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ホフマン物語

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第三幕その五


第三幕その五

「先生」
「勿体ないことです」
 彼はあえて残念そうな素振りを見せてこう述べた。
「このまま唄わないなぞと。それだけのものがありながら」
「私にあるもの」
「気品、美貌、才能」
 ミラクルは言った。
「その全てが備わっているではありませんか。それを家庭なぞというつまらないものに埋没させてしまうのですか?」
「けれど私にはもう」
 顔を斜め下に俯けさせて言う。
「もう一度見たくはないのですか?あの観客席を」
「観客席を」
「そう。貴女のモーツァルトのアリアは最高だった」
 彼は言いはじめた。
「コシ=ファン=トゥッテも。フィガロの結婚も」
「御覧になっていたのですね」
「そう。そして後宮からの逃走も。どれも素晴らしいものだった」
 アントニアの耳に囁くようにして言う。足が少し影の中にある為その長身が隠れている。丁度彼女の耳に口があるといった形であった。
「舞台照明の光。観客達のカーテンコール」
 彼は囁き続ける。
「贈られてくる花束。それを忘れられますか」
「けれど私は」
 それでもアントニアはそれを振り切ろうとした。
「もう唄えませんから」
「諦められるのですか?」
「はい」 
 彼女は言い切った。
「有り難い御言葉ですが」
 その実悩まされているのも事実であった。神の言葉にも悪魔の囁きにも聞こえた。どちらなのかわかりはしない。それがかえって彼女を惑わせるのであった。
「けれどもう」
「あの若者は実は貴女のことは考えていないでしょう」
 ミラクルはここで突如としてホフマンに話題を変えてきた。
「あの方が」
「はい。彼は貴女を自分のものとしたいだけです。そしてその為だけに貴女を唄わせないだけです」
「そんな筈は」
 アントニアはそれを否定しようとする。
「あの方は私のことを本当に思って」
「男の言葉なぞあてにはなりませんよ」
 ミラクルはそれを見透かしたかのように言った。
「自分勝手なものです」
 そう言って消えた。影の中に消えた。アントニアはミラクルがいなくなってようやく我に返った。
「今のは」
 夢でも見ていたかのような気分であった。ただしそれは悪夢である。
 疲れた顔で壁の方に歩いていく。母親の肖像画のところにまでだ。
「御母様」
 彼女は母に語り掛けた。
「私はどうすればいいの?」
「それは決まっています」
 またミラクルが現われた。今度は肖像画の隣にある扉から出て来た。そこから上半身だけ生えている形になっていた。だがアントニアはその異変には気付いてはいなかった。ただ彼の言葉に惑わされるだけであった。
「母上の御言葉に従いなさい」
 そう言いながら姿を現わしていく。そしてアントニアの隣に立った。
「そうすれば道が開けます」
「道が」
「はい」
 彼はまた耳元で囁きはじめた。
「ほら」
「アントニア」
「その声は」
 絵から女の声が聞こえてきた。アントニアはそれにギョッとする。
「聞こえていますか」
「御母様なのね」
「ええ」
 見れば絵が動いていた。口を動かし、頷いていた。まるで生きているように。
「聞こえますな、あの声が」
「はい」
 ミラクルの言葉にももう頷くだけであった。
「御母様の声です。よく聞きなさい」
「わかりました」
 この時アントニアはミラクルの顔を見てはいなかった。見ていたらどう思ったであろうか。その無気味な笑顔お。まるで悪魔の様な笑顔を。
「アントニア」
 母はまた娘の名を呼んだ。
「唄いたいのね」
「はい」
 アントニアは頷いた。
「とても。幾ら偽っていても私にはわかるわ」
 母は優しい声でこう言った。
「唄いなさい」
 そして言った。
「唄う」
「そうよ。自分の心に従うのよ。そうすればいいわ」
「けれどそれは」
「御母様の御言葉です」
 ここでミラクルがまた囁いた。
「唄う様に仰いましたね」
「ええ。けれど」
 だが彼女はまた戸惑っていた。
「唄えば」
「何を迷う必要があります」
 彼はまたしても耳元で囁く。
「御母上も仰ったではありませんか」
「アントニア」
 肖像画の母がまた言う。
「唄えばいいのよ」
「唄えば」
「そう」
「もう用意はできておりますぞ」
 ミラクルはそう言いながらバイオリンを出して来た。そして言う。
「唄いなさい」
「わかりました」
 彼女は意を決した。自分の心に、いや得体の知れぬ誘惑に従うこととした。
 
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