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無印編
第十話 裏 (なのは)
高町なのはが、最初に現場に来て最初に目にしたのは、地面にはいつくばった蔵元翔太の姿だった。
その光景を見て、最初に抱いた感情は、どうしたの? という心配でも、良い気味だ、という見下したものでもなく、よかったという安堵である。
もちろん、彼がはいつくばっているのを見て安堵したわけではない。まだ、はいつくばるほどに蔵元翔太が危機に陥っていたことに安堵したのだ。
なのはの中で蔵元翔太は理想だ。
なのはができなかったことを全てのことをなのはが理想とするようにやってのけていた同級生。彼の噂はクラスが別々になった二年生のときでさえ聞こえてきた。
成績抜群で、二年連続の学級委員で、クラスの中心で、誰からも嫌われておらず、誰からも気軽に声をかけられ、彼の周りには、常に笑顔があふれていた。
まさしくなのはが理想とした世界が彼の周りにはあった。
彼女も一年生の頃はそんな世界を夢見ていた。しかしながら、その世界は、あの日、蔵元翔太との絶対的な差を見せ付けられ、諦めて以来、そんな夢を見ることをやめた。
そんな世界は、高町なのはを中心としては、決して叶うことがないと悟ったから。高町なのはは何もできない人間だと分かったから。
それからは灰色の世界を生きてきたなのはにとって、今回の出来事は、確実に最初で最後の希望だ。
蔵元翔太に勝る何かを手に入れられる最後の希望だった。だからこそ、彼女は安堵した。
走りながら考えていた。もしかしたら、自分が行った時にはすでに何もかもが終わっているのではないか、と。蔵元翔太が危険に陥ることなどなく、あれはただ自分が生み出した幻聴で、その場にたどり着いたときには蔵元翔太が何の失敗もなく全てを終わらせているのではないか、と。
だが、たどり着いてみれば、蔵元翔太は、地面にはいつくばっており、背後には翔太のいうバケモノ。
本来なら、それに恐怖を抱いてもおかしい話ではない。だが、高町なのは限っていえば、彼女はその場に来るまでに想像の中でそれ以上の恐怖を味わってきていたのだ。今更、この程度のことで怯むはずがない。いや、むしろ、彼の言葉が本当だとすれば、蔵元翔太にすら何もできなかったあれに対抗できるのは自分だけ。
あれを倒すことで蔵元翔太に勝る何かを手に入れられるのだ。ならば、あれは、高町なのはにとっては希望のようにも思えるのだった。
「高町さんっ! こっち!」
突然、手を引かれた。気がつけば、地面にはいつくばっていた翔太が起き上がり、その反動で駆け出していたではないか。逃げるというのだろうか。まだ、自分は何もしていないというのに。
本当なら、何のために自分を呼んだんだ、と文句を言うところだったが、それ以上の衝撃がなのはを襲ったため、何も口に出せなかった。
―――引っ張られた右手から感じる温もり。人の温もりに。
右手から感じる翔太の掌の温もりは今までずっと走っていたせいか、なのはよりも温かいように思えた。
―――ああ、人の温もりってこんなだったんだ。
最後に人とを触れ合ったのはいつだっただろうか。もう年単位で誰とも手を繋いでいないような気がする。だからこそ、なのは驚いていた。
人の手はこんなにも暖かなものだったのか、と。
◇ ◇ ◇
夜の街を二人の小学生が走り、その背後を黒い物体が追いかけていた。奇妙な光景。だが、それに気づくものは誰もいなかった。やがて、少年と少女―――翔太となのはは、曲がり角を曲がり、直後に存在していた電柱に隠れるように身体を滑り込ませた。背後のバケモノがまっすぐ進んでいったのを見るとどうやら、彼らの隠れるという目的は達成したようだった。
「高町さん、まずは、来てくれてありがとう」
ズルズルと電柱に背中を預けて背中を滑らせ、座り込んだまま翔太は、なのはに礼を告げた。
ただ、その礼の言葉がなのはに響くことはなかった。なのはにとって、自分はただ呼ばれてきただけで、他に何もやっていないからだ。何も成していないのに礼を言われても嬉しくもなんともなかった。
「後は、魔法に関してなんだけど……」
きたっ! となのはは思った。なのはが来た目的は蔵元翔太ができなかった何かを成すことだ。それを希望とすることだ。その一部は先ほど聞いていた。すなわち『魔法』という言葉。だから、なのはは先ほどから、いつ魔法という言葉が出るのかを心待ちにしていたのだ。
翔太が隣で器用に二足歩行しているフェレットに赤い宝石を渡す。フェレットは、赤い宝石を器用にくわえるとそれをなのはに手渡した。
「それじゃ、僕が魔法の説明をさせてもらいます」
動物が喋った!? という驚きは無論あった。だが、その驚きはもはや今更のようにも思える。このぐらいで驚いているのなら最初に翔太の背後に見たバケモノを見た時点で驚いている。
さらに、そのフェレットが口にした魔法という言葉が、なのはの驚きを最小限に抑えていた。もはや、なのはの意識の中には魔法という言葉しか興味がなかった。
フェレットがゆっくりと魔法に関する説明を続ける。それをなのはは一言一句逃さないように神妙に聞いていた。
なぜなら、それはなのはに残された唯一の希望。今まで闇の中を歩いていたなのはが暗闇の中から抜け出せる最後の希望なのだから。少なくともなのはそう思っている。
だからこそ、聞き逃すなど間抜けなことで失敗したくない。なのはがフェレットの言葉を聞くのに真剣になるのはある意味必然とも言えた。
「さあ、僕の後に続いて、契約の呪文をっ!!」
フェレットが紡ぐ言葉をなのはも紡ぐ。
―――我、使命を受けし者なり。
契約の下、その力を解き放て。
風は空に、星は天に。
そして、不屈の心はこの胸に。
この手に魔法を。
レイジングハート、セット・アップ! ――――
その呪文を唱え終えた直後、変化は始まった。
―――Stand by Ready, Set up.
呪文から察するにレイジングハートと名づけられている赤い宝石から機械的な起動音がしたかと思うと、突然の声。それに驚く暇もなく、レイジングハートから桃色の光が発せられる。
「あ、あは、あはははは」
知らず知らずのうちに口から笑い声を口にしていた。当たり前だ。何も知らないなのはでも分かるレイジングハートから発せられる巨大すぎる力。それは、確実に自分のものだという確信がある。自分の中に秘められた巨大な力。何もできない高町なのはの中に眠っていた力。これを目の当たりにして笑わずにはいられようか。
ようやく、ようやく、ようやく手に入れたのだ。闇の中をもがいて、彷徨って、溺れて、諦めて、絶望の淵に沈もうとしていたなのが、誰にも、蔵元翔太でさえも追随できないほどの力を。自分だけの、高町なのはだけの力を。
だからこそ、笑う。笑ってしまう。それは、高町なのが全身で感じていた歓喜を表す唯一の方法だった。
「想像してくださいっ! 貴方が魔法を制御するための魔法の杖と身を護る強い衣服の姿をっ!」
フェレットが何か言っているのになのは気づいた。どうやら、このままではこの力は使えないらしい。
ならば、想像する。高町なのはだけの魔法の杖と強い衣服の姿を。
杖の形は安直なものにした。凝った形を作る時間がもったいなかったから。
衣服は、聖祥大付属小学校の制服に黒を基調とし、ところどころ赤で装飾されたものが最初になぜか思い浮かんだが、それは即座にやめた。その衣装は、この魔法の力を使うにしてはあまりに無粋。
この力は、なのはにとって最後の希望だ。願いだ。望みだ。ならば、どこまでも引きずりこまれそうな黒と血のような真紅などは似合わない。願うは、純白。穢れなき純白。それしかありえない。故に、最終的には聖祥大付属小学校と同じような服装になってしまった。だが、後悔はない。これがなのはの望んだ色なのだから。
やがて、杖と衣装の形が決まると、なのはの周りを光の帯が包み込んだ。その中では、衣服が分解され、彼女の身を護るバリアジャケットが展開されていることだろう。そして、レイジングハートは宝石から形を変え、なのはの想像したとおりの魔法の杖へと変化していた。
「これが……魔法」
光の帯から解放されたなのはが、自分の変化した衣服とレイジングハートを見て呟く。
―――これが、なのはだけの力。
蔵元翔太でさえ、近づくことができなかった力。それを高町なのはは手に入れたのだった。
◇ ◇ ◇
その後、なのははあの得体の知れないバケモノ―――ジュエルシードの思念体らしが―――と戦った。
いや、結局は防御しかしていないので戦ったかどうかは非常に謎ではあるが。
だが、それでも翔太を護ったことには間違いない。触手を防ぎ、思念体の突進を防ぐ。
恐怖がなかったか、といえば、嘘になるかもしれない。だが、それよりもなのはにとっては、魔法の力を試したいという心のほうが強かった。
自分の中に感じられる巨大で、力強く鼓動する何かから湧き出る力を。
それさえ感じてしまえば、思念体など怖くなかった。あれはただの標的。あるいは、なのはが力を手に入れたことを示すための人形のようなものだ。
現に触手や思念体の突進を防いだときは、笑みがこぼれて仕方なかった。あの蔵元翔太が地面にはいつくばることしかできなかった相手を自分の力でねじ伏せられることが嬉しくて。自分だけの力を確かな形で実感できて。
翔太に背を向けなければならなかったことが非常に惜しいことをしてしまったと思う。きっとなのはは綺麗に笑えていたと思うから。それを憧れの蔵元翔太に、力を手に入れた最初の自分を見せられないことがとても心残りに感じられた。
そして、紆余曲折の末、どうにかなのはの魔法の力で思念体を封印できた直後、なのはは誰かに肩を叩かれ、振り返る。
そこには、ようやく命の危機から解放されて安堵した表情を見せている翔太がいた。そして、彼は口を開く。
「高町さん、本当にありがとう。君のおかげで助かったよ」
―――ありがとう。
最初、なのははこの言葉の意味を理解できなかった。
久しく言われた感謝の言葉だから。諦めて以来、一年近く言われることのなかった言葉。それを告げられた。あの蔵元翔太から。感謝の言葉を。なのはが持つ、なのはだけの魔法の力のおかげで。
その意味を理解したとき、なのははあの蔵元翔太からも魔法の力、自分の力を認められたようで、高町なのはという人間を褒められたようで嬉しかった。だから、なのはは胸の内から湧き出てくる歓喜を隠すことなく笑みに変えて頷いた。
「うんっ!」
この場に鏡を持ってこなかったことが惜しまれた。なぜなら、おそらく、自分は綺麗に笑えているだろうから。
◇ ◇ ◇
後処理は非常に簡単だった。フェレットが、ある一言を呟くとあっという間に壊れていた道路や塀は、元に戻ってしまったから。これも魔法か、と感心して思わず呟いてしまったほどだ。
なのはとしてはこのまま終わってくれれば文句はなかった。自分だけの力―――魔法の力は手に入れた。後は、この力をどうやって使っていくか、だ。おそらく、同じような相手がいなければ魔法などこの世界では使えないだろう。もしかしたら、もっと他の用途があるかもしれない。それは、目の前のフェレットに聞くしかないのだが。
―――魔法を教えてもらおう。
そう思い、フェレットに声をかけようとしたそれよりも先に翔太が別のことを口にした。それは、高町なのはにとってはとても受け入れられないものだった。
「それで、イタチくんはこれからどうするの? 自分の世界に帰るのかな? あるいは、観光していくつもりなら、この周りでいいなら、僕が案内するよ」
「え?」と思わず聞き返してしまったのは、決してなのはのせいだけではないだろう。
せっかく力を手に入れたというのに、振るうのはたったの一回だけ? しかも、フェレットは自分の世界とやらに帰るという。それは、この宝石を返すということ―――つまり、魔法がなのはの手から離れていくということに他ならなかった。
そんなことは、なのはにとって、とても受け入れられるものでもなければ、許せるものでもない。
だが、ダメだよ、という否定の言葉を口にする前に、それよりも早くなのはにとって聞き覚えのある声が辺りに響いた。
「なのはっ!」
声に反応して振り返ってみれば、そこには全力で走ってくるなのはの兄―――恭也の姿があった。
「お兄ちゃん………」
本当は、自分がようやく手に入れた魔法の力を見て欲しかった。この力でバケモノを倒して、町の平和を護ったと知れば、きっと兄たちは褒めてくれるだろうと思ったから。だが、それは、兄が発しているとある感情の前に遮られた。
その感情とは―――怒り。
他人の感情を読むという能力は、なのはが他人から嫌われないために絶対に必要な能力だった。
「なのは、ダメじゃないか。夜に誰にも言わずに外に出ちゃ」
外に出なかったら、街はきっと破壊されていたのに。蔵元くんは、きっと死んじゃっていたのに。自分は、魔法の力を使って良いことをしたのになぜ、怒られるのだろう。そういう類の不満がなのはの中に芽生える。
だが、それをなのはは口に出すことができなかった。何か下手なことを言って怒っている兄に嫌われたくないから。だから、なのはは、思っていることとはまったく逆の謝罪の言葉を口にした。
なのはの中では、どうして? どうして? という言葉が渦巻く。助けたのに。あの蔵元くんを助けたのに、と。疑問と不満。それが溜まる。だが、なのはがそれを口に出せるはずがない。三つ子の魂百までではないが、もはやなのはの人に嫌われたくない、という願望は、魂にまで刷り込まれている。それが兄なら尚のことだ。だから、不評を買うようなことは口に出せない。万が一にでもいい訳と思われたくないから。だから、なのはが言えたのは、やはりごめんなさい、だけなのだ。
だが、なのはをフォローしてくれたのは、その蔵元翔太だった。
若干、事実は捻じ曲げられていたが、確かになのはが外に出たのは悪くない、とフォローしてくれていた。
その翔太が作り上げた事情を聞いて、恭也の怒りが若干和らいだように思える。
―――やっぱり、蔵元くんはすごいな。
なのはは改めて思った。自分には絶対、そんなことはできないから。何もいえないだろうから。だからこそ、兄に物怖じせずにきちんと事情を話せる翔太が羨ましかった。
その後、なのはと翔太と恭也は、翔太の家に向かって歩く。その間、なのはの間に会話はなかった。翔太と恭也が少し話しているぐらいだ。なのはは時々、翔太の横顔を盗み見ていた。
翔太の顔はクラスの女子が騒ぐほど格好良いという顔立ちはしていない。ただ、身なりはきちんとしている。寝癖もなければ、服装もよれよれとしていない。身長はなのはよりも少し低いぐらいだろうか。
極論を言ってしまえば、どこにでもいそうな普通の小学生。特徴らしい特徴もない。それが蔵元翔太だった。
現場から翔太の家は意外と近かったらしい。十五分ほどで翔太の家に着いた。
普通の二階建ての一軒屋。なのはの家と比べると若干小さいかもしれない。
「今日は、ありがとうございました」
「いや、礼には及ばない」
気がつくと、翔太が恭也に礼を述べていた。なのはからしてみれば、その態度を見ていると本当に自分と同い年かと疑いたくなる。それほどまでにできた子供なのだ。蔵元翔太とは。
そして、なのはたちは帰宅する。だが、背を向けて帰る直前、家の前にまだ立っていた翔太が口を開いた。
「高町さん」
振り返ると、そこには、笑顔で手を振る翔太の姿が。そして―――
「また明日」
そう口にした。
最初、なのははその言葉が理解できなかった。また明日。それは、明日も会おうという約束の言葉。なのはにとって初めての言葉。じゃあね、やさようならなら何度だってある。だが、友達のいなかったなのはにとって明日を約束するような「また明日」という言葉は初めてだった。
しかも、それは、あのなのはが憧れた蔵元翔太から。
蔵元翔太からだからなのか、それとも初めての言葉だからなのか、どちらかは分からない。いや、もしかしたら両方かもしれない。
だが、その言葉は確かになのはを幸せにしていた。なぜなら、なのはにとって憧れだから。こうして別れ際に明日を約束することは。
それを理解したとき、なのはの心の底から嬉しさがこみ上げてきて―――
「うんっ!」
自然に笑っていた。
◇ ◇ ◇
なのはは帰って少しだけ両親から怒られた。夜に勝手に外に出るな、と。ただ、翔太のとりなしもあったおかげか、あまり怒られることはなかった。
怒られた後は、素直にお風呂に入って、ベットに横になる。もう、いつもの寝る時間は過ぎている。
だが、それでも、なのはの目は冴えていた。当然といえば、当然かもしれない。先ほどまで彼女は魔法という未知の力を手にしてバケモノと戦っていたのだから。
だが、なのはにとって目が冴えている理由はそれだけではなかった。
翔太からの「ありがとう」と「また明日」という言葉。なのはが欲しかった言葉。それを思い出すだけでも笑ってしまう。
「え、えへへへ」
ただの言葉だが、それが嬉しかった。ずっと手に入れたかったから。それを望んでいたから。ずっと手を伸ばし続けていたから。一度、諦めてしまっていたから。だからこそ、嬉しい。
これも全部、魔法の力のおかげだった。
「今日からよろしくね、レイジングハート」
ずっと握り締めていたレイジングハートに愛おしそうにちゅっと口付ける。
もしも、なのはの体力が無限大であれば、頭の中で今日のことをリフレインしていただろうが、あいにく小学生相当の体力しか持たないなのはに体力の限界が訪れていた。だから、今日はお休み。
一度、それを自覚してしまうと睡魔というのは、急激に襲ってくる。なのはが瞼を閉じる直前、手にしていたレイジングハートが何度か点灯し、赤い宝石の表面に文字を表示させる。
――――Good night. My Master.
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