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世界はまだ僕達の名前を知らない

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決意の章
02nd
  Who am I?

 詰まる所、記憶喪失なのであった。

「……………………」

 名前も何も思い出せない。自分の顔だって判らないし、性別だって知れない。知り合いだって居たかどうか定かではないし、何なら自分が人間であるという確証すら無い。

 男(ズボンの中を確認して、辛うじて性別だけは得た)は小脇にトイレを抱え、広い往来のど真ん中に立っている。

「……………………」

 一体全体どういう状況なのだ。

 人々は無言で立ち尽くす男を避ける様に通行していた。皆が皆去り際に迷惑そうな目を向けてくるので大変居心地が悪い。取り敢えず道の脇の方に退散して、それから男は改めて自分が今置かれている状況の把握を始めた。

 ()ず、自分は記憶喪失である。しかし、こうして考える過程で脳裏に言葉は浮かぶし、さっき歩いてみせた様に基本的な体の動かし方は判る。何から何まで忘れてしまった訳ではない。他人(ひと)の邪魔になる所に立ってはいけない、ツォヴォスはツェーしてから食べる、トイレは小脇に抱えて持ち歩かない、等の或る程度の常識も残っている様だ。

「……………………」

 男は小脇のトイレへ目を遣った。

 何だ、これ。トイレである。よく有る座式便器である。女性用トイレには沢山有って男性用トイレには一つか二つか三つしか無いアレである。しかしこれは実用向けというよりかは観賞用に思えた。トイレにしては、小さいのだ。小脇に抱えられる程度のサイズしか無い。水も入っていないし。目の前に持ってきて更に観察してみると、便座の部分に一条の罅が入っており、それが便器全体の芸術的価値を向上させている様に思えた。材質は純白の陶器であり、その表面に一切の汚れは無く、とてもとても美しい。てか観賞用のトイレって何だ。無論、観賞用のトイレである。

 まさかこれに頭を()つけて記憶を無くしたのではあるまいな、と思いつつ男はトイレを小脇に戻し、これからの行動を思案し始めた。

 さて、どうする?

「……………………」

 とはいえ男は記憶喪失である。記憶が無い。知識が無い。経験も無い。有るのは或る程度の常識だけ。その常識の中に『記憶喪失になった時の対処法』は載っていなかった。

「……………………」

 取り敢えず、通行人に話し掛けてみる事にした。

 手頃な通行人⸺散歩でもしているのだろうか、ぶらぶらと手ぶらで歩いている一人の青年がターゲットだ。その青年に声を掛けるべく近付く。

「……………………」

「……………………」

 青年は男⸺正確にはその小脇のトイレを認識すると、そそくさと人混みに逃げた。

「……………………」

 運が悪かったのだ、と自分に言い聴かせて次も同じ様な雰囲気の手頃な青年に声を掛けようとする。

「……………………」

「……………………」

 先程の青年と同じ挙動で逃げられてしまった。

「……………………」

 どうやら、青年は皆シャイな様である。という訳で次は嗜好を変える。

 今度は青年ではなく、息子を引っ張って歩くママさんに狙いを定めてみた。

「……………………」

「ママー、あの人ー」

「しっ! 見ちゃ駄目よ、忘れなさい」

 逃げられた。何だかしっかり拒絶された気もする。

「……………………」

 男は少し考えて、トイレが原因だという事に思い当たった。当たり前だ、誰もトイレを抱えた人間になんか近付きたくない。そんな変人、関わらない方が身の為である。

「……………………」

 しかし、何故か男の頭に『トイレを()てる』という考えは浮かんでこなかった。男は人に話し掛ける作戦は失敗だと肩を竦め、次の方策を考え始める。

 しかし、妙案はなかなか思い浮かばないから妙案と呼ぶのである。次なる作戦は見当たらなかった。思考に疲れた男は無意識にトイレを小脇から外し、目の前に持ってくる。観賞タイムだ。

 便座部分に走る一筋の罅⸺は既に述べたか。ではその汚れ無き純白の表面⸺に就いても述べたか。ではその造形美に就いて語ろう。『機能美』という言葉が有る。『実用性を限り無く突き詰めていった先に有る美』といった感じの意味合いだ。トイレでいえば、排泄物がこびり付き辛い、流す時の水が飛び散らない、清掃し易い等が当て嵌るだろう。このトイレは、その機能美という観点でいえば、余り美しくはない。そもそものサイズがサイズである。そもそもが実用性皆無のトイレなのだから機能美も糞も無い。しかし、このトイレはどういう訳か魅惑の美しさを持っていた。純白の表面は言わずもがな、何故かその形すらも美しい。トイレであるのに。形は一般的なトイレの範疇に収まっており、罅以外の装飾は無い。なのに、美しい。何というか、各所のバランスが素晴らしい。『トイレ』という、一般的に余り()いイメージは持たれない物ですら、バランスを極めればここまで美しくなれるのだと高らかに宣言された気分だ。あぁ、美しい。綺麗だ。潔白である。このトイレならば、どんな潔癖症の人でも小脇に抱える事に忌避感は有るまい。何故ならばこれはトイレであり、一つの芸術作品であるのだから。潔癖症であれば、潔癖症であるからこそ、美しい物を拒む事は有るまい。ならば、このトイレだって受け容れられる筈だ。この美しさを認められないなんて、それは最早潔癖症ではなく潔癖症である自分が好きなだけの只の人だ。真の潔癖症はそれが通常汚いかどうかではなく、それの"在り方"を見る。"在り方"を見る様な真の潔癖症ならば、美しき芸術作品として在るこのトイレを拒まない。拒めない。だってこんなに美しいのだから。余りにも美しいのだから、拒むどころか自分から近付いて行く筈である。現に、男も唇を近付けて口付けを⸺

「……………………」

 する直前で、何とか踏み留まった。

 隅っことはいえ、ここは往来である。そこそこの大きさの有る大通りである。それ相応に人目は有る。流石に衆人環視の下で口付けは、恥ずかしい。逢瀬は、誰にも見られない様な場所が()い。

 男はその様な場所を探し⸺建物と建物の隙間という、丁度好さそうな場所を見付けたので、そこに潜り込んだ。 



      ◊◊◊



 所謂(いわゆる)、路地裏とかいう場所であった。

 路地裏。明るく人通りの多い大通りに繋がっていながら暗く人の少ない路地、正に"裏"。世間に大手を振って歩ける人間のみが闊歩する事を許される大通りと違い、ここは"裏"に身を置く日陰者か"表"で生きていけなくなりしようが無く"裏"に身を(やつ)した者、或いはそのどちらでもなく近道を試みたり冒険心に負けたりした"表"の人間のみが立ち入る事を許される土地である。要するに入ろうと思えば誰でも入れる。

 とはいえ面白がって入る者は居らず、子供も親に入らない様強く教育される為、トイレを抱えた男が駆け込んだ路地裏には誰も居なかった。

「……………………」

 表通りに比して大した変わり様だ、と男は思った。

 表の通りをそんなマジマジと観察した訳ではないが、少なくともこんなにゴミが目に付く様な場所ではなかった筈だ。ここは路地裏という割には結構広めで、幅は大通りの半分程は有るだろう。しかしその半分はゴミに占有されており、実質的な道幅は四分の一である。狭い。

 男はもうここでいいかとも思ったが、この位置だと表から覗き込めばまだ簡単に見られてしまうので、もっと人目に付き辛い場所を探しに奥へ奥へと潜ってゆく。因みに、辛うじて男の中に残った常識の中には『裏路地は危ない』という知識は残っていない為、男はこれが危険な行いであるという事を自覚していない。

 男は数度角を曲がり、ここならどうしようが大通りからは見えないであろう袋小路へと辿り着いた。

「……………………」

 トイレを持ち上げ、見蕩れる。

 本当に美しいトイレだ。これぞ美の極致……という話はしたか。ならばもうこれの美しさに就いて語る事は無いだろう。『美しい』、このトイレを表す言葉はそれで事足りる。寧ろそれ以外は不要であり、邪魔だ。無駄な言葉でこれを修飾するな。それはこれに対する最大限の侮辱である。世界中の全ての物者事の中で最も上位に位置するこれを侮る辱めるなど死刑ですら贖う事のできない罪だ。大罪だ。

 暫しトイレを眺め恍惚としていると、上の方から影が差した。邪魔である。

 男は影の主に文句を言おうとして振り返り、

「お前……こんな所で何やってんだ?」

「トイレなんかマジマジと……きもっ」

「……………………」

 大柄でガラの悪そうな男と、小柄でガラの悪そうな男に袋小路の入口を塞がれている事に気が付いた。 
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