戦国御伽草子
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壱ノ巻
文の山
3
ぱたっと雫が落ちた。
銀色の鈍い輝きを隠して、雫はそれを伝い落ちてゆく。
障子に飛んだ緋。染め上げられた畳。
微塵も動かない義姉上と義母上。
そして。
血塗れの刀と、赤を全身に纏って立っているのは、発六郎だった。
そのくちびるが、微かに瑠螺蔚と動くのを見た。
なに、これ。
あたしは白昼夢でも見ているの?
「発、六郎…」
発六郎が、姉上様と、義母上を斬ったの?
発六郎が…。
発六郎の手が、あたしに向かって伸びる。
「あんたー…家に来たのはこのため?義母上と義姉上を殺すため?それともーー…あたしを殺す、ため?」
伸ばされた手が、虚空で止まった。
そうなのか。
あたしはふっと笑った。
こんなときなのに、昨夜のことを不意に思い出す。
発六郎と、初めて言葉を交わしたとき。
夢をみて、震えていたあのとき。
「あのとき、あんたが傍にいてくれて嬉しかったのに」
小さく言って、あたしは顔を上げた。
義姉上と、義母上を斬った発六郎を許すことは出来ない。
あたしもこんなところで死ぬ気はないし、このまま発六郎が兄上や父上を傷つけないとも限らない。
「あたしも殺すのね」
「瑠螺蔚」
発六郎が顔を上げる。口を開く。酷く苦しげな顔。
でもそれもお芝居かもしれないわよね。
だって、あんたはあたしに優しくしながら、こうして義姉上達を斬ったのだから。
酷く裏切られたような気がしてあたしはふっと嗤った。
ばかみたい。裏切られたって何?あたしが、ただ勝手にいい人だなんて思いこんでいただけ。
「あんたに名なんて呼ばれたくない」
あたしは護身用の懐刀をすらりと抜いた。
「!」
発六郎が一歩下がった。
懐刀と、大刀。それに加えて女と男と言う力差もある。こっちが不利なのは、火を見るより明らかだ。
それでも、あたしは殺されるわけにはいかないのだ。
あたしはちらりと義姉上達を見た。
早く、片をつけないと・・・・。
それから、改めて懐刀を構えた。
発六郎がそんなあたしを見て、ゆるく息を吐き出した。
「…」
空気がぴんと緊張した。
ふと、発六郎の姿が一瞬ぶれた。
「!」
咄嗟にあたしが体を捻ると、後ろの赤く濡れた障子がスパッと切れる。
速い!
発六郎が目を見開く。まさか、あたしがよけるとは思っていなかったのだろう。
あたしはちらりと縁に目を走らせた。
これだけ大仰に立ち回っていれば、誰かが気づいてくれるだろう。
でも、駆けつけた誰かが発六郎に斬られるなんていう事態はごめんだ。
あたしは縁から庭におりた。
発六郎が一瞬戸惑う。多分あまり大事にはしたくないのだろう。わざわざ義姉上達を離れに呼んで斬ったくらいなのだから。
でも躊躇ったのは一瞬だった。すぐにあたしに倣って庭におりる。
挑発に乗ったと確認して、あたしは走り出した。
最短距離で家を抜けるために、多少庭の枝に肌を引っ掛けるのは気にせず走った。
所々で、悲鳴が上がる。
発六郎の刀を見たからか、血塗れの発六郎自身を見たからか。それとも懐刀を持って走っているこのあたしを見たからか。
何にしても、これだけ騒ぎが大きくなれば、発六郎ももう掴まるしかないだろう。
まだあたしについてきているか確認しないままにあたしはただ走った。
ついてきているもよし、ついてきていないのなら、それはどこかで発六郎が掴まったと言うことだから、それもよし。
屋敷の外まで走り出て、あたしは息を整えながら、後ろを振り返った。
いない。
あたしは目を細めた。
…ううん、来た!
あたしは門に身を寄せて、発六郎の死角から、懐刀を翻した。
「!」
発六郎の喉に、刃を押し当てる。その背が、屋敷の外壁に当たる。
発六郎の目が、驚きに見開かれた。
「動かないで」
「…」
発六郎が息を詰めるのがわかった。
「どうして義姉上達を斬ったの。あんたの目的は何?どうしてうちに来たの」
発六郎が答えずにふっと笑った。
「…」
あたしは刃を喉の上に滑らせた。じわりと血が滲み出す。
「あんたに拒否権はないわよ」
「俺は死んでもいい」
「使い捨ての駒ってこと?黒幕が別にいるの?」
「…」
「答えなさい」
「俺を殺さないのか。俺はおまえの姉と母を殺した。俺を殺さないのなら、俺はおまえを殺すぞ」
「!」
発六郎がそういった瞬間、何がどうなったのか、手に痺れが走った。
はっとして見ると、懐刀が弾き飛ばされていた。でも何処に弾き飛ばされたのか、わからない。
咄嗟に発六郎を見ると、表情が苦々しく変わっている。
どうも、発六郎がやったのではないらしい。
他にも協力者がいるの!?
あたしはずり、と一歩下がった。
発六郎が、あたしが下がった分、一歩前に出る。
ちらと屋敷を見たけれど、今すぐに助けが来ることはなさそうだ。
絶望的だ…。
発六郎が、あたしに手を伸ばした。
捕らえて殺す気か、それとも前田を脅すのか。
そんなの、どっちもいや!
あたしは唇を噛んで、身を翻した。
小さい頃に、あたしが落ちた野洲川。
屋敷のすぐ近くを流れているその川縁にあたしは走り寄った。
発六郎が息を呑む気配がする。
あたしは一瞬だけ、発六郎を見て笑った。
残念ね、発六郎。あたしは、あんたの手にはかからないわ。
あたしは躊躇いなく、水面に足を踏み出した。
「っ、瑠螺蔚ーーーーーーっ!!!」
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