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リリカルってなんですか?

作者:SSA
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本編前
  第八話



 身に覚えのないことで褒められることほど、気味の悪いものはない。
 怒られるならまだ分かる。人間、誰しも都合の悪いことは忘れてしまうからだ。
 だが、他人から褒められることほどの良い事であるならば、自尊心を高めるためにも細かいことまで覚えているはずだ。
 だからこそ、身に覚えのないことで褒められるのは気味が悪く感じられる。

 例えば、今の僕のように。

「いや、よくやってくれた、蔵元。さすが我がクラスの学級委員長様だ」

「……なんの話ですか?」

 先生がここまで褒めるのは珍しい。なぜなら、先生にとって僕とは特異な存在として認識されているからだ。
 僕がテストで満点を取ったとしても当然。授業中に質問の内容を尋ねて答えられて普通。先生の中での僕の存在はそんな存在だ。
 よって、褒められることなんて滅多にない。なにせ、他の面々であれば、褒められるほどのことは僕にとって出来て当然という風に認識されているのだから。
 その先生が、帰りのホームルームで僕を呼び出して開口一番がこれだ。

「高町の話だよ」

「高町さんですか?」

 その名前を聞いたのはつい最近、というか、昨日のことだ。先生に頼まれて彼女の家に行ったのだから。そこで、先生から頼まれた調査結果と僕が気づいたことを伝えに行っただけだ。
 しかし、それしきのことで褒めるだろうか。ただ、伝えに行っただけなのに。普通なら、「ご苦労」で終わってしまいそうだが。

「今日になって学校に復帰した」

「はぁ、そうなんですか」

 高町さんとは去年クラスメイトだった程度の繋がりしかないので、感想としてはこの程度だ。

 しかし、今日から来てたのか。知らなかった。隣のクラスなので僕の耳には届いてこない。僕が気づいたことが真実なら、彼女には親しい人間がいないから、余計に人伝いに情報が入ってこないのだ。
 だから、僕にとって高町さんが学校に来ているというのは初耳だった。

「そうなんですかって、お前が訪問した次の日から学校に来たもんだから、お前さんがなにかしたのかと思ったんだが」

「先生の勘違いです。僕は、昨日は高町さんのご両親としか話していませんし」

 そもそも、拒絶されたのだが、それは言わなくてもいいだろう。

「なんだ、そうか」

 そう呟く先生の顔には、明らかに褒めて、損した、という言葉が読み取れた。この先生、フランクなのはいいのだが、こんな表情を教え子に見せていいのだろうか。教師として若干問題と思うんだが。

「なに、お前だから問題ない。他の生徒にはこんな態度とらないさ」

 そのまま疑問を投げかけてみたら、返ってきた答えがこれだ。

 確かに、この先生、他の生徒だともっと優しいというか、柔和な態度と言葉になる。理想の教師という仮面を被っているというべきだろうか。もしも、これが二十歳の精神を持つ僕じゃなかったら、確実に先生から邪険にされてるって勘違いすると思う。もしも、この年齢で僕と同等のことが出来たとしても、それは知能が高いだけであり、心は子供のままなのだから。

 僕も二十歳とはいえ、学生だったのだから子供に分類されてもおかしくないと思うが。

「まあ、何にせよ、高町が登校してくれて万々歳だな」

「そうですね」

 その部分に関して、僕は同意した。

 僕には何が原因で高町さんが不登校になったのか分からない。だが、何が原因にせよ、この時期から不登校というのは、これからの人生を考えるとかなりマイナスだ。小学校は義務教育だから出席が足りなくても卒業は出来るだろう。

 現に不登校だったとしても家に卒業証書が送られてくるなんてこともあるらしい。
 それは証書がもらえただけだ。何も学んでいない。もしかしたら、家庭学習で学力だけはつくかもしれない。だが、学校で学ぶべきだった集団行動についてはまったく学んでいない。

 この世界を構成するものは社会という大小さまざまな集団がひしめき合う空間だ。ならば、そこで生きていく術を知らない人間は淘汰されていく。支えてくれる誰かがいなければ生きていけなくなってしまう。それは、自立ではない。依存だ。

 この時期からそんな人生が決まってしまうのは不憫すぎる。
 だから、何にせよ高町さんが復帰したことは喜ばしいことだった。

 僕は彼女について何も干渉していない。きっと、僕が帰った後、あの人が出来ていそうな両親が、僕の話から何かを思い、考え、彼女の不登校を何とかしたのだろう。
 話を聞いて一日で何とかしてしまうとは、家族の絆は偉大だと改めて思い知らされた。いや、学校に来ただけで友達関係のことはまだなんだろうけど。今は家族で試行錯誤しているのかもしれない。だったら、それは家族の絆を深めるものだ。だったら、僕はしばらく何もしないほうがいいだろう。

 それにしても、高町さんが家族と上手くいったのは、来たのはもしかしたら、僕の祈りが通じたのだろうか、と考えるのは自惚れだろうか。



  ◇  ◇  ◇



 高町さんが復帰したと聞いてから数日が経過した。
 今日からは、誰もが楽しみにしているゴールデンウィークが始まる。

 一週間という長期休暇。今年も僕の家は、自宅でのんびりと過ごすことになる。原因は言わなくても分かるだろう。六ヶ月ほど前に誕生した弟である秋人である。生まれて一歳に満たない子供をこの時期の外に連れ出すには危険が多すぎる。
 よって、今年も僕の家は何所にも出て行かず、家で過ごすことが決定されたのだ。

「しかし、ショウは何所にも行かなくてもよかったのか?」

 ゴールデンウィークが始まった日の朝、突然、親父がそんなことを言い始めた。
 僕の親父は、アリサちゃんの親が社長をやっている会社の子会社の開発部に所属している。ちなみに、アリサちゃんのことは内緒にしている。黒い髪にスポーツ刈りにした頭。四角い眼鏡をかけた一般的な中年だ。自慢としてはメタボというには程遠いお腹だろうか。

「え? なんで?」

 僕としては、今更、遊園地とか連れて行かれても困惑するだけだ。

 そもそも、何に乗っていいのかも分からない。ジェットコースターとかなら乗ってもいいかな、と思うが、この身体は小学二年生の平均身長より少し低い120センチしかないのだ。身長制限があるジェットコースターには乗れないものが多いだろう。
 だからと言って、誰にでも乗れるメリーゴーランドやゴーカートに乗るのはさすがに恥ずかしい。この身体が小学生だとしても、だ。

 だが、僕の返答に聞いてきた親父は困惑したような顔をした。

「父さんの友達が今年は、家で過ごそう、といったら息子に泣かれたそうだ」

「そういえば、ショウちゃんはそんなことまったくないわね」

 親父と話していると何故か、母親も入ってきた。
 僕の母親は実に温厚な性格をしており、いつも微笑んでいる。ふわふわのショートヘアが柔和なイメージを加速させている。実際、怒られた事はないのではないだろうか。もっとも、この年になって親から怒られるようなことはしない。

「小さな頃からそう。夜泣きはしないし、着替えも自分で出来ちゃうし、歯磨きも、おまけに勉強だって聖祥大付属の特Aランクの特待生だし、たまにはお母さんの手を煩わせてもらえない?」

「いや、自分で出来るのに何でそんなこと……」

 確かに母さんの言いたいことは分かる。要するに僕がよほど子供らしくないのだろう。他の母親が言うような苦労を母親もしてみたいのかもしれない。しかし、子供にとっては自然であっても、精神年齢が二十歳を超える僕が母親に着替えを手伝ってもらったり、歯磨きをしてもらったりするというのは恥ずかしいことこの上ない。

「それに、僕じゃ出来なかったかもしれないけど、秋人には出来るじゃないか」

 僕のすぐ傍で何が楽しいのか、母親のゴムひもをひっぱりながら、キャッキャッと笑う秋人。
 きっと、これから僕に頼まなくても秋人が僕の分まで母親たちの手を煩わせてくれるはずだ。

「でも」

「いいから、僕の分まで秋人の面倒を見てよ。まあ、手に負えなくなったら僕も手伝うからさ」

 僕が秋人の保育をすることは可能だ。だが、僕は殆ど秋人の面倒を見ていない。母親と父親に任せたきりである。僕の時には体験できなかった育児をやって欲しいと思ったからだ。だから、僕は本当に少ししか秋人の面倒を見ていない。本当は世話もしたいけどそこは我慢だ。

「はぁ、親が子離れする前に子供が親離れするって言うのは寂しいものね」

 そういわれても、もともと親離れしているのだから仕方ない。そういっても両親には感謝している。少なくともこの年齢まで生きてこられたのは両親のおかげだし、自分で言うのもなんだが、気味が悪いといっても過言ではない僕を捨てずに育ててくれたのだから。

 そのことを伝えると親父と母親は揃って笑って「それでも、私たちの子供には違いない」と言ってくれるのだった。



 ◇  ◇  ◇



「ショウ~、これどうなってるんだ?」

「ショウ~、この地図記号ってなんだよ?」

「ショウ~、なんか、答えの文字数が合わないんだが」

 三者三様に僕に同時に助けを求める。しかも、全員同じならまだしも、それぞれ助けを求める教科は異なり、算数と社会と国語だ。

 初日の午後、僕の部屋では、勉強会が行われていた。

 テスト前だからという理由ではない。ゴールデンウィーク中に出た宿題を片付けるためだ。
 長期休暇にかけて大量の宿題が出るのは、中、高校生の頃は当たり前だったが、小学校ではなかった。聖祥大付属小で大量の宿題が出るのは、私立の学校ゆえだろうか。

 その宿題を片付けるために四人が僕の家に来た。
 と言っても僕は既に大半を片付けてしまっているから、もっぱら教える側に周っている。

「はいはい、そこは文章問題だからって、右の計算問題と変わらないよ。数字だけでも下線引いて、もう一度考えること。地図記号は、そこに地図帳の見開き三ページ目。文章題で線の後に来る文章が答えと思わない。そこは、前の文章だから」

 僕は聖徳太子じゃないといいたいところだが、何とかすべての質問に答えることができた。我ながら神業だとは思う。にも関わらず、目の前のクラスメイトたちは、そんなことは出来て当然だ、といわんばかりに―――

「そっか、やってみるわ」
「じゃ、借りるな」
「そうなのか? 1、2、3……おっ、本当だ」

 礼も言わずに自分たちの問題に取り掛かった。先生の話が本当なら、彼らも学年上位30人の中に入るはずなので、きっかけさえ教えてやれば、後は自分たちで何とか出来るのがせめてもの救いだ。もしも、これで手取り足取り教えなければならなければ、僕が後五人は必要だろう。

「大変だな、学級委員長は」

 くいっ、と小学二年生にも関わらず眼鏡をかけているこの中で唯一質問してこなかったクラスメイトが、世話をする僕を皮肉るように言ってくる。

「何で君までいるの?」

 彼の成績はトップ5に入るぐらいに高い。この程度の問題なら、僕に頼ることなく自力でも可能だろう。なのに、なぜか今日の勉強会に彼も参加していた。呼んだのは誰だろう。

「将棋でもしようかと……他のやつらは相手にならん」

「ちょっと待った! ショウはこれが終わったら、バトルカードやるんだからなっ!」

 いや、君はそれよりも早く問題終わらせないと、そんなものする暇ないよ。

 眼鏡の彼の将棋は、彼の趣味と言っていい。ただし、その腕前はもはや趣味の段階を超えているんじゃないか、と思わせる。僕にしても全戦全敗してしまう。今では、飛車、角落ちで何とか相手してもらっている。しかしながら、それでも他のクラスメイトよりもマシらしい。よって、僕とよく対戦することが多々だ。もっとも、僕も負けてばかりもいられないので、本などを読んでいるのだが……やはり、将棋は奥が深い。

 そして、バトルカードだが、こちらは前世にも似たようなものがあった。大学生にもなってこれに嵌っている連中もたくさんいたものだ。学食なんかでよくやっていたのを覚えている。前世では、僕はあまり興味がなかったのだが、今はクラスの男子の半分以上が持っている以上、話に入るためには、多少なりとも嗜むことが必要だったため、今では僕もそのカードを持っている。腕前は中級ぐらい。勝ったり負けたりだ。

 結局、眼鏡の彼の宿題が終わり、後三人が必死に宿題をやっているのを尻目に僕らは将棋をやり―――無論、その間も質問には答えていた―――、彼らが終わった後、バトルカード大戦へとなだれ込むのだった。

 なんだかんだいいながら、君も持ってたのか。



  ◇  ◇  ◇



 二日目は前の日から約束していた連中とサッカーもどき(人数不足、ルール無用のため)で汗を流し、三日目は誰からもまったく連絡が入らなかったため、たまに通っている図書館に出かけることにした。

 膨大な量の本が格納されている図書館。そこは月に三千円しかもらえない小学生の身からしてみれば有り難い場所だった。僕が読みたい本は、その殆どがハードカバーだ。一冊三千円を超えることもざらだ。つまり、一冊を買うのに一ヶ月の間まったくお金を使わず溜めなければならない。事実上不可能だ。だから、こうして無料で本が借りれる図書館は僕にとってありがたかかった。

「あれ? ショウくん」

「え? あ、すずかちゃんか」

 僕がカウンターで本を借りて帰ろうとしたとき、出入り口の自動ドアの付近ですれ違いざまに偶然、すずかちゃんの姿が見えた。
 そういえば、図書館にはよく行くって聞いたことがある。僕もよく、とは言わないが、暇が出来ると来るほうなので、今まで出会わなかったほうが不思議で仕方ない。

「ショウくんはなにか本を借りたの?」

「うん」

 僕は、借りたばかりの本が入っている手提げ袋を彼女に示した。中身は、五冊ほどの本が入っているが、すべてハードカバーなのでそれなりに重い。
 一方のすずかちゃんも手提げ袋の中にいくつか本が入っているようだった。

「へ~、どんな本か見てもいい?」

「いいよ」

 はい、と僕は手提げ袋の中身を開いてタイトルが載ってる背表紙を見せた。

「……えっと、これ、ショウくんが読むの?」

「そうだけど……」

 手提げ袋の中を覗いたすずかちゃんは怪訝な顔をして僕を見てくる。しかも、若干、引いているようにさえ感じる。

 あれ? 何か変なものを借りたかな? とりあえず興味を引いたものを手当たり次第借りたのであまりタイトルを覚えていなかった僕は改めて手提げ袋の中を覗き込む。そこに並んでいたタイトルは―――

『児童心理学入門』『小学生の心と身体の成長』『子供からの手紙悩み相談』『エトランジェ戦記1、2』

 なるほど、これなら確かにすずかちゃんが怪訝な顔をするのは分かる。

 僕は前世で、心理学を独学に近い形で勉強していた。ここでもその名残が出ているのだろう。しかし、すずかちゃんからしてみれば、小学生が小学生の心理学を読んでいるわけだ。すずかちゃんからしてみれば、驚愕ものだな。
 後半の二つは最近になって有名になり始めたファンタジー小説だ。今のところ五冊ほど出ているが、殆ど借りられている場合が多い。今回、借りれたのは運がよかったのだろう。

「えっと、その……これは、ちょっと同年代の人たちがどんな悩みを持ってるのか気になってね」

「う~ん、確かにショウくんって相談受けること多いからね」

 どうやら誤魔化すことに成功した模様。
 偶然とはいえ、半ばクラスの相談役になっていることが幸いしたようだ。

 小学生の悩みは大人から見ればくだらない悩みも多い。だから、親に相談しても、あまり真剣に扱ってくれないことが多いのだ。故に友人に相談するのだが、その友人も小学生、悩んで答えが出ないことも多い。よって、最終的に僕に回ってくる、と。そして、悩みに答えていたら、その話を聞いてまた相談にくるという悪循環になっていた。
 僕としては、心理学的な要素も含んでいるから楽しんではいるんだが。しかし、時々、相談した次の日に悩みを忘れていることがあるから困ったものだ。

「あっ、エトランジェは家に全部あるよ」

 後半の二つを見てすずかちゃんが言う。

 さすがあの洋館の持ち主だな。

 エトランジェ戦記はハードカバーで一冊辺り二千円ぐらいする。つまり、全部読もうと思うと一万円だ。到底手が出せない。しかし、話によると相当面白いらしい。もし、この借りた二冊を読んで面白かったら、後三冊はあるわけだが、図書館に期待するのは無謀だろう。一巻と二巻が借りられただけでも僥倖なのだから。つまり、残りは当分お預けになるわけだ。

「エトランジェ戦記って面白かった?」

「うん、文章も読みやすかったし、面白かったよ」

 なるほど、文学少女と呼んでもおかしくないほど本を読んでいるすずかちゃんの評価だ。面白いという前評判は信じてよさそうだった。なら、僕がこれを読んで続きが読みたくなるのもほぼ間違いないだろう。なら―――

「すずかちゃん、もし、よかったらなんだけど、エトランジェの残り貸してくれない?」

「うん、いいよ。私もお姉ちゃんも読んじゃったから大丈夫」

 たまに他人に本を貸すのが嫌だ、という人もいるけど、どうやらすずかちゃんはその部類には入らなかったようだ。快く快諾してくれた。

「でも、いつ貸してもらおう?」

 問題はそこだった。今はゴールデンウィーク中。すずかちゃんも用事がないわけではないだろう。僕はほとんどないけど。今日、出会えたのが偶然だとするなら、ゴールデンウィークの残りは絶望的だと思っていい。だが、この程度の本なら間違いなく一巻と二巻はゴールデンウィーク中には読み終えてしまう。

「ショウくんはこの後、時間があるの?」

「大丈夫だけど」

 今日は、本当に用事がなかったから、帰って秋人の面倒でも見ながら、本を読もうと思っていたぐらいだ。なんだか、小学生のゴールデンウィークにしては寂しいような気もするが、前半に遠出した面々はまだ帰ってきてないし、後半に遊びに行く面々は逆に今日から出発していないのだから、仕方ない。

 僕の返答にすずかちゃんは、ほっと安堵の息を吐き笑って僕に提案してくれた。

「私が本を返して借りるまで待ってくれるなら、この後、私の家に来るといいよ。その時、貸すから」

「え? いいの?」

「うん、今日は私も時間が空いてたから」

 なら、お言葉に甘えることにしよう。

 結局、図書館で本を選ぶのに付き合い、その後、月村邸で本を借りて、お茶を飲みながら本について雑談した後に帰宅するのだった。



  ◇  ◇  ◇



『ほらほら、何とかいったらどうなのよ?』

『ちょ、ちょっと待って』

 僕は、必死に自分の頭にある少ない語彙の中から言葉を作ろうとしたのだが、それは結局致命的な単語が足りなくて挫折することになる。
 こうなってしまうと、目の前でニヤニヤ笑っているアリサちゃんに太刀打ちできるような手はない。
 僕は素直に両手を挙げて降参の意を示しながら、こういうしかなかった。

『辞書を貸してください』

『しょうがないわね』

 僕が頭をたれるとアリサちゃんは、仕方ないと肩をすくめて和英辞書を貸してくれる。
 ぺらぺらとページを捲り、目的の単語を見つけて、アリサちゃんの質問に答えてみるが、どうもニュアンスが違うらしい。少しだけ単語と単語の並びを訂正され、それを答えとして改めて答えた。

『はい、正解。そろそろ、休憩にしましょう。ずっと話していたから喉が渇いたわ』

『そうだね』

 ちょっと待ってなさいよ、と言い残してアリサちゃんが部屋から抜け出した。

「やっぱり単語をもう少し覚えないと話にならないな」

 アリサちゃんが出て行ったのを見送って僕ははぁ、と大きく息を吐いて思わず独り言を日本語でつぶやいてしまう。

 今、僕はアリサちゃんの部屋で英語を教えてもらっている。正確に言うと英語というよりも英会話だろうが。

 始まりは、僕が塾通いを始めたあたりだろうか。僕たちが通っている塾は進学塾であり、学校では余裕で満点の取れるアリサちゃんでも、さすがに分からない問題がある。しかしながら、僕にとっては簡単に解ける問題なので、いつも教えていたら、そのうち、いつも教えてもらってばかりで悪いので何かないか、と聞かれてしまった。

 そこで、アリサちゃんは英語も日本語も出来るバイリンガルというので、英語を教えてもらうことにしたのだ。

 さすがに僕も大学に行って、しかも工学系なので読むほうは大丈夫なのだが、英会話のほうはさっぱりだ。TOEICもライティングはともかくリスニングがひどかった記憶がある。
 よって、こうして週一か二の割合で英会話を教えてもらっている。

 今日はゴールデンウィークでお休みかと思っていたのだが、一応、昨日確認のためにメールしてみたら、どうやら今日も構わないというので、お邪魔しているわけだ。

 そして、先の呟きに繋がる。文法はともかく単語の量が圧倒的に足りない。工学科の最先端の技術は殆ど英語で書かれているため、よく英語の洋書を読んでいたので、それなりに自信はあったのだが、その自信は最初の一回目で崩れ去った。どうやら技術書に書かれている単語はかなり偏っているようである。

『はい、お茶、持ってきたわよ』

 おっと、アリサちゃんも帰って来た様だ。
 最近気づいたのだが、アリサちゃんはこの時間、実に活き活きしている。最初はその理由が分からなかったのだが、最近になってようやく分かってきた。要するに、僕が徹底的にやり込められているのが楽しいのだ。まあ、塾じゃ立場がいつも逆だから分からなくもないんだけど。

 結局、その日のアリサちゃんによる英会話教室は午後から日が暮れるまで続けられたのだった。



  ◇  ◇  ◇



 ゴールデンウィークも終盤になった今日、我が家にすずかちゃんとアリサちゃんが遊びに来た。目的は秋人だ。
 生まれたばかりの頃、秋人を見に来たがっていたのだが、来た以上、抱いたりもしてみたいだろう。最初は見るだけといっても、絶対そうなることが目に見えていた。だから、せめて首が据わってから、と思っていたらこの時期になったわけだ。

 そして、その二人は今、ゆりかごの中で笑う秋人を見て「かわいい~」とか歓声を上げながら、小さな手に自分の手を絡ませたりしている。この時期の赤ちゃんは近くのものを握る習性があるから。
 小学生といっても女の子だ。やはり母性でもあるのだろうか。

「だっこしてみる?」

 僕の突然の言葉に驚いていたものの、彼女たちはすぐさま笑って頷いた。

 まずは、アリサちゃん。立ったままだと万が一の場合があるので、座らせて秋人を抱かせる。抱き方は僕の抱き方を真似してもらった。やはり、見るのと触れるのでは感覚が違うのだろう。笑いながら秋人をあやしていた。それを羨ましそうに見るすずかちゃん。
 赤ちゃんといえども小学生が抱くには若干重い。そして、大事な弟を床に落とすわけにもいかないので三分程度で今度はすずかちゃんに交代した。やはりすずかちゃんもアリサちゃんと同様に笑いながら秋人をあやしていた。
 肝心の秋人は、状況が分かっているのか分かっていないのか、きゃっきゃっ、と笑っている。

 やがてすずかちゃんも三分程度で秋人をベットに戻してもらう。少し残念そうだったのが印象的だった。

「あ~、やっぱり赤ちゃんって可愛いわね」

「そうだね。私にも弟か妹できないかな」

「そういえば、赤ちゃんってどうやって出来るの?」

「う~ん、私は知らないけど……ショウ君は知ってる?」

 なんとも答えにくい質問をしてくるんだろう。大体、話の流れから気づくな、気づくな、と思っていたのに。これは、芸人で言うところの押すな、押すなよ、というギャグに近いのだろうか。
 さて、しかしながら、まさかここで子供に「赤ちゃんってどうやって出来るの?」と聞かれたときの心情が理解できるとは思わなかった。
 僕は真実を知っているが、それをまさか正直に教えるわけにもいかないだろう。もしも、すずかちゃんのお姉さんやアリサちゃんの両親に知られたら僕の身が危険に晒されるような気がする。

 だから、僕は心の中で彼女たちの両親に謝罪しながらも彼らを生贄に捧げた。

「僕も知らないよ。すずかちゃんのお姉さんやアリサちゃんのパパやママに聞いてみたらどうかな?」

 ショウも知らないんだ、お姉ちゃんに聞いてみよう、とか彼女たちの口から聞こえたような気がしたが、気にしない。気にしたら負けだと思った。

 その後は、三人でショッピングモールへと遊びに出た。アリサちゃんとすずかちゃんは洋服を見てきゃっきゃっ言っていたが、僕には何が楽しいのかわからない。仕方なくジュースを片手に二人を待っていたら、何故か怒られ、後半は僕が着せ替え人形になってしまった。結局、何も買わなかったが。彼女たちは何がしたかったんだろう。

 洋服屋の後はゲームセンター。といっても、そこは男性禁止の場所。いわゆるプリクラといわれる箱物だった。
 合計三回取れるプリクラを一回。アリサちゃんが真ん中、すずかちゃんが真ん中、僕が真ん中の三回だ。
 出てきた写真を見て実に微妙に思う。僕の両サイドで、笑ってポーズを決めている彼女たちと若干引きつった笑みを浮かべている僕。初めてなのだから仕方ない、と自分を慰めながらも、こんな表情しか出来ないのが悲しかった。

 さて、その後はもう時間が時間だったのでそれぞれの家に帰った。

 しかし、困った。このプリクラどうしよう?

 僕の手の中に納まるプリクラ。アリサちゃんとすずかちゃんと僕が真ん中のものがそれぞれある。渡されても僕には貼るようなところがない。まさか、高校の同級生のように携帯に張るわけにもいかないし。仕方なく、僕はそれらを引き出しに入れて後日考えることにした。

 今日でゴールデンウィークは終わってしまうが、なかなか暇じゃないゴールデンウィークだったと思う。去年も似たようなものだったが。さて、明日からは学校だ。休み明けの学校は疲れるものだと相場が決まっている。

 だから、僕は休みにしては少し早めにベットに入って、明日からの学校がどうなるかと思いながら、女の子のパワーに引きずられ疲れた身体を癒すように眠りにつくのだった。
 
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