| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

海底で微睡む

作者:久遠-kuon-
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
< 前ページ 目次
 

終わりの日、私は夢を見ることができた

 私は死んでしまった。
 普段と何も変わらない、とある夏の夜の出来事だった。

 その日はとても暑かった。


 昼間は、魂が溶けてしまいそうなほど暑かった。
 貧乏だから、少しでも電気代を節約するためにエアコンはつけられない。部屋着のままぐだぐだしていたのは、やる気が起きなかったからというより、熱中症になりかけていたからなのかもしれない。

 でも体調が悪くても、ルーティーンを崩すわけにはいかない。
 この世界で生き延びるための、私のルール。

「……お父さん。お父さん起きて」

 深層東京セクション二。地上にある住宅街に立つ古びた一軒家。昼間なのにも関わらず、何の音もしない息を潜めるような静寂の中で、私は今日もいつも通り、呑んだくれのお父さんに声をかける。
 顔は真っ赤で、かなり酒臭い。着ていた高級そうなスーツはぐしゃぐしゃになってしまっている。イタリアブランドの生地が、汗と酒の匂いで台無しになっていた。また、しばらくしたら、借金返済のために命がけで稼いだお金の隠し場所を見つけられて、黙って買い直されてしまうのだろう。

 この人は、自分が何をしているかわかっているのだろうか。私がどんな思いで、どんな危険を冒してそのお金を稼いでいるか、知っているのだろうか。
 ——きっと、知らない。知ろうともしない。
 お父さんはいつもふらっと出かけていって、帰ってきたと思ったらこんな感じ。どこへ行ったかなんて聞かない。パチンコ店か、競馬場か、それとも高級キャバクラか。どれも、私が稼いだお金で遊んでいるのだろう。だから、返答を聞くのが怖い。聞いてしまって、自分の心が完全に壊れてしまうのが怖い。

 血の匂いがまだ残っているようなお金で、よく遊べるものだ。

(……ああ、違うか。それも、お父さんは知らないんだ。このお金が……どこから来ているか)

 新日本国の「次世代自立促進法」——十六歳から大人として扱われ、親の債務を継承する。表向きは「若者の自立支援」として謳われているが、実際は「再度日本は世界で輝く」という、政府が掲げた目標を達成するための労働力の早期確保。また、親が早く子供を手放せるようにして親の負担を減らすといった、少子高齢化に対する政策の一つ。慈悲も何もない制度。
 うまく運用されていると聞くけれど——親に恵まれなかった子供の実情を、彼らは知っているのだろうか。親の借金を返すために、合法的な手段では足りなくて、「特別社会貢献者」として政府から命令を受けて、日本復興に不要な障害を取り除く道しか残されていない、子供たちのこと。


 ——お母さんは、私が幼い頃に亡くなった。

 「少し遅れたお誕生日旅行」として、家族で海に出かけた日。楽しい週末は、数秒で人生で最も辛い週末に変わった。
 あの日の空は、今夜の鉛色に濁った東京の空とは正反対で、雲一つない真っ青だった。でも、その美しさが残酷だったことを、今になって思う。希望に満ちた色が、絶望の前触れだったなんて。

 帰り道。お父さんが運転していた車は、カーブを曲がりきれずにガードレールを突き破り、崖から投げ出され、宙を舞った。
「うとうとしていた。アクセルとブレーキを踏み間違えた」
 それが、後になって聞いたお父さんの言い訳だった。

 お母さんは、私を必死に守ってくれた。車の窓を開けて、ぎゅう、と私を抱きしめて。
 暗い、暗い、水の中の光景を、今でも覚えている。沈んでいって。光が遠くなっていって。
 お母さんの腕が、私を抱きしめている。水の中でも、絶対に離さないでいてくれた。私のまだ小さかった体を、自分の胸に押し付けて。お母さんの心臓の音が、水音に混じって聞こえていた。ドクン、ドクン、と。

 でも――やがて、その音は止まった。

 私が息をしようともがいたとき、お母さんの腕の力が抜けていった。最後の最後まで私を水面に押し上げようとして、自分は沈んでいった。
 お母さんの手が私の手を離れる瞬間。指と指の間をすり抜けていく、ぬるりとした感触。

 私は空気を吸えたけれど、お母さんはもう、二度と息をすることはなかった。

 指先に残る冷たい感触。それは魂を凍らせるような冷たさだった。十年間、この手が忘れたことのない重さ。私を守って、犠牲になった、命の重さ。お母さんの最後の体温。

 お父さんと、私だけ生き残った。
 巻き込まれたお母さんではなく、事故の原因を作ったお父さんが生き残った。神様の悪い冗談みたいだった。

 新聞に載った事故の記事。「湾岸道路で悲劇」「車がガードレールを突き破り海に転落」「母親(三十二)死亡、運転していた父親(三十四)と同乗していた娘(十)が重傷で病院搬送」。涼代家の悲劇として、数行で片付けられた私たちの人生。
 でも、新聞には書かれていない真実がある。誰も気づかない——地獄が。


 お父さんはおかしくなってしまった。

 最初は罪悪感だった。「お母さんを殺してしまった」という自責の念が、お父さんを酒に溺れさせた。毎晩、仕事から帰ってくるとすぐに酒瓶を開けて、ソファに倒れ込むように座り込む。最初の頃は、涙を流しながら呑んでいた。「すまない、すまない」と、誰に向けてかもわからない謝罪を繰り返しながら。

 でも、やがてそれは変質した。
 罪悪感は、いつしか私への歪んだ依存に変わっていく。残された唯一の家族として、失ったものの代替品として、お父さんは私を求めるようになった。

 十歳の冬。初めて、お父さんに抱きしめられた時の記憶は今でも鮮明だ。
 酒の匂いと汗の匂いが混じった、あの息苦しさ。「寂しいんだ」と呟きながら、震える手で私の髪を撫でる。最初は、母を失った悲しみを分かち合うような、そんな抱擁だと思っていた。

 でも違った。

 十二歳になった頃には、もう止められなくなっていた。
 酒に酔うたびに、お父さんは私を求めた。拒めば暴力が待っていた。従えば、翌朝には何事もなかったかのように振る舞う。その繰り返し。

 「お前はお母さんに似てきた」

 その言葉を初めて聞いたのは、十三歳の時だった。
 鏡で見る自分の顔が、確かに母に似てきているのは分かっていた。でも、その言葉がお父さんの口から出た瞬間、何かが完全に壊れた。
 私は母の代替品じゃない。でも、お父さんにとってはそうだったのだ。

 あの日から、男の人が怖くなった。
 話すのは平気。でも、触られるのは、本当に駄目だった。肌に触れられると、あの日の記憶が蘇る。酒の匂い、重い体重、逃げ場のない部屋。そして、「お母さんみたいだ」という、背筋を凍らせる呟き。
 体が勝手に震えてしまう。過呼吸になって、意識を失いそうになる。それが、私に刻まれた傷だった。


 十六歳の誕生日。
「次世代自立促進法」により、私は法的に「大人」になった。同時に、お父さんの債務を継承し、「社会参加義務」として強制労働が始まった。

 最初に「特別な仕事」を紹介されたのは、債権者からだった。
 「君の外見なら、特殊な案件を任せられる」と言われ、最初は翻訳や通訳の仕事だと思っていた。実際、最初の数回は本当にそうだった。外国人観光客の案内、簡単な書類の整理。

 でも、徐々に内容が変わっていく。

「この荷物を、あの人に渡して」。中身は聞かない、聞いてはいけない。
「あの人が来たら、知らせて」。見張りの仕事。
「この場所を、きれいにして」。証拠隠滅。

 段階的に、深い闇へ引きずり込まれていく。逃げ道を塞がれて、選択肢を奪われて。気がついた時には、もう後戻りできないところまで来ていた。

 ——……案外、私が十六歳になったときにお父さんが抱えていた借金は、すぐに返済することができた。少しだけ、生活に余裕ができた。
 でも、それも束の間。お父さんはお金があることを知るやいなや、勝手にお金を持ち出して、豪遊し始めた。パチンコ、競馬、高級キャバクラ。豪遊できるお金があるわけじゃないから、知らない間に、また借金が増える。今までのペースで稼いでいてはマイナスが出るほどに、お父さんのお金の使い方は酷かった。
 もちろん「やめて」と伝えた。だが、それはお父さんを怒らせてしまって、たくさん殴られたし、床に押さえつけられて何度も何度も汚された。「ストレス発散」と言って、さらにないお金を使われてしまった。

 どうしようもなかった。お父さんも、私も——なにより、世界が。

 そして、ついに紹介されたのが深層東京最下層——セクション七にある「特別訓練施設」だった。そこに通い「特別社会貢献者」として登録すれば、今までの収入の数倍を得られると。
 選択の余地はなかった。

 初めて人を殺した夜のことは、今でも鮮明に覚えている。
 ターゲットは中年の男性だった。「日本復興に不要な障害」として政府から指定された人物。彼が何をしたのか、私は知らない。知る必要もないと言われていた。
 任務を終えて、遺体を確認していた時——彼の財布から家族の写真がこぼれ落ちた。妻と娘の写真。娘は私と同じくらいの年齢で、満面の笑みを浮かべていた。
 その瞬間、手のひらにナイフの重みが、これまでとは違って感じられた。命を奪ったこの刃には——ターゲットの命の重さも、彼の家族から、彼を奪ってしまった罪も、上乗せされている。
 忘れていない。人の命を奪った時にも、お母さんと同じ。命が失われているんだって。私の手が、誰かの最後の体温を感じているんだって。私が、命を奪っているんだって。
 その写真を見た時、私は吐いた。でも、仕事は続けなければならなかった。私と、お父さんが、生きるために。国のために。
 何度もやめたいと願った。手を洗っても洗っても、この感触は消えない。お母さんの温もりも、奪った命の冷たさも、全部この手に刻まれている。


 地獄のような世界だけど、私は生きるしかない。

 母が見れなかった未来を、私が代わりに見てあげたいから。
 そして、もし、死んでしまった時には、天国にいる母にそれを伝えてあげたい。私が……天国に行けるかはわからないけど。

 お父さんを見捨てることはできない。
 お母さんが愛した人だから。壊れてしまったけれど、きっと、いつかは——


 夜。私はいつも通り"任務"に出かけた。
 廃墟に日本復興の妨げとなるターゲットを呼び出して、殺す。掃除業者を呼んで、帰る。そんな任務。
 私は小柄な体格と性別ゆえにナメられやすいから、それを逆手にとって意表をつけば楽にこなすことができる。今まで失敗したことはない。

 でも、その日初めて、失敗したと思った。
 周囲にはちゃんと気を遣って、誰もいないか確認しておいたはずなのに、任務を終えて一息ついた時、複数の"なにか"に声をかけられた。幽霊であってほしいと思ったけど……残念ながら、彼らは幽霊じゃなかった。

 でも、人間でもなさそうだった。



 そこから数時間の話は、また違う場所で語ることにしよう。



 みんなといろいろ話して、仲良くなった。
 初めて感じた、心からの安らぎ。母が生きていた頃以来の、温かな時間。

 でも、"彼"に、私たちはみんな殺されてしまった。

 死にたくなかったなんて、一切思わない。バチが当たったんだろうし、あの地獄から解放されたのだから。正しい、喜ばしいことだと思った。

 なのに、私たちを殺した"彼"のことが気がかりで——


 気付いたら、死んだ私は真っ白な空間にいた。

 虚無に満ちた、静寂の世界。

 でも、不思議と恐怖はなかった。

 ただ、あの短い時間の温もりを、胸に抱きしめていた。

 片時の夢のような、美しい記憶を。
 
< 前ページ 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧