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俺の涼風 ぼくと涼風

作者:おかぴ1129
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21. 二人で一人(3)

 先ほどまで廊下で泣き叫んでいた提督は、騒ぎを聞いて駆けつけた大淀さんや摩耶姉ちゃんたちによって執務室に運ばれ、やがて泣き疲れて眠ってしまった。

「……」

 私はというと、摩耶姉ちゃんに促され、自分の部屋へと戻った。『あたしも一緒にいてやろうか?』と摩耶姉ちゃんに声をかけられたが、それは断った。なぜだか今日は、誰かと一緒にいてはいけないような、そんな気がしたからだ。

 そうして私は自分の部屋に戻り、窓の外をぼんやりと眺めた。今日は満月がとても綺麗で、部屋の明かりを消していても、月明かりのおかげでほんのりと白く、明るい。

 その綺麗な満月を見上げる。表面の模様がくっきりと見えるほどに綺麗な月は、とても優しい明かりで私を照らしてくれている。お日様のように温かくはないが、その明かりはゆきおのように、優しく、柔らかい。

 提督があれほど取り乱す理由。……それはきっと、ゆきおのことだ。

――頑張ったんだぞ!! 必死に頑張ったんだぞ!!

 確か提督は、そんなことを言っていた。ドアの蝶番が合わないことでフラストレーションが溜まり、それでゆきおの事を思い出し、虚しさや悲しさを爆発させたのかもしれない。ドアとゆきおを、重ねて見ていたのかも知れない。

 それが何を意味するのか……私はすでに気付いてる。

 即座に私は首を振る。そんなことはない。ゆきおは今、ただ寝ているだけだ。あれだけがんばったゆきおだ。元々体力もないし、きっといつもより疲れてるんだ。だから中々起きてこないんだ。

 ゆきおは、明日にでもきっと目を覚ます。今日は焼きたてスコーンを置いてきたんだ。私が作った、とても美味しいスコーンを置いてきたんだ。ベリーが入ってて、甘い生地の中にすっぱさが光る、まるで私とゆきおの二人のような、とっても美味しいスコーンを置いてきたんだ。あの匂いをかげば、きっとゆきおだって……。

「ゆきおー……」

 ポツリとゆきおの名を口ずさんだ。いつも私がその名を口ずさめば、ゆきおは返事をしてくれた。あの、三階のゆきおの部屋に行けば、ゆきおはいつも私を笑顔で迎えてくれた。

――早くっ。早く豆大福っ!!

 お菓子を持っていけばもちもちほっぺになって、とても美味しそうにそのお菓子を頬張っていた。私に『自分は男の艦娘なんだ』と秘密を打ち明け、自分で出来ることは意地でも自分だけでやりとげようとする、華奢で細っこい、とても綺麗な茶髪のおかっぱで、まるで女の子のような見た目の男の子。

――僕達の前には、遮るものはなにもないんだ!!

 私が初めて海に連れ出した時は、ものすごく目を輝かせて大はしゃぎしていた。その様は、大目玉を食らうことが分かった上で、それでも摩耶姉ちゃんに対して『もうちょっと海にいてもいい?』と私に言わしめたほどだ。

 初めて海に立った時は、うまく曲がることが出来なくて、半べそになって私に助けを求めた。パンツを買いに行った時は、たくさんの人が見ている前で言い合いにもなった。私が選んだパンツを『いらない』と一蹴したくせに、あとになって、私に内緒でこっそり自分が履いていた。

 私と榛名姉ちゃんを仲直りさせてくれもした。恐怖で震える私に、温かいカーディガンを貸してくれた。私を激励し、無線でフォローしてくれ、私に再び戦う勇気を思い出させ、寒さで震える私の手を取り、温めてくれた。

――涼風から離れろぉぉオオッ!!!

 そして、私がノムラに襲われた時は、摩耶姉ちゃんと一緒に、私のことを助けに来てくれた。ボロボロになり、辛い思いをして、それでもノムラに負けずに立ち向かい、そしてとうとう、私を助けだしてくれた。

「ゆきお……ゆきおぉ……」

 なぜだろう。ゆきおと出会ってから今日までの思い出を、いくつもいくつも思い出す。

 目を閉じると、部屋のベッドの上で、上体を起こしているゆきおの姿が目に浮かぶ。いつも笑顔で、私と話をしてくれたゆきお。いつも私を助けてくれ、いつも温めてくれたゆきお。

―― こ、これで……ここにいるのは、ぼ、僕達だけだっ

 私が震えていたら、いつもすぐに私を温めてくれた。手を握ってくれた。カーディガンを貸してくれた。一緒に布団の中に入ってくれて、一緒に寝てくれた。寒いでしょと私を気遣い、カーディガンの前を止めてくれた。私のお腹を見て、『キレイだから誰にも見られたくない』と言ってくれた。

―― 僕と涼風は、ケフッ……二人で一人だから

 自分と私のことをそう言ってくれた。二人で一人だと言ってくれた。自分のことを“男の艦娘”といい、そしてホントに“艦娘”になって、帰ってきた。改白露型4番艦、涼風になってくれた。名実ともに、ゆきおは、私と二人で一人になってくれた。

「ゆきお……寒いよ……」

 体が寒くなる。ノースリーブでむき出しの肩が急に冷え始めた。この部屋の中に、私は今、一人でいる。その事実がとても寒く、そして悲しい。

「ゆきおぉ……会いたいよ……話がしたいよぉ……」

 我慢していた言葉を、私は口にしてしまった。その途端、途端に目に涙が溢れ、ボロボロと流れ始めた。

 なぁゆきお。あたいとゆきおは、二人で一人だったはずだろう?

 それなのに、なんで目を覚ましてくれないんだ? ゆきおがいっしょにいないと、寒くて寒くて……

「ひぐっ……寂しいよゆきおぉ……目を覚まして……話がしたいよ……手を繋ぎたいよ……ゆきおぉ……」

 右手の甲で涙を拭うけれど、後から後から涙が流れて止まらない。体が寒い。これは恐怖からじゃない。私は、満月に顔を向け、目をぎゅっと閉じて、部屋の明かりをつけるのも忘れ、何度もゆきおの名前を呼び、そして涙を流し続けた。

 どれだけの時間、私は泣いていたんだろう。時計を見てもよく分からない。とにかく長い時間、私はずっと、ゆきおの名を呼び、ゆきおの温かさを求め、泣き続けていた。

 不意に、コンコンというノックの音が聞こえ、私はドアを振り返る。こんな時間に誰だろう……誰なのかはさっぱりわからないけれど、今は人に会いたくない。

 今日は帰ってもらおうと、私が口を開きかけたその時。

「……涼風?」

 私の耳に届いたのは、私がずっと待ち焦がれた、とても心地よい、優しいけれど、とてもよく通る声だった。

「……ゆきお!? ゆきおなのか!?」
「うん。夜中にごめんね。入っていい?」

 私は急いで立ち上がり、縺れそうな足を引きずって、必死にドアまでかけていく。震える手でカギをパチンと開き、ドアノブをひねって、ドアを勢い良く開いた。

 ドアの向こうにいたのは、とっても華奢で細っこくて、手の平は私と同じぐらいの大きさしかない、見た目で言えば女の子にしか見えない男の子。

「……ゆきお」
「涼風」
「うう……ひぐっ……ゆき……ひぐっ……」
「おはよ」
「おはよ……ゆきお……ひぐっ……おあよ……ッ!」
「おはよ」

 でもとても頼りになり、私を幾度と無く助けてくれた、私と同じ、改白露型駆逐艦4番艦、涼風の名を関する、史上初の男の艦娘。

「ゆきお……ゆきおぉおお!!」
「!?」

 いつも真っ白な室内着の上からクリーム色のカーディガンを羽織り、暖かい手で私と手を繋いでくれ、そのカーディガンで私を温めてくれる、とてもとても温かくて、そして優しい、私と二人で一人の、大好きなゆきおだった。

 私は我慢できず、泣き叫ぶ私にびっくりするゆきおに思い切り抱きつき、そして力の限り抱きしめた。

「おごごゴゴ!? す、涼風っ!?」
「ゆきお……!! ゆきおぉおお!!」
「く、苦し……ぐががが!?」

 温かい……とても温かく心地いい、ゆきおのぬくもり。さっきまでの体の冷たさがウソのように引いていく。こうやってゆきおを抱きしめているだけで、胸がぽかぽかと温かく、そして心が満たされていく。

「す、涼風……ッ。ちょ、ちょっと放して……」
「てやんでぃべらぼうめえ!!」
「……?」
「あたいとゆきおは二人で一人! 同じ改白露型4番艦だろ!?」
「う、うん……」
「それなのに、ずっとずっとお寝坊さんしやがって! あたいにこんなに心配かけて!!」
「うん……」
「おかげであたい、ずっと寒かったじゃねーか!! お礼だって言ってないし、ずっと……あたい……ひぐっ……ずっと、寒かったんだぞ……ッ!!」
「うん……ごめん」
「だから……ひぐっ……だまってあたいに……ひぐっ……ぎゅってされとけこんちくしょー!!」
「……うん」

 私の泣きながらの文句に圧倒されたのか、今私に抱きしめられ、ほっぺたを合わせてくれてるゆきおは、私に抵抗しなくなっていた。

 心地いい。とてもとても温かく、心地いい。このふわふわのカーディガンも、温かいほっぺたも、私の腰に恐る恐る回している両手も、何もかも、温かい。

 ゆきおがいる。ゆきおが今、私と一緒にいる。

「ゆきお!」
「うん。涼風」
「ゆきお……ッ!!」
「うん。涼風」

 私がゆきおの名を呼べば、返事をして、私の名前を呼んでくれる。ゆきおが私と共にいる。そのことが、こんなにも嬉しくて、こんなにも胸が温かいということを実感した。

 ひとしきりゆきおを抱きしめ、互いに名前を呼び合った後、私はゆきおの顔を見た。月明かりでも、その綺麗な顔が真っ赤になってるのがよく分かる。あれだけ負っていたひどい怪我は、すっかり綺麗に消えていた。

「ゆきお! あたい、ゆきおにプレゼントがあるんだ!!」
「そうなの? なにかくれるの?」
「えっとさ。ゆきおの部屋に置いてあったスコーン! あれ、食べたか?」

 『んー?』と視線を上に向け、ゆきおはしばらく考えた後、冷や汗をかいて苦笑いを浮かべ始めた。これは、気付いてなかったみたいだ……せっかく焼きたてを持っていったのに……

「……ごめん」
「えー……」
「タハハ……」

 ゆきおがまったく気付いてなかったのは少し残念だったけど、それはまぁ仕方ない。ゆきおはきっと今目が覚めたんだろう。そら焼き立てのいい匂いもしなくなってるはずだ。

「まぁいっか!」
「ごめんね」

 そういえば、スコーンの残りを持って帰ってきていることを思い出した。

「そだ! あたい、そのスコーン持ってきてたんだよ。食うか?」

 ゆきおが少しだけ、目を見開いた。そして月明かりでも分かる程度にほっぺたを赤く染め、そして次の瞬間。

「うんっ! 食べる!」

 鼻の穴をぷくっと広げ、力強く頷いた。それを受け、私はゆきおを自分の部屋の中へ通すことにする。ゆきおは『涼風の部屋ってはじめてだ……』とぽつりとつぶやき、私の部屋の中を興味深そうに、キョロキョロ眺めていた。榛名姉ちゃんの部屋のようにキレイに片付けているわけじゃないから、正直、少し恥ずかしい。

「ゆきおー、あんまりキョロキョロ見るなよー」
「へへ……涼風の部屋、はじめてだから」

 キョロキョロするゆきおをベッドの上にちょこんと座らせ、私は持ち帰っていたスコーンを準備し、ゆきおに手渡した。

「はいこれ!」
「ありが……涼風、これは……ッ!?」
「へへ……召し上が……」

 私が食べるのを促す前に、ゆきおは『ぅおあーん』と大きな口を開け、私のスコーンをぱくりと頬張った。そして途端にほっぺたがもっちもちになり、お風呂に入ってる時の油断しきった摩耶姉ちゃんみたいな眼差しになり、私のスコーンを堪能し始めている。

「んー……」

 その様子は、私を助けに来た時のゆきおと同一人物とは思えないほど、緩んで、だらしなく見えた。

「んー……おいし」
「そっか! よかったぜゆきお!!」
「涼風は食べないの?」

 ゆきおに促され、私も雪緒の隣に座り、もうひとつのスコーンを口いっぱいに頬張る。さっぱりした甘さの生地の中にところどころに入っているベリーが甘酸っぱくて、とてもおいしい。とろけそうだ。

「んー……」
「んー……」
「「幸せだー……」」

 二人して、ほっぺたをもっちもちにして幸せを堪能する。やっぱり私たちは二人で一人。美味しいものを食べた時の反応まで一緒だ。それが私には、とてもうれしい。

「ところでさ、ゆきおー。んー……」
「んー? はぐっ……んー……あ、食べちゃった。なにー?」

 よし。種明かしをしてやろう。私は自分の残りのスコーンをすべて食べた後、ぺろりと親指を舐めて、腰に手を当て、胸を張って、ゆきおにスコーンの作者を聞かせることにした。

「このスコーンさ」
「うん」
「あたいが作ったんだ」
「へーそうなん……て、ぇえ!?」

 今までもちもちの顔でスコーンの余韻に浸っていたゆきおの顔が急にシュッとしまり、そして口をパクパクさせ、私を指差し、目を見開いていた。

「涼風が!?」
「そうだよ?」
「これを!?」
「おう」
「一人で!?」
「榛名姉ちゃんに手伝ってもらったけどな!」
「そ、そんな……」

 胸を張って威風堂々な私のすぐ目の前で、あんぐりと口を開けて目を見開いて、驚愕の表情で私を見つめるゆきお。ふっふっふっ。これだ。この顔だ。この驚いた表情が見たかった。ゆきおが倒れてからこっち、毎日お菓子を作っていた甲斐があった。私のがんばりは、無駄にはならなかったんだ。

 私を指差してた手をだらんと下げて、ゆきおがうつむく。

「どうした?」

 小さな肩をゆきおはぷるぷると震わせ、両手で握りこぶしを作って、全身をぷるぷると震わせていた。そして、顔を上げたゆきおの表情は、なんだか演習場で私に『曲がれない』と助けを求めてきたときのような、不思議と泣きそうな表情をしていた。下唇をギュッとかんで、なんだか今にも泣き出しそうな……。

「す、涼風が作ってくれたやつなら!!」
「?」
「もっと早く言ってよっ!!」
「へ? なんで?」
「そしたら、もっと大切に……じっくり、味わって食べたのに!! 美味しいからって、がっつかなかったのにッ!!」

 そういって、ゆきおがはんべその顔を上げた。握っていた拳を広げておたおたわちゃわちゃと上下に振り、私に、自分の不満を必死に伝えようとしている。その様子が、私にはなんだかとてもおかしくて。

「ぷっ……」
「ぷじゃないっ! もっと食べたかった! もっと味わいたかったっ!!」
「そっか?」
「そうだよ! 甘くて酸っぱくて……今まで食べたどんなお菓子よりも、美味しかった!!」

 そして、こんな風に私のスコーンをほめてくれるゆきおの言葉が、とてもうれしくて。

「そっか……」
「そうだよ! 美味しかったよ! もっと食べたかったよっ!!」
「へへ……」

 耳と鼻から水蒸気を出し、ぷんすかと怒りながら、ゆきおは私に不満をぶつけてきた。なるほど。びっくりさせたかったというのは、私のわがままだったのかもしれない。そんなに褒めてくれるのなら、最初に教えてあげてもよかったのかも。私は、自分の思慮の浅さをほんの少しだけ、反省した。嘘だけど。

「わりぃわりぃ。へへ……」

 そんなに気に入ってくれたのなら、これからも時々、ゆきおのためにお菓子を作ろう。そしてその度に、ゆきおに『美味しかった』って言わせて、そしてこうやって褒めてもらおう。

「じゃさ、ゆきお。これからちょくちょくお菓子作ってやるよ!!」
「……ほんと?」

 かわいく憤慨していたゆきおの怒りがひいたようだ。私を再びきょとんと見つめ、あれだけわちゃわちゃと振っていた両手を止める。私はゆきおの右手を取り、自分の両手で包み込んだ。暖かい。とても暖かいゆきおの両手が今、私の手の中にある。

「ほんとほんと! スコーンだけじゃなくて、豆大福だって桜餅だって、マフィンだって、なんだって作ってやる! あたいのゆきおが喜んでくれるなら、何回でも作ってやるよ!」
「……ッ」
「へへ……」

 私をきょとんとみつめるゆきおの両目に、少しずつ涙が溜まってきているのが私には見えた。そのあと、自分の右手を包み込んでいる私の手の上に左手を起き、うつむいて、少しだけ、肩を震わせた。

「……」
「ゆきお?」
「……っぐ」

 布団の上に、雫がぽたりと落ちた。わたしにはそれが、ゆきおの涙にしか見えなかった。

 ぽたぽたといくつか雫を落とした後、ゆきおは再びスッと顔を上げ、

「……涼風」
「ん? どした? ゆきお?」

 まるで布団の中で、私に対して『怒るよ?』と言ってくれたときのように、澄んだ瞳で、まっすぐに、私の瞳を見つめた。その目には、やっばり涙が溜まっていた。

「手、冷たいよ?」
「そか?」
「うん。ちょっとまってて」

 そういい、ゆきおは自分が着ているカーディガンを脱いで、私の肩にふわっとかけてくれた。

「……ほら。これ羽織りなよ。あったかいから」

 いつかのように、ゆきおのまっすぐな眼差しがニコッと笑う。言われたとおり、ゆきおがカーディガンをかけてくれたその瞬間、私の両肩はポカポカと温かくなった。

「へへ……いいの?」
「うん。ぼくは……もう、いいから」
「そうなのか?」
「うん」

 一度ゆきおの手を離し、カーディガンの袖に自分の手を通す。なんとなしに、袖の匂いをかいでみた。ゆきおのカーディガンの袖からは、ほんのりと消毒薬の香りが漂っている。ゆきおとはじめて会ったときから、ゆきおと会う度にずっと感じていた、ゆきおのにおい。それが今、私の身体から、漂い始めた。

 カーディガンを脱いだゆきおの肩は、さっきまでよりさらに細っこい。これだけあったかいカーディガンを脱げばけっこう寒いはずなのに、ゆきおの身体は、まったく震えてなかった。

「ゆきお?」
「ん?」
「ゆきおは寒くないのか?」

 素朴な疑問を口にする。寒くて風邪ひくようなら、このカーディガンはすぐに返さないと……でもゆきおは、そんな私に対して、柔らかい笑みをふわりと浮かべた。

「ぼくはもう大丈夫だから。涼風と一緒にいるから、あったかいしね」
「……そっか!」

 ゆきおが『私といると暖かい』と言ってくれたことが嬉しい。私も、ゆきおと一緒にいるとあたたかい。同じことを考えてくれていることが、私にはとてもうれしい。

「あとね。渡したいものがあるんだ」
「おっ! ゆきおもあたいに何かくれるのかっ!」

 ゆきおが、右手を自分の室内着のポケットに入れ、ごそごそとポケットの中を弄っている。

「えっと……」
「……?」
「剥き出しでごめんね。でも、手作りだからケースとかよく分かんなくて……」

 やがてポケットの中から出された拳を、ゆきおがゆっくりと開いた。

「これを」

 開いたゆきおの手の平の中にあったもの。それは、銀色の指輪だった。ちょっと細身の銀色の指輪が2つ繋がったような、そんな不思議な形をしている、二連の指輪だった。

「へ……?」
「……」
「指輪?」
「うん」

 胸がドキッとした。心地いい鼓動が一回だけ身体を駆け巡り、私の目に涙が溜まっていく。ゆきおが、私の左手を取った。抵抗せず、素直にそれに従う。

「ぼくは、涼風がずっと好きだった」

 私も好きです。

「誰よりも何よりも、世界で一番、涼風が好きだった」

 私も、世界で一番、あなたが大好きです。

「ぼくを初めて大海原に連れ出してくれたあの時、ぼくには涼風が眩しく見えた」
「あたいも……ゆきおを初めて見た時からずっと、ゆきおを見る度ワクワクしてた」
「涼風は、ぼくに艤装を装備させて海に立たせてくれて……ぼくの手を引っ張ってくれて、ぼくに勇気をくれた」
「ゆきおも……あたいにカーディガンをかけてくれて、あたためてくれた」

 そして榛名姉ちゃんと仲直りさせてくれて、ノムラに囚われていた私のことを、ぼろぼろになりながら、助け出してくれた。

「……父さんから聞いた。一番大切な人には、指輪をあげるものだって」
「……」
「そして相手の左手の薬指に、通してあげるものだって」

 ゆきおが私の薬指に、二連の指輪をスッと通した。指輪のサイズはぴったりで、ぐらつくこともなければ、窮屈なこともない。絡み合った2つの指輪が今、私の薬指で、月の光を受けて、静かに輝き始めた。

「だから、これを涼風に上げる」
「……うん」
「涼風は、ぼくと二人で一人だから。……世界で一番、大切な涼風だから」
「うん……うんっ……」

 左手を上げ、薬指に通された二連の指輪を見る。カーディガンの袖がストンと落ちた。私の左手にある指輪は、月明かりを受け、静かに優しく輝き、そしてゆきおのぬくもりを届けてくれる。

 その手を自分の胸に当てた。途端に胸に広がる、ゆきおのぬくもりが心地良い。目を閉じると、まるでゆきおと手を繋いで一緒に歩いてるような……そんな気さえする。カーディガンから漂う消毒薬の香りが愛おしい。

「……涼風」
「ん?」

 ゆきおに呼ばれ、私は目を開き、ゆきおと見つめ合った。

「忘れないで。ぼくは、ずっと一緒だよ」
「うん」
「ぼくと涼風は、二人で一人だから」
「うんっ」
「……僕は、涼風とずっと一緒にいるからね」

 月明かりに照らされた、私に向かって優しく微笑むゆきおは、いつもの真っ白な服も相まって、まるで月明かりの中に消えていきそうなほど、キレイで、そして儚い。

 私は、真っ白に消えていきそうな、とても儚くなったゆきおの手を取り、そしてその手をギュッと握った。

「……ゆきお、ありがとう」
「うん」
「大事にする。一生、大事にするから」
「……うん」

 その手は、さっきまでのゆきおとは別人であるかのように、とても冷たかった。

「……じゃあ、ちょっと行かなきゃ」
「……ゆきお?」

 ゆきおの手が、私の手の中からするりと抜けた。私の手の甲を人差し指でなでた後、名残惜しそうにゆっくりと、私の手から距離を離した。

「どこ行くんだ?」
「どこにも行かないよ? ずっと一緒にいるから」

 ……なんだか、ウソをついているような気がした。立ち上がり、私に背を向けてドアに歩いて行くゆきおの手をつかもうとして、一瞬、手が届かなかった。

「ゆきお? ホントにどこもいかないのか?」
「うん」
「だったら一緒に寝ようぜ」

 私も立ち上がり、ゆきおを呼び止める。ゆきおに近づき、その手を取ろうとする。けれど、なぜかそれ以上近づけない。あと一歩が、踏み出せない。

「……大丈夫」

 ゆきおが立ち止まり、私を振り返った。その笑顔はとても優しく、声はとても心地よく、私の耳を優しく、包み込んでくれる。

 薄い月明かりに照らされたゆきおは、真っ白だった。

「すぐ戻るから」
「……ホントか?」
「うん。……すぐ、戻るから」
「……」
「だから、先に寝てて」
「……すぐ、戻れよ? 約束だぞ? そしたらあたいと一緒に寝るんだぞ?」

 眉をハの字の曲げ、困ったようにほっぺたをぽりぽりとかくゆきおは、やがて私をじっと見て、そして柔らかく微笑み、左目から一筋だけ、涙をスウッと流した。

「……うん。約束する。すぐ戻るから、一緒に寝ようね」

 そうして、再び私に真っ白い背を向けたゆきおは、ドアを開いて、私の部屋からいなくなった。

 残された私は、ゆきおに言われたとおり、カーディガンを羽織ったまま、ベッドの中に潜り込む。

「……顔が寒い」

 身体はカーディガンを羽織っているから、とても暖かい。でも顔が寒くて仕方がない。しばらく考えた後、私はあの日のように、布団を頭から被ることにする。

「ほっ……」

 途端に顔が暖かくなる。そして、私の身体を、消毒薬の香りが包み込み始めた。

「……ゆきおの匂いだ」

 左手の薬指に触れる。指輪の感触が暖かい。見つめていると、なんだかゆきおの手を感じるような、そんな感じがする。

 ゆきおにもらったカーディガンと指輪が、今は少しだけ私から離れているゆきおの代わりに、精一杯ゆきおを感じるように包み込んでくれている。……でもやっぱり、本人がいないと物足りない。

「早く帰ってこないかな……ゆきお」

 ポツリとつぶやく。ゆきおの名を口ずさんでも、当たり前だけど、ゆきおの返事は聞こえない。

「……早く、帰ってこいよー……」

 次第に瞼が重くなってきた。視界が徐々に狭まり、布団から顔を出しても、月明かりを捉えきれなくなってきている。

「ゆき……お……」

 私も起きてゆきおを待っていたかったけれど、私は相当疲れていたらしい。我慢の限界が来たようで、瞼に力をどれだけ込めても、起きることも、持ち上げることも出来なくなった。

――ぼくは、ずっと一緒だよ

 不意に、耳元でゆきおの声が聞こえた気がした。

「そっか……ずっと一緒か……へへ……」

 体中が暖かい。カーディガンのおかげで、まるでゆきおに抱きしめられて眠っているような、そんな心地いい暖かさに包まれ、私は眠りに落ちた。
 
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