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ボロディンJr奮戦記~ある銀河の戦いの記録~

作者:平 八郎
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第96話 狐の新しい職場

 
前書き
お世話になっております。

C103では想定以上の御贔屓を頂き、誠にありがとうございます。
これからも遅々としか進みませんが、よろしくお願いいたします。

微妙な性表現がありますのでご注意ください。(本番ではありません) 

 
 宇宙歴七九〇年 五月 バーラト星系 惑星ハイネセン

 新しい任地について正式に交付されたのは、まったく根回しにもなってないアイランズの話から一〇日後。ハイネセン・セントラル内の国防委員会本部ビル内に幾つかある小さなレセプションルームの一つでであった。

 現国防委員長のマチアス=ロジュロ氏から、統合作戦本部人事部と同じデザインで色違いの任命証を手渡され、ブラウンのボブカットの若い女性秘書によって、左胸にCの文字をあしらった徽章が付けられる。そして握手。右手を両手で包み込む、政治家特有のやり方で。
 列席者の中にあって軍服を着ているのは四人。一人が首席補佐官であるロビン=エングルフィールド大佐。残りの三人が俺と同じ補佐官で中佐。そのうちの一人が俺の前任者となるヨゼフ=ピラート中佐となる。

「随分と若い君が後継と聞いて、私も些か驚いているのだよ」

 僅か一〇分もかからず終わった一連の儀式の後で、ピラート中佐は、明後日には俺のオフィスとなる部屋で皮肉をぶつけてくる。整髪料で艶々だが、些かボリュームに欠ける髪。緊張感なくたるんだ頬に、澱んだ瞳。四〇歳と聞いていたが、五〇歳半ばと言ってもおかしくないくらいに老けていて、そして覇気が感じられない。

 オフィスの模様も、軍艦内の画一的なオフィスでもなければ、宇宙艦隊司令部内の機能的なデザインでもない。銀行の重役室のような、シック(棒)な飾りつけにゴージャス(棒)な什器。ピカピカに磨き込まれた壷やゴルフセット、俺の月給でも足りなさそうな金ぴかの額縁と、何の意味があるかさっぱりわからない抽象画。ここが軍人の職場とは到底思えない。

「さっさと済ませよう。引っ越しの準備があるんでね」

 ピラート中佐は牛革のソファにどっかりと座ると、対面に座る俺に向かって薄いファイルを放り投げてくる。低いテーブルを乾いた音を立てて滑ってきたファイルを開くと、国防委員会内部組織図と国防政策局オフィスの間取り(避難経路付)だけしか書いてない。ご丁寧に組織図の一か所だけマーカーで色が塗られている。

「これだけ、ですか?」

 流石にたまらず俺が顔を上げると、ピラート中佐は何も言わずフンと強めの鼻息をついてから、軽蔑の視線を向けてくる。フェザーンの駐在武官をやっていた時以外ほぼ実戦部隊にいた俺にとって、正直次の任務は極めて難解だ。まず何をするのか分からない。わからないからこそ引継ぎが必要だと思ったのだが、ファイルには任務について何も書かれていない……つまり

「承知いたしました。口頭での引継ぎをお願いいたします」
「首席卒業者のくせに頭の回転はあまり良くないようだな」
「経験不足で配慮が足りず、申し訳ございません」

 座ったまま首を垂れると、頭頂部の向こうから厭味ったらしい鼻息の圧を感じる。舌打ちしたい気分だが、これは確かに俺が甘かった。そもそも軍令(統合作戦本部)と実働(宇宙艦隊司令部や星域管区司令部)とは違い、軍政(国防委員会)は軍の組織ではない。故に統合作戦本部も宇宙艦隊司令部もその構成員がほぼ軍人で占められているが、国防委員会は軍人の方がはるかに少ない。故に事前に話を聞けるような相手もいない。……財務委員会ならば結構いるんだが。

 それにアイランズが嬉々として伝えてくる……そんな任務がまさか情報部や公安警察のような文字を残せない繊細な任務だとは思ってもみなかった。こんな学生サークルの引継ぎ資料にすら劣るファイル、統合作戦本部内の部局なら査察部に提出するだけで任務軽視の証拠になって監察処分対象だ。

「何しろ実働部隊からの転属ですので、そのあたりの機微に疎く」
「実働あがりの士官は大抵ビームやミサイルを撃つだけが軍人の仕事だと思っている連中だ。頭が軽いのは元から承知しているが、回転が悪いのではどうにもならんぞ」

 ぬしゃあ儂に喧嘩ぁ売る気か、と微笑の仮面を浮かべながら胸の奥底で奥襟をつかんでボコボコにしつつ中佐を観察すると、果たして中佐は俺ではなくどうやら隣接する部屋との通用扉を、先程の軽蔑の視線が生暖かい眼差しに思えるくらいに冷え切った目付きで見つめている。ファイルにある間取りからすれば、その扉の先には『補佐官補』が控えているオフィスだ。俺が中佐と同じようにその扉に視線を向けると、中佐は先程と同じように鼻を鳴らす。

「扉の向こうにいる正義漢面した補佐官補共は、君とは違い後方勤務あがりだが、頭が固い上に融通が利かないときた」
「はぁ……」
「クソの役にも立たない奴だ。建前と信念だけでは個々の仕事は進まないと、理解できないわけでもあるまいに」
「……その、仕事についてですが」
 このままだとひたすら見たことのない補佐官補の愚痴を聞かされそうなので話を戻すと、中佐は口のへの字に曲げ腕を組む。気分を害したのは間違いないだろうが、口頭で伝達すると肯定した手前、言わないわけにはいかないという感じか。
「国防委員会に所属する政治家のケツ持ちと太鼓持ちだ。ゴルフと酒と女の扱いが上手ければなおいいが、それは追々覚えていけばいい」
「……は?」
 今、中佐はなんと言った? ケツ持ち? 太鼓持ち? 
「政権内野党や野党議員への質問取りレク。国防政策局長や国防委員会所属議員への各種フォロー。関係者の皆様の接待に、軍事関連企業間の利益分配調整。まぁ、そんなところだ。首席も同僚もいることだから全て君一人でやる必要もないが、パトロンの議員や企業は君が見つけるんだな」

 質問取りレクはわかる。一言で軍と言っても膨大な組織の集合体であり、国防委員会でスムーズな審議を実現する為には、質問内容を確認し、当該箇所へ回答文を作成してもらったり、細かい数値の算出をしてもらったりしなければならない。場合によっては参考人として要員にお願いして委員会に出席してもらわねばならないから、その調整役として質問側と回答側の間を取り持つ必要がある。

 文民統制の通り、当然のことながら国防政策局長は軍人ではない軍官僚であり、いわゆるキャリア組。国防委員会の実働組織の長だ。俺の処遇を巡って口を挟んできたのは(教唆した本人であろう)トリューニヒトではなく彼ら。軍政分野の中核組織でありその権限は実に強大だ。だが結局のところ『机上の戦略論』以上の軍事知識を持っているわけではない。そこをフォローしつつ統合作戦本部側との意見調整を行うのは、板挟みな立場が面倒とはいえ理解できる。

 残り二つはグレーな仕事だ。一〇〇歩譲って接待はまだ理解できなくもない。評議会議員やその関係者に限らず、より軍のことをより理解してもらう広報活動として普段行けないような基地や演習に招待したり、英雄と言われるような軍人達とのパーティーを開いて招待するというのは。

 だが軍事関連企業の利益分配調整は憲兵に手錠をかけられるレベルの話だ。原作でもアイランズに限らず評議会議員が軍事関連企業からのリベートを受けているが、その調整までしろというのはいかにも。はっきり言えば官製談合の取り持ち。中佐という階級にしてはちょっとお値段以上の『事務用什器やスポーツ健康用品』も、そのリベートの一部を流用しているのか、それとも企業から提供されたものか。その両方かだろう。確かに引継ぎファイルに書けるような代物ではない。

「君も潔癖症の類か。まぁ、そのうち分かるようになる」
 どうやら顔に出ていたのか、ピラート中佐は俺の顔を見ながら鼻で笑って言った。
「もうこの国はマトモに戦争などできやしないということをね」

 そんな引継ぎが行われてから二日後。ピラート中佐の引っ越しが終わってすっかり空っぽになったオフィスに入った俺は、早速『スタッフ』を呼び出した。

「ご着任、ご苦労様であります」

 オールバックにセットされたチャコールブランの髪。やや太めで鋭いの上がり眉。眉間に寄った皺。自らの信念は譲らないという意志のある力強い瞳に、中音域でも低めの声。

「戦略企画室参事補佐官補のダドリー=エベンス少佐であります。お会いできて光栄です」

 ビシッとした敬礼が逆に皮肉にしか見えない。言葉とは正反対の表情。今度は政治家のコネを使ってきた年下の孺子が俺の上官か、と言わんばかり。それが七年後に発生する軍事クーデターの幹部の男であり……

「同じく戦略企画室参事補佐官補のカルロス=ベイ少佐であります。これからよろしくお願いいたします」

 同じように隙のない敬礼だが、こちらは柔らかい(ように見える)表情。転生した今の俺と同じ髪型で金髪。声もグレゴリー叔父によく似ていて、ケツ顎でなければ実兄かと思えるような容姿。しかし瞳は明らかに俺を値踏みしている。それが七年後に発生する軍事クーデターの幹部の一人であり、二重スパイでもあった男。

「補佐官付秘書官を務めますチェン=チュンイェンですわ。軍籍はございませんが、大尉待遇軍属になります。お気軽にチェンとお呼びください、中佐」

 膝上二〇センチまでしかない黒タイトスカートと第二ボタンまで外れた白シャツに、大きな胸が到底収まり切らないサイズのジャケット。お辞儀をすると隙間からピンク色の何かが見える。何処か転生前に画面の向こうでよく『観た』ような秘書姿。ピラート中佐の秘書官も務めており、引き続き俺のスケジュール『等』の面倒を見てくれるらしい、長い黒髪と細く小さいややタレ目の童顔アジア系の女性。

「ヴィクトール=ボロディン中佐です。本日より戦略企画室参事補佐官を拝命いたしました」

 右も左も分からない任地であるだけに、とにかく前任のスタッフに残ってもらうしかなかったのだが、もう見通しが暗黒一直線の人事。エベンスにしてもベイにしても、まだ三〇代前半だと思われるので専門分野では有能だとはわかる。あくまでも先入観は禁物だが、原作における彼らの行いを思い浮かべる限り、好意的になる要素が乏しい。

 その上、ピラート中佐との引継ぎの際にも、彼らは俺と顔を合せなかった。中佐と彼らの間に精神的な距離があったことは間違いない。ピラート中佐が言っていたように、エベンスには自らの信念と正義に溺れるような雰囲気がある。ベイは内心はともかく表面的には中佐に好意を持っていたとは思えない。

 より問題なのはチェン秘書官。事前に俺の権限で確認できる範囲での履歴は確認して不都合がないのはわかっていたが、見た目だけでも胡散臭いことこの上ない。こういう言い方は良くないことは分かっているが、ピラート中佐に対しても同様の態度だったとしたら、腹に一物抱えているとしか思えない。

「予算成立前の交代人事で、皆さんにはご迷惑をおかけしますがよろしくご協力を願います」
「「はっ」」
 改めて交わされる敬礼とお辞儀。だが差し当たって急ぎの用事のないエベンスとベイは退室し、チェン秘書官は部屋に残る。
「珈琲をお淹れいたしましょうか? ボロディン中佐」
「ええ、お願いします。良ければ秘書官ご自身の分も」
 一瞬だけ細い眉がピクッと動くが、すぐ何事もなかったように俺に微笑みかける。若い未婚男性なら『誤解』してしまいそうな微笑みだ。
「承知いたしましたわ」
 セクシーさ溢れる歩き方で併設キッチンに消えていくチェン秘書官を見送り、俺は唯一ピラート中佐が残していってくれたソファに腰を移す。

 具体的な仕事の内容も量も決められてはいない。質問取りレクも恐らくは繁忙期と閑散期の差が激しい。ピラート中佐の言っていた任務の中で主となるのは、やはり接待や官製談合の方だろう。前世でゴルフはやったこともないし、接待もしたことがない。フェザーンで駐在武官をしていた頃は、市中散策とドミニクの店、それに内勤が中心だった。弁務官事務所主催のパーティーには参加したが、あれも接待というよりは情報交換会に近いものがあった。なるほど追々覚えていかねばならないことが多い。

 コツンという音を立てて、磨き上げられたカップがコーヒーテーブルに置かれる。戦艦エル=トレメンドでブライトウェル嬢が淹れてくれていた官給品とは桁違いに香りが伸びてくる。これもピラート中佐が残していってくれたのかなと思ったが、次のカップが俺のカップの横に置かれたのに気が付いて右に首を廻すと、憂いと母性に溢れた顔のチェン秘書官が俺の右横に腰を下ろしてきた。

「は?」
「あら?」
 こちらは困惑。そちらは慮外。しなだれてくるチェン秘書官の胸のブラックホールは明らかに広くなっている。が、それはあくまで周辺視野に留めておき、俺は何とか表情筋を動かしいつもの好青年将校スマイルで前の席を指し示すと、チェン秘書官は何事もなかったようにゆっくりと腰を上げ、もみあげにかかった絹糸のような黒髪をたくし上げて、俺の正面に移動した。

「ボロディン中佐は真面目でいらっしゃいますのね」

 細い足を組むと短いタイトスカートの裾が少しずつ上がっていくが、そちらにも今のところ興味はない。二六歳で中佐というのは確かに早い出世ではあろうが、こうも明け透けに色仕掛けをされるほど俺は重要人物に見られているのだろうか。おそらく見られているんだろう。実態はともかく第五艦隊編成予算と引き換えに引き抜いた逸材として。

「ですが真面目が過ぎますと、足元を掬われることもありますわよ。特にこちらの世界では」
「こちらの世界、ですか?」
「えぇ。ここはビームもミサイルもトマホークも襲っては来ませんけれど」
 確かに今、アンタ自身が襲いかかってきたもんね、とは口には出さなかったが、コーヒーカップの淵の向こうにみえるチェン秘書官の顔はともかく小さな瞳に、先程迄の甘い香りは一切浮かんでいない。
「特に前科のある家庭にイレ込むのは、あまりお勧めいたしませんわ」
「……チェン秘書官」

 それはこちらの世界にいる人間にとってみれば真理なのだろう。だがチェン秘書官の立ち位置がよくわからないが、少なくとも俺と同一ではないということははっきりした。彼女自身の『身体検査』はワインを代償にプロにお願いするとして、まずは言っておかねばならない。この場は誤魔化してもいいが、どうせ早晩バレる話だ。

「本人が罪を犯したわけでもないのに、罪人の家族であるというだけで前科があるという言い方は実に不快だ。貴女は別に撤回しなくてもいいし、意志に反して否定する必要もないが、少なくとも私は好意的にはとらない」
「……」
「貴女も善意でそう言っていると思うが、民主主義とか法治主義とかそういった原理原則・建前の話じゃなく私のちっぽけな、だが譲れない信念だ」
 そういった信念がこちらの世界では不利益に働くのは想像に難くない。軍も政府も自らの組織維持の為にヤンを持ちあげリンチを貶めた。品性の低下した報道機関がそれに乗っかり、面白半分にアイリーンさんやブライトウェル嬢をスケープゴートにし、それを大衆が見て愉しむ。大衆に支えられている政府はその趣向に反することはしにくい。
「こちらの世界の機微など全く知らないから、貴女から教わることも多くあるし頼りにもしているが、私の本質は『平和主義者の戦争屋』だと理解しておいてもらいたい」

 先に言っておけば、少なくともバカではない彼女ならわかるだろう。それで俺の秘書官という職務にこれからどう向き合うかは彼女の自由だ。時に狡知に言葉を選ぶ必要は理解しているが、直言こそが必要な場面もある。今は間違いなくその時だろう。

「『平和主義者の戦争屋』とは、知性の乏しいわたくしには到底理解できない代物ですが、中佐のご信念に関しては少し理解できたと思います。ですが……」

 チェン秘書官はコーヒーカップを皿に戻すと、小さな唇の上に残ってもいない珈琲を右手小指の先で拭うように動かしながら、俺に向かって流し目を送りつつ言った。

「フェザーンの小娘よりわたくしの方が中佐のお役に立てることは、これからじっくりと教えて差し上げますわ」

 僅かに開いた両唇の隙間から、スプリットタンがこちらを覗いていたのは見間違いではなかった。





「やれやれ。中佐もホドホド、奇妙な運命の神様に魅入られてるんですな」

ハイネセン市でも中心部から少し離れた商業地区の一角。高級でもなければ場末でもない。二〇代から三〇代の若年労働者でも、些か財布には痛いがなんとか支払うことができると評判の中堅レストラン『ドン・マルコス』。ワインというか酒全般に一家言ある旧知の情報将校は、俺の注文の対価としてその店の特上フルコースを要求してきた。

「アナタが何かを為さんと動く時、周囲がみんな引き摺られ、実力以上の事を成し遂げてしまう。それで余計なものまで引っ張ってきて、予想した未来の斜め上に事態が進行してしまう」
 まずは一献と言わんばかりに、俺のグラスにワインを注ぐバグダッシュの顔は、いつものようなニヒルさに混じって若干の歓喜の成分が混じっていた。フルコースについては俺の払いだが、ワインについては今回専門の自分が払うと言っていただけに……
「賭け事にでもなってるんですか?」
「胴元はモンティージャ大佐で、情報部では今のところカーチェント大佐の一人勝ちでして。実のところ私もおかげさまでちょっとは勝っているんですが、今期中に中佐昇進、国防委員会転属までは流石に予想できませんでしたぞ」
「カーチェント大佐はどう予想してました?」
「中佐昇進確実、実戦部隊から統合作戦本部広報部に転属、と言ったところですな」

 曇り一つないワイングラスの中をゆらゆらと赤ワインが揺れている。ドジョウ髭が以前より長くなったバグダッシュは、人の人生を舌に乗せながら、この店一番の赤ワインを堪能している。
 彼もまたエベンス達と同じように七年後のクーデターに参画する士官の一人だが、主義主張なんてものは生きるための方便と言い切った男だ。個人的には軽蔑の表情を隠さない現時点でのエベンスに比べれば、掌は反す為にあるとまでは信じていない程度に信用できる。だからこそ、幾つかの注文をしたわけで。

「で、どうです? 酔ってしまう前に、お伺いしておきたいんですが」
「お願いですから中佐が少佐にそんな丁寧語なんぞ使わんでくださいよ。慣れてないからホント気持ち悪いですぞ?」
 眉間に皺を寄せながら顔を引きつらせつつ、それでいてどこか楽しんでいるバグダッシュは、サマージャケットの内ポケットから五センチ四方の箱を取り出して俺のグラスの隣に置いた。
「ベースは民生と共通の規格ですからな。基本的な使い方も同じです。色は自分で塗ってください」
「ありがとうございます」
「どう使おうとも中佐のご自由ですがね。くれぐれも迷惑防止条例とか軽犯罪の証拠は残さんようにしてくださいよ。言わずともわかっとるとは思いますが」

 俺に向かって指した人差し指をグルグルと回すバグダッシュに俺は肩を竦めると、一度ふたを開け中身を確認し、すぐジャケットにしまい込む。そうしている間も、バグダッシュはテイスティングに勤しんでいたが、視線だけは俺の左右背後を警戒している。俺もバグダッシュの背面を何気なく一望した後、小さく頷いて促した。

「あの童顔(ベビーフェイス)ですが、情欲溢れる若いヴィクトールさんに申し上げるのは大変心苦しいのですが、おさわりはお止めになった方がいいでしょうな」
「セクハラになりますから端から触るつもりは毛頭ありませんがね。たぶんサイズはCかDだと思うんですが、もしかしたらFあるかもって……」
「見た目は結構おっきいって聞きましたがね。実はCの七〇なんですなぁ、これが」
「七〇……ええぇ……ホントにぃ?」

 ニッっと右の唇が上がり、バグダッシュの瞳に小さな光が宿る。明らかに変わった口調に合わせるように、おれも腕を組んでわざとらしく喉を鳴らして応える。

「お父さんは元警察官僚に近い人らしいですからね。ただ噂じゃ結構遠いところのご出身とか」
「遠いところ……それは……なるほど……」
「あくまでも噂ですよ? そっちにお友達が結構いるって噂です」
「今度、赤毛の友達に聞いてみようかな」
「止めておいた方がいいでしょうよ。だいたいヴィクトールさんのお友達はまだ大学生じゃないですか。たぶん世代が違うから話が合いませんよ」

 俺が首を傾げると、してやったりと言った表情でバグダッシュは、親指以外の右手の指を上げ、左手の掌を俺に向かって広げている。
……そりゃあ、ピラート中佐の秘書官も務めていたからある程度は歳上だとは思っていたが、それだけ歳が違えば『小娘』呼ばわりは当然か。俺と同い年か年下に見えて、ギリギリ親子と言ってもおかしくない。人類科学は一〇〇〇年かけて、ようやくとある男子高校生の家庭事情に追いついたのだと確信した。

「確かにおっきいなぁとは思ってたけどCとは思えないなぁ……」
「話を伺ってちょっと調べてみて、そりゃあ私も驚きましたがね……でももっと驚いたのはヴィクトールさんが、まだあの大学生とお付き合いしてるってことですよ。長距離恋愛は消滅する可能性が極めて高いって統計で出ているのに」
 呆れてモノが言えないというより、どうやって連絡とっているんだと感心するような顔つきでこちらを見ているので肩を竦めて誤魔化すと、『まぁ人の手の内に口を挟むと、あとで自分の首を絞めますからな』とバグダッシュは溜息交じりに嘯いた。

「しかし二六歳で中佐なんですから、引く手あまたでしょ。少しは叔父さんを見習ったらどうです?」
「グレゴリー叔父?」
 中佐と言ったことで『たとえ話』は終わったとホッとしつつ、この場で出てくるとは思えない人の名前に、豚の肩ロースのステーキに伸びた手を止める。
「レーナ叔母さんの話ですか?」
「私は直接知りませんが、年配の人達の間ではグレゴリー=ボロディン中佐とシドニー=シトレ准将の嫁取り合戦はそりゃあもう熾烈だったそうで」
「……叔父さんが土下座したっていう噂は聞いたことありますけど」
「二人とも紳士ですからな。殴り合ったり中傷したりなんてしなかったそうですが、周りがどちらかを応援するのを躊躇うぐらいだったそうですよ。ま、歳上よりは同期ということで決着がついたらしいですが」

 上官をツマミに飲む酒は美味しいというが、片方は血の繋がった親族の俺としてはちょっとばかりいたたまれない。グレゴリー叔父とレーナ叔母さんがくっつかねば、アントニナもイロナもラリサもこの世にいないと考えると、叔父さんよくやった!と言いたい気分ではある。それにこれは単純な酒席の笑い話ではない。

 バグダッシュは俺のことを買ってくれている。情報部の恐らく先輩のモンティージャ大佐やカーチェント大佐に、俺のことを吹聴するリスクを背負ってまで。その彼が俺とドミニクの間について、警告を発している。特に童顔(の秘書官)がC(中央情報局)の七〇(第七(国外諜報)部)の人間で、遠いところ(フェザーン)にお友達(エージェントか繋がりのある人間)がいるのだから、プライベートで足を掬われないよう気を付けろ。下手すると大学生(ドミニク)は潰されるぞ、と。

「そう言えば、第四艦隊司令官グリーンヒル中将閣下の娘さんと中佐の一番上の妹さんは、士官学校の同期でしたな」
「妹曰く、才媛らしいですよ」
 バグダッシュの口からグリーンヒルとフレデリカが飛び出してくる。それだけで警戒するべき話だ。話に合わせるようにアントニナを『クッション』にしてみたが、バグダッシュはちょっと怒っているようにも見える。つまりはとうに直接グリーンヒル本人から俺の話を聞いているということだろう。
 原作でフレデリカが言うように、バグダッシュは政治体制に対する不満をグリーンヒルに直接言いに行けるような男だ。元上官か、あるいは何らかの縁か。かなり深い関係があることは間違いない。
 俺が実戦部隊から外されて現在の任務に就いたことがどう影響するかはわからない。ただ原作通りに帝国領侵攻に失敗し、グリーンヒル主導によるクーデターが発生した時点で、俺が生存し軍籍から離れていないと仮定した場合、バグダッシュは間違いなく俺をクーデター派に引きずり込むつもりだろう。あるいは軍籍でなくとも……グリーンヒルの娘婿という立場があれば……
「……妹も同級生をお義姉さんとは呼びたくないでしょうし」
「中佐。私は一人の人間としてもエル=ファシルの英雄よりマーロヴィアの狐のほうを買っているんですがね」

 もう止めてくれ、と喉まで出かかった。俺はただ未来の歴史らしき物語を知っているだけの凡人だ。普通の出世速度よりも早く今の階級に到達してしまったが、あの魔術師と対抗するつもりなどさらさらない。フレデリカを巡って争うなど、俺も恐らくヤンもやる気がない。ましてクーデターに組することなど、一方的な感情ではあるが『天地がひっくり返ってもあり得ない』
 
「上官の娘を娶るというのは気後れしますね。どうにも性に合わないですよ」

 あえて本筋がわからないフリをしてそう応えると、果たしてバグダッシュの顔は一瞬険しく、そして次にソッポを向いて呆れた口調で言った。

「たしか今度士官学校を受験される『赤毛の美女』も『上官の娘』じゃなかったですかねぇ」

 その上、直の上官だったなと俺は思い出し、なにも応えずワインを傾けるのだった。
 
 

 
後書き
2024.1.09 更新

チェン=チュンイェン(CV:ほんとは本多知恵子なんだけど梨羽侑里)
ヨゼフ=ピラート  (CV:八奈見乗児(ゲルラッハ子爵)

かなぁ……

2024.1.09 バグダッシュの階級変更 大尉→少佐 
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