冥王来訪
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第三部 1979年
戦争の陰翳
外交的解決 その2
前書き
今回は文字数が大分増えます。
昼過ぎ、御剣たち一行が京都に戻ってきた。
白銀はアイリスディーナの事を篁の元に預けた後、鎧衣の元に今後の事を相談に出向いた。
「博士は……」
「東ベルリン……」
鎧衣は、開口一番、驚くようなことを言った。
「経済官僚のアーベル・ブレーメに会いに……」
その頃、マサキは東ドイツに居た。
アーベルたちが住むヴァントリッツに向かう車中だった。
ヴァンドリッツは地図にない町で、東独幹部の為の秘密の別荘地である。
ベルリン郊外から約15分ほどの場所にある。
ベルリンは北海道の札幌よりも高い緯度にある。
その為、真夏の7月と言えども、日が昇っていない時間は風が肌寒いものがあった。
周囲は深い森に囲まれており、静かである。
朝夕を除くと鳥のさえずりさえも聞こえてこない。
耳を澄ましていると、シェーネフェルト空港に向かうジェット機の音がかなりはっきり入ってきた。
マサキは、早朝のヴァントリッツを歩きながら、東独の住宅事情を思い起こしていた。
東独では、40年の歴史の中で常に住宅が不足していた。
一応東独政府は、中核都市に4人から6人家族向けの部屋を備えた高層アパートを建設した。
歴史のあるドレスデンの街並みを壊して、ソ連様式の無機質なアパート群の建設を計画するほどだった。
それは実現しなかったが、モスクワの様に見渡す限りのコンクリートの波間を作る予定だった。
以上の経緯から、東独の津々浦々に、軒並み10階以上の高層住宅が誕生した。
だが、それにもかかわらず労働者はおろか、大学教授や知識人というインテリゲンチャさえも押しなべて住宅難に悩まされた。
党の高級官僚であるグレーテルの両親の様に、アパートの一室を割り当てられらた人間はまだましな方。
その多くは、社宅や共同住宅で、基本的に数年先まで入居待ちだった
ユルゲンの父の様に、戸建ての住宅を持てるというのはそれ自体が特別な地位を有する存在だ。
東独の住宅は、Plattenbauという安っぽいプレハブ工法のつくりの物である。
基本的に殺風景で暖房器具も劣悪だった。
そこに粗悪で面白みに欠ける家具を並べ、新婚生活をし、子供を育てるのが一般的だった。
そういう東独風住宅の殆どは、崩壊から30年が経った今、空き家となって放置された。
不良や犯罪組織の隠れ家、麻薬や武器の密造工場、失火の原因など、大きな社会問題となった。
むやみに壊すこともできないので、ドイツ当局の頭を悩ませている材料の一つだ。
「こんな菓子なんか持ってきて、どういう風の吹き回しかしら」
湯気の出るアップルティーで唇を濡らした後、ベアトリクス・ブレーメはそう呟きながらため息をつく。
「俺の買ってきた長崎のカステラが気に入らんか。
美久に頼んで、朝早くから店先に並ばせてまで、用意したものだぞ」
マサキは、ベアトリクスに会うために、長崎の老舗カステラ店の高級カステラを用意していた。
桐箱に入った3本入りの特選品を20箱以上持ってきて、ブレーメ家を訪問していたのだ。
「確かに柔らかくておいしいけど……それほど甘くはないし」
卵黄をふんだんに使い、蜂蜜の入った高級品なので、甘くないはずはなかった。
これはベアトリクス風の、マサキへの感謝の言葉だった。
「そうか。
確かに俺の甘さがあれば、甘すぎて食えなくなるからな!」
言外にマサキは、求めればいくらでも甘やかしてやるという意思表示だった。
それをベアトリクスは敏感にキャッチした。
「はあ?」
思いがけない言葉が、唐突にベアトリクスの口から飛び出した。
マサキの言葉を聞いたベアトリクスは、子ども扱いにされたような気分だった。
「あなたが、そこまで馬鹿だとは思わなかったわ」
そういって、ベアトリクスは大きなため息をついた。
マサキは、子供の戯言だと思い、特に気に止めずに聞き流す。
「お前は、本当に面白い女だよ」
マサキは、ベアトリクスの天衣無縫の、自然な反応を聞き出せたことに満足してた。
面白い女というのは、マサキの偽りのない本心から出た言葉だった。
「それで、要件は何?
率直に言って。
私も率直に応じるから……」
ベアトリクスはそれとなくマサキの表情を見ながら考えていた。
こんな男に、あの美しくて聡明なアイリスディーナが何故惚れたのだろうかと。
「アーベルに、こいつを渡してほしい」
マサキのストレートな要求に、ベアトリクスは一瞬口ごもった。
「父に……?」
何事でもそうであるが、依頼に対して、意見を聞くというのはある種の信頼関係がある証拠である。
ベアトリクスがアーベルに手渡すのを尋ねた際、マサキはこの依頼が成功する確信を抱いた。
「ソ連の資料だが、俺にはわからなくてな……」
マサキは、今シュタージとKGBに憎しみを抱いているユルゲンに味方することを考えながら、目の前の若くて美しい他人妻から多くの情報を得ようと心掛けた。
「ちょうど、ソ連のおじさまが来るから聞いてみるわ。
外交官だから、分かると思うの」
「おじさま?」
既に心を許しているのか。
ベアトリクスは、おっとりした口調でマサキの疑問に答える。
「父の古い友人で、なんでもコムソモールの同級生だったの。
ソ連亡命中に知り合ったそうよ」
マサキにはその話は初耳だった。
アーベル・ブレーメの所に遊びに来るソ連外務省の男。
だいぶ前にユルゲンから聞いた経済担当官だろうな。
ベアトリクスにソ連経済が危機的状況にあるという話をわざと盗み聞きさせた人物だ。
普通の木っ端役人ではあるまい。
おそらく手練れのスパイだ。
「出来れば、お前を巻き込みたくなかったが……」
マサキは、KGBを騙す為にベアトリクスを利用することに罪悪感を覚えた。
シュタージはKGBと同様に人民への無謬のテロをする弾圧機関。
乳飲み子を抱えた19歳の若妻を、この血塗られた組織に近づけることを恥じたのだ。
「かえって好都合よ。
日本人のあなたがそのまま父に渡したら、信じてもらえないだろうし」
警戒するでもない屈託のない表情なので、マサキの方がかえって驚いた。
「勘違いしないで、木原。
貴方にこうやって協力しているのは、すべて主人の為なの。
あの人の為なら、何でも差し出すわ」
このような答えは、彼女なりの信頼の証しなのかもしれない。
ユルゲンへの愛を照れくさそうに告げるベアトリクスを見て、マサキは思う。
あんまり可憐な受け答えなので、いじらしさよと、微笑していた。
マサキが帰った昼過ぎ、アーベル・ブレーメの元に一人の男が尋ねてきていた。
ソ連外務省の男で、元々は軍需産業省の高官を経て、国家計画委員会に行った男だった。
ソ連では経済担当官であっても外務省に行くことはあり得ないことではなかった。
1986年から1990年に駐仏ソ連大使を務めたヤコフ・ペトロヴィッチ・リャボフ(1928年~2018年)は、党中央委員会からゴスプランに移った後、ソ連邦副首相の一人を務めた人物だった。
元々はターボエンジンの専門家だったが、技術者から身を起こしてスヴェルドロフスク共産党委員会を経て、党中央委員会に転身した異色の経歴を持つ。
T-64戦車とT-72戦車の生産と採用を巡って軍部大臣であったウスチノフ元帥と対立し、党中央を追われた後、ゴスプランや対外経済協力省を渡り歩いた。
(スヴェルドロフスクとは、1924年から1991年までのエカテリンブルグの旧名。
ここにあるイパチェフ館で、ロマノフ朝の最後の皇帝、ニコライ2世とその家族が惨殺された。
10数人の処刑隊の中には、後のハンガリー首相のナジ・イムレが殺害に参加したとされる。
そして1977年にKGB長官のアンドロポフの命令でイパチェフ館の破壊命令が出されると、当時のスヴェルドロフスク州共産党委員会第一書記であるボリス・エリツィン(1931年~2007年)が即日破壊した。
このように、エカテリンブルグはロシア革命にとって重要な意味を持つ場所の一つである。
なお後にロシア大統領になったエリツィンは、1998年のロマノフ皇帝の国葬の際、恥ずかしげもなくその儀式に参加したことを付け加えておこう!)
アーベル・ブレーメの元に来ていた男は、純粋な経済官僚ではなく、KGB第6総局の現役予備将校だった。
現役予備将校とは、経済活動を行う団体や組織、企業に送り込まれる要員の総称である。
Officers Of The Active Reserveと呼ばれており、KGB将校が自分の真の所属を隠し、政府機関、メディア、研究所などに秘密裏に派遣されることを指す。
ベアトリクスに語ったソ連外務省経済担当官というのは、偽装用の肩書である。
実際の仕事は、ソ連の影響下にある衛星国の経済や産業の監督する立場だった。
第6総局が正式に設立されたのは、アンドロポフがKGB長官になって以降である。
だがチェーカーは、1918年の創設以来、国内経済の統制が主要任務に入っていた。
ソ連では長い戦時統制経済による行き詰まりを解消するために新経済政策が1921年3月21日に施行された。
この新経済政策、通称NEPによって、新富裕層のネップマンや富農が登場した。
1924年に後継省庁である国家合同政治総本部は、このネップマンやクラークの腐敗や汚職を対象とし、経済的反革命を取り締まることになった。
それが第6総局の源流である。
これは今日のロシア連邦でも維持され、FSBの部局に第4総局が経済防諜の部門として残っている。
時々、オルガリヒの関係者がFSBに逮捕されることがある。
経済事犯はソ連およびロシアでは一般警察の範疇ではなく、秘密警察の案件だからである。
ちょうど米国における大規模な収賄事件捜査が、FBIによって行われるのに似ていると考えてもらえばいいだろう。
(オルガリヒとは、旧ソ連の国有企業民営化で払い下げられた政府財産を元に成立した寡頭的な新興財閥の事である。
寡頭制を意味するギリシア語のoligarkhês(オリガーキー)を語源とし、日本語では新興寡占資本家とも評される)
シュタージもそうだったように、KGBは経済活動の取り締まりをする関係上、経済に明るい人材を育成していた。
KGBの幹部職員は、市場経済の仕組みに精通し、経済と法律の知識を持つことなどが推奨された。
そのため経済学者による研修、市場経済に関する勉強会や闇屋の実態を詳細に分析が盛んに行われていた。
KGBはほかの諜報機関と違って、情報将校であるばかりではなく民間分野の専門家であることも求められた。
その為、ソ連崩壊後、KGB出身者の多くがビジネスマンや学者、コンピューター技術者、政治家に転職した。
そういう意味で、KGBはビジネスマン養成所と言っても過言ではない。
シュタージが、経済や法曹の専門家を育てていた事例は、KGBの猿真似であった。
アーベルがKGBの男と交友関係を続けているのにはいくつかの理由があった。
一つは、アーベルの実父で、SEDの創設メンバーである老ブレーメがNKVDの協力者だったからだ。
ソ連ではスパいとその血縁者を「スパイの血」と称して、非常に大事にした。
他薦で厳しい選抜試験のあるGRUと違い、KGBでは血縁者の自推が一般的だった。
特別学校や関連機関に無試験で入学でき、海外勤務も優先して彼らに回っていた。
KGBから見れば、アーベルは、シュタージの対外部門、中央偵察総局長官のマルクス・ヴォルフと同様に身内の扱いだった。
東独とソ連が距離を取り始めていても、以前の付き合いを元にKGBは接触してきたのだ。
もう一つの理由は、KGBに老ブレーメの起こした事件を知られていることで脅迫を受けている点だった。
老ブレーメはコミンテルン時代に、エジョフシナに遭遇し、生き残るために多くの仲間をNKVDに売り渡した。
そして隠ぺいする事を条件に、NKVDにリクルートされたのであった。
アーベルが恐れていたのは、老父の事件が発覚することによって、自分やベアトリクスに害が及ぶことであった。
その為、昔なじみのチェキストを切れなかったのだ。
「この間、月で花火大会をやったそうじゃないか」
「ああ、あれは酷かった」
「よく議長の裁可が出たな」
「新設のESP研究班が提案してな。
とにかく頭に血の昇りやすい連中の集まっているとか……」
「アーベル、話は変わるが……
近頃どこもそうだが、規則やぶりが多くてな」
「君がここに来たという事は収賄がらみか」
アーベルは回りくどい事を言わずに話の核心に触れた。
なぜ第6総局長直々に東ドイツに赴いたのかと。
男の答えは実に明快だった。
「アクスマンという男の件で我々も迷惑をこうむっている。
あの男が贈収賄をした相手は、軍はおろか、KGBの指導員まで入るからな……」
当時の東ドイツには、ソ連からの指導員が各省庁に100人ほど配置されていた。
それはシュタージでも同じで、ミールケ長官でさえも、最下級のKGB中尉に頭が上がらないほどだった。
「この際、関心を東に移したらどうだ。
そうすれば、君にも捜査の手が及ぶまい……」
アーベルは目の前の男がアクスマンから接待を受けていることを知っていた。
商業調整局を通じて手に入れたグレンフィディック 30年物を100本ほどタダ同然の格安の値段でアクスマンは男に収めたことがあったのだ。
グレンフィディックとは、スコットランドの高級シングルモルトウイスキーである。
ちなみに30年の価格は、2020年現在の定価で58000円ほどである。
生産数が限定された商品のため、市場では高額がつけられ、20万円強で取引されている。
KGBはアンドロポフ長官時代以降、綱紀粛正が進められた。
将校は国内外問わず、不倫や離婚をすれば、昇進取りやめの上、左遷。
どのような形の接待であっても、刑罰の対象とされ、特に外国関係は厳しかった。
1983年に日ソの漁業交渉をしていた担当官が銃殺刑に処されたことがあった。
至極真面目で、スパイと接触するようなことはなかった人物だが、あることが問題視された。
漁業交渉をしていた相手先の日本の水産会社から中元や歳暮の付け届けがあった事である。
その為に彼はアンドロポフに目を付けられ、KGBに逮捕された。
裁判の結果、日本帝国主義のスパイの認定を受け、刑場の露に消えた事例がある。
アーベルは共産党体制の申し子というべき男である。
人の弱みを漬け込み、そこから自分の協力者に仕立て上げるのが彼の十八番だった。
KGB第6総局長の男が、ソ連共産党幹部に高級ウイスキーやワインを何処からか格安で仕入れてているのを知っていた。
いつか何かあった時の為に切り札としてその事実を隠していたのだ。
「あの男は商業調整局をたぶらかした後、国費を流用して、グレンフィディックを仕入れたことがあった。
私も一本無理やり収められたことがあったが、あれの処分には困った」
件のウイスキーは、アーベルは一口も飲まなかった。
女婿のユルゲンの手に渡り、彼は同輩たちと一献傾けたのだ。
とりとめのない話を続けた直後、アーベルは男に切り出した。
「実は、東京にいる連中を出し抜く資料を手に入れてね……」
「資料、どんな……」
アーベルは妙に平静な表情で言った。
「まあ、目を通してくれ」
それは、陸軍参謀本部2課で作成した捜査資料の写しだった。
マサキが秘密裏に入手し、全編日本語だった物をドイツ語に仮翻訳したものだった。
資料に目を通した男は、思わずつぶやいた。
そこには、GRUのアターエフ少佐が穂積と大野から贈収賄を受けていたと克明に描かれてある。
「なんってこった!」
顔面蒼白となった第6総局の男は立った。
全身が熱病にかかったように震えている。
「アーベル、この日本語原本の複写を貰えないか」
アーベルはどきりとしたが、平静を装い、熱いコーヒーで唇を濡らす。
内心はうまく行ったと喜んでいた。
これでKGBに貸しを作ることになり、尚且つアクスマンの行った悪行もどこかに行く。
自分の知らないうちに関わった贈収賄事件で逮捕されることもないだろうことに安堵していたのだ。
後書き
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