時刻は午後7時5分前。そろそろあいつがやってくるわけだが……。今日からは大淀さんというフォローがおらず、この時間を俺一人で切り盛りする。何いても笑っても、たった一人で、あの夜戦バカと戦わなければならない。
時計の長針が、11を通り過ぎた頃、俺の身体が自動的に身構えた。そしてその直後。
――ガチャッ
入り口ドアのドアノブが動いた。それに呼応し、俺の身体がビクンと波打つ。
「来たのかッ!?」
俺は、隙間からただならぬ瘴気を漏らし始めた入り口ドアを見た。すりガラスの向こう側に見える、真っ赤な人影……間違いない。あいつだ。あの真っ赤なパーカー……そして不必要にガチャガチャと回されるドアノブ……。恐怖で身体がすくんでくる。あのドアの向こうには……闇に魅入られし夜戦の申し子がいる……夜の闇に俺を毎度誘わんとする、あの、賑やかな小悪魔がいやがる……ッ!?
「……クックックッ」
「ゴクリ……」
「……知ってるよ、せんせー……クックックッ」
「な、何をだ……ッ!?」
ついにドアが重苦しく、ギギギと音を立ててゆっくりと開き始めた。そのドアの向こうに奴はいた……真っ赤なパーカー……そして闇の寵児のくせに、まぶしすぎてこちらの神経を逆なでしてくる、あのフラッシュライトのような笑顔……ッ!!
「今日からは、大淀さんがいない……つまり……せんせーは一人!!」
「バカなッ!? なぜそれをッ!!?」
「つまり……今日からは、夜戦し放題ッ!!!」
「ッ!?」
「クックックッ……はっはっはっ……ハーッハッハッハー!!!」
ついに来た……来てしまった……! ことあるごとに夜戦の闇に俺を引きずり込もうとし、俺が油断したときは、急にべっぴんな横顔を見せて俺を翻弄してきやがる小悪魔……川内が、来てしまった……ッ!!!
「というわけで!! せんせー!! 今日こそ夜戦ッ!!!」
「いいから早く席につけよ」
「ぇえ〜……さっきまで私の寸劇にノリノリで付き合ってくれてたじゃん。そのまま夜戦にも付き合ってよー!」
「お前何しにこの教室に通ってるんだよッ!! いいから早く席につけって!」
「ぶーぶー!!」
お前のテンションの高さに付き合ってたらな……身体がいくつあっても足りんわ……。
ぶーたれている川内をいつもの席に案内し、パソコンの電源を入れてOSを選択する。OSが立ち上がるまでの間に、今日の授業の予習だ。
「さて川内。今日はWordでの表の作り方を学ぶ」
「前回はそこまでいかなかったもんね! これで夜戦参加者の表も簡単に作れるね!!」
「それを作るかどうかは置いておいて、とりあえずはそうだな。名簿とか予定表とか、そういうものを作るときに便利なのが表だな」
そういい、俺は川内にテキストを開くことを促した。川内がいつもの調子でテキストを開き、表の単元を探している間にOSが立ち上がる。
「せんせー、テキストのどこー?」
「第四章だ」
「はーい」
目次から第四章のページ数を確認した川内は、そのままペラペラとテキストのページをめくっていった。その間の時間が少々もったいないと感じた俺は、一度立ち上がって川内の右側に移動し、マウスを使ってWordを立ち上げておくことにする。
「お?」
偶然か? 俺がマウスを握ろうとしたら、川内がマウスの上に右手を置きやがった。おかげでマウスをつかむ川内の右手を、上から鷲掴みしそうになる。
「……にひんっ」
なんだよそのしてやったりな笑顔は……おまけにいつも以上に白い歯をキランって輝かせて……
「おおすまん。お前がテキストで第三章を探してる間にWordを起動させとこうと思ったんだけど……」
「せんせーにマウスは渡さないよ!!」
「……なんで?」
「だってこれも夜戦だからね!!」
はい。そうですね。夜戦ですね。
「だから負けられないッ!!」
「はいはい……とりあえずWordを立ち上げてくれ」
「りょうかいっ!!」
俺にマウスを操作されるのが、そんなに悔しいのかねぇまったく……こいつ、実はものすごい負けず嫌いとかなのか? それにしても、負けず嫌いの発揮ドコロを間違ってるとは思うけど。
Wordを立ち上げた川内には、そのまま文書作成に入ってもらう。今回は表の挿入にチャレンジしてもらうわけだが、そこまでのタイトルや日付に関してはも今までのやり方で十分対応可能だ。なら、こちらは何も言わず、川内にすべてを任せてしまって大丈夫だ。
「せんせー。終わったよー」
「はいよー」
「それにしても、今回作るプリントって私ぴったりだなぁ」
「俺は突っ込まない」
今回、実習で作ってもらうのは『秋の鎮守府夜戦トーナメント大会 ルール変更に関するお知らせ』というプリントだ。ルールの変更一覧を、表で見せようという魂胆の模様。……なぜよりにもよって夜戦なのか?
「んじゃ川内、カーソルを“記”と“以上”の間に持ってきてくれー」
「はーい」
「持ってきたら、『挿入』タブをクリックして、『表』てボタンをクリックだ」
「はーい。なんかマス目みたいなのが出てきた」
「そのマス目みたいなとこ、どこでもいいからマウスのっけてみ」
「んー? ……ぉおっ!?」
川内がマス目部分にマウスをポイントした途端、ちょうど文書のカーソルの位置に、挿入される表のプレビューが表示された。川内はマス目の上でマウスをずりずり動かして、プレビューの表示が切り替わっていくのをジッと観察している。
「なるほど。マス目と表が連動してるねぇ」
「おう。それで挿入される表がどんなものか確認して、それで大丈夫なようならクリックすれば、その表が挿入される」
「ふんふん」
「とりあえず今回は5行3列の表がほしいから、縦に5列、横に3列になるところでマウスをクリックしてみ」
「はーい」
言われるままにクリックする川内。5行3列の表が挿入され、『ぉおっ』と声を上げていた。こいつ、いつもびっくりしてるなぁ……
「そこの一マス一マスに文字を記入できるから、クリックして入力してくんだ」
「りょうかーい」
「途中一行がぶっとくなっちゃう時もあるだろうけど、あとで調整するから気にせずやれいっ」
「はーい」
今回作る表の、『参加可能艦種』と『勝敗の決し方』の項目は、中の文章が二行になる。だから入力中はどうしても他の項目に比べて縦の幅が二行分になってしまうのだが……そこはあとで調節する。
……なんかしらんが、急に鼻がむずっとした。
「えぐしっ!?」
「風邪?」
「いや、むずってしただけだ」
「ふーん。誰かがせんせーの噂してるのかな?」
「お前は故郷のおばあちゃんかっ」
「うへっへっへっ」
「えぐしっ!?」
「とりあえず口は押さえた方がいいよ?」
「す、スミマセン……」
俺への突っ込みの傍ら、バシバシと表に項目を入力していく川内。こいつもタイピングが早くなったなぁ。かな入力だから、ローマ字の組み合わせを覚えなくてもいいってのが功を奏しているのかも知れない。
「ねーせんせー」
「んー?」
「かっこ“()”ってどうやって入力するんだっけ?」
「“かっこ”で変換。もしくは“ゅょ”って入力して、f9で変換」
「ほいほい」
そうしてしばらくの後、入力は完了。『提督の扱い』という項目がどうにも気になるが……これは聞いても大丈夫なのか?
「なー川内」
「ん?」
「この『提督の扱い』の変更後がさ。『賞品』ってなってるんだけど……なんだこりゃ?」
「提督って言ったらさ。鎮守府の艦娘みんなのあこがれだからねー。だからこうやって、大会なんかで提督をみんなで取り合う鎮守府ってのも、あるかもしれないね!」
マジか……ただのハーレムじゃないかそれじゃ……しかも艦娘っていえば、全員が可愛かったり美人だったりとかしてたよな確か……どんだけ煩悩の天国だったんだよ……。
「ちなみにお前は?」
「私? 私は別に」
だよなぁ……こいつが男の前でデレッデレになってるとこって想像できないもんな……。
「だってうちの提督、夜戦に全然付き合ってくれなかったしね。中年だったし」
「貴公……」
やっぱりそこかよ……ソラール先輩すみません……先輩の口癖、完全に伝染ってしまいました……。
さて、ここからは作成したプリントの書式設定だ。まずは表以外の部分を、川内自身にやらせる。今までさんざんやってきたことだし、川内ももう慣れたものだ。
「中央揃えにしてあげて〜……フォントを大きくしてあげて〜」
「すいすい出来るようになったなぁ川内」
「この調子でいずれはせんせーと、すいすいーってやせ」
「それ以上は言わせんッ」
まぁここまでならな……あの、一筋縄ではいかない男、岸田さんもできてることだし。……なんか思い出したら、妙にむかっ腹がたってきた。
「右揃えで……って、せんせーどうしたの?」
「ん?」
「なんか顔がプンスカしてるよ?」
「気にせんでよろしいっ」
「? まいっか。出来たよー」
川内の宣言通り、表以外の部分は書式設定は完了。続いて表の書式設定に入る。
とは言っても、基本的には文章の部分と変わらない。表特有の書式設定がいつくかあるだけだ。
「とりあえず出来た表見てみ。気になるところあるだろ?」
「うん。『参加可能艦種』と『勝敗の決し方』のとこだけ高さがぶっとくなってる」
「それ調節すっか」
「どうやるの?」
「その、上から2行目から4行目までを選択してみ」
「ほい」
言われるままに選択していく川内。いっちょまえに左余白を使いやがって……この前まで触ったこと無いとか言ってたくせに……理不尽なのは承知だが、なんか腹たつなこいつ……。
「選択したよー」
「そしたらな、『表ツール』の『レイアウト』タブに『高さを揃える』ってボタンがあるから、それ押してみ。……えぐしっ!?」
「大丈夫ー?」
「余裕」
「えーと……レイアウトタブの……これ?」
「おーいえー」
川内が『高さを揃える』ボタンを押した。途端に、表の選択されている部分の、行の高さがピシッと一律にそろった。
「ぉおッ!?」
「あとは横幅だな。境界線ってドラッグできるんだよ。試しにやってみ」
「ういっ」
その後は横幅を整え、紙の中央に配置して……無事に表が完成した。川内もずいぶんと理解が早くなったもんだ。ここんとこずっと集中的に授業を受けてるからかなぁ?
「できたー!!」
「ほい。おつかれさーん」
今俺の隣で、印刷が終わったプリント『秋の鎮守府夜戦トーナメント大会 ルール変更に関するお知らせ』を満足気に眺める川内。今回も割と理解が早かったし、今後は授業を進めるスピードを上げてもいいかも知れない。出来る生徒なら、さくさく進めてあげたほうが、本人もきっと楽しいはずだし。
「んじゃ一端休憩するか」
「了解! 後半は何するの?」
「後半は、今のことのおさらいで、課題プリントをいくつか作ってもらう」
「はーい。バシバシ作ってさっさと次の夜戦にすすもーう」
「夜戦ではないけれど、その意気だっ。んじゃ休憩だー」
『了解っ』と敬礼している川内を教室に残し、俺は事務所に戻った。自分の席に座ってAccessの業務基幹ソフトを開いて、今日の川内の進捗状況を記入する。
「本人の習熟も早く、進行スピードを上げることも……」
授業自体は多少ふざけても大丈夫だが……進捗報告は真面目に書かねばならん。こうして川内の授業の進捗を記入していたら……
「考え……ひゃあんっ!!?」
突然、俺の首筋に冷たい感触が走った。不意打ちの氷点下の衝撃は、俺の喉から変な叫び声を絞り出させるには充分だったようで、俺は変な声を上げ、反射的に首を押さえてガタッと勢い良く立ち上がり、憤怒の形相で振り返った。
「ぶひゃひゃひゃ!! なにムツさんみたいな変な声出してるの!?」
俺の背後で、今の事件の容疑者の川内が、腹を抱えて笑ってやがった。ちくしょう。俺の喉からセクシーボイスを絞り出させやがって。
「お前なぁ……人が真面目に仕事してる時に……!」
「いやぁーせんせーの無防備な首筋みたら、ちょんって突っつきたくなっちゃって。せんせー、首筋弱いの?」
「ここが強いやつなんていないだろう……」
「私、別になんとも無いよ?」
「うそつけー」
「ホントホント。触ってみなよ」
そう言いながら川内は、俺の左隣にやってくると、少しだけ頭を下げ、首筋を無防備に俺に向けてきやがった。……むかついたのは、こいつの首筋がすんごい綺麗なことだ。夜戦バカで賑やかなアホのくせに、色白でめちゃくちゃ綺麗な肌してやがるなこいつ。この綺麗な首筋の反対側で、このアホがニッタニタに笑ってる事を考えると、ドキドキはまったくしないが……むしろ腹立たしいだけだが……
この、無防備でムカつくほど綺麗な首筋を、俺は左手でガッシと掴んでみた。
「……」
「……」
「……ニヒっ」
どうやら、なんとも無いというのはウソではないらしい。川内は俯いていた顔を上げて俺の方を振り返る。おかげで川内の首を掴んでいた手が川内の頭と肩に挟まれて、俺は手を放して引っ込めることが出来なくなった。
「ほらせんせー! 私、平気でしょ?」
「まぁいいから手を離せよ。これじゃ仕事が出来ん」
お前の首筋、あったかいんだよ……平気だと思って触ってみたけど、想像以上にダメなんだよ色々と……。
「私の勝ちだね、せんせー」
「分かったよ。お前の勝ちでいいから」
「やったぁぁああああ!! んじゃ早速夜戦を……!!」
「なんでそうなるんだよ……」
「ハーッハッハッハッ!!!」
適当なところで寸劇を終わらせ、俺はこの夜戦バカの高笑いをBGMに、川内の授業の進捗を記録する仕事に戻る。
……そういえば。今日の授業は、あとはプリント作成だ。……ならば、俺もAccessでの開発を少しだけでも進めたほうがいいかもしれん。
「川内」
「おっ! ついに夜戦かなっ?」
俺の呼びかけに対し、川内はニッコニコの満面の笑みで振り返り、右手人差し指と中指をピンとたて、それを顔の前に持ってきていた。そのさまは、アメリカ映画でよく見るジャパニーズ・ニンジャ・ファイティング・ポーズを連想させた。なんでニンジャ? 夜戦だからか?
「違う。これからお前はプリント作成に入るんだけど」
「そうだね! 今日は何枚をカットインで撃沈できるかチャレンジだっ!」
「意味が分からん……俺もちょっとやりたいことがあるから、それを進めてもいいか?」
「それはいいけど、何するの?」
「うーん……元々の本職に近い仕事……てやつかなぁ?」
「? ……ハッ!?」
「?」
「ひょっとして……やせ」
「それはない。それだけはない」
川内の許可ももらったし、開発をちょいと進めてみようか。俺は川内にやらせるプリント数枚とAccessの参考書、そして自分の家で作ってきた仕様書(手書きでなぐり書き)を手に、川内と共に教室に戻り、席に着く。川内に持ってきたプリントを渡し、俺は自分の目の前のパソコンの電源を入れ、8.1を立ち上げた。
「んじゃ俺も作業に入るけど、分からないことがあったら、遠慮無く聞いてくれていいからなー」
「はーい」
Accessが立ち上がった事を確認し、俺は自分の作業に入った。川内も川内で、俺とほぼ同じタイミングでプリント作成に入る。
「んじゃとりあえずテーブルでも……」
自分作のなぐり書き仕様書を見ながら、テーブルを作成していった。ザッと見積もるだけでも20個ぐらいのテーブルがいるなこりゃ……足りないものも絶対出てくるだろうし……
「んー?」
俺の作業を川内が覗き込んできた。別にわからないことの質問というわけではなさそうだから、気にせず自分の仕事をすすめる。ほー……idのカラムを作る時、いちいちオートインクリメントでどうちゃらって指示をしなくても、オートナンバーって型があるのは便利だ……。やっぱAccessは今まで扱ってきたデータベースとはちょっと違うんだなぁ……インターフェース作れるんだから当たり前っちゃー当たり前だけど。
「せんせー?」
「んー?」
「難しそうだね」
「んー」
つい生返事してしまったが、特に問題はなかったようだ。しばらく俺のテーブル作成を眺めていた川内は、『うっし』と一言言った後、自分のほっぺたをパシンと叩いて、プリント作成に入っていった。
「……」
「……」
無言の時間が続く。川内の授業で、こんな静かな時間なんて、初めてのことじゃないだろうか。二人して自分の作業に集中する。
「顧客テーブル……うっし……次は講座内容テーブル……」
「表の挿入……うっし……中央揃えで……」
「えぐしっ!?」
「……ホントに大丈夫?」
「誰かが噂してるんだろ? 大丈夫っ」
「ふーん……」