リリカルってなんですか?
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
無印編
第十四話 裏 (アリサ、なのは)
アリサ・バニングスは、朝から落ち着かなかった。
朝のスクールバスの中で一緒になっている親友の月村すずかと話しながらも視線は時々、教卓のやや上方に設置されているアナログ時計へと向けられる。時刻は始業のチャイムが鳴る八時半よりも十分前。それを確認した後、視線をまた下方へと戻し、ある一点へと向ける。
アリサが視線を向けた席は無人だった。その席はアリサのもう一人の親友である蔵元翔太の席だ。彼がこの時間になっても登校してないことは珍しい、いや、初めてではないだろうか。
アリサが知る翔太は決して時間に遅刻しない。待ち合わせのときも十分前に集合場所に来ていることが常だ。そんな彼は、学校へは、始業の十五分前までに来ていることが常である。それにも関わらず、今日はまだ来ていない。
少しだけ翔太のことが心配になる。
もしかして、風邪を引いたのだろうか。もしかしたら、登校の途中に事故にでもあったのだろうか。気が気ではない。後、5分しても来なかったら携帯に電話をかけてみよう。
すずかと話しながらも頭の隅でそんなことをアリサは考えていた。
だが、アリサの心配は杞憂に終わったようだ。始業の5分前に教室に姿を現したのは聖祥大付属小学校の男子の制服に身を包まれたよく見慣れた翔太の姿だった。しかし、いつもどおりの制服姿で現れた翔太だったが、ある一点だけがいつもの、いや、最後に彼の姿を見た昨日の姿とは異なっていた。
まるで、周りからの視線を隠すように張られた口元のガーゼだ。
―――怪我でもしたのかしら?
しかしながら、肘や膝なら分かる。翔太はサッカーが好きで放課後などもクラスメイトたちとボールを追いかけている姿をよく見ていたから。スポーツに擦り傷など常のつき物だ。学年一番の成績を誇る彼とて例外ではない。いや、学力と体力は別物だ。実際、翔太の体力自体は、平均に勝らず劣らずなのだから。
さて、それはともかく、翔太のガーゼを気にしたのは、アリサだけではなかった。翔太のガーゼを見たクラスメイトたちが、今まで自分が話していた友達たちと原因について話し合う。
「ショウくん、怪我したのかな?」
親友のすずかもやはり翔太の状態が気になるのか、心配そうな表情でアリサに聞いてくる。アリサに聞いても、翔太が怪我をしたという事実はアリサもつい先ほど知ったのだから分かるはずがないのだが。
分からないのなら直接聞けばいい。そう思って席を立とうとしたアリサの耳にある情報が入ってきた。
「ショウくん、昨日、賢治のヤツに殴られてたけど、大丈夫っ!?」
―――その事実を耳にした瞬間、アリサの心は瞬時に怒りで沸騰した。
翔太が殴られた。これだけで、アリサは自分の心が自分の支配下から外れたのを自覚した。そして、その支配を無理矢理自分の支配下に戻そうとも思わなかった。
周囲から孤立していた自分をきちんと見てくれたたった二人しかいない親友が殴られたのだ。それを許せるはずがない。ここで怒らなければ、一体、いつ『怒り』という感情を爆発させればいいのだろうか。だから、アリサは自分の中で爆発した怒りに従い、まずは事実を確認するために翔太に詰め寄った。そのぐらいの理性は残っていたようだ。後ろですずかが何かを言っているがアリサの耳には聞こえていなかった。
「ショウっ! ケンジってヤツに殴られたの!?」
一体、自分はどんな人相をしているのか、そんなことに気遣う余裕はなかった。ただ、アリサの表情を見て、翔太が怯んだところを見ていると、どうやらアリサの表情は『怒っています』という感情を余すことなく表現しているようだ。
そして、彼は、何かを諦めたようにはぁ、とため息を吐いて、実に答えたくなさそうに「そうだよ」と答えた。
―――よしっ! 言質はとった。
それだけ聞ければ満足だった。後は賢治ってヤツに制裁を加えれば、終わりだ。翔太の性格から考えるに一方的に殴られただけなのだろう。彼が殴り返す姿なんて想像できない。だから、殴れない翔太に代わって自分がやりかえすのだ。かのハンムラビ法典にも書かれている。『目には目を、歯には歯を』と。ならば、ここで翔太に代わって賢治を殴りに行くのは決して間違いではない。
―――あたしの親友に手を出したことを後悔させてやるんだからっ!!
アリサの怒りは見ているだけの周囲からはとても想像できないほどだった。
自分の容姿が原因で距離をとられていた幼少時代。それが続くと思っていた小学生時代。だが、その想像はたった二人しかいないが、親友たちによってまったく別物へと変化した。また、一人で過ごすと思っていた小学生時代は、二人しかいないけれども、親友がいる実に充実し、楽しい日々を過ごせるようになったのだ。ならば、そんな日々を与えてくれた親友が傷つけられたのだ。アリサの怒りは計り知れないものだった。
だが、アリサの意気込みは、その敵を討とうとした本人によって挫かれることになる。
教室を飛び出そうとしたアリサの手首を翔太が掴んだからだ。
手首から感じられる人の温もりで少しだけアリサは冷静になる。そうやってようやくアリサは翔太が少しだけ困った表情をしていることに気づいた。だが、気づいたところでアリサの怒りが完全に収まったわけではない。だから、決して翔太に向かって怒っているわけではないのに、つい強い口調で問うてしまった。
「なによっ!!」
「どこにいくの?」
翔太の口から出てきた疑問。それはアリサに言わせて見れば愚問だった。だが、翔太は本当に分かっていなさそうだった。
―――ああ、そうだ。ショウはこんなヤツだった。
一年生のときからそう。自分が貶められようが、八つ当たりされようが、柳の葉のように受け流してしまう。今も殴られた張本人だというのにきっと殴られたこと自体は何も思っていないのだろう。それは、彼が誰かを憎むということが苦手なのか、暴力が嫌いなのかアリサには分からない。だが、だからこそ、代わりにアリサが立ち上がるのだ。
「決まってるじゃないっ! そのケンジってヤツのところよっ!!」
啖呵を切るアリサだったが、翔太はそれを呆れたような表情で受け止め、アリサの行動を否定するように首を左右に振った。
「ダメだよ。これは、僕とケンジくんの問題なんだから」
「あんたの問題なら、あたしの問題よっ! ここで動かなかったら親友として廃るわ」
そう、翔太が言うことは正論だ。確かに、殴ったのが賢治で、殴られたのが翔太ならば、加害者と被害者でアリサは何も関係ないただの第三者だ。
だが、だがしかし、自分の大切な親友が傷つけられたのだ。それを見て、何もせず二人の問題だからと手を出さなければ、それは本当に親友を名乗る資格がなくなってしまう。少なくとも、アリサ・バニングスはそう考える。
翔太とアリサ、お互いににらみ合う時間が続く。だが、不意に翔太が安堵するかのようにアリサの手首を掴んだ手の力を緩め、安堵の息を吐いた。アリサがなんで? と思う前に答えはすぐにアリサの耳に入ってきた。
始業のチャイム。さすがにこれを無視して隣のクラスに行くわけにはいかない。アリサが動かなくて安心している翔太を余所に、アリサは、悔しげに唇をかむしかなかった。
◇ ◇ ◇
「まったく、男の子って単純ねっ!!」
「まあまあ、アリサちゃん。仲直りできたんだからよかったじゃない」
アリサがあまりの状況に頬を膨らませて怒るのに対して、彼女を宥めるすずか。もっとも、アリサの怒りは、朝のものと比べれば格段に些細なもので、もっと意図的に解釈すれば、拗ねていると言い換えてもいいのかもしれない。
アリサが拗ねる原因は彼女たちがお昼のお弁当を食べていた屋上から見える景色に関係している。彼女たちがいる場所からはグラウンドがよく見えていた。昼休みも半分ほど過ぎた今、グラウンドでは男子と少しの女子がサッカーに興じていた。小さい子も大きな子もみんな入り混じってだ。
その中にはアリサとすずかの親友である翔太も当然混じっている。それだけなら、アリサはこんな風に拗ねていていない。彼女が拗ねている原因は、翔太がサッカーに興じていることではないのだ。翔太と一緒にサッカーに興じている同級生が問題だった。
―――佐倉賢治。
昨日、跡が残るほど強く翔太を殴った人物だ。翔太たちがサッカーに興じている中に昨日喧嘩したはずの彼も混じってボールを追いかけているのだ。今朝の段階では、まだ仲直りなどしていない風だったのに。昼休みの短時間で彼らは仲直りしてしまったらしい。
これでは、朝、憤慨したアリサの立つ瀬がない。確かにすずかの言うとおり仲直りできたことは、良いことなのかもしれないが。しかし、これでは、意味がないのだ。
―――ようやく、あたしがショウのためにしてやれることができたのに。
アリサの最近の不満はそこだった。
蔵元翔太は、基本的になんでも一人でできてしまう。勉強もクラス内での立ち回りも今日のようなことも。アリサにとって親友とはお互いに無条件に助け合える仲のようだと思っている。だが、アリサは翔太に孤独から救ってもらった。ならば、アリサは翔太に何ができている。そう問いかけても答えは返ってこない。せいぜい、一週間に二回程度の英会話だが、それでは、翔太から与えられたものと等価とは思えない。
要するにアリサは翔太のために何かがしたかったのだ。
今回はその絶好の機会だと思ったのだが―――
「やっぱり一人で片付けちゃうんだから」
アリサの呟きは屋上から風に運ばれフェンスの向こう側へと消えていった。
◇ ◇ ◇
高町なのはは、ようやく出会えたというのにそれに水を差すような翔太の顔に困惑していた。
「ショウくん、そのガーゼ、どうしたの?」
翔太の前では笑っていたいのに、翔太の口元に張られたガーゼがすごく気になった。ガーゼを張っているということは口元に怪我をしたということだ。その理由になぜか、すごく嫌な予感がした。
「ああ、えっと、ちょっとね」
まるでなのはの嫌な予感を裏付けるように曖昧に誤魔化す翔太。その表情でなのはは自分の嫌な予感が的をいていることを確信した。だから、翔太に嫌われるとか嫌われないとか考える前につい問い詰めるような声でさらに問いかけてしまった。
「ちょっと?」
しまった、と思ったときには既に遅い。これで、翔太が誤魔化したのだからなのはには聞かれたくないことだったに違いない。それなのに自分は踏み込んでしまった。ああ、しまった。どうしよう、どうしよう、と半ば混乱したような思考がなのはの中に走る。
だが、なのはの心配は幸いにして杞憂だったようだ。特に翔太はなのはの発言を気にするようなことはなく、やや気まずそうに頬をかいただけで、嫌悪感を示すことなく口を開いた。
「昨日、ちょっと喧嘩になっちゃって、殴られたんだよ」
「え?」
翔太の発言が信じられなかった。
―――ショウくんが喧嘩? 殴られた?
それは、なのはにとってとても信じられないことだった。
蔵元翔太はなのはにとって理想である。あの翔太を追っていた一年生の頃も翔太が主体となった喧嘩など一度もなかった。喧嘩を止めるために仲裁に入るところは何度も見たことがあるが。もし、一年生の頃と同じように仲裁に入った際に負った怪我であれば、そのまま言うはずだ。ならば、やはり翔太が言うようにそれは喧嘩で負った怪我なのだろう。
だが、翔太の言葉といえども簡単に信じることはできなかった。
蔵元翔太はなのはの理想で友達で、人に責められるようなことは決してしないからだ。ならば、喧嘩になるようなことがあるはずはない。翔太は常に正しいのだから。だが、翔太が嘘を言うとは思わない。
思考の袋小路に入ろうとしていたなのはだったが、存外すぐに解は得られた。
―――ああ、そうか。ショウくんは、間違った相手に一方的に殴られたんだね。
なのはにとって、その解にたどり着いたとき、心の底から途方もないほどの怒りがこみ上げてきた。じゅくじゅくと黒い何かがタールのようになのはの心の中を支配していくのが分かった。
なのはにとって理想である翔太が傷つけられたことは自分が傷つけられるよりも痛いことなのだからその怒りは妥当なのものだ。初めてなのはを友人と呼んでくれた大切な人。初めて携帯電話の番号を交換してくれた大切な人。そんな翔太だからこそ、なのはの中で翔太を傷つけた人間を許さないと思う気持ちは、肥大していく。
許さない、許さない、ゆるさない、と呪詛のように心の中で繰り返しながら、それでも表面上は醜いそれを表に出さないように気をつけながらなのははさらに問いを重ねる。
「だれと?」
「え?」
「だれと喧嘩したの?」
翔太を傷つけた誰かをなのはは許すつもりはなかった。翔太が傷ついて、受けた痛みの数分の一を与え、翔太に謝罪させ、もう二度と翔太に手を出さないように言い聞かせるつもりだ。暴力は嫌いだが、力を振るってでも。そのための力はなのはの胸にある小さな宝石の中に宿っている。
―――うん、お父さんも人を護るために力を使いなさいって言ってたし。
そう、これは翔太を護るためなのだ。翔太がこれ以上傷つかないようにするためになのはは自分が持てる力を振るうのだ。
だが、翔太が次に告げたのは、傷つけた人間の名前ではなかった。
「大丈夫だよ。もう、お互い解決したし、謝ってもらったし、もう大丈夫だから」
なのはは困惑した。もしも、翔太が傷つけた人間の名前を出したのならば、話は簡単だ。なのはが『お話』に行けばいいのだから。だが、翔太はその件については解決済みだという。
さすが、ショウくん、と彼を見直す思いがある一方で、それでいいのか、と問いかける部分もある。
翔太を傷つけるような人間だ。もしかしたら、表面上だけで反省していないのかもしれない。もしかしたら、また翔太を傷つけるかもしれない。もしかしたら、今度はもっと酷いことをするかもしれない。
様々な不安がこみ上げてくる。
だがしかし、翔太は既に解決しているという。ここで、なのはが翔太を疑い、問いを続けることは、翔太を信じていないということだ。万が一、そう問い返して、翔太になのはが彼を信じていないと思われ、嫌われでもしたら、事だ。
せっかく、幸いにして昨日、翔太とずっと一緒にいられる策がなったというのに。ここで翔太に嫌われたら、小さな確率で成功した策も水の泡となり、昨日のような絶望を再び味わうことになるのか。そして、また、あの一人孤独に海を眺めるような日々に戻るというのか。
既に翔太という友人を持つことで得た甘い蜜を吸ってしまったなのはには、その絶望は耐えられそうになかった。その絶望を再び味わうと想像するだけでも心が拒否反応を起こす。
だから、なのはは翔太を傷つけた誰かに対する『許せない』という思いにきつく蓋をして心の底に沈めた。そして、これからの翔太と一緒にいられる時間だけを思う。それだけで、なのはの顔には笑みが浮かんでくる。
「うん、ショウくんがそう言うなら」
そう、翔太がいうなら、この大きな思いにだって蓋をしてやる。
翔太はなのはの答えに満足したのか、安堵の息を吐くとなのはが一番大好きな笑みを浮かべて、先を歩き出す。
「よかった。それじゃ、今日も頑張っていこうか」
「うんっ!」
翔太の後を追って隣に立ち、歩き出すなのは。
――――さあ、今日もなのはの待ち望んだ楽しい楽しい時間の始まりだ。
後書き
裏はこんな感じです。短いです。さて、今度こそ15話です。
ページ上へ戻る