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Raison d'etre

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二章 ペンフィールドのホムンクルス
  7話 宮城愛(3)

 桜井優は睡眠、という行為が好きではなかった。
 時々、嫌な夢を見る。
 思い出したくない記憶が掘り出され、現実と夢の境界が曖昧になり、終いには二つの世界が逆転してしまうのではないか、と途方もない空想が勝手に広がってしまうのだ。
 しかし、その日の優は夢を見る事なく目を覚ました。
 いつもと違うベッドと毛布の感触に違和感を覚え、重い瞼を開く。 
「わっ!?」
 目を開けた途端に愛の寝顔が視界に飛び込み、優は素早くベッドの上で起き上がって壁際に転がった。
 優に腕を絡みつけて寝ていた愛も引っ張られて、ゴロゴロと目の前に転がる。
「うそ! なんで!?」
 寝る前の記憶を思い起こす。
 しかし、記憶が曖昧だった。
 それらしい事は何も覚えていない。
「ん……っ……ぅ……」
 その時、愛が小さきうめき、薄く目を開いた。
 身を固くする優の前で、愛がのそのそと上体を起こす。
「……おはよう。激しかったね」
「その第一声狙ってるよね?」
 思わず突っ込みをいれる。
 愛は不思議そうな顔をした後、毛布を体に巻き付け、頬を赤く染めた。
「……汗、かいたからあまり近づかないで。……恥ずかしい」
「え、あ、ごめんなさい……」
 本当に恥ずかしそうにする愛を前に、反対に冷静さを取り戻していく。
 辺りを見渡すと、清潔感のある医務室が広がっていた。
 そこでようやく、昨夜の事を思い出す。
 娘に会わせろと怒鳴っている女がいた。過去の嫌な記憶が蘇り、気分が悪くなったところを華たちが医務室まで運んでくれたのを朧気に覚えている。
 恥ずかしいところを見られてしまった。
「昨日、ここまで運んでくれたんだね。ありがとう」
 愛は頷いて、優の顔をじっと覗きこんだ。
 彼女の透き通った瞳と視線が絡み合う。
「な、なにかな?」
「……涙の後がある」
「……ぁ……」
 愛のひんやりとした指が優の頬を優しく撫でた。
 次の瞬間、優の体は愛の腕の中で抱き締められていた。
「あ、愛ちゃん……?」
 仄かに甘い香りが優の頭を満たした。
 柔らかな感触に動揺して、離れようと肩を押し返そうとする。しかし、それは次に愛が放った言葉によって遮られた。
「……昔、泣いた時に父がよくこうしてくれた」
 全身から力が抜ける。
 はじめて愛と会った時、話しづらそうな子だと思った。
 少し、気難しそうな子だな、と。
 しかし、すぐに違うと分かった。
 彼女は冗談をよく言うし、すぐに顔を赤くする恥ずかしがり屋な面もある。
 愛は無表情ではあるが、逆に愛想笑いなどで表情を偽ったりはしない。その感情をストレートに行動で示す。
 中隊の女子の中で愛はやや変人のような扱いを受けている事があるが、彼女の実直な在り方はとても好ましく思えた。
 対策室に入ってまだ日が浅く、良く知らない人間も多い。組織構造もまだ全体がよく見えない。
 その中で宮城愛という人間は、最も信用出来る友人かもしれない。
 そう思った時、医務室のドアが開く音が聞こえた。
「あ」
 振り返る。
 ドアが開いたところには驚いた様子の秋山明日香が立っている。 
 短い沈黙があった。
「二人でお楽しみのところ悪いんだけど、医務室のベッドでそういうことは……」
「わーーー! 違うんです! 誤解です! そういうのじゃないんです!」
 恐ろしい誤解が広がる前に食い止めようと、手を振り回し必死に訂正する。
 しかし、背中に回された愛の腕が離れない。万力のようだった。
「ちょっと愛ちゃん! 離して! 誤解が! 壮大な誤解が!」
「青春ね」
 クスッと明日香が微笑む。
「少しからかっただけよ。誤解なんてしてないから安心しなさい」
 彼女はそう言って、優の前で屈み込んだ。
「体調はどう?」
「えっと、あの、もう大丈夫みたいです。ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました」
 さっきのからかいを含んだ笑みとは一転、慈悲深い聖母のような笑みを浮かべる明日香。
 どうも調子が狂う。
「今日の訓練は休んだほうがいいわね。一応熱だけ計っておきましょう」
 明日香がゴソゴソと引き出しをいじり、体温計を優のわきに入れる。
「正直ね、心配だったの」
「え?」
 ぽつりと明日香がこぼした言葉に顔をあげる。
「ここ、女の子しかいないでしょう? 男の子がちゃんと馴染めるのかなって」
 優は少し考えた後、頷いた。
 確かに悩んだこともあった。
「そう、ですね。はじめの一週間とかは全然ダメでした。やっぱり皆と壁を感じて……」
 でも、と優は愛に目を向けた。
「でも、華ちゃんや愛ちゃん達のおかげで無事馴染めることができました」
 明日香が微笑む。
 そこで体温計がピピピと電子音を発した。
 明日香が体温計を取り出す。
「36.8度。大丈夫そうね。念のため、激しい運動は控えるように」
 明日香は体温計を引き出しに入れながら、思い出したように言った。
「それと愛。あなた朝食まだでしょう。優くんは私が診てるから食べてきなさい」
 愛は素直に頷いて戸口に向かう。
 その間、明日香は無言でじっと愛の背中を見ていた。
 愛が出ていったのを確認して、明日香が優に向き直る。
 何となく、大事な話があるのが分かった。
 明日香は少し迷ったように視線を動かして、それから何でもない風に口を開いた。
「さっきの話の続きだけど、ここは本当に女の子ばかりなの」
 明日香の言わんとしている事が見えず、優は小さく首を傾げた。
「つまり、ここの男女比は外とは全く違うという事。思春期の男女にとって、それはつまり恋愛対象が限定されるということでもあるの。それは分かるでしょう」
 明日香は真剣な顔で言葉を続ける。
「特にここは閉じた世界だわ。そして貴方たちはESP能力者で、そこに強い帰属意識を覚えている。優くん、あなたの行動に関係なく、周りの女の子たちは少し普通とは違った行動を取るかもしれない。なにか困ったことがあったら、すぐに相談しなさい。いいわね?」
 優は困惑したように明日香を見上げた。
 彼女は真面目な顔で、じっと優の答えを待っている。
 明日香が一体何を危惧しているのか、優には良くわからなかった。
 麗の顔が、一瞬頭をよぎった。
 突然、何の前触れもなく告白してきた少女。
 しかし、相談するような事案でもないように思えた
「はい。何かあったら相談します」
「来てくれたのが貴方のような男の子でよかった」
 明日香はそう言って微笑んで席を立った。話はこれで終わりということだろう。
 優もそれに続いて立ち上がり、短く一礼した。
 医務室を出て、先に出た愛の後を追おうとする。
 その時、ポケットで携帯が小さく振動した。端末を取り出して確認する。
 望月麗からのメッセージだった。
 予想していなかった文字が目に飛び込んできて、優は固まった。
『明日デートしてください』 
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