Sword Art Rider-Awakening Clock Up
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フェアリィ・ダンス
再会
鳥の囀り、暑いくらいの眩しい太陽、青い空に白い雲。一瞬ここをアインクラッドだと思った。
__だが違う。
ベットの上に腰掛け瞼を閉じていたが、何かに呼ばれるように眼を見開いた。
《オーシャン・タートル》の病室ではなく、細かい板材を張り合わせた壁が視界に映る。ベッドもジェル素材ではなく錦シーツを被せたマットレス。
ここは俺の__《スレイド・ハント》の、中央区隅田川付近に於ける邸宅の自室。
ベッドから腰を上げ、くるりと周囲を見回す。八畳の部屋には、天然木のフローリング。あらゆる本が並べられたウォールラック。南側の窓付近に置かれたローズマリーの咲く植木鉢。パソコンデスクの上に配置された最新、そして一般人が持てないような高性能デスクトップコンピューターが3台と、それらに繋がったモニターが5台壁に掛けられていた。
ウォールラック中段には、古ぼけた濃紺のマシンが置かれている。《ナーブギア》という、俺を2年もの間仮想世界へと縛り付けたフルダイブ型VRインターフェース。長く苦しい戦いの末、俺はあのマシンから解放され、今はこうして現実世界を見、触り、感じている。
そして__デスクの上に飾られた2枚の写真。
そう、俺は還ってきた。
しかし__俺は満足感に浸れなかった。仮想でも現実でも影の敵と戦い、両親を殺した《黒いスピードスター》を追い続け、気づけば10年も経過している。
2025年1月19日、日曜日。午前7時15分。
現実世界に戻ってすでに2ヶ月が経ったが、未だに親の仇を見つけられないまま。そして充分なほど世界に馴染めていないことに困惑していた。SAOにかつて存在した剣士ネザーと現実のスレイドは、同じ容姿でも、まったくの別人なのかもしれない。
「……どこにいるんだ?」
SAOにいる間はあまり考えないようにしていたが、俺は今も黒いスピードスターを探し続けている。
「一体……どこに……?」
呟いて、部屋の南側にある大きな窓に歩み寄り、両手でカーテンを開け放つと、冬の朝の控え目な陽光が部屋中を薄い黄色に染め上げた。
2年ぶりの現実世界。
あの血塗られたバトルディザイアーに、自分と晶彦が携わったSAO世界を通じた経験は未だ頭から離れない。日常からあまりに掛け離れた生活に何年も浸っていれば、懐かしくも思える。そんな気を紛らわそうと俺はランニングシャツに着替え、家のガレージに向かう。
金属製のドアを開け、10台の車を格納できるほど広いガレージに足を踏み入れた。
普段からよく使用していた馴染みのバイク《BMW・R1200GS》と、ドリームカー《BMW・i8》。両方とも俺の故郷であるドイツ製。
黒色系統のスモークガラスで車内を目視できないように施された車。バイクを含めた2台のビークルはナノマシン技術で開発されており、俺の体内のナノマシンとの同調が起動の鍵となっている。ナノマシンを介して意識を同調させ、無人走行や自動操縦を行える上、ガソリン補給や充電が必要なく稼働し続けることができる。ガソリンを使わないという点に於いてはFCV車やEV車などのエコカーに分類されるだろう。
市場に出回っていない次世代技術で作られた2つのビークル。開発者である俺はこの未知の次世代ビークルに、
BMW・R1200GS__《カブトバスター》
BMW・i8__《アルファドリーム》
といった具合に、それぞれコードネームを与えた。
高度な技術で生み出された乗り物を1人の人間が所持するのも欲張りな気がするが、危険と隣り合わせに生きている俺には特に必需品だ。
その他に、ガレージの空きスペースにはランニングマシン、クロストレーナー、ストレッチマシン、ダンベルスクワット、腹筋台、サンドバックなどのトレーニング器具がいくつも置かれていた。
俺はまず腕立て伏せを始め、続いて腹筋、背筋、スクワット、さらに天井のパイプ梁に捕まって懸垂、そして最後にサンドバッグを相手に手と足を駆使して格闘訓練を行う。両親が死んで日本に移り住んだ時から今日まで続けてきた俺の毎日の日課だ。
数時間も続いたトレーニングを終え、汗だくの体を拭うためにガレージ内のロッカーを開ける。ロッカーからタオルを取り出し、その下に隠したように置いてあるシルクの包みが眼に入った。
俺は久々に、長い間ずっと封印してきたその包みを取り出し、シルクの布を解いた。
布を解くと、中からハイテク機械のような金属ベルトが現れた。俺のゼクターバックルと同じ外見。俺の大事な親友が残した形見。そして親友との約束を果たすための品でもある。
「……真司……お前との《約束》は……必ず守る」
俺は自嘲気味に呟くが、当然のことながら答えは帰ってこない。
俺は家の中へと戻り、シャワーを浴び、身だしなみを整え、長ズボンを履き、紺色のミリタリージャケットに着替え、ブーツを履き、再びガレージに向かう。そこに停めてあった赤と銀のダブルカラーの《カブトバスター》に跨り、バイクグローブを付けた両手で黒いシステムヘルメットを頭に被せる。
形はフルフェイスヘルメットと変わらない、違いは、顎とシールド部分が上に開閉することができる点だ。そのため、ヘルメットを脱がなくても水分補給を行なうことができるのが最大の魅力。ヘルメットのシールドは外側が反射するミラータイプのため、内側の顔は見て取れない。
更に、ヘルメット内部には通信装置、サイバネティックインタフェース機能が搭載されており、携帯やインターネットの代わりとして使うこともできる。
ヘルメットのバイザーを閉じた瞬間にガレージの扉を開け、バイクを走らせた。低いエンジン音を鳴らしながら南に向かって走り出す。これから向かうのは、最新鋭の総合病院。最上階の病室に、《彼女》が静かに眠っている。
2ヶ月前、俺はSAOの舞台である《浮遊城アインクラッド》の第75層に於いて最終決戦に挑んだ。最終ボスたるヒースクリフこと茅場晶彦を倒し、あのデスゲームをクリアした。その後、オーシャン・タートルの病室で覚醒し、俺は自分が現実世界に帰還したと理解した。
他の帰還者の消息を調べること自体はそれほど苦労しなかった。病室で覚醒した直後、看護師が病室内に入ってきた。その看護師が連絡を取った数十分後、眼鏡を掛けたスーツ姿の男が1人俺を訪ねてきた。彼は《ZECT》内に結成された《SAO事件対策チーム》の人間だと名乗った。
当時、あらゆるエキスパート達が集められ、《SAO事件対策チーム》を結成した。彼らは主にプレイヤーの救出方法の模索、そしてSAO内に出現した《オートマトン》の調査を行っていた。その対策チームはSAO事件が勃発後すぐに結成されたらしいが、結局2年間プレイヤーを救えずにいた。下手にサーバーに手を出して、事件の首謀者であるプログラマー、茅場晶彦のプロテクトを解除し損ねれば、1万人の脳が一斉に焼き切れる恐れがあった。そんな責任は誰にも取れない。だが、オートマトンの仮想世界出没については収穫を得られたとのことだった。それを除けばZECTにできたのは、SAO虜囚者の病院受け入れ態勢を整えたことと、プレイヤーデータをモニターすること。それだけでも最善だっただろう。
しかし、俺だけは一般の病院ではなく、ZECT本部であるオーシャン・タートルの病室に移送された。SAOから覚醒した時、黒縁眼鏡のZECT長官補佐官《菊岡誠二郎》と、後に顔を見せたZECT長官《ネイサン・ブライス》の2人が俺に頼んだ。__いや、命令したと言うべきだろう。
俺は能力の更なる向上を目指してアメリカへ留学し、飛び級で《マサチューセッツ工科大学》__通称《MIT》に10歳で入学。その4年後__14歳で首席卒業。それ以来、学界の仲間入り。しかし、俺も晶彦と同様にマスコミやメディアを嫌っていた故、ニュースやネットで詳細な情報が流れ出ることはなかった。
育ちの国である《日本》に帰国したのは、それから間もなくだった。そして、俺の能力に関心を抱いたブライス長官の勧誘を受けた。
2017年に起きた《エレメンタルマター現象》以来、オートマトンとメタヴァーミンが出没し、各国の政府はこの未曾有の危機に対して1つの組織を設立した。
__それがZECT。
組織の名称は《Zap(攻撃)》《Eyes(視線)》《Central(中央)》《Tactics(戦術)》のアルファベットの頭文字から取られており、この4つの言葉は組織の理念・心得を表現している。
超常的な災害や事件を解決するために設立された《国際機関》は、平和維持組織として社会にも法的にも認識され、地球上のあらゆる国、土地での活動が容認されている。諜報や非合法的な活動をこなすこともあるが、人類を救うという名目を盾に許されている。
設立されて間もない頃には、SAOを開発する前の茅場晶彦も関わっていた。
自分の師匠であり、育ての親として共に暮らしてきた人物が政府の秘密機関に関わっていても、俺はそれほど驚かなかった。晶彦ほどの才能を持つ男なら、どこかの組織に眼をつけられてもおかしくはない。そういう意味では俺も同じだった。
14歳で大学卒業資格を得て以来、晶彦との合同研究、ナーブギア及びSAOの開発に着手した。晶彦に並ぶ若き天才科学者として知られた俺にも、晶彦のような裏の顔があった。
それが__カブト。
第二次世界大戦末から終戦直後にかけてアメリカ軍が、ドイツ人の優秀な科学者をドイツからアメリカに連行した《ペーパークリップ作戦》の如くZECTに勧誘された俺は、《黒いスピードスター》のことで頭が一杯だったため、勧誘を断るつもりだった。しかしブライスは絶対に諦めないという態度で、しつこく何度も俺に迫ってきた。
そんなブライスの破天荒な行動に絆された俺は、組織の理念を見極めるためにZECTが担当する《ある事件》の解決に協力することになった。事件解決を通して共に行動する内にZECTに対する俺の批評・印象を変え、ブライスと俺の間にある種の絆が築き上げられた。
時間をかけてようやくZECTに入ることを決意した俺は、《エージェント》として活動を開始する。危険な任務をこなす日々の繰り返しだが、危険と隣り合わせに生きてきた俺にはピッタリの人生だった。ZECTの権限は強く、一般には知り得ない情報を入手することも、危険区域への進入も容易い。ZECTでも入手できないような情報があった場合は、俺が得意のハッキングスキルで手入する始末。
しかし、今回の3つの情報はそれほどガードの硬いものでもなく、ハッキングや権限などといった大げさなものを使わなくても簡単に入手できた。1つは茅場晶彦の消息、もう1つはプレイヤー達の帰還状況、そして最後の1つは__《キリト》だった。
そして俺は知った。SAOプレイヤーの中には、まだ約300人ほど現実に帰還できていない者が病院のベッドに横たわったままだということを。その中に、あの細剣使い《アスナ》もいた。
最初はサーバーの処理に伴うタイムラグかと思われていたが、何時間、何日待とうと、アスナを含む300人が目覚めることはなかった。
未だ行方不明の茅場晶彦の陰謀が継続しているのだと、世間では騒がれていたが、俺は違うと踏んでいた。
崩壊する浮遊城アインクラッドを背景に、夕焼け色の世界でわずかな時間の中で語り合った彼のあの言葉に、嘘はなかった。彼の弟子だったからこそ、俺にはわかる。彼は間違いなく、自らあの世界に幕を引き、全てを消し去ったのだ。
しかし、不慮の事故か、あるいは何者かの意思か、完全に初期化されるはずだったSAOメインサーバーは、今も不可侵のブラックボックスとして稼働し続けている。未帰還者達のナーブギアも同じように彼女の魂をサーバーに縛り付けたままだ。内部で今何が起きているのか。今の俺にもZECTにも、それを知る術はなかった。晶彦が今もどこかで生存しているのかどうかもわからない。まさに生死不明だった。
速いペースでアクセルグリップを回し、やがて前方に巨大な建造物が姿を現した。民間企業によって運営されている医療機関だ。
一般的によく言われる__病院。
広大な駐車場の片隅にアルファバスターを停め、ヘルメットを外してハンドルの右グリップに掛けた。病院の正門を通過し、高級ホテルのロビーめいた1階の受け付けで通行パスを発行してもらい、それを胸ポケットにクリップで留めた。
以前も、この病院に一度だけ訪れたことはある。その時はロビーに足を踏み入れただけで、アスナの病室にまで足を運ばなかった。ロビーを見ただけでも病院の現状はわかりやすかった。
痩せ細った体でリハビリを続けるSAO帰還者達に病院は埋め尽くされていた。オーシャン・タートルでは市場に出回ってない次世代の医療技術が駆使されているが、《ゼクターバックル》から全身にインプラントされていたナノマシンが俺の身体と生命活動を補助していたため、リハビリらしいリハビリを受ける必要もなかった。時間をかけることもなく俺はすぐに現実世界に順応し、復活した。
今自分が再びこの病院を訪れ、別に友達という訳ではないアスナの病室に足を踏み入れるため、エレベーターに乗り込み最上階へと上がっている。
数分で最上階である18階に到着し、滑らかに扉が開く。無人の廊下を南に歩く。このフロアは長期入院患者が多く、人影を見ることはごく少ない。やがて、突き当たりに薄いグリーンに塗装された扉が見えてくる。すぐ横の壁面には鈍く輝くネームプレート。
《結城明日奈》というその表示の下に、1本の細いスリットが走っている。俺は胸から通行パスを外し、その下端をスリットに滑らせる。かすかな電子音と共にドアが開いた。
部屋の中へと一歩踏み込むと、真冬にも関わらず、色とりどりの生花が飾られ、カーテンで仕切られたその病室に、先客がいた。
「……え?」
病室に入ってきた俺に気づいた先客は、ゆっくりと顔を後ろへ振り向けた。
大人しいスタイルの黒髪。長めの前髪の下に、柔弱そうな黒い瞳。一目見ただけでもすぐにわかった。間違いなく、キリト__《桐ヶ谷和人》だ。
俺の顔を見た途端に眼を見開いた和人は、数秒間も顔を凝視してようやく口を動かした。
「……ネザー……なのか?」
顔を見れば一目瞭然。あちらも俺が《ネザー》だと気づいた。
「……久しぶり……いや、こっちでは初対面だな、キリト」
突然の再会に少々戸惑う2人。SAOでは何度も顔を合わせたというのに、現実で顔を合わせた途端、なぜか困惑な気分になった。
「キリト……いや、《桐ヶ谷和人》」
「ああ。……て、なんで俺の本名を知ってるんだよ!?」
いきなり自分の本名を呼ばれ、再び眼を見開いた。
そして俺は和人に「ZECTから事情聴取を受けた」「引き換えに情報を提供してもらった」などと言い訳染みた話をする羽目になり、それ以上は何も話さなかった。
単純な説明が終了し、2人はベッドに横たわる可憐な少女に意識を集中した。
最先端のフル介護型ベッド。白い、清潔な上掛けが低い陽光を反射して淡く輝いている。その中央に眠る__栗色のロングヘアーの少女。
「……SAOから帰還して……もう2ヶ月も経つんだな」
「決して忘れられない記憶になるだろうな」
久々の会話がどうも成り立たなかった。しかし、和人は俺にもっともな疑問を顔と共に向けた。
「ネザー。あ、いや……こっちでは何て呼べばいいんだ?」
「………」
和人に問われた途端、俺はしばらく沈黙した。しかし、自分の本名を教えるべきかどうかに迷う必要はなかった。
「ネザーのままでいい」
「キャラネームのままでいいのか?」
ネザーという名は元々、ZECTのエージェントになった時に付けられた俺のコードネーム。つまり本名を伏せる隠れ蓑の役割を担ってくれている訳だ。
そんな事情も知らない和人の関心は徐々に薄れていく。
「まぁ、いいけどよ。お前が外国人だってことは見た目でわかるけど……何人?」
「……ドイツ人だ」
これは別に隠すほどのことでもなかった。
実に落ち着いた小声で返事をする俺に対し、現実でもクールなんだと和人は少なからず感心した。
だが本名や出身国以上に気になる疑問があった。和人は一瞬、お前が《赤い閃光》なのか、と質問しようとしたが、その質問をすべきなのかどうかに恐れを感じた和人は、答えを追い求めるように再びベッドで横になる明日奈に眼を向けた。
艶やかな深い栗色の髪が、クッションの四方に豊かに流れている。肌の色は透き通るように白いが、丁寧なケアのせいか病的な色合いはまったくない。頬にはわずかなバラ色すら差している。
体重も、和人ほど落ちてはいないようだ。滑らかな首から鎖骨へのラインはあの世界での彼女のものとほとんど同一だ。薄い桜色の唇。長い睫毛。今にもそれが震え、パチリと開きそうな気さえする。彼女の頭を包む、濃紺のヘッドギアさえなければ。
ナーブギアのインジケータLEDが3つ、青く輝いている。時折星のように 瞬またたくのは、正常な通信が行われている証だ。今この瞬間にも、彼女の魂はどこかの世界に囚われている。
和人は、両手でそっと明日奈の小さな右手を包み込む。かすかな温もりを感じていた。溢れそうになる涙を必死に堪え、呼びかける。
「アスナ……」
この切ない光景は、俺には謎としか言いようがなかった。
ベッドサイドに置かれた時計が、控えめなアラーム音で2人の意識を呼び起こした。時計に視線を向けると、いつの間にか正午になっている。
「俺はそろそろ行く」
「俺もそろそろ帰らないとな」
和人はどうにか笑顔を作って明日奈の顔を見た。
「アスナ。またすぐ来るから……」
小さく話しかけ、立ち上がろうとした時、背後でドアが開く音がした。振り返ると、2人の男性が病室に入ってきたところだった。
「おお、来ていたのか桐ヶ谷君。たびたび済まんね」
前に立つ恰幅のいい初老の男性が、顔を綻ばせて言った。仕立てのいいブラウンのスリーピースを着込み、体格の割に引き締まった顔はいかにもやり手といった精力に満ちている。
「誰だ?」
俺は目の前の男が誰なのか和人に訪ねた。
「《結城章三》さん。アスナの父親だよ」
「アスナの……」
アスナの身元を調べた時、彼女の父親が総合電子メーカー《レクト》のCEOであることは知ったが、顔の確認まではしていなかった。
和人はひょいと頭を上げ、口を開いた。
「こんにちは、お邪魔します、結城さん」
「いやいや、いつでも来てもらって構わんよ。……ところで、お隣の彼は、君の友人かね?」
結城に眼を向けられた途端、俺はキリトの耳元に顔を近づけ、小声で本名は言うなと伝えた。
「あ、えっと、彼はネザー。SAOで一緒だった仲間で、明日奈さんとも知り合いです」
「おお、そうか。よろしく」
俺に向かって軽く頭を下げた後、結城章三は明日奈の枕元に近寄り、そっと髪を撫でた。しばし沈思する様子だったが、やがて顔を上げ、背後に立つもう1人の男を和人に示す。
「彼とは初めてだな。うちの研究所で主任をしている須郷君だ」
第一印象は人が良さそうな男だ。長身をダークグレーのスーツに包み、やや面長の顔にフレームレスの眼鏡が乗っている。薄いレンズの奥の両眼は糸のように細く、まるで常に笑っているかのようだ。かなり若く、歳は30には行ってないと思われる。
俺と和人に軽く頭を下げ、須郷という男は言った。
「よろしく、須郷伸之です。……そうか、キミがあの英雄ネザー君か」
俺に顔を向け、やや苦しくなる言葉を吐かれた。
こいつが__須郷__。
俺は目の前の男から感じる半信半疑な印象を受け止めた。
《須郷伸之》__以前、晶彦から聞いたことがある。
大学で晶彦の後輩だった男で、晶彦と同じ重村研究室に所属していた。ところが、自身よりも優秀な晶彦と競わされたこと、そして自身が想いを寄せていた《神代凛子》が晶彦の恋人であったことから、嫉妬と憎悪を募らせていた__と、ほとんど良好な話を聞いたことのない男だ。
直接な面識は今までなかったが、須郷自身の接し方から見ても、俺が晶彦の弟子だったという事実は知らないようだ。
2ヶ月経った今も、噂が完全に途絶える兆しは、しばらくないと思われる。
俺は晶彦を倒すため、大勢のプレイヤーが注目を集める中でやむなくカブトに変身した。結果、キリトやアスナを含めた数十人のSAOプレイヤーが俺の正体を知ってしまった。プレイヤーとしての噂もすでに広がっていたこともあり、他の帰還者にも噂が伝染し、俺を結果的に英雄呼ばわりされた。
しかし、聞いた話によるとZECTが第75層のボスに挑んだ元攻略組の帰還者達に接触し、取引で口を噤んでもらうように処理したそうだ。どんな取引をしたのかは俺も知らないが、ブライス長官は俺の正体について当面の安全を保障すると約束した。個人的には信じ難いことだったが、2ヶ月が過ぎてようやく熱りが冷めた。
気がつけば、須郷は和人との挨拶をすでにしている最中だった。
須郷と握手をしながら、和人は結城章三をちらりと見ると、彼は顎を撫でながら軽く首を縮めた。
「いや、すまん。SAOサーバー内部でのことは口外禁止だったな。あまりにもドラマチックな話なのでつい喋ってしまった。彼は、私の腹心の息子でね。昔から家族同然の付き合いなんだ」
「ああ、社長、そのことなんですが……」
手を離した須郷は、結城章三に向き直った。
「来月にでも、正式なお話を決めさせて頂きたい思います」
「……そうか。しかし、キミはいいのかね?まだ若いんだ、新しい人生だって……」
「僕の心は昔から決まっています。明日奈さんが、今の美しい姿でいるあいだに、ドレスを着せてあげたいのです」
「……そうだな。そろそろ覚悟を決める時期かもしれないな……」
話の流れが見えず2人が沈黙していると、結城章三がこちらを見た。
「では、私は失礼させてもらうよ。桐ヶ谷君、また会おう」
頷いてから、結城章三は大柄な体を翻して病室のドアへと向かった。開閉音の後には、俺、和人、そして須郷の3人だけが残された。
須郷はゆっくりとベッドの下端を回り込むと、向こう側に立った。左手でア明日奈の髪をひと房つまみ上げ、音を立てて擦り合せるその仕草に、2人は言い難い嫌悪を覚える。
「……キリト君、だったね。キミはあのゲームの中で、明日奈と一緒に暮らしてたんだって?」
「……ええ」
「それなら、僕とキミはやや複雑な関係ということになるかな」
顔を上げた須郷と和人の眼が合う。その瞬間、和人はこの男の第一印象が大きく間違っていたことを悟った。
俺も傍らで見ていた。須郷の細い眼から、やや小さい瞳孔が三白眼気味に覗き、口の両端をキュッと吊り上げて笑うその表情は、酷薄という以外に表現する言葉を持たない。背筋にヒヤリと戦慄が走る。
「さっきの話しはねぇ……」
須郷は愉快でたまらないという感じにニヤニヤと笑いながら言った。
「僕と明日奈が結婚するという話だよ」
和人はもちろん、俺も絶句した。須郷の台詞には、何か凍るような冷気と途方もない野望を感じた。数秒間黙り込んだ和人は、どうにか言葉を絞り出した。
「そんなこと……できるわけ……」
「確かに、この状態では意思確認が取れないゆえに法的な入籍はできないがね。種類上は僕が結城家の養子に入ることになる。……実のところ、この娘は、昔から僕のことを嫌っていてね」
須郷は左手の人差し指を明日奈の頬に這わせた。
「親達はそれを知らないが、いざ結婚となれば拒絶される可能性が高いと思っていた。だからね、この状況は僕にとって非常に都合がいい。当分眠っていてほしいね」
須郷の指が明日奈の唇に近づいていく。
「やめろ!」
和人は無意識の内にその手を掴み、明日奈の顔から引き離していた。ここで、今まで沈黙していた俺が強張った声で問い質す。
「貴様……アスナの昏睡状態を利用する気か……」
須郷は再びニイッと笑うと和人の手を振り払い、言った。
「利用?いいや、正当な権利だよ」
須郷は俺に視線を向けると、問題を出すように質問をした。
「ねえネザー君。SAO開発した《アーガス》がその後どうなったか知っているかい?」
俺はまるで計算力の高いロボットのようにすらすらと説明をした。
「……開発費に加え、事件の補償で莫大な負債を抱え、アーガスは消滅。その後、SAOサーバーの維持は《レクト》のフルダイブ技術研究部門に委託された」
「その通り。ちなみに、レクトのフルダイブ技術研究部門は僕の部署だよ」
須郷は、ベッドの上側を回ると和人の正面に立った。デモニッシュな微笑を貼り付けたままの顔をグイッと突き出してくる。
「つまり、明日奈の命は今やこの僕が維持していると言っていい。なら、わずかばかりの対価を要求したっていいじゃないか?」
囁き声で発せられたその台詞を聞き、2人は確信した。
この男は、アスナの現状どころか生命そのものを、己の目的のために利用する気なのだ。
立ち尽くす和人の眼を覗き込み、それまで常に浮かべていた薄笑いを収めて、須郷は冷ややかな声で命じた。
「キミとネザー君がゲームの中でこの娘と何をしてきたのかは知らないけどね。今後ここには一切こないでほしいな。結城家との接触も遠慮してもらおう」
和人は強く拳を握り締めた。だが無論、今の自分には何もすることもできなかった。凍結した数秒間が経過した。
やがて須郷は体を離すと、哄笑を堪えるように片頬を震わせながら言った。
「式は来月この病院で行う。キミら2人も呼んでやるよ。それじゃあな、せいぜい最後の別れを惜しんでくれ」
殺してやりたい、と俺はなぜか自分でもわからず痛切に思った。
和人も、心臓を貫き、首を蹴り飛ばしてやりたい、と思っていた。2人の衝動を知ってか知らずか、須郷は身を翻し、そのまま病室を出て行った。
その後、病院の正門から外へ出た俺と和人は互いの連絡先を教え、別れた。
正直、和人に「連絡先を教えてくれ」と言われた際、俺は断ろうとした。
SAOから生還して以来、キリトやアスナを含む生還者との関係を完全に断ち切りたいと考えていた俺には、アスナや300人の未帰還者達が昏睡状態だったことを、心のどこかで《幸い》だと思ったかもしれない。そのはずが、キリトと互いに連絡が取れるようにしてしまった。
普通に連絡は取り合えるが、俺は自分のアドレスに特殊なプロテクトとセキュリティーを組み込み、俺の居所や名前を調べ上げられないようにガードしていた。保険があったということで俺は連絡先を教えた。
俺はいつでも__俺のことだけを考えている。
気づけば誰1人見当たらない寂しい駐車場に止めたバイクに行き着いていた。
「……考えるだけ無駄か」
呟いた途端、シュッ!という音が一瞬後ろから聞こえ、即座に振り向いた。
すると、そこに__。
「……時間は貴重に使わないとな」
冷やかなエフェクトがかかった低い声__ボイスチェンジャーによる音声変化__スピーカー越しのような声__を放つ者の姿が眼に入った瞬間、俺は思わず叫んだ。
「……お前はっ!?」
目の前に立つ男が何者か__俺には一目見ただけでわかってしまった。
なぜなら__俺が10年間も追い続けてきた最大の宿敵なのだから。
俺は即座に「来い!」と念じ、《カブトゼクター》を呼び寄せた。わずか数秒でやってきたカブトゼクター自身がゼクターバックルに自ら装着されたと同時に、ゼクターホーンが勝手に右に展開された。
あっという間にクイックフォームに変身した途端、相手の男の姿は__一瞬で掻き消えた。
「逃がすか!!」
【Clock Up】
クロックアップを発動させ、相手を追跡した。
最高速を出そうと俺は必死に走った。怒り、憎しみ、アドレナリンがスピードを高めたことはあるが、今回は俺にとって《生涯の敵》とも言える男が相手だ。奴に対する憎悪が、俺を今まで以上に速くした。
今俺の頭にあるのは__奴を殺すことだけだった。
俺達2人は町中を駆け巡り、俺は男を追い、男は俺から逃げる。その繰り返しだった。追い付こうとしても、なぜか追い付けない。スピードが互角なのか、それとも奴のほうが速いのか。
アインクラッドの虜囚となる以前に、一度だけクロックアップで奴を追跡したことがある。その時は追いつけずに見失い、止むを得ず追跡を断念した。あの時は自分のスピードが足りないと思い、もっと強く、速くなる訓練を積むためのきっかけとなった。そのおかげで以前にも増して力を付けたが、俺はまだ奴に追いつけない。
現実の時間流では数分しか経過してないが、俺と奴は少なくとも高速の時間流で数時間も走り続けてる。
__その矢先。
【Clock Over】
街からかなり離れた、人っ子一人もいない広い空き地で相手が動きを止め、現実の時間流に降り立った。釣られるように俺も立ち止まり、眼前の敵に向かって問い詰めた。
「お前だな。10年前、俺の家に現れた……!」
眼前の敵の姿形は、クイックフォーム時のカブトと同型。しかし、複眼は黄色く、全身が黒い。ゼクターバックルに装着されたカブトゼクターまでもが黒く、胸板部分の装甲には血管が描写されたかのような赤い配線状のラインが描かれている。
「なぜ……なぜ父さんと母さんを殺した!?」
そこまで言うと、黒いカブトは落ち着いた声で答えた。
「どうしても知りたいなら、私を捕まえてみろ」
そう言って再びクロックアップを発動させようとする黒いスピードスター。カウントダウンが始まり、両者一斉に最大限のスピードを発揮する。
人、音、風。全てが静止した世界で互いに孤立無援となり、大砲から撃ち出された弾の如く飛び出し、ぶつかった。鼻と鼻が擦り合うくらいの距離まで近づいた途端、俺は弾き飛ばされた。
「うわぁ!!」
地面に倒れ込んだ俺に向かって、黒いカブト__《ビートライダー・ダークカブト》が陰口のように言った。
「まだまだ遅いな、カブト」
宿敵に自分の悪口を言われ、俺はさらに怒りを募らせた。
「うああぁぁぁ!!」
瞬時に地面から立ち上がり、相手に向かって無謀に突っ込みながら拳を突き出した。
__だが。
奴は一瞬だけ俺の2倍の速さで動き、拳をかわした。
「何!?」
途端、ダークカブトは俺の腹を思いっきり蹴り飛ばした。
「ぐはっ!!」
2倍のスピードによってキックの推進力が高められ、またもや俺は地面に投げ飛ばされる形で倒れ込んだ。倒れたと同時にクロックアップが解除され、現実の時間流に戻った。
__だが、これで終わりではなかった。
ダークカブトは高速移動を維持し、パンチ並びにキックによる打撲攻撃、背中を掴んで投げ飛ばすなど、スピードを駆使して攻撃を繰り返す。
「ぐぅ!ぐはっ!うう!」
未だ腹に受けた痛みが消えず、その上攻撃をまともに喰らい続けた俺は、正直限界だった。俯せに倒れ込み、起き上がることもままならなかった。顔を懸命に動かして視線に映ったのは、俺の側に立ち尽くすダークカブトの地面に付着した足。そこから痛みに苦しみながらも視線を足から上になぞってどうにか顔を直視し、問いただした。
「お前は……誰なんだ?」
相手はすぐに答えた。
「知っているはずだ、スレイド」
「何?」
意味不明な返答にすぐさま混乱した。
「何を言ってるんだ!?」
「お前は私のことを、よく知っているはずだ。私にとっては、随分前からの因縁だ」
「随分前からの因縁?」
俺は話にまったくついていけず、余計に混乱するだけだった。
「私はいつも、お前の一歩先を行ってる。お前は永遠に私に勝てない。私に負けるのがお前の運命だ。……あの晩死ぬのがお前の両親の運命だったようにな」
不吉な言葉を言い残し、ダークカブトはクロックアップでその場から一瞬にして去った。残された俺は、全身に受けた激痛と、心に灯された憎しみの炎とともに立ち上がり、ダークカブトへの復讐を改めて誓った。
戦いの勝敗が敗北という結果に終わった俺は身体の痛みを引き摺りながらも病院に戻り、アルファバスターに跨り自宅へ帰還した。
道路を走りながら考えていた。あの須郷という胡散臭い男と対面し、その直後に病院から出た途端にダークカブトが俺の目の前に現れた。この2つの件には何か繋がりがあると睨んだ俺は、今回の300人未帰還事件にダークカブトが何らかの形で絡んでいると悟った。事件の裏は深いと見ていいだろう。
……このまま引き下がる訳には……いかなくなったな。
この事件に隠された真実を明らかにするため、そして両親の仇を見つけ出すため、俺は急いで自宅に向けてバイクのスピードを上げた。
翌日の朝。太陽が登り詰め、車の走行音と人々の足音がわずかだが聞こえる。
俺は昨日病院から自宅に帰ってきた後、ZECTのブライス長官に連絡を入れ、レクトのことを調べるよう指示を出した。しかし、ZECTだけに任せるのも不安だったので、俺も独自の手段で調査を開始した。そして俺は自室にあるデスクの椅子に腰を降ろし、3台のパソコンと壁に掛けられた5台のモニターを駆使して須郷とレクトのシステムにハッキングを掛け、情報を洗いざらいにしょうとキーボードを叩き続けた。
調べる最中、ぽーん、という電子音が耳に届いた。3台の内1つのパソコンの画面の上端に1件のメールが受信された。マウスを動かし、メール受信のアイコンをクリックした。クリックした瞬間に受信トレイが現れ、並んだ送信者リストの一番上に表示された名前は__キリトだった。
連絡先を教えたのは昨日だというのに、こんなにも速くメールが届くとは思わなかった。タイトルは【Look at this】となっている。開くと、よほど急いだのか本文は『大至急エギルの店に来い』と『台東区御徒町のダイシー・カフェ』という文字。そして写真が1枚だけ添付されていた。
首を捻りながら写真を開いた途端、俺は思わず眼を見開き、しっかりと写真を凝視する。
「これは……!?」
不思議な構図だった。特徴のある色合いやライティングは、写っているのが現実世界ではなくポリゴン製の仮想世界であることを告げている。前景には、ぼやけた金色の格子が一面に並ぶ。その向こうに、白いテーブルと白い椅子。そこに腰掛ける、同じく白いドレス姿の1人の女性。格子の奥に、わずかに覗くその横顔は__。
「アスナ……?」
これが、新たな世界の幕開けであり、新たな冒険の始まりということは__まだ俺にもわからなかった。
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