俺の涼風 ぼくと涼風
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22. 本当のぼく
眩しい朝日が私の瞼の奥まで届く。ゆきおが部屋に戻ってくる前に、私は眠ってしまったらしい。未だに『眠い』と文句を言っている身体を無理矢理起こし、大きく背伸びをした。
「……おはよ」
誰に対して言ったわけではない。強いて言えば、昨日結局帰ってこなかった、ここにいないゆきおへの挨拶。未だに重くて開ききらない瞼をこすりながら、ベッドから出てカーテンを開ける。
「……ん」
途端に山吹色の太陽の輝きが私を包む。お日様は私の身体にぽかぽかとしたぬくもりを届け、私の身体を優しく起こしてくれた。少しずつ確実に、私の身体が目を覚ましはじめていた。
太陽に照らされた室内が、山吹色に輝き始めた。昨日ゆきおと共に過ごした、月明かりの中に浮かぶ綺麗な部屋の中とは違うけれど、自分の部屋とは思えないほどに綺麗だ。
「……結局帰ってこなかったのかー」
スコーンを乗せていたお皿を片付けてなかったことを思い出し、その皿を見ながらぽつりとつぶやいた。
「……んー。やっぱりあったけー」
私が羽織るには袖が長い、ゆきおのカーディガンに触れる。ふわふわと心地いいカーディガンの感触が、私の体をふわりと包みこんでいる。袖に鼻を当てると、ゆきおの消毒薬の匂いがほんのりと鼻に届く。
左手の薬指が、少しむずむずする。左手を見た。昨日ゆきおがくれた二連の指輪が、私の薬指に通されていた。そのことが、私の心を弾ませる。
「へへ……」
ゆきおは昨夜、結局私の部屋に帰ってこなかったようだ。『すぐに戻る』って約束したのに。ゆきおのアホ。約束したんだから、さっさと帰ってきてくれよ。
でもまぁいい。忘れてたのなら、きっと自分の部屋に戻って眠ったんだ。なら、朝ごはんを食べる前にゆきおの部屋へと足を運ぼう。そして二人で食堂に手を繋いで顔を出そう。そして二人で朝ごはんを食べて……考えただけでも胸が踊る。
念の為鏡を見て、自分の顔色を確認する。お化粧の必要はないと判断して、私は急いでゆきおの部屋へと向かった。
入渠施設の前を通り、ゆきおの宿舎の前の、桜の木の下にたどり着く。ゆきおの部屋の窓を見ると……閉まっている。でもカーテンは開いてるみたいだから、起きてはいるようだ。ひょっとしたら、入れ違いで先に食堂に向かったのかな? それとも、昨日の約束の事を思い出して、私の部屋に向かったのかも。
一際冷たい風が、私の体に吹きつけられた。海からの風はとても冷たく、きっといつもの服装をしていたら、寒くて寒くて私は凍えていただろう。
でも、今日はゆきおのカーディガンがある。風のことを冷たいと思っても、不思議と寒いと思わない。むしろカーディガンがぽかぽかと心地良く、ふわふわとした感触が、私の心を温めてくれる。
左手の指輪の感触を確かめながら、宿舎の入り口の自動ドアを通りぬけ、私はいつものように、階段を使ってゆきおの部屋のある三階に向かった。ひょっとしたら入れ違いなのかもしれないけれど、それでも一応、ゆきおの部屋に顔を出してみよう。そう思い、階段を一足飛びに駆け上がっていった。
『ダン』という音を響かせ、私は三階に到着した。廊下に出て、ゆきおの部屋の前に向かおうとしたその時。
「あれ?」
ゆきおの部屋の前に、摩耶姉ちゃんと榛名姉ちゃんがいた。
なぜだろう。胸がざわつく。
「おはよー摩耶姉ちゃん」
「……ぁあ、来たか涼風」
「?」
……摩耶姉ちゃんは、私が挨拶したら、いつも笑って挨拶してくれる。それなのに、今日は笑ってない……
「おはよー榛名姉ちゃん」
「お、おはよう……ございます」
榛名姉ちゃんも、仲直りしてからは、いつも花が咲いたように笑ってくれる。それなのに今は、その表情が曇っている……伏し目がちにしか、私と目を合わせようとしない。
「? 二人してここでなにやってんだ?」
「お前を待ってた」
「なんで?」
なぜだろう。右手に力が入らない。体中を嫌な風が吹き抜ける。
「……ま、まいっか。せっかくだから、ゆきおと一緒に話そうぜ。もう起きてるだろ?」
「あの……雪緒くんは……」
榛名姉ちゃんの言葉は聞こえなかったふりをして、私はゆきおの部屋のドアノブに手をかけたが、摩耶姉ちゃんが、ドアノブを握る私の震える右手に、自分の左手をパシッと重ね、私を制止した。
「摩耶姉ちゃん?」
「涼風、落ち着いて聞け」
ドアノブをひねるのをやめる。摩耶姉ちゃんを見た。まっすぐな眼差しで私の目の奥底をじっと見るような、そんな真剣な顔をしている。
私の体から少しずつ、血の気が引いてきた。
「な、なに?」
喉が震えてきた。
「雪緒、ダメだった」
摩耶姉ちゃんの言葉の意味を、私は必死に考えた。頭の回転が止まり、体中の力が抜け、顔が真っ青になっていく感触が、私にも分かった。
「え……ダメって……」
「昨晩だ」
「昨晩って……なにが?」
「昨晩、息を引き取った」
震える喉で、必死に摩耶姉ちゃんに問いただす。
「ゆきおが? でもゆきお、昨日の夜、来たよ? あたいの部屋に来たよ?」
「それはわかんねーけど……昨晩息を引き取ったのは確かだ」
「うそだ……元気だったよ? あたいの部屋に来た時は元気だったよ? カーディガンかけてくれたよ? ほら、指輪だってくれたよ?」
「……」
「なぁ摩耶姉ちゃん。元気なんだろ? ゆきお、怪我もすっかりよくなって、元気なんだろ?」
ウソだと言って欲しくて、私は摩耶姉ちゃんに詰め寄っていく。摩耶姉ちゃんは何も言わず、ただ、真剣な眼差しで私をジッと見つめるだけで、何も答えてくれない。
「なあ榛名姉ちゃん?」
「……はい」
「ゆきお、元気なんだろ? 怪我もすっかり良くなったけど、まだお寝坊さんしてるだけなんだよな?」
「……」
榛名姉ちゃんが、私から目をそらした。うつむき、右手をギュッと握りしめ、体をわなわなと震わせている。言いづらそうに口をもごもごと動かしては、思い直したようにまたうつむく。
「榛名」
「は、はい」
「ごまかすな。涼風と雪緒に失礼だ」
「……」
「なぁ榛名姉ちゃん!!」
「雪緒くんは……亡くなりました」
私は一度ドアノブから手を離し、そして後ずさる。そのあと涙が止まらない両目で、今目の前にいる、ウソしか言わない二人の姉ちゃんズを睨みつけた。寒い。ゆきおのカーディガンを羽織ってるはずなのに、体が……胸が、とても寒い。さっきはあれだけ暖かかったのに、今は全身から力が抜けて震えるほど、寒い。
「ウソツキだ!!!」
「……」
「摩耶姉ちゃんも榛名姉ちゃんも、二人ともウソツキだッ!!!」
「涼風ちゃん……」
体が凍える。震える足でなんとか身体を支えるが……立っているのも大変で、足の震えがガクガクと止まらない。だけど。本当の事を教えてもらわないと。ゆきおが今、どこにいるのか教えてもらわないと。
「摩耶姉ちゃん!! ゆきお、どこにいるんだよ!!」
「……ここにいる。いるけど……もういない」
「ウソツキ! もう摩耶姉ちゃんには聞かねー!!」
「……」
「榛名姉ちゃん!! ゆきおは!?」
「もう、ずっと頑張ってきたらしいですから……もう、休ませて……」
「榛名姉ちゃんのウソツキ!!!」
二人ともウソをついてる。姉ちゃんズのアホ。肝心なときにウソをついて、全然頼りにならない。これなら、自分で探したほうが早い。そう思った私は、震える足がもつれるのをこらえながら、走ってその場をあとにする。
「涼風!!」
「姉ちゃんたちなんか頼りにならねえ!! あたいが自分でゆきおを探す!!!」
私は、二人のウソツキに見切りをつけて踵を返し、急いで階段を駆け下りて、自動ドアをくぐって宿舎を出た。外はとてもいい天気。冬の青空が空のずーっと向こうまで広がっていて、私とゆきおが力を合わせて紙飛行機を飛ばした時のように、気持ちのいい風が駆け抜ける。
私はキョロキョロと周囲を見回し、ゆきおの姿を探した。
「ゆきお……ゆきお……ッ!!!」
だけど、ゆきおの姿はない。
振り返り、宿舎の入り口を改めて見た。その時、自動ドアの横に、小さな看板が立てられていることに、はじめて気付いた。
――北条鎮守府内軍病院
宿舎の小さな看板には、そう書かれていた。ゆきおは……入院してた……?
……いや違う。ゆきおは男の艦娘だ。ゆきおは、ここを『男の艦娘の調整施設』だと言っていた。そして『男の艦娘は秘密』だとも言っていた。だからここは、きっと病院に偽装してるんだ。きっとそうだ。そうなんだ。
「ゆきお……どこいるんだよ……ゆきおッ!!!」
フと思い返す。ゆきおは、私を助けに来た時、私の艤装を装備していた。そして、自分の事を『改白露型駆逐艦4番艦、涼風』だと言っていた。
てことは、私が思った通り、本当の艦娘になれたんだ。そしてそれが嬉しくて、きっと今、艤装をつけて海に出てるんだ。姉ちゃんズはそれを私に隠してるんだ。私も一緒になって、はしゃいで海に出たりしないように隠してるんだ。きっとそうだ。そうなんだ。
私は大急ぎで出撃ドックに向かった。足が何度ももつれた。地面の上を転げたのも一度や二度ではない。その度に膝はすりむけ、ゆきおのカーディガンや真っ白いセーラー服が、砂や土で汚れてしまった。だけど気にせず、出撃ドックまで翔けていく。
鎮守府内を必死に駆けて、ドックに到着した。急いで自分の艤装があるかどうか確認する。きっと今、ゆきおは私の偽装を装備して海に出てる。だから私の艤装はないはずだ。だからスペアの艤装を準備しないと。そう思い、自分の艤装を探す。
「……!?」
私の偽装は、ゆきおによって持ち去られるどころか、いつもの場所にいつものように、確かにあった。
「……そっか! ゆきお、ついに自分の艤装を手に入れたのか! それで海に出てるんだ!!!」
思い直す。ゆきおが艦娘になれたのなら、きっと自分用の艤装もきちんと準備されたはずだ。なら、今ゆきおは、自分の艤装を装備して、海に出てるんだ。ならば追いかけないと。ゆきおはまだ、一人で舵を取るのも難しい。同じ改白露型4番艦で、ゆきおと二人で一人の私がいないと、ゆきおは帰ってこれなくなってしまう。
私は急いで足に主機をとりつけ、海面に立った。加速を溜めているヒマはない。主機に火を入れ、私は即座に出撃する。
「ゆきお……今行くからな……ゆきお……!!!」
涙が溢れるのを我慢し、私はひたすら走る。そろそろ、二人で初めて海に出た時のポイントに到達する。ここまでくれば、視界を遮るものは何もない。周囲にゆきおがいれば、私なら、絶対に見つけることが出来る。ゆきおと名コンビで、二人で一人の私なら。
「ゆきお!! いるんだろ!!? 返事してくれ!!! ゆきお!!!」
ゆきおは返事をしない。
「ゆきお!!! どこにいるんだよ!!! あたいとずっと一緒なんだろ!? ゆきおぉぉお!!!」
ゆきおは返事をしない。
「ゆきお!!! ゆーきーおぉぉぉおおお!!!」
ゆきおは、返事をしない……
もっと沖に出ているのかも知れない……いや、ひょっとしたら通り過ぎたのかも知れない。東の方に向かったのかも……ゆきおが言ってた……なんだっけ……あの半島の影に隠れてるのかも。いや、西の方の、隣の鎮守府に顔を出してるのかも……周囲をキョロキョロと探す。
でも、ゆきおの姿は見当たらない。
「おい!! 涼風!!!」
主機だけをつけた摩耶姉ちゃんが、私を追いかけてきたようだ。私を連れ戻しに来たのか。私は摩耶姉ちゃんから距離を離そうと正反対に逃げる。今帰るわけにはいかない。ゆきおを探さないと。きっと今、舵が取れなくて困り果ててるだろうから。だからゆきおを探さないと。
「来るな摩耶姉ちゃん!!! あたいはゆきおを探すんだ!!!」
「いないんだよゆきおは!! もういないんだって!!!」
「ウソだ!!! 今、沖に出てるんだろ!? それで、まだ帰って来ないんだろ!?」
でも、摩耶姉ちゃんは私よりも速い。私も必死に逃げたけど、すぐに摩耶姉ちゃんに追いつかれ、そして左腕をガッシリと掴まれた。
「ゆきお、艦娘になったんだろ!? やっと艦娘になれたんだろ!? あたい、知ってたんだ! ゆきおがこっそり教えてくれたんだ!!」
「あいつ、お前にそんなこと言ってたのか……」
「それでうれしくなっちゃって、今沖に出てるんだろ!!? あたいと一緒だとはしゃぐかもしれないから、あたいを連れ帰るんだろ!!?」
「涼風ッ!!!」
「嫌だ!!! 死んだなんてウソだ!!! ゆきおは生きてるんだ!!!」
摩耶姉ちゃんに左腕をぐいとひっぱられ、そして私は、摩耶姉ちゃんに強く抱きしめられた。
「もういい……ッ!!」
「離せ!!! あたいはゆきおを探しに行くんだ!!! はーなーせぇぇぇええ!!!」
ゆきおを探しに行きたくて……摩耶姉ちゃんたちのウソを信じたくなくて、私は必死に摩耶姉ちゃんの腕を振りほどこうとする。だけど摩耶姉ちゃんの力はとても強くて、私ではとても振りほどけない。
「……もうやめろッ」
「やめろって何だよ!!! なんでゆきおを探しちゃいけないんだよ!!! 返事してくれよゆきお!!! ゆきお!!!」
「もういないんだ」
「ウソ言うな!!! 摩耶姉ちゃんなんか嫌いだ!! 大嫌いだ!!! ゆきおは艦娘になったのに!!! 艤装つけて主機つけて、あたいを助けに来たじゃねーか!!!」
「男の艦娘なんて、全部あいつのウソだよ……お前が一番わかってるだろ?」
「ゆきおをウソつき呼ばわりするな!!! ゆきおがあたいにウソなんかつくわけないだろ!!! ゆきおは艦娘になったんだ!!! 艦娘になったんだ!!!」
「お前の高角砲で肘が外れてただろ? あいつは、ただの……人間なんだよ」
ウソなんかじゃない。ゆきおは私を助けてくれたんだ。ゆきおは私の艤装を装備出来る艦娘になったんだ。ウソなんかじゃないんだ。ウソなんかじゃないんだ。
「そんなわけあるか!!! ゆきお!!! 返事しろゆきお!!! ゆきお!!!」
「……ッ」
「あたいとずっと一緒だって言ったじゃねーか!!! 二人で一人って言ったじゃねーか!!! どこにいるんだよ!!! ゆきお!!!」
涙が我慢出来ない。鼻水が出てきた。ゆきお。返事して。そして摩耶姉ちゃんと榛名姉ちゃんに、笑顔で『ウソツキ』って言わせて。私の前に姿を見せて。
嫌だ。ゆきおと離れるなんて嫌だ。二人で一人なのに。ずっと一緒だって言ってくれたのに。私とゆきおは、ずっと一緒のはずなのに。
「ゆきおはあたいと二人で一人なんだ!!! 一緒にいなきゃいけないんだ!!! ゆきお!!! 返事してゆきお!!! ゆきお!!!」
ゆきおは、返事をしてくれない。
「ずっと一緒ってウソだったのかよ!!! 二人で一人じゃなかったのかよゆきお!!! ゆきおおお!!!」
「……ッ」
「ゆきおおおおおお!!! ゆきおぉぉおおおおおお!!!」
「……」
「ぁぁぁぁあああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!! ゆきおぉぉおおお!!!」
私は、摩耶姉ちゃんにしがみつき、摩耶姉ちゃんに抱きしめられ、その場で、ずっとゆきおの名を呼びつづけた。
それでも、ゆきおは返事をしてくれなかった。
しばらくして、私達は鎮守府へと戻った。摩耶姉ちゃんは泣き疲れた私をおぶって、何も言わず、黙って戻ってくれた。
気持ちが落ち着いた所で、私は一人で、軍病院のゆきおの病室へと足を運ぶ。階段を歩いて上り、ゆきおの部屋の前に到着した。榛名姉ちゃんが私に付き添おうとしたが、それを断り、一人でゆきおの病室のドアの前に立ち、ノックする。
――はーい 涼風?
ゆきおの返事はなかった。その代わりドアが開き、中にいたらしい提督が顔を見せた。
「……涼風か」
「提督」
提督の目は、真っ赤に腫れている。いつもに比べ、ひげが少しだけ伸びていた。両手の拳には、昨日散々ドアを殴ったせいか、血が滲む包帯が巻かれていた。
提督に促され、ゆきおの病室に入った。改めて見ると、いつもゆきおがいたベッドは、よく病院に置いてあるような、色々な機能を持ったベッドであることがよく分かる。
そのベッドの上に、ゆきおが寝かされていた。
「ゆきお……」
いつもの真っ白い室内着ではなくて、クリーム色の簡素なワンピースのような服を着ているゆきおは、包帯こそすべて外されているが、全身は傷だらけだった。ノムラに殴られた痕だろうか。顔中に赤い傷ができている。きっと痣もひどかったんだろうけど、お化粧でもしているのか、肌の色そのものはとても綺麗だ。
顔を覗く。確かに肌そのものは綺麗だけど、唇が真っ青で血の気がない。だけど顔はとても穏やかで、顔だけ見れば、なんだかそのままあくびをして起きてきそうなほどだ。
青白いゆきおの手を、私はギュッと握りしめる。ゆきおの手は、信じられないほど、冷たく冷えきっていた。
「……おーい。ゆきおー」
囁くように声をかける。ゆきおは、返事をしない。
「起きろーゆきおー。あたいがきたぞー。二人で一人の、あたいが来たぞー」
やっぱりゆきおは、返事をしない。
「……そっかー。ゆきお、起きてくれないかー……」
提督が、帽子を目深にかぶる音が聞こえた。でも、ゆきおは返事をしてくれなかった。
「……がんばったもんな。あたいを助けようとして、痛い思いをしても、がんばってくれたんだもんな。あたいの知らないところで、ずっと……ずーっと、一人で頑張ってたらしいもんな」
……なら、お寝坊さんするのも、仕方ないよな。ずっとお寝坊さんするのも、仕方ないよな。
ゆきおの冷たい手を離し、私は右手でゆきおの頭を撫で、そして左手で、ゆきおのほっぺたに触れた。私が今まで何度も自分のほっぺたを重ねたゆきおのそれは、今、とてもとても、冷たかった。
「……おやすみ」
私は涙がこぼれないように、一度大きく息を吸い、そして吐いた。一度上を向き、涙をこらえた後、もう一度、涙で滲んだゆきおの、穏やかな顔を見た。
「ゆ……きお……」
きっともう起きることがないであろうゆきおへの、最後のお別れ。最後に名前を呼んで欲しかったけれど……せめて、返事をして欲しかったけれど……
床の上では、提督が壁にもたれるように、腰を下ろしてあぐらをかいていた。帽子を目深にかぶっているから、表情はよく見えない。私は、提督の隣に座り、二人でゆきおを眺めた。
「……昨日は悪かったな。お前の前で取り乱して」
「んーん。あたいも、ごめん……」
二人でゆきおのベッドを眺める。ゆきおの足元の床に座っている私達からは、ゆきおの表情はまったく見えない。少し背筋を伸ばせば、ゆきおの足だけは見える。
「指輪は受け取ったか?」
提督に指摘され、私は左手の薬指に触れる。自分の目の前まで持ってきた左手の薬指には、ゆきおの指輪が静かに優しく、輝いていた。
「うん」
「あいつな。東京に出た時、毎晩それ自分で作ってたんだ」
「そっか」
「『なにやってんだ?』て聞いたら、『指輪作ってる』って。お前とパンツ買いに行った時、手作り用のキットを買ったみたいだけど、すぐにノムラの騒動があっただろ? で、お前を心配してずっと一緒に寝てて、作れなかったからって」
「……」
「おれが昔『惚れた女には指輪を渡すもんだ』て笑いながら言ったのを、覚えてたんだなぁあいつ……」
提督がククッと喉を鳴らして笑う。言われて思い出した。ゆきおは確か雑貨店で、私をお店の外で待たせて、他のお客さんにもみくちゃにされながら店内に消えていった。そしてノムラの恐怖で震える私の前に戻ってきた時、確かに何か荷物を持ってたっけ。
……あれは、この指輪を作るための材料だったんだ。あの日からしばらく、ゆきおは目の下にクマを作って眠そうだったけど、毎晩、必死にこの指輪を作ってたんだ……。
提督はその後、なぜゆきおがこの鎮守府に来たのか、そして東京で何をしてきたのかを、教えてくれた。
「ゆきおはさ。病気だったんだ。俺の妻と同じ病気で……キツい治療やら苦い薬やら何やら、けっこう色々頑張ったんだけど、一向に改善しなくてさ」
「……」
「で、去年の夏ごろだ。最後の願いってわけじゃないんだが……ゆきおに『何やりたい?』て聞いたら、あいつ……」
「『艦娘になりたいっ』て言ったとか?」
「よく知ってんな」
「ゆきおが教えてくれたんだ。自分は男の艦娘の第一号だって」
「ほーん……」
提督が苦笑う。本当はちょっと違うけど。ゆきおは、『艦娘の適性があったからここに来た』って言ってたけど。ひょっとしたら、本当のことを言うのが恥ずかしかったから、そう言ったのかも知れない。なら、私は黙っておこう。
それで、折しもこの鎮守府に、軍医療施設を建立する計画が立ち上がり、ゆきおの最期の願いと、少しでも病気の進行を遅らせることに希望を持って、ゆきおは、この鎮守府に来たという話だった。
一度東京に出たのは、ゆきおの病気の進行具合を確認するためだったらしい。もしそれで病状が改善されていれば、ゆきおは手術を受ける予定になっていたそうだ。
「……結果的にダメだったんだけどな」
「……」
提督はゆきおの検査結果と、命の期限を告げられたそうだ。そのことはゆきおには伏せていたらしいのだが、どうもゆきおは、自分の死期が近いことに、感づいていたらしい。
「そうなのか?」
「お前がノムラに誘拐されたときがあったろ?」
「うん。ゆきおが摩耶姉ちゃんと助けに来てくれた時だろ?」
「おう」
ゆきおは、『自分が助けに行く』と言って聞かなかったそうだ。提督はもちろん、摩耶姉ちゃんも榛名姉ちゃんも必死にゆきおを止めたそうだが、ゆきおは頑として一歩も退かなかったらしい。
「『涼風はぼくを海に連れ出してくれた! ぼくに勇気をくれた! ぼくと涼風は二人で一人だ!! だから僕が助けるんだ!! 僕が助けなきゃダメなんだッ!!!』ってな。咳き込みながら、俺にそう凄んできやがった」
「……」
「亡くなった自分の母ちゃんと同じ症状で、同じ薬を飲まされてたんだ。そらぁ気付くよな。それでも……いや、だからあいつは、残り少ない命を、お前を助けることに使おうとしたんだ」
「ゆきお……」
「自分の息子ながら、あいつに惚れなおしたよ。思わず『行け』って言った。『惚れた女を取り返してこい』って言っちまった」
そして摩耶姉ちゃんとの出撃の寸前。最後までゆきおの代わりに、命令違反覚悟で出撃しようとする榛名姉ちゃんに対し、ゆきおはこう言ったらしい。
――ぼくは……ゲフッ……もうすぐ、死にます
それでも引かない榛名姉ちゃんと、一歩も引かず言い合いを繰り広げた後、最後は榛名姉ちゃんが折れたそうだ。自分の艤装を、摩耶姉ちゃんに託して。
東京に行く前のゆきおを思い出す。ゆきおは、ずっと咳き込んでいた。とてつもなく苦い薬をがんばって飲んでも、その咳が止まることはなかった。それが、晩年の自分の母親と同じ症状だと分かった時、ゆきおはどれだけ心細かっただろう。母親と同じ薬を出されたその時、ゆきおはどれだけ怖かっただろう。
それなのに、私のことばっかり心配して……私と榛名姉ちゃんを仲直りさせたり、一緒に寝てくれたり……。
ゆきお、やっぱりすごいよ。ゆきおは本当に優しいな。あたいなんか足元にも及ばないほどに。
「……だからお前は、何も悪くない」
「?」
「ひょっとしたら……『自分のせいで雪緒が亡くなった』って思ってるかも知れないけどな。最後にあいつにトドメを刺したのは俺だ」
ゆきおの父親らしい、提督の優しさが胸を打つ。提督は、以前に私を守って4人の艦娘が沈んだことに、私が責任と罪悪感を感じてふさぎ込んでいたことを知っている。だから、少しでも私が気が楽になるように、責任は自分にあると、私のことをいたわってくれている。
……でも私は、自分を責めない。『自分のせいでゆきおが亡くなった』だなんて、絶対に思わない。
だって。
―― 自分を殺したと思ってるって分かったら……多分、とても……つらい
それが、ゆきおにとって一番つらいことだと、ゆきお自身が教えてくれたから。
「……大丈夫。あたいは、自分がゆきおを殺しただなんて、思ってないから」
「よかった」
「だから提督も、ゆきおにトドメを刺したのは自分だとか、思うんじゃねーって」
「……」
「ゆきおは、そう思われるのは……多分、とても……つらい」
「親父の俺よりも雪緒のこと、わかってるんだな……ごめんな雪緒……親父なのにな……」
私を見ていた提督はうつむき、帽子をかぶり直していた。手の影に隠れてよく見えなかったけれど、その時、少し提督の目がきらりと光っていたから、少しだけ、泣いていたのかも知れない。
しばらくの間、ぐすぐすと鼻を鳴らした提督は、一度大きく深呼吸をし、改めて私に顔を向けた。
「そういやお前、ゆきおのカーディガン着てるのな」
提督が、私が羽織るゆきおのカーディガンの肩をつまみ、少し嬉しそうにつぶやいた。引っ張られたカーディガンの肩が少しつっぱり、ふわっとした感触の生地が、私の肩の素肌に密着した。
……消毒薬の香りがした。
「ゆきおからもらったのか?」
「うん。昨日の夜、ゆきおが『ぼくはもういいから』って」
「……」
「指輪と一緒にくれた」
「そっか……」
私の答えを聞き、提督は喉を鳴らしてククッと笑う。何かおかしなことでも言っただろうか。自分の言葉を振り返るが、そんなことを言った覚えは、私にはない。
「ぷっ……くく……」
「提督?」
「ああごめん。別にな。お前を笑ってるわけじゃないんだ」
「?」
「いやな。昨日、俺のとこにもゆきお来たんだよ。いつもの真っ白な部屋着だけでさ。カーディガンは羽織ってなかったから、きっとお前のとこに来たあとだったんだろうな」
私にカーディガンと指輪を渡したあと、ゆきおは提督に会いに行ってたのか。だからあの時『行かなきゃ』って言ってたのか。
提督の前に現れたゆきおは、提督に、ある宣言をしてきたらしい。
「宣言?」
「大したことじゃない。思春期の男にはありがちな妄想なんだが……」
「ゆきお、なんて言ったんだ?」
「いやな? 俺に『今までありがとう』って言ったあとな……」
――父さんには、母さんがついてる。母さんがずっと、父さんを見守ってる
だからぼくは、父さんとじゃなくて、涼風と一緒にいる
ぼくは、涼風と二人で一人だから
「てさ」
「……」
「いっちょ前にな。……あいつはあいつなりに、惚れた女を守りたいんだろうさ」
「……」
――ぼくと涼風は、二人で一人だから
私の鼻に、消毒薬の香りが……ゆきおの匂いが、再び届いた。
「そっか……ゆきお、ずっとあたいと一緒にいたんだ……」
「多分な。アイツの母親が今も俺を見守ってるように、きっと雪緒も今、お前のこと、見守ってる」
「ゆきお……」
左手の指輪を見る。ほのかに柔らかく輝く指輪は、まるでゆきおのように優しく、そして綺麗だ。
「……」
左手を自分の胸に当てる。ゆきおの温かさが胸にあふれた。肩のカーディガンも、私の肩を温めてくれる。
私は、ゆきおはいなくなってしまったと思い込んでいた。二人で一人だと言ってくれたのに……私のそばにずっといると言ってくれたのに、約束を破って、私の元から離れたと思っていた。
でも、それは違ってた。ゆきおは、昨晩私と別れた後も、ずっと私と一緒にいた。私の胸を温め、私を抱きしめてくれていた。私とずっと一緒にいてくれた。
だって指輪を見れば、ゆきおの名前を呼んだ時のように、胸が暖かくなるから。ゆきおに名を呼ばれた時のように、胸いっぱいになるから。
そして、カーディガンが私を温めてくれているのは、きっとゆきおが、私を包んでくれているから。
三度漂う、消毒薬の匂い。これはきっと、ゆきおがそばにいる証。私の声を聞いて、そして見守っている、ゆきおの言葉。
――ぼくはここにいる
消毒薬の匂いが、ゆきおの言葉として私に届いた気がした。
そっか。ゆきおは、あたいと、本当の意味で、二人で一人になったんだな。
ありがとうゆきお。約束を守ってくれて。
「涼風……東京で告別式をやらにゃいかんのだけどな」
「うん?」
「お前も雪緒の相方として来るか?」
提督が、天井を見上げながらそういう。きっと提督は、私の為を思って言ってくれているんだ。ゆきおの死を受け入れられないかも知れない私のことを思いやって、そう言ってくれているんだ。
だけど提督。それは心配ないよ。
「提督。あたいは行かない」
「……」
「ゆきおとあたいは、二人で一人だ。ゆきおは今も、あたいと一緒にいる」
「……」
「大丈夫。悲しいけれど……大丈夫。だってあたいには、ゆきおがいるから。改白露型駆逐艦4番艦の男の艦娘……涼風こと、ゆきおがついてるからさ」
「……そっか」
……なあゆきお、そうだろ?
そう思った途端、指輪を通した薬指が、むずっとした。
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