ああっ女神さまっ 森里愛鈴
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1 美しく賢く育った娘
――夜。星も音を忘れる静寂の中、亜空間に佇む部屋。スイートルーム。
畳の上に敷かれた布団。その上に、寄り添うようにして横たわるふたりの裸の体が、余韻の熱を静かに湛えていた。
ベルダンディーの肌は、月明かりのように柔らかく、光の粒子をまとうように美しかった。胸の奥から吐き出す吐息はまだ少し熱を持ち、螢一の肩に触れる唇が、微かに震えていた。
「……お疲れさまでした……螢一さん。大満足です」
言葉よりも、その声音に宿る安らぎが、彼女の想いをすべて語っていた。
螢一は微笑みながら、小さく息をついた。腕の中にある彼女の髪を撫でる指が、どこかいたわるように、確かめるようにゆっくりと動く。
「……俺も……これ以上は、もう無理かな。限界……」
そう言いながらも、声には幸福がにじんでいた。
汗と男と女の臭いがまだわずかに漂っている。
しばらくして、螢一がぽつりと漏らした。
「……もう、結婚して10年なんだな。あっという間だった気もするし……いろいろあったよな」
ベルダンディーは小さく頷き、螢一の胸元に頬を寄せた。
「ええ。あなたと出会って……世界がすべて変わって……そして今、愛鈴がそばにいる。……私は、神である前に……妻で、母になれたことを……誇りに思っています」
「……愛鈴、もう六歳だもんな」
螢一の目が少しだけ遠くを見るような色を帯びる。
「賢いだけじゃなくて……ちゃんと人の気持ちもわかっててさ。あれ、絶対にベルダンディーの影響だよ」
「そんなこと……螢一さんがいつも、愛鈴に真剣に向き合ってくださっているから。あの子は、ちゃんと見てるのよ」
月光の下、ふたりの間に流れる空気が、すこしだけ濃くなる。
愛し合ったあとの沈黙は、なによりも深く、親密だった。
「……でも、これからもっと難しくなるかもな。あの子は“普通”を知らなすぎる。俺たちが神と人の間にいるから……学校とか、友達とか……そういう“当たり前”を、ちゃんと教えてやらないと」
ベルダンディーの指先が、そっと螢一の手に重なる。
そのぬくもりに、言葉にできない誓いがこめられていた。
「ええ。私も、愛鈴に“普通”の素晴らしさを教えてあげたい……でも、それと同時に、あの子自身の“特別”も、否定せずに育ててあげたいの」
「……強いな、やっぱり、ベルダンディーは」
「ふふ……螢一さんが、そばにいてくれるからです」
ぴたりとくっついた肌の感覚が、呼吸のたびにお互いを感じさせる。
唇はもう交わさず、ただ心を重ねるだけの夜――それが、どれほど深い愛の証であるかを、ふたりは知っていた。
螢一が静かに目を閉じる。
「……今日はもう、これ以上は……いいよな」
ベルダンディーも目を伏せて、微笑む。
「ええ……今日は、抱きしめてくれるだけで、いいの」
それだけの夜が、誰よりも幸福で、静謐だった。
二人はかるくシャワーを浴びて、肌触りの良い寝間着に着替える。布団を直して二人並んで横になった。
時間が止まったような静かな空間で、ふたりの身体はすでに落ち着いていた。
だが、心はまだ、静かに、深く――愛鈴という光をめぐって揺れていた。
螢一がゆっくりと上体を起こし、棚の端にあった銀の水差しを手に取る。水を一口含むと、ベッドに横たわるベルダンディーへと戻り、彼女の額にそっと手を添えた。
「……ほんとに、賢い子だよな。俺たちには、もったいないくらいだ」
「そんなことありません……」
ベルダンディーはその手に頬を寄せながら、静かに微笑んだ。
「賢いだけじゃない。あの子は……誰かの痛みを、ちゃんと感じることができる。だからこそ……怖がりでもあるの。自分の手が誰かを傷つけてしまうって、心のどこかで……」
「……知ってるよ」
螢一の目に、一瞬、深い影が走った。
「……だからこそ、“普通”を教えてやらないとな。みんなと同じように笑って、悩んで……ときどき失敗しても、許されるんだって」
彼の言葉に、ベルダンディーはそっと頷く。
それは神としてではなく、ただの「母」として――娘の未来を願う者としての頷きだった。
「螢一さん……」
彼女がその名を呼んだとき、螢一は再び彼女の隣に横たわり、背中を優しく包んだ。
ふたりの体温はもう落ち着いていたが、心はまた、ひとつに重なっていた。
そして、螢一の眠りが落ちるのを見届けるようにして――
ベルダンディーは、天井を見つめながら、そっと目を閉じた。
*
(この部屋は……)
ベルダンディーの内なる声が、静かに響く。
(……本当は、あなたと私のためだけに作られたものではありません)
(あの夜のこと……覚えていますか?)
(初めて、地上界であなた部屋で一つになったあの日――)
そのとき、天界の記録者たちは一様に混乱した。
祝福と歓喜と、なにより――「命」そのものの波動が、空間を超えて世界に満ちた。
それは、**生の干渉波**。
女神であるベルダンディーが絶頂に達したとき、彼女の核から溢れたそのエネルギーが、地上界のあちこちに染み渡り、――その年、世界中で不思議なほどのベビーブームが起きた。
(極端な人口増加は世界のバランスを崩します。だから……この部屋は、“隔離”された場所として設計されたのです)
(あなたと結ばれるたびに、私の中からあふれるものが、世界に影響を与えないように)
(愛しているからこそ……あなたと触れ合うことが、世界を揺らしてしまう。そう思えば、少しだけ切ないです。)
だが、その切なさを包むように、愛しさが重なる。
(でも……それでも、この温もりが……私にとっての“普通”なのです)
彼女の指先が、螢一の胸をなぞる。
すでに安らかな寝息を立てる夫の胸に、そっと口づけを落とし――
ベルダンディーは、ようやく深い眠りに落ちていった。
ふたりの夢の中には、愛鈴の笑顔がいつまでも、揺らめいていた。
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