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くらいくらい電子の森に・・・

作者:たにゃお
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第六章 (1)



始業30分前

今日は冬には珍しいほどにカラっとした晴天だった。何となく早めに教室に着いて、後ろから3番目の窓際の席に座る。結露で曇った窓越しに駐輪場が見える。そこに、僕の自転車がとめてある。…自転車使うほどの距離じゃないんだけど、今日は何となく早起きしてしまったので、何となくフレームを磨いてホイールに油をさした。
せっかくだから、何となく学校に自転車で乗りつけ、ちょっと目立つ場所に置いてみる。

しんしんと底冷えがする朝の教室で、窓越しにキレイになった愛車をぼんやり眺めながら、ずっと考えていた。

柚木が来たら、なんて声を掛けよう

昨晩は結局、何もまとまらないまま寝付いてしまった。
朝起きてそれに気がついたとき、軽くパニックに陥った。

安全パイは「よぅ」とか軽く声を掛けて、自分からはオムライスについて触れないことだと思うんだけど、それではなんというか…
上流から偶然岸に寄りついた希少な流木を「っそぃやぁ!!」とばかり流れに蹴り戻すようなものだ。

すごい男らしい絵ヅラだが、逃した流木は多分、大洋に放たれたっきり二度と河を遡上してこない……

かといって「オ、オムライス作ったよね!? 僕に作ってくれたよね!?」
とかオムライスを作ってくれた事実にがっつき過ぎても、「うわ、モテなそ……」とか言われてドン引きされそうだし……
突っ伏して頭を掻き毟る僕を、ちょっと見覚えのある学生が不審げに一瞥して通り過ぎる。携帯を見ると既に始業15分前。…伏し目がちにゆっくり室内を見渡す。真面目そうな学生が数人、前とも後ろともつかない位置の席に座っている。…柚木の姿はない。
 …始業5分前。もう学生もちらほら集まり始め、席の半数がうまっているのに、柚木は来ない。

こんな日に限って、ばっくれる気なのか……かるく凹んだ反面、なにか解放されたように清清しい。あのオムライスの一件は、僕の中の『謎の思い出BOX』に封印して、将来、万一、僕に彼女が出来て1年くらい経ったらそっと開けてみることにしよう…

 始業時間。田宮教授は少し遅れているようだ。柚木は、やっぱり来ない。……さっき感じた清清しさが、時を追うごとに濁り始めた。もう教授が来る前に、さっさと帰って布団かぶって寝てしまおうか…と思った矢先、ぺたり、ぺたり、としみったれたかんじのスリッパの音が近づいてきた。
「タミヤ来たぜ」
「…どんな材質だとあんな音がするんだろうな」
前に座っていた連中が話しているのを聞いて『ういろうじゃないか』とかいって話に加わろうかと一瞬迷ったけど、その話題はもう終わったようなので、黙ってノートを開いた。

ぺたり…ぺたり。スリッパの音が止まった瞬間

教室後ろのドアが開いて、誰かが飛び込んでくる気配がした。
軽快な歩調、僕の斜め後ろの椅子が引かれる気配…

振り向かないでも分かった。

柚木が走ってくる音は、殆どしなかった。多分、教室の外で始業を待っていたんだろう。
腹の奥のほうに何か温かいものが点って、すこし、顔がにやけた。

……きっと柚木も、よく分からないんだ。

田宮教授がぼろぼろのノートと資料を教壇に放り、黒板に何かを書き始めた。チョークが軋る音を聞きながら、僕は目を閉じる。
空想の中で描いたのは、手を繋いで神保町を歩く、柚木と僕だった。

昨日まで腕枕だのブランデーだの、もっとすごいことだの妄想していたのに、手が触れる距離に近づいた途端、野望が一気に萎縮してしまった。空想の中の僕たちは、中学生みたいに躊躇いがちに手を繋いでいる。そんな情景すら、とても遠く感じた。

でもすごくリアルに感じた。華奢な指の質感とか、勝気なくせに伏目がちな微笑とか。
この授業が終わったら、真っ先に振り向こう。
そして、とっておきの喫茶店に誘おう。
そんなことを考えながら呼吸を整えた。


ぶぶぶぶ…ぶぶぶぶ…


鞄の中で、携帯がくぐもった振動音を発している。鞄から出さずに軽く傾けて、着信を確認する。
『ビアンキ』
googleでの張り込み中に何かあったら、IPフォンから携帯に連絡するように伝えてある。ちらと教壇に目を走らせた。教授は華奢な体格に似合わぬ激しさで、チョークを軋らせて債権譲渡の図を書きなぐっている。…僕はおもむろに、着信ボタンを押して耳にあてた。
『…いま、大丈夫ですか?』
「あぁ問題ない。進展があったのかい?」
『え…えっと、進展じゃないけど!あの、出来たんです!』
「出来た?…なにが?」
『んふ、いいもの、です!早くみて、みてください!』

…張り込み中、ヒマを持て余して何か作っていたようだ。再度、教壇に目を走らせた。教授の作図は終わらない。
「分かった分かった」
バッグからノーパソを取り出し、なにげなく開いた瞬間


椅子からズリ落ちそうになった。


液晶画面の2/3を占めていたのは、湯気をたててじわじわと回る、気持ち悪いほどリアルな柚木製・3Dオムライスだった。

背景だけじゃない、アイコンから、カーソルから、メニューバーから、細部に至るまで柚木のオムライス一色で統一されている。今、正面から僕の顔を見たら、画面の照り返しでさぞかしまっ黄色に見えるだろう。
……ともかく、これはちょっとまずい。授業終わったら爽やかに振り向こうと思っていたのに、こんなもんを見られたら、僕がオムライスに対して必要以上に狂喜乱舞してたみたいに思われてかっこ悪いじゃないか。
僕は、即座にノーパソを閉じた。
その瞬間


『食~べ放~題~~~~♪』


……人目もはばからず、頭を掻き毟りたくなった。

僕のノーパソから、桂 雀三郎の伸びやかなヨーデルが、大音量で教室中に響き渡った……受講している学生が全員、バッと僕の席を振り返る。

カツカツと軽快に響き渡っていた教授のチョークが、ぴたりと止まる。
『焼~肉バイキング~で~食べ放題~~、食べ放題ヨレイヒ~~♪』
「ばっ……」


やっ……やめて―――!! お願いだからもう静かにして―――!!


僕は慌ててノーパソをひっつかみ、こじ開けた。
「な、何のつもりだ、よせビアンキ!!」
ビアンキは、夢からむりやり叩き起こされたような呆け顔で僕を見上げた。
『えと…ご主人さま、すぐ閉じようとしたから、アピールが足りなかったかなって…』
「…………」
こわごわと視線を上げる。……教授は、緩慢な動作で振り向くところだった。緩慢なので、振り向ききれていない。
…そして不意に、首の後ろがチリチリした。……どす黒~い瘴気が、斜め後ろから僕のうなじあたりに突き刺さる。す、すごい威圧感だ……姿を見せずに、僕をこれだけ圧倒するとは……。

……恐ろしくて、もう爽やかに振り向くなんて出来ない……

『そ、それで…ご主人さまが、うれしい時によく口ずさむ《ヨーデル食べ放題》を…』
僕の恐怖の形相から、どうやら『のっぴきならない状況に陥っている』ことを察したビアンキが、こわごわ画面の端からレースのカーテンを引き出した。そしてカーテンをシャッとすばやく引くと、ぷるぷる震えながら隠れてしまった。
「……あっ!こら出て来い!隠れるな!!ヨーデルどうするんだよ!!」


「僕は、逃げも隠れもしませんよ」

げっ……

「ヨーデルをどうするおつもりか、聞きたいのは僕のほうです……」
ふたたび、こわごわと視線を上げる。…田宮教授は、振り向ききっていた。

「……おもわずヨーデルを大音量で流しちゃうくらい、僕の授業はつまらない、と?」

どよめく教室の中、僕だけがエアポケットに落とされたみたいに、周囲の音がフェードアウトしていく…頭のてっぺんが渦を巻く。ぐるんぐるん周り続ける、ぐるんぐるん……いけない、このままヨーデル食べ放題を垂れ流しながら卒倒でもしたら、僕のこの教室でのあだ名は「ヨーデル」に決定してしまう…!!

「……いや、あの、違うんです! う、ウイルスなんです!ウイルス!!」

咄嗟に思いついた言い訳を口走りながら、教科書とノートをババッとまとめ、ヨーデルを奏で続けるノーパソをカバンに押し込み、急いで立ち上がった。
「なんか止まらないんです!ウイルスみたいで…あの、ご迷惑になるので出ます!」
「……ウイルス。なんか、大変だねぇ」
教授は、呆けたような顔で僕を一瞬目で追うと、また緩慢な動作で黒板に向き直った。僕はカバンをコートでくるむと、こけつまろびつ教室を飛び出した。

……僕はなんでいつもこうなのだ。肝心要のときに限って。あの時も、この時もそうだった…これまでの、大事な局面での悲惨な失敗が次々と脳裏を駆けめぐる。なんかもう泣きたい……。
これ以上ヨーデルが続くようなら、ノーパソ叩き壊してしまおうかとまで思いつめた瞬間、ふつり、とヨーデルが途切れた。

た、助かった……

荒い息をつきながら立ち止まる。…講義に戻れる空気じゃないから、手近な教室に入り込んで、ちょっと休むことにした。後ろ手にドアを閉めて、机にカバンを放り投げて一息ついた瞬間、ノーパソからすすり泣きが聞こえた。
「なんだよ今度は!」
乱暴にノーパソを開くと、ビアンキが画面の隅でうずくまって、すすり泣いていた。
「う……ウイルス……」
「えっ…いや、あの」
「……ウイルスですか……ぐす……」
セキュリティソフトなのにウイルス呼ばわりされたことで、プライドを傷つけられてひどく落ち込んでいる。…なんだ、この扱いにくいセキュリティソフトは……。泣きたいのはこっちだ!の一言をぐっと飲み込み、僕はつとめてやさしくビアンキに声をかけた。



「…いや、それは…つい咄嗟にね…」
「どうせ私なんて…ウイルスですからっ……ぐすっ」
僕に背を向けて、壁紙をむしりながらいじけ始めた。うわ、ちょっとウイルスっぽい。
「そんなことないから、ね、機嫌直してよ、ビアンキ」
「ウイルスですからっ!こんなものっ!食べちゃいますからっ!!」
ビアンキは折角つくった3Dのオムライス画像を引っつかむと、もぐもぐしながら口の中に押し込み始めた。
「――だー!もうやめてよ!!ね、ほら、気持ちはとってもうれしいから!ね、僕はビアンキが怒ってると悲しくて泣きそうだよ!!」(別の理由で)
「……ほんとに?」
オムライスを戻すと、ちょこんと正座して僕に向き直り、首をかしげる……あぁもう、かわいいなぁ……。セキュリティソフトとしてはどうかと思うけど……
「うんうん、本当だよ!さっきは、みんなの前で音が鳴ったからびっくりしただけだよ」
「みんな、いたんですか?カメラに人が映ってなかった…」
あ、そうか…ノーパソを一瞬で閉じたから、ビアンキは周囲の様子がわからなかったんだ。
「……ごめんなさい……」
落ち着いたみたいだけど、まだ声が暗い。
「でも気持ちはうれしいからね。本当だよ」
「…ヨーデル食べ放題も、鼻歌からがんばって解析して、MP3の音源拾ってきたんです」
「うんうん、ありがとう。でもそれ違法だから、もうやっちゃだめだよ」
マウスで撫でてあげていると、少し機嫌が直ってきたのか、ビアンキはハンカチで軽く目をぬぐって顔を上げた。
「…あと、オムライス、柚木にも見てほしいです!」
「絶対だめっ!!」
「……なんで?…やっぱり、邪魔なんだ……」
ビアンキは視線を下にさまよわせる。
「いや違うんだ!ほら、これは……」
こういう微妙な問題を、どう説明すればいいのか……一瞬、視線が宙をさまよう。僕がおろおろしている間に、ビアンキの雲行きがまたぞろ怪しくなっていく。…しかたない。僕はノーパソをぐっとひきよせると、抱きかかえるようにしてカメラに顔を近づけた。
「このことは、ビアンキと僕の、二人だけの秘密、だからだよ」
言ってる自分もワケが分からないが、どうか雰囲気に飲まれてくれ!と祈るような気持ちでカメラを見つめ続ける。
「二人だけの、秘密?」
彼女の頬が、ぱっと桜色に染まる。どういうプログラミングなんだか超気になるが、ともかく機嫌は完全に直りつつあるみたいだ。
「私とご主人さまの、二人だけの秘密!?」
目を輝かせて繰り返す。僕は何度も頷き返し、マウスで頭をなでた。
「この仕事が終わったら『おやつ巡り』しようか」
ビアンキの目の輝きが、瞬時に倍になる。……『おやつ巡り』というのは、最近、ビアンキが気に入っている遊びのことだ。なんということはない、可愛いスイーツの画像が掲載されているサイトをめぐる。それだけの遊び。ビアンキは気に入ったスイーツの画像をダウンロードしておいて、僕に作ってくれたような3Dを作る。そしてそのうち、ウイルスを食べるアニメーションに、その3Dが登場したりするのだ。
「私、赤くて可愛いおやつがいいです!」
…味覚がないから当たり前なんだけど、彼女のおやつの基準は『可愛さ』のみ。だからいくら美味しくても、板チョコや焼き芋なんかは造形的にダメらしいのだ。
逆に可愛ければ、思わぬものがおやつ認定されてしまうこともある。いつだったか、ビアンキが青い石のブローチをバリバリ食っててびっくりしたことがあった。でも食った断面は、ふかふかのスポンジとクリームだった。
ビアンキは早速上機嫌になり、『ヨーデル食べ放題』を口ずさみながらむしった壁紙にぺたぺたと絆創膏を貼っている。そのうち、遠くの方でくぐもったチャイムが響いた。終業だ。
「……はぁ」
ついても仕方ないのに、ため息が出る。

教室に戻ると、柚木が一人、席に残っていて……
僕に向かってちょっと不機嫌な顔で「……遅い」とか言ったり

そんな空想もしたけど、柚木の性格を考えれば普通に帰ってしまっていることは明確だ。僕は引き続いてのGoogle張り込みをビアンキに頼むと、そのまま机に突っ伏した。



人気がない駐輪場の空気は冴え冴えとして、冷気が首筋に突き刺さる。空はいつしか、鉛色に淀んでいた。そろそろ日が暮れるな。冬の日は、つるべ落としだ…
自転車のチェーンをはずすと、寒気に晒されたアルミの冷気が、噛み付くように僕の手に張り付いた。
箸にも棒にも引っかからないような中古品を格安で買って、割のいいパーツを見つけるたびに改造を繰り返し、何が何だか分からないことになっている我が愛車。中核をなすフレームすら、先輩から譲り受けたブランド不明の謎フレーム。黒くペイントされているので確実じゃないんだけど……形から考えると……多分、ラレーのような気がしないでもない。

変な自転車……。

好天の下、磨きたてのこいつを見たときは『なんてカッコいいんだ!』と錯覚したけど、夕暮れ時、こんな気分でまじまじと眺めると、本当に変な自転車だ……。冷たいサドルにまたがって、ゆるゆると漕ぎ出す。

もう下宿に帰って寝てしまおう、と一瞬思った。事あるごとに引きこもる、この性癖。いつも僕を変な方向に追い詰めているのは、僕自身のこの性格なのかもしれない。
今日は思い切って、部屋に帰らないことにしてみようか。…いや、こんな甚大なダメージを受けている時に自分改造している場合か。とりあえず今日は下宿に帰って寝るべきか……

決心がつかないうちに、僕は下宿近くの、人気のない公園付近についてしまった。…この辺が妥協点かな。なんとなく自嘲的な気分になりながら、公園に自転車で乗り入れる。すると、10mほど前方の歩道を、マフラーを緩めに巻いた女の子が横切った。長く伸びた木立の影でよく見えないけど、何となく気になって目を凝らす。

「……柚木」

…これは、神の采配か。
このまま走り去るか、ちょっと声をかけてみようか迷った。柚木がマフラーの下から、コートの前をかき合わせる。同時に一陣の寒風が頬を打った。

―――風、強いね。寒いから、うちで珈琲飲みながらゼルダやろうか。

いや、なんだその終わってる誘い文句は。そもそも「ヨーデル食べ放題」大音量で流して教室から逃亡した僕がひょっこり現れて「ゼルダやろうぜ」とか、しれっと吐いたら一体どんな目に遭わされるんだ……
横切ろうとした柚木の前に、黒い乗用車が停まって、ドアが開いた。
柚木が、足を止める。夕日の逆光で、表情は見えない。

……な―――んだ、そういうこと。

体中が、弛緩していく感覚。つまり、こういうことか。
柚木には、彼氏がいたんだ。
こんな珍妙な改造自転車なんかじゃなくて、かっこいい車を持った彼氏が……
オムライス一つに舞い上がって自転車磨いたり、柚木の足音に一喜一憂したり…あれは、完全に僕の一人相撲で…僕が入り込む余地なんて、最初からなかったんだ。

……恥ずかしい。

ここ数日の色々な葛藤が、砂上の楼閣のように崩れていく。悲しい…とかじゃない。そこにすら辿り着けないくらい、深くて空虚な洞に、滑り落ちたような感覚。自転車なんて、いますぐここに棄てて、下宿に帰ろう……

さよなら、柚木。黒ずくめにサングラスとマスクを掛けた彼氏と、仲良くやれよ……

…………

…………なんだその変質者みたいな服装は!?

いや、もしかして本当に変質者じゃないのか?僕は「空虚な洞」からいそいそ這い上がって目前の光景に目を凝らした。
開いているドアは自動車の後部座席。彼女をエスコートするにはちょっと不自然じゃないか。そして…後部座席から伸びた腕は、柚木の腕を、がっしりと捉えていた。

……運転手と後部座席の男…少なくとも2人以上の人間がいる……?

掴まれたほうの腕を振りほどこうと足掻く柚木に、後部座席の男が短刀を突きつけた。ビクリと動きを止める、柚木。
気がついたら僕は、黒い車に向かって突進していた。

僕に気がついた柚木が、再び必死の抵抗を始める。男は、猫の子でも取りこぼしたように慌てふためいて空を掴む。その間隙に、僕の自転車が突っ込んだ。刃が自転車のボディに当たり、カリッと音を立てて地面に転がる。
「柚木、乗れっ」
「何処に!?」
戸惑う柚木を腹から抱えあげ、フレームに横座りさせて地面を蹴った。自転車は少しよろめいて走り出す。僕は無理やりギアを最大にチェンジして踏み込んだ。ひどく重い感触と引き換えに加速を得る。心臓が、気が違ったみたいに早鐘を鳴り響かせ、踏み込む足がガクガク震えた。……確かにこれは神の采配だ。失敗は、死んでも許されない。
「つかまって!後ろ確認お願い!!」
柚木はバランスを取りながら僕の腰にかるく手を回すと、僕の脇から頭を突き出した。
「…追ってくるよ!!」
「まじか…最近の変質者は根性あるな!」
「ばか!あれ変質者とかじゃないよ!!」
「……どっちにしろ、弱ったな……」
甘かった。公園出たら諦めると思っていた。こんな重いギアで、柚木を乗せて長続きするはずがない!…僕は進路を変えると、ギアを一段ずつ元に戻した。
「なんでギア戻すの!?」
「この先に長い下り坂がある。そこを抜けても追ってきたら」
一旦言葉を切り、もう一段ギアを軽くする。
「自転車、棄てるよ」
柚木は唇をかみ締めると、僕のほうに身を寄せて視線を前に戻した。重心を少しでも後ろに移してくれたみたいだ。坂はもうすぐ目前…僕はギアの、最後の一段を戻した。



がくん、と車体が傾いで、吸い込まれるように加速していく。風が頬を切るみたいに冷たい。目を細めて、柚木越しに前方を確認する。今のところ障害物は何もない…そろそろ、坂道が終わる。少しずつブレーキをかけつつ、柚木に視線を落としたその時、
「キャァッ!!」
柚木の悲鳴の直後、天と地がひっくり返ったような浮遊感に襲われ、空中に投げ出された。視界をよぎった柚木の体を引き寄せて必死に抱え込む。僕達の体は宙を舞い、正面の古本屋のシャッターに叩きつけられた。
「ぐぶっっ」
叩きつけられた瞬間、背中を貫いた衝撃に、肺の空気を全部吐き出した。
「姶良!?」胸の下あたりで柚木の声がする。よかった…怪我はないみたいだ。ひどい頭痛と、視界がかすむのをこらえながら、上半身を起こした。
「……悪い、車輪で石を踏んだみたいだ……あいつらは」
「まだいる!坂を下りてきてるよ!」
「……じゃ、こっちだ」
視界がぼやけて、足元がふらつく。…でも、方向感覚は衰えていない。僕は柚木の手を引いて、シャッターが下りた古本屋の脇道に駆け込んだ。
「車で、ここは通れないだろう」
「……駄目、来るよ!」
街灯の薄暗がりに停められた車のドアが開け放たれ、数人の男が駆け出して来た。僕らが逃げ込んだこの路地を、まっすぐ目指している。首筋が、ぞくりとした。…早い。女の子の柚木と満身創痍の僕では、すぐに追いつかれる。
「何で、ここまでやるんだよ……!」
「わからないよ!全然知らない人たちだもん!」
「…次の角、右ね」
「角!?角なんてどこにも…」
「そこの、隙間」
駆け抜けようとする柚木の腕を強引に引いて、古い家屋とビルの隙間に潜り込む。ワケがわからない柚木が、抗議しようと口を開いたところをすばやく制して叫んだ。
「ちょっとジャンプして!」
「えっ!?」
反射的に飛び上がった柚木を引っ張って、次の角に駆け込む。数秒後、背後で鼻を引っぱたかれた犬のような悲鳴と、トタン板に激突したような轟音が響いた。
「な、なに、どうしたの!?」
「漬物石だよ」
「…は?」
「ここに住んでいるおばあさんは、漬物石を隣との隙間に放置しているんだ。多分、それに躓いて…」
「…………」
「日も落ちてるし、足元の漬物石なんかに気付かないだろう。…ありゃ爪先からいったね。相当痛かったはずだよ」
「……地の利どころの話じゃないくらい詳しいね」
「…あー、まぁ…」
適当に言葉を濁してやり過ごした。

―――ポタリング部では、たまに有志で「タイムトライアル大会」を開催することがある。スタート地点とゴール地点だけを決めて、脚力と土地勘のみをたよりにタイムを縮めるというシンプルな大会だ。地図上で最短ルートでも、実際に走ってみると坂道が多くて却ってタイムロスになったり、地図には載っていない抜け道(多くは私有地)があったり、前もって調べておいた抜け道に敵がトラップを仕掛けていたりして奥が深い。脚力に自信がある輩は下手な小細工を弄さずにスタンダードな道をいくけれど、僕のような連中は、日々調査を繰り返して最短かつ有利なルートを探るのだ。だからこそ、僕らの土地勘は並大抵じゃない。
ちなみに、柚木を始めとする『おしゃれ街乗り派』は、こんな馬鹿な大会には参加しない。

「これで一人はリタイアだね!」
「…でもこのままじゃ、もうすぐ追いつかれる」
「どこかの民家にでも駆け込めないの!?」
僕は答えなかった。
柚木も、それ以上聞かなかった。
執拗に追ってくる「奴ら」が一体誰なのか、何の目的で追ってきているのか、何一つ分からない。最悪の場合、馬鹿な奴が開設した「殺し請負サイト」のヒットマンか何かで、助けを求めに立ち止まった瞬間、殺されることだって考えられる。
「……その先、左」
恐怖を押し殺して、呟くように言った。柚木も息を喘がせながら頷き、左側の隙間に飛び込む。入り組んだ路地を背中を丸めて走り抜け、都市開発から取り残されたような寂れた長屋が並ぶ細道にまろび出る。僕は少し目線を上げた。
「…前に雨が降ったのっていつだっけ」
「こ…こんなときに…なに言ってんのよ」
柚木が肩で息をしながら、途切れ途切れに応じた。
「気でも…触れたの…?」
「…まぁいいや」
走りながら、土中に半分埋まり、錆びてうち棄てられた物干し竿を拾いあげた。竿を覆っていた枯葉が舞い狂った。



「…武器!?」
「こんな狭い路地で物干し竿でやりあってどうするんだよ」
聞こえないように呟くと、後ろを振り返った。後方5m前後の植え込みが震え、奴らが飛び出してきた。僕は一瞬スピードを緩めて物干し竿を垂直に振り上げた。僕に合わせて速度を緩めようとする柚木を強く押し返す。
「先に行って。すぐ追いつく」
「なにする気!?」
柚木の言葉が終わるのを待たず、長屋の腐りかけて傾いだ雨どいに叩きつける。長屋一棟をぐるりと取り巻く雨どいが「わわん、わわん」と共振する。すると、雨どいに残っていた雨水が、大量に奴らの上に降り注いだ。
「…よし」
きびすを返して再び駆け出す瞬間、腐った物干し竿がブロック塀につっかえ、「ばきばきばきめきゃりっ」と大げさな音を立てて割れた。僕は短い方をむしり取ると、全速力で柚木を追った。

「…雨どい叩いただけ!?」
僕が追いついてくる気配を察して、柚木が叫んだ。
「…っそうだよっ……」
…息があがって、一言返すのが精一杯だった。でもそれは柚木も同じだったようで、それ以上の文句は返ってこない。
「…すぐ右に曲がって」
柚木の左側に回って、右側の路地へ促す。…が、一瞬たたらを踏んだ。
「…ここ、通るの?」
狭い路地に散乱する、鎌や鋤などの錆びた農具が薄闇に浮かび上がる。余所見などしたら、血を見るような大怪我に見舞われてもおかしくないだろう。
「ここを抜けると大通りが近いんだ。人がいるかもしれない」
僕の言葉が終わるのを待たず、柚木は危険な路地に駆け込んだ。
乱雑に放置された鍬や斧の隙間を縫うようにして進む。10mもない長屋の裏路地なのに、無限にも続くように感じてきた。刃物の海の中、後ろを振り向く余裕なんかないけれど、喘ぐような呼吸がすぐ後ろに迫っている。…多分、もう少し手を伸ばせば届くような距離に。突然、鋭い激痛が胃の辺りにじわりと広がった。さっき自転車で吹っ飛んだ時、打ち所が良くなかったのかもしれない。すごく嫌な予感がする痛みだ。
「抜けた!」
柚木の声に、突然我に返る。
「そのまま走れ!!」
振り向きざまに、足止めに農具を蹴り倒す。そして先刻もいできた竿の片割れを振り上げて、通路の出口近くに積んであった大袋にたたきつけた。袋が破れ、白い粉塵が狭い通路を満たした。後方から轟くような金属音と、くぐもった悲鳴が聞こえた。急に視界をふさがれて、倒した農具のどれかに足をとられたんだろう。
「斧じゃありませんように…」
寝覚めが悪くなるから。
「姶良!」
じれたように柚木が叫んだ。僕は粉がかかった顔を軽くぬぐうと、再び駆け出した。

僕が駆け出して間もなく、後方から大きな水しぶきが上がった。
いぶかしげに振り向いた柚木が、目を剥いて異様な光景に見入る。

頭から粉塵をかぶった奴が二人、路地裏の用水路に飛び込んだのだ。

「…あれ、なにやってるの!?」
柚木が、追いついてきた僕に当然の疑問をぶつけてきた。さっき通路を歩いて、大分呼吸が落ち着いている。
「……あれ…ね……生石灰……あそこの家主、農業に凝ってて……」
「あの粉が?…粉塵爆弾ね!!」
目を輝かせて物騒なことを言い始める柚木。
「……いや、そんなことしたら死んじゃうから……」
「殺しちゃえばいいじゃん!」
「…だめだからね!」
長いこと走らされて、気が立っているようだ。…この娘を1人で逃走させなくて、本当に良かった。さっきの農具路地あたりが猟奇な風景になってるところだった……
「まぁいいわ。…で、あれ、なにがあったの?」
「……水も、かけただろう、さっき……」
土質改良に使われる生石灰は、水とまじわると発熱する。さっき雨どいを叩いて振りかけた水と、路地でかぶった石灰が反応して、肌に火傷に近い症状が出ているはずだ。
「目に入ったら失明が怖いけど…サングラスしてるから大丈夫だろ」
「失明しちゃえばいいのに!…でも軽い火傷でしょ?なんで川に飛び込んでるの?」
もうすぐ大通りに出られる安堵感も手伝ってか、柚木がにわかに元気に喋りだした。僕は…胃の引きつるような激痛をこらえて、ようやく言葉を搾り出す。
「…彼らは、軽い火傷なんて思わないよ」
「え?」
「正体不明の粉末が体について、ついた所が火傷しはじめたんだよ……」
激痛に、息があがってきた。言葉が続かない。…そのへんの説明は逃げ切ってからにしてほしいけれど、柚木のじれったそうな横目に促されるままに仕方なく、口を開く。
「シャレにならない、大変な劇薬でも掛けられたかと勘ぐるのが普通でしょ……」
「へー…姶良、やるじゃん!」
柚木が僕を褒める声も、遠くに聞こえる。激痛が脈打つようになってきたのだ。逃げ切れそうな予感に、僕も少し気が緩んだのかもしれない。やがて、大通りの方から喧騒が洩れてきた。僕と柚木は助かる……そう安堵する気持ちに反比例して、激痛がいや増していく。
「……ねぇ柚木」
「なに?」
「助かったら、救急車呼んで……」
「………うん」
柚木が頷いた。そのあと、なにか一言呟いたような気がしたけど、脈打つ激痛にかき消されて聞こえない。僕はただ、足を動かし続けた。
 
 

 
後書き
(2)に続きます。 
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