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夢から醒めた夢

作者:瓢風
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 りあむの生活に変化が起こったのは、まさにその日の夜だった。



 例の悪夢にうなされ、息を切らして飛び起きる。時計を見ると深夜の三時だった。

「まーたこの夢、か……」

 破裂しそうな程に鼓動する心臓をどうにかして落ち着けようと、水道水を汲んで飲む。いつもならば、そのまましばらく待てば落ち着いて、ここ数日の何の感情もない自分に戻れる筈だった。

 しかし今夜は違った。待てど暮らせど、あの妙に生々しい夢の中での感覚が消えない。あの日の夜の、プロデューサーではないプロデューサーの姿が消えない。終わりの見えない責め苦に追い立てられる錯覚が消えない。昼間まではどこか他人事だった出来事が、急に自分のもとに帰ってきた。激しい拒絶感、嫌悪感、忌避感、それらを連れて、帰ってきた。プロデューサーに穢された自分の身体そのものに激しい不潔感を覚え、耐え切れずにトイレに駆け込む。腹の底から不快感の塊が込み上げてそのまま嘔吐した。胃酸の味すら穢らわしかった。心臓の音に揺さぶられて頭がガンガンと痛んだ。息切れと心拍が収まるのを便座にしがみついて待ったが、一向に収まる気配はない。寝汗で身体の芯が冷え始めて震えまで出てくる始末だ。狭い個室に立ち込めた吐瀉物の臭いにあてられて、りあむはもう二、三回嘔吐を繰り返した。最後の方は胃酸しか出て来ず、口の中に厭な酸っぱさがこびりついた。

 喉のざらつきと胃酸の味を追い出すため、もう一度水を飲む。身体が落ち着くと、今度は心が蝕まれた。耳の中でプロデューサーの声が鳴る。

『そんなの、君がアイドルどころか人間として無能な屑だからに決まってるじゃないか』

 違う。違うんだよ、Pサマ。ぼくだって怠惰でサボったりしてた訳じゃない。ザコメンタルにはなんにも出来ない日ってあるんだよ、ただ大の字になってるだけに見えるだろうけど、ドロドロに溶けて壊れていく心と必死で戦ってるんだよ。生きてるだけで、うっかり死んじゃわないようにするだけで、精一杯なんだよ。ぼくだってこんな無能なぼくは嫌いだよ、でもさ、毎日劣等感と戦うだけで、心がドロドロじゃない、みんなと同じような人間のフリしてるだけで、いっぱいいっぱいなんだよ。ぼくだってザコメンタルなりに頑張ってるんだ。ほら、ぼく、自分の子に『りあむ』なんて付けちゃう、やばばな両親のとこに産まれてさ、お金はかけられたけど愛してはもらえなかったから──頑張ってアイドルしてても、ファンから愛されるってよく分からなくて。アンチがいたらそっちの方信じちゃうに決まってるじゃん。ぼくもアイドルは好きだからアイドルを推す気持ちは分かるよ、でもそれが自分に向けられてるとか意味分かんないじゃん! Pサマなら分かってくれるだろ!? 炎上してもいいって言ったじゃないか!!


 そんな、必死の抵抗を嘲笑うかのように。
 ──りあむの精神は、音を立てて崩壊を始める。


 やめてよ、分かってるよ。気付いちゃうよ。だってPサマの言ったこと、何も間違ってない。人並みの努力もできないのにアイドルとして有名になって。ぼくは何も頑張ってないのに。他の子たちは毎日レッスンとか頑張ってて、尊いのに。何も尊くないどころか、自分の無能さから逃げたくて毎日レッスンをサボってるような、Pサマからの連絡も未読無視しちゃうような、そんなぼくが、アイドルだって? 耐えられる筈もないよな。だから寧ろ良かったって思えるよ、本当はぼく、ずっと逃げたかった。ぼくだってチヤホヤされたかった、誰かから必要とされたかった、誰かから愛されたかった、でもそんな資格ぼくにはなかった。心がしんどいって、たったそれだけでレッスンもサボっちゃうような、ぼくみたいなダメ人間、事務所には一人もいなかった! すぐ気付いたよ、アイドルは頑張ってるから尊くて、ぼくは頑張れないから、自分の無能から逃げてたいから、尊くなれない。
 大好きだったアイドルを、人生ワンチャンの為に利用したのは、このぼくだ。
 ぼくは、そんなぼくを許せない。きっとPサマがああしなくても、ぼくはあれ以上あの場所に居られなかった。

 なぜならぼくは、『アイドルどころか人間として無能な屑』だから。


 あの無感情な日々は執行猶予のようなものだったのだろう。
 もうとっくに壊れているものを、その場しのぎで繋ぎ止めて。先延ばしにして。その仮染めが、元に戻っただけ。本来こうだったものが、あるべき姿に返っただけ。


 世界に苛まれたりあむの視界の片隅で──カラン、と音を立てて、ブロン錠の瓶が倒れた。 
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