戦国御伽草子
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弐ノ巻
霊力
1
「瑠螺蔚さん!瑠螺蔚さん!起きれくれ、お願いだ、瑠螺蔚さん!」
うるさいな…耳元で怒鳴らないでよ…ちょっと誰よほっぺたたかないでよ…。
というか…なんか…寒い…。
あたしはぶるりと体を震わせるとゆっくりと目を開けた。瞼がやけに重い。なんで?
目の前に高彬の顔があった。泣きそうなような、怒っているような、不思議な顔をしていた。
「…!」
高彬はあたしに覆いかぶさるように強く抱きしめた。
「え…ちょっと…なに…?」
混乱しながらその背に掌をあてて聞いたけれど、返事はない。
「高彬…?」
何か様子がおかしいと、そこであたしは気づいた。やだ、あたしずぶ濡れじゃん!手が草を潰す。川岸であたしは高彬に抱きしめられているのだった。
高彬はあたしの肩を掴んでまじまじと顔を見た。泣きそうだったその顔がだんだん怒りで眉がつり上がってくる。
「…っなにやってるんだ!」
「…は?」
いきなり怒鳴られてあたしはぽかんとした。
「どうしてこんなことをしたんだ!秋に川で泳ぐつもり?僕がいなければどうなってたかわかってる!?」
「川?泳ぐ?」
「自分から飛び込むなんて…!」
飛び込む…あたしは視線をずらして川を見た。川…?
一気に記憶が巻き戻る。
緋に濡れた障子。
はっとあたしは立ち上がった。高彬が慌てて手を放す。
「瑠螺蔚さん!」
「どのくらいたったの!?」
あたしの切羽詰まった様子に高彬は気圧されたように目を見開く。
「どのくらい…?」
「あれからどのくらい…ああもう!」
「瑠螺蔚さん!?」
あたしはもどかしくなって走りだした。結構流されたみたいで、館までは距離がある。
倒れたまま動かない姉上様と義母上。一刻も早く、手当てをしなければ!
「兄上ぇえーーーーーーーっ!」
走りながらあたしは叫んだ。
どうか、どうか応えて!心の底から兄上の名を呼んだ。
(瑠螺蔚!?)
じん、と心に響いてくる声があった。懐かしい声だった。その声を聞いた瞬間、あたしの瞳から一気に涙が溢れた。
泣きじゃくりながらあたしは言った。
「兄上!あたしを翔ばして!兄上のもとへ!」
言い終わらないうちに、ぐらりと地面の感覚が分からなくなって、兄上が目の前にいた。
戸惑った顔であたしに歩み寄る。
「瑠螺蔚。いったい何があったんだい」
あたしはざっとあたりを見回した。兄上の室のようだった。
離れからは一番遠い。普段通りの態度を見ると、もしかしたら騒ぎに気づいていないのかもしれない。
「兄上、兄上…姉上様と義母上が…お願い助けて!」
あたしの様子にただ事ではないと思ったのか、兄上の表情が緊張する。
「落ち着くんだ。二人がどうしたの?」
「斬られたの…離れで…二人とも、動かなくて…」
「掴まって」
兄上はあたしの腰を掴んで引き寄せた。また、ぐらりと自分がどこにいるのか分からなくなるような浮遊感があって、気がついたらあの血染めの部屋にいた。鼻を突く生臭い血の臭い。
「…!」
部屋には3人の下男がいて、一様に大きく目を見開いていた。
「俊成様と瑠螺蔚様…!?いま、どこから…」
「こちらの襖からだ。どいてくれ」
と言って兄上は下男に囲まれていた人を見た。あたしは息がとまった。どこかで、あたしの見たことは全て夢だったんじゃないかとも思っていたけれど…。
だらんと力なく畳の上に伸びる手。その手すら血に塗れている…。
「二人の新しい衣と、温めた布と湯を沢山持ってきてくれ。急がなくていいから」
兄上はその場にいた下男にそう言った。
「俊成様…その、大変申し上げにくいのですが…お二人は…」
「大丈夫だ。わたしは医の心得がある。必ず助ける。行け」
下男に向かって言いながら、茫然と声も出ないあたしの肩を安心させるように叩いた。
止血…というか、布は傷口に巻かれていたが、その布すら滴るほど真っ赤に濡れている。姉上様は正面から袈裟がけに斬られたようで、義母上よりも傷は深そうだった。あたしは唇が震えた。
慌てたように下男が出て行くのを待って、兄上は義姉上の太刀傷の真上に手を翳した。
すると、見る見るうちに、深く裂けていた太刀傷が癒えていったのだ。
「すごい、兄上…!」
兄上は姉上様の傷をどんどん消していった。
姉上様が助かる。義母上が助かる…!
兄上は姉上様の傷をあらかた治すと、今度は義母上の傷を治そうと向き直ろうとした。その時、ふと兄上はふらついた。
あたしは咄嗟に兄上を支えて、思わず息をのんだ。
その身体は、氷のように冷たかったのだ。
兄上は義母上にも手を翳した。傷が、癒えていく。けれど、姉上様の時と比べるとその速さは遥かに遅かった。
霊力は無尽ではないのだ。癒の霊力は一番疲れると聞いた。こんな、重症の傷を立て続けに二人も治せば、兄上はどうなってしまうのか。
「やめて!もういい、もういいからっ!」
あたしは泣きながら兄上の腕に縋った。
「瑠螺蔚…」
兄上は細く呟いた。その額には滝のような汗がにじんでいた。
そしてそのまま、糸が切れたようにどっと倒れてしまった。
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