そこまで惚れているなんて」
「俺も見習わないとな。それにしても奥さん」
「はい」
ネッダもペッペ達を手伝っていたが今はカニオの側に来ていた。
「幸せですね。こんなに惚れてもらえて」
「ええ、まあ」
応えはしたがその返事には心がない。しかしカニオはそれには気付かなかった。
そこにバグパイプの音が聞こえてきた。パイピ吹きも祭りなのでやって来たのだ。
「今度はパイプ吹きだ!」
「あっち行こう!」
子供達は今度はそっちへ飛んで行く。その好奇心のままに動いている。
「じゃあ私達は教会へ」
「そうね」
女達は教会へ。今日は聖母マリアを祝う日なのだから。
「七時ですよ」
カニオは忘れずに彼等に声をかける。
「いいですね」
「はい」
「では七時に」
「来て下さいね。面白いですから」
「じゃあその用意の時間まで」
「御馳走しますよ」
「こりゃまたどうも。じゃあペッペ」
「はい」
ペッペは座長の誘いににこりと応える。
「ネッダ、御前はどうするんだい?」
「今は飲む気分じゃないから」
「そうか」
カニオは妻のその言葉を聞いて少し残念そうな顔になった。
「じゃあ行ってくるからな」
「ええ。時間になったら戻るのよね」
「勿論さ。で、何処にいるんだい?」
「芝居小屋よ」
彼女は素っ気なく答えた。
「そこにいるから」
「そうか、芝居小屋か」
この言葉は二人同時にそれぞれ離れた場所で言った。
一人はカニオ、そしてもう一人はトニオ。二人はそれぞれネッダを見ながら呟いたのであった。
「そこで化粧とかしておくから」
「わかった。それじゃあ芝居の時にな」
「ええ」
「またな」
カニオはにこやかに笑ってネッダに別れの言葉を贈った。その物腰には心からの信頼があった。だがネッダはそうではなかった。その顔と物腰には何故か憂いがあったのであった。
ネッダは芝居小屋の側で一人になった。そして岩の上に座り込んで考えに耽っていた。
「またあの目で私を見ていた」
カニオの目を思い出して身震いしていた。
「いつもいつも。私を見ている」
そこに恐怖を感じていたのだ。実は彼女は今の生活が気に入らなくなっていたのだ。
「真夏の日差しの中でも私はあの人の側。このままずっとあの人の側なのかしら」
ふう、と溜息をつく。
「ずっと。小鳥達みたいに空を飛べたら。青い空と黄金色の雲の間を越えて。飛んでいけたら。どんなにいいのか」
鳥になりたい、心からそう思っていた。
「ずっと遠くへ飛んでいけたら。すぐにでも飛んでいけたら。鳥になれたら」
心からそう願う。そこへトニオがやって来た。
「何の用?」
トニオをジロリと見据えて言う。
「ちょっとね」
卑しい笑みを浮かべながら彼女に近付いていく。
「用があってね」
「あたしにはないわよ」
冷たくそう言い返す。
「うちの人のところに行ったら?今頃楽しく一杯やってる頃よ」
「今は酒はいいのさ」
「じゃあ休んでたら?」
「まあ話を聞いてくれよ」
トニオはその鋭い目を隠し、下卑た声で言った。
「俺だってな、人間なんだ」
まずはこう切り出す。
「夢もあるし願望もある。心臓だって鳴るんだ」
「それはあたしもよ」
「まあ聞いてくれ。わかるだろ」
次第にネッダに近付いていく。
「俺が何を考えているのさ」
「別に」
「わからないのか、俺の気持ちが」
「あたしには関係ないからね」
「そう言わないで聞いてくれよ」
やはり下卑た声で言う。
「俺はな、ネッダ」
「何を言うつもりなの?」
「わかるだろ。俺だって誰かを好きになることはないんだ」
「面白いわね」
侮蔑した笑みでそれに返す。
「舞台の練習を今ここでするなんて」
「そんなことを言うのか」
「何度でも言ってあげるわ」
目もまた侮蔑したものになっていた。
「それは舞台で言うのね」
「ネッダ」
「下がった方がいいわよ」
その声と目が険しくなった。
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