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本編前
第七話 裏 (なのは)
高町なのはにとって蔵元翔太とは理想の体現であった。
幼い頃、彼女の父親が怪我をした。一時は危篤寸前にまでなりかけるほどの大怪我だ。
だが、彼女の父親はその鍛え抜かれた肉体と精神のおかげか、生き残ることができた。だが、ただそれだけだ。生きているだけ。身体中は怪我だらけで動くこともままならない。
その結果、家族は看病に忙殺されることになる。しかし、看病ばかりもしていられない。生きるためにはお金が必要で、お金を稼ぐためには働かなければならない。よって、なのはの母親は、パティシエとして翠屋で働き、姉と兄は看病と店の手伝いと家事に忙殺された。
彼らに余裕がなかったというのは事実だろう。さらに末妹のなのはの相手をしろというのは酷な話だ。
だが、幼いなのはにその理論が通じるはずもない。幼稚園にも行っていなかったなのはは、寂しくなると母や兄、姉のところへ行ったが、「忙しいから、いい子に一人で遊んでいてね」と相手にされなかった。結局、なのはは必然的に一人で遊ぶことが多くなった。
そして、一人で遊びながら考える。どうやったら、相手をしてもらえるだろうか、と。
彼女が出した結論は家族に言われたとおり『いい子であれば、相手をしてくれる』というものだった。
一人で遊ばなければならない理由が、なのはにない以上、見当違いの結論なのだが、そう思ってしまった幼い彼女を誰が責められるだろうか。
結局、彼女の父親の治療が完全に回復し、リハビリも終え、復帰するまでの約二年間、なのはは寂しくすごくことが多くなり、彼女が出した『いい子でいなければならない』という結論は心の根底に残ってしまうのだった。
彼女が定義する『いい子』だが、主に定義は二つであった。すなわち、「誰にも迷惑をかけないこと」と「誰にも嫌われないこと」。
そのことが根底に残ったまま彼女は幼年期を過ごし、小学校へ入学する。
彼女が思い描いていた小学校生活とはいかようなものだっただろうか。
おそらく、どんな想像を描いていたとしても、とても楽しい学校生活を思い描いていたことには間違いはない。
だが、現実は非情だった。いや、彼女の根底にあるものがそうさせた、というべきだろうか。
話してくれる子はいた。だが、ただそれだけだ。友達にはなれなかった。
なぜなら、なのはには今まで友達を作った経験がなかったからだ。それになのが定義した『いい子』が余計に友達を作ることを邪魔する。
なのはが何か言う前にふと脳裏によぎってしまうのだ。
――――自分の意見を言ってしまったら嫌われてしまわないだろうか。
結局、このことがよぎってしまうため、なのは自分の意見が言えず、流される。誰かの意見に追従すれば、嫌われることはないから。だが、流されるが故に誰の気にも留められず、友達は出来ない。最悪な悪循環だった。
だが、それでもなのはは、根底の『いい子であれば』を信じていた。いい子であればいつか必ず友達が出来る、と信じていた。彼女自身には自覚はなかったかもしれないが。
そんな中で、なのはのクラスメイトである蔵元翔太は、まさしく理想の体現であった。
誰からも嫌われておらず、誰からも好かれ、誰にでも優しくて、誰とでも友達で、頭もよくて、先生からも頼りにされている。
それは、彼が転生者という二十歳の頭脳と精神を持っていることが大きな要因なのだが、そんなことを知らないなのはにとって、蔵元翔太は彼女が目指すべき姿だった。
彼をそういう風に見る切欠は、なのはのクラスメイトが喧嘩しているのを止める場面を見てからだ。
あの時、なのはも動いていた。ただし、翔太とは異なり、土足を嫌って校舎の中を通って中庭を大きく迂回する形でだが。
そのため、中庭を突っ切った翔太よりも遅れてしまい、結局、なのは喧嘩をとめることはなかった。
だが、その喧嘩の止め方の一部始終を見ながら思う。自分には無理だと。
なのはは、止めるにしても、おそらくアリサを叩くことでしか止められなかっただろう。だが、翔太は言葉で止めた。それはなのはにとっては大きな差だった。なぜなら、なのはは、暴力が悪いことだと知っていたから。
なのはと翔太の絶対的な差を感じてしまった。
それが切欠となって、なのはは翔太をよく見るようになり、理想の体現者とみなすようになった。
彼女は、翔太を真似ようとした。しかし、なのはがいかに大人びていようとも、二十歳の精神には追いつかない、追いつけない。
どうして、あんな風に意見がいえるのだろう。なのはは、嫌われることが怖くて何もいえないのに。
どうして、あんなに頭がいいのだろうか。なのはは、間違えてはいけないというプレッシャーで、頭が真っ白になってしまうのに。
どうして、ああも他人に優しくできるのであろうか。なのはは自分のことで手が一杯だというのに。
結局、なのはは蔵元翔太という影を追うあまり深みにはまってしまった。
誰にも意見が言えず、ただ流されるまま、存在するだけの存在になってしまい、テストの点数は、前よりも悪い点数は取れないというプレッシャーから、頭が混乱し、さらに点数を下げるという悪循環に陥るという結果に。
なのはが思い描くいい子とはかけ離れた姿だった。
しかし、それでも、家族の前ではいい子でいなければならないという強迫観念にも近い根本のせいで、その悩みを口にすることもなく、表面上は平然と学校に通っていた。
だが、そんな不安と不満を吐き出す場所もなく彼女の心の内に溜まっていく汚濁は、確実に彼女の心のひびを広げていく。
そして、心の限界が来たのは二年生に進級してすぐのことだった。
クラスが変わったことは、親しい友人がいないなのはにとってどうでもいいことだった。
だが、そのクラスで偶然耳にした事実が彼女のひびが入った心にとどめを刺す。
成績順のクラス替えのことである。
なのはは、その女の子はクラスが変わったことで母親に怒られたという話を偶然聞き取ったものだ。
だが、その事実がなのはの心に限界を与えた。
クラスが下がったということは、成績がそこまで下がってしまったということだ。前は上のクラスだったのに。彼女が理想とする蔵元翔太とは別のクラスになってしまうほどに。
彼女の理想が手の届かない位置に遠のいてしまったような気がした。
そして、心の限界がきた次の日、なのは学校を休んでしまう。特に理由なんてないのに、だ。
心の限界から来た自らの行動。だが、それをもなのはを苦しめる。
身勝手な理由で学校を休んでしまった自分は、もはやいい子にはなれない。お父さんもお母さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも相手にしてくれない。友達も出来ない。誰にも相手にされない。そう思い込んでしまった。
もはや家族のいい子を演じる気力も学校に行く気力もなかった。
一日中、ベットの中で過ごす日々。今日でその生活が何日目かなんて覚えていない。今日が何曜日で、何日で何月かなんて時間の感覚もない。
何気なく一年生のときに進学祝いと万が一のときのために買って持った携帯を開く。
そこにはアナログの時計があり、現在時刻と今日の日付が示されていた。
それらを無視して、なのはは携帯のキーの一つを押してアドレス帳を呼び出す。
そこに記された名前は実に数少ないものだった。
『お父さん』『お母さん』『お兄ちゃん』『お姉ちゃん』『お家』『翠屋』
以上六つがなのはの携帯に登録された電話番号だった。
入学する前は、この携帯のアドレスが増えることを想像しながら眠りについたものだ。だが、もうそれも幻想でしかない。
なのはは電源ボタンを押したままにすると携帯を電源から切った。鳴らない電話に意味はないからだ。
何気なく携帯を切ったなのはだったが、何をするわけでもなくごろんとベットの上を転がる。目の焦点はあってなく、虚空を見つめているのと変わらない。
―――私、なにしてるんだろう。
自問自答しても答えは出ない。
そんななのはの耳にドアを三回ノックする音が聞こえた。なのはの部屋は鍵がついており、ずっと鍵をかけたままだ。
「なのは、蔵元くんがお見舞いに来てくれてるけど……」
蔵元、蔵元翔太っ!
ローギアだったなのはの脳が一気に加速した。
絶対、聞きたくない名前だった。なのはの理想の体現者。絶対に追いつけない人。
もしも、彼のようになれたら、親は、兄は、姉はもっと構ってくれただろうか、たくさん友達ができただろうか、楽しく学校生活を過ごせただろうか。
何度、思い描いたか分からない。蔵元翔太のようになる自分。だが、それはもはや届かないものだと思い知った。思い知らされた。
だからこそ、もはや顔も見たくない。彼に憧れてしまうから。もう追いつけないと分かっているのにそんな思いを抱いてしまう自分が惨めだと思うから。
「嫌っ! 絶対に会いたくないっ!」
もしかしたら、お母さんはびっくりしたかもしれない。こんな声は出したことがなかったから。
だが、そこまでして拒否する人間なのだ。今の高町なのはにとって蔵元翔太とは。
やがて、扉の向こう側の気配がなくなった。たぶん、立ち去ったのだろう。この十日間で気配探知だけは上手くなったなのはだった。
母親の気配がなくなったことを確認してから、またなのはの頭はまたローギアへと移る。そのまま、母親が来る前と同じくどこか虚空を見つめる。なのはの中ですべてが空っぽだった。
一体どれだけの時間が経過しただろうか。なのはの中で時間の感覚は曖昧だった。
またコンコンコンと部屋のドアがノックされる。だが、なのははそれを無視した。以前ならば、すぐに応えただろうが、今の彼女はとことん無気力だった。
「なのは」
父親の呼びかける声の後、ガチャガチャ、とドアを開けようとする音がする。鍵はかけたままだ。当然開かない。
気配が濃くなり、何をするつもりだろうか、となのはが思ったその刹那、ドンッ! という激しい音を立てて鍵がかかったままであるはずのドアが開いた。
これには無気力だったなのはもさすがに身体を起こす。ドアの向こう側の廊下に立っていたのは、彼女の父親である高町士郎だった。
士郎が一歩、なのはの部屋に踏み入れると同時になのはの身体は恐怖で震えた。
それは、士郎が怒った表情をしているからではない。確かに、彼の表情は真剣な表情であるが、怒気は醸し出していない。
なのはが恐れているのは、彼の口から発せられる彼女を拒絶する言葉だ。
『いい子』であれば、相手をしてもらえる。構ってもらえるという思いが根底にあるなのはにとって、最も忌避すべきことは、両親からの拒絶の言葉だ。引きこもったのは、もしかしたら引きこもることで彼らからその言葉を聞かなくてすむと無意識のうちに考えたからかもしれない。
士郎が一歩ずつなのはに近づいてくる。なのはは士郎が一歩ずつ近づいてくるに従ってずりずりと士郎から距離をとるようにベットの上を移動するが、ベットの上は狭い。すぐに限界が来てしまった。
あ、あ、あ、と声にならない声をだし、恐怖からカチカチと歯を鳴らすなのは。だが、士郎はそれに気づいているのか、気づいていないのか、ゆっくりと歩みを止めずに歩み寄り―――
がばっ、となのはを強く抱きしめた。
「ほえ?」
なのはが自分でも驚くような声を出してしまった。気の抜けたような声。
士郎の意外な行動の前にはそのような声しかでなかった。てっきり拒絶の言葉がでると思っていたから。だが、抱きしめられた。
父親の体温がなのはの身体中から感じられた。頭に回されたごっつい手を感じた。それは、なのはが長らく感じたかった父親の温もりだった。
そして、父親が耳元で囁く。
「ごめんな、なのは。お父さんたち、気づいてやれなくて」
その言葉を聞いたとき、なのはの心が決壊した。
今までいい子でいなければならないと守ってきた寂しさが一気にあふれ出した。
「ふぇ、ふぇぇぇぇぇぇぇんっ!!」
なのはは、泣いた。まるで小さい子供のように。だが、士郎はそれを笑うわけでもなく、ただ抱きしめて髪の毛を撫で続けた。まるで今までの分を取り戻すように。
◇ ◇ ◇
一体どれだけの時間泣いただろうか。やがて気が済むまで泣いたなのはは、11日ぶりにリビングへと顔を出し、心配していた兄と姉にごめんなさい、と言うと彼らに笑顔を見せていた。兄と姉から抱きしめてもらった。なのはが欲しかった温もりが確かにそこにあった。
そして、今、なのはは泣いた目を真っ赤にしながら、それでも笑顔でホットミルクを飲んでいた。テーブルに座るのは高町家の面々。彼らの表情は前日までとは違って笑顔だった。
それから、彼らと話をした。学校での友達の作り方が主だった内容だったが、なのはにしてみれば、今はどうでもいいことだった。なのはが一番望んでいたのは、家族との触れ合い。それが、先ほど抱きしめてもらえたことで叶ったのだから。
しかし、なのはには分からない。少なくとも引きこもっていたなのはは、『悪い子』だったはずだ。だが、彼らは抱きしめてくれた。いや、『気づいてやれなくて』という言葉から考えれば、今まで『いい子』だったことに気づいてくれたのかもしれない。
どちらにしても、今までのなのはが欲しかったものは手に入れられたのだ。それが嬉しかった。それだけでよかった。なのはは間違いなく今まで生まれてきた中で一番幸せだった。
―――――次の士郎の言葉を聞くまでは。
「蔵元くんが教えてくれなかったら、と思うとぞっとするな」
「くらもとくん?」
なのはのそのときの声は酷く平坦だったはずだ。
どうして、その名前が出る? 彼らは、なのはがいい子であることに気づいてくれたのではないだろうか。
「ああ、今日、来てくれて大事なことを俺たちに教えてくれたよ」
それは友達がいないことで悩んでいると結論付けた士郎と桃子が取った配慮だったのかもしれない。子供とはいえ、いきなり友達がいない、ということを聞くのは憚られたため、取った配慮。
彼らが言う『大事なこと』とははのはの悩みの根幹を意味するのだが、それはなのはにとって異なる意味に聞こえた。
つまり、先ほどまでのことがすべて蔵元翔太から教えてもらった大事なことなのではないだろうか、という疑念だ。
抱きしめられたことも、触れ合えたことも、こうして笑っていることもすべて。
なのはの望んだ理想は、彼らとの心からの触れ合いだ。先ほどその願いは叶ったように感じられた。だがしかし、それが蔵元翔太によるものだとしたら。
先ほど触れ合った彼らの温もりが虚像のような気がした。
なまじ、なのはの中の蔵元翔太への評価が高すぎたことが災いした。
もしも、ここで出てきたのが別の名前だったなら、担任の先生の名前だったなら、あるいは、なのはの精神が子供のままだったなら、過程を無視して結果だけ甘受できるような人間であったなら、なのはの感情もまた異なるものだっただろう。
なのはにとって彼は理想の体現者であり、何でもできる人間なのだ。ならば、なのはの悩みを見抜いて、両親が先ほどのような行動に仕向けることも可能かもしれない。
もちろん、それは過大評価で、神でもない彼にそんなことは不可能なのだが、なのはの中でそれは真実になっていた。
―――ああ、そうだよね。なのはみたいな『悪い子』にこんな『良いこと』起きないよね。
隣で士郎が、翔太のことを「できた子供」と称賛している。
―――そうだよね。蔵元くんは、なのはと違っていい子だもんね。
先ほどの触れ合いが『なのは』がいい子だったからではなく、翔太の扇動によるもと思い込んだなのはの絶望は深い。一度喜んだだけに尚のこと。
―――もう、いいや。
そもそもが間違いだったのだ。自分のような『悪い子』が『いい子』になろうとしたことが。
一度、立ち上がっただけに、もう一度打ちのめされて、さらに頑張ろうという気力は小学2年生の小さな身体にはなかった。
だから、高町なのはは、家族と触れ合うことも、友達を作ることも―――
「ん? なのは、どうかしたか?」
「なんでもないよ」
高町なのはは己が望んだことすべてを諦めた。
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