海底で微睡む
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白い瞳の少女
ふと、目を覚ます。
白く濁った空と、一面に広がる睡蓮の花。花弁は透明感のある淡いピンクで、水面に浮かぶ翠緑の葉と美しいコントラストを描いている。空気は湿り気を含み、どこか懐かしい匂いがした。泥と花の香りが混じり合った、生命の匂い。
また、あの不思議な場所に戻ってきたみたいだ。
私はこれから、一体どうすれば——
「こーんにちはっ」
その声は、唐突に静寂を破った。
幼い響きだった。けれど、女の子とも男の子ともつかない、不思議な中性的な音色で、まるで水面に落ちた雫のように澄んでいる。
その瞬間、世界が息を呑んだ。
風が優しく凪いで、睡蓮の花びらがそっと揺れを止める。まるで、大切な客人を迎えるために、この空間そのものが背筋を伸ばしたかのようだった。水面は鏡のように穏やかになり、濁った空の雲でさえも、その声に応えるようにゆっくりと流れを変えていく。
光はほんの少し柔らかくなった気がした。空気にはほのかな温かみが宿り、それまで胸の奥に巣くっていた不安や孤独が、ふわりと軽くほどけていく。この神秘的な静けさの中で、世界は彼女を――主人を、迎え入れていた。
(誰……?)
胸の奥から、警戒心がじわりと首をもたげる。心臓の鼓動が速まっていくのがわかる。手のひらに汗がにじみ、喉がひりついた。
――だが、覚悟を決めて、ゆっくりと振り返る。足元では、水音がかすかに跳ねた。
そこにいたのは、黒い制服のような服を纏った少女だった。その制服は質の良い布でできているようで、光沢があり、どこか軍服を思わせるデザインだった。黒髪をウルフカットにして、襟足の部分だけが雪のように白く脱色されている。その白い部分が、濁った空の光を受けて微かに光って見えた。
大きな白い瞳が印象的で——まるで磁器のような透明感があって、瞳孔の周りにうっすらと青みがかった色が滲んでいる。パッと見ただけで、同じ人間とは思えない何かがあった。不思議なオーラというか、現実感の薄い存在感というか。まるで、この場所の一部として存在しているような、そんな自然さがあった。
少女は、にこりと笑っていた。
その笑みはあまりにも無邪気で、子ども特有の無垢さに満ちていた。けれど同時に、ふとした瞬間に、大人びた静けさがその目元に宿る。その矛盾がなぜかしっくりと収まっていて、見ているだけで不思議と心を揺さぶられる。
気づけば、私はただ呆然と立ち尽くしていた。
——ふいに。
「……もしもーし?」
その声が、すぐ目の前から響いた。
はっと我に返ると、少女が顔を覗き込んでいた。すぐ目の前に、大きな白い瞳。近い。距離が、近すぎる。ふわりとした体温と微かな香りが鼻先をくすぐり、思考が真っ白になった。
「あっ、え、えっ!?」
情けないほど取り乱してしまって、自分でも驚く。顔が一気に熱を帯び、きっと真っ赤になっている。足元がもつれて、慌てて体勢を立て直した。だって——
(何この人!?どこから出てきたの!?)
胸がどくん、と跳ねた。心臓が暴れてる。胸の奥で太鼓が鳴っているみたいな音が、耳の奥まで響いてくる。手のひらがじっとりと汗ばんで、無意識にドレスの布を握りしめていた。
(って、そういえばこの変な空間も意味わからないし!この人に誘拐されたの!?いやいやいや、私ってもう死んでて……!!)
思考がぐるぐると渦を巻く。可能性の断片が、頭の中を乱雑に駆け回る。現実と非現実の境界が曖昧になって、まるで夢の中をさまよっているような気分だった。
(あっ……そうだ、私ってもう死んだよね?)
その事実を思い出した瞬間、全身がすうっと冷えていく。けれど、次の瞬間——あるひとつの可能性が、心に灯った。
(……っていうことはこの人って天使!?悪魔!?お迎えってこと!?)
可能性の一つが頭に浮かんだ瞬間、なぜか希望のような感情が胸に湧き上がった。もしかしたら、もしかしたら——
「ねー、一旦落ちつ——」
少女が、優しい声で言いかけた。でも、もう止まらなかった。
「あ、あああの、もしあなたがお、お迎えに来たのなら!!よかったら、そのっ、えっと!」
声が上ずってしまって、自分でも何を言っているのかよくわからない。喉が渇いて、言葉がかすれる。少女の表情が、困ったような、でもどこか面白がっているような複雑なものに変わった。眉がわずかに上がって、口元に微かな笑みが浮かんでいる。
「お迎え!?うっは、どゆことー!!」
彼女はなぜか、とても楽しそうだった。肩を揺らして笑いをこらえるような、そんな軽やかさ。
「その!!お、お母さんのところか!!彼のところに!!」
必死に言葉を絞り出す。まるで祈りを捧げるみたいに、両手を胸の前でぎゅっと組み、少女を見上げた。縋るような気持ちだけが、先に走る。
「うぇ?」
少女が首をかしげる。小動物みたいな仕草。黒と白のツートンの髪が、その動きに合わせてふわりと揺れた。
「お願いします!!お願いします!!」
もう何がなんだかわからなくなって、ただがむしゃらに頭を下げ続けた。膝が水に浸かって冷たい感触が伝わってくるけれど、そんなことはどうでもよかった。ぱしゃぱしゃと水音が鳴るたび、自分の情けなさが響いてくるようで、余計に涙が出そうになる。髪の毛が顔にかかって、視界が遮られた。
でも止まれない。この人が「本当にお迎え」なら、もしかしたら——
「えーっとぉ……」
少女の声が、少しだけ間延びして頭上から降ってきた。
——けれど残念ながら、その言葉は私の耳にはまるで届いていなかった。
脳内はもうパニック一色。暴走機関車みたいに思考が突っ走っていて、彼女の声なんて完全に置き去りだった。
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