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俺達は何を求めて迷宮へ赴くのか

作者:海戦型
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54.第四地獄・奈落底界

 
 オーネストたちが黒竜討伐に乗り出す1週間ほど前――ミリオン・ビリオンは机に無数のアナログカウンターとギルドの魔石関連の資料を並べながら、白紙の紙にかりかりとインクで情報を書き込み続けていた。日常では不真面目な態度を取りがちな彼女も、仕事に集中している時だけは驚くほど丁寧な仕事をする。……集中できていない時は酷いものだが。

「やっぱり……理屈に合わねー」

 ガネーシャ・ファミリアの研究で明らかになった魔物の行動と魔石エネルギーの費用対効果に関する論文を始めとした少ない手がかりと、魔石の運用方法、魔石による強化種作成実験の極秘資料などを読み漁った結果、ミリオンが出した結論はそれだった。

 鏡の先ではミリオンの観察によって明らかになった黒竜の生態の一部、『魔物の捕食』が行われている。余りにも巨大な黒竜の捕食行動は既に狩りと呼べるものですらなく、人間が茶菓子をつまみ食いするかのように自然な動きで魔物たちは黒竜の胃袋に収まっていく。
 あえて噛まずに丸呑みを選んでいるのは周囲に血液が散って無駄な痕跡を残すのを嫌っての事だろう。こと知能の高い動物にとって、自分がそこにいた痕跡を薄めることで生存率を上げる行動は突飛な事ではない。あれの消化器官がどのような仕組みになっているのかは不明だが、少なくとも撃破推奨レベル4程度の魔物では生き残れない環境であることは想像に難くない。

 そして、どんなに大型で特殊な魔物でも食に関して共通していることがある。
 それは『食糧庫』での補給と魔石接種の違いだ。

 『食糧庫』での栄養補給とは、言うならば飲み終えた紅茶のカップにもう一度紅茶を注ぐ行為――もっと言えば人間の飲み食いと本質的に違いはないエネルギー補給行為だ。しかし魔石の接種は違う。これはエネルギーを注ぐ器――紅茶のカップそのものを拡大するような効果がある。この器の拡大は、人間でいえば成長、或いは神の恩恵を受けることに近いと言えるだろう。

 そして魔物の場合、今までの変異種報告から察するに魔石接種を行った魔物は必ず外見的な変化が発生している。一番ありふれているのが色の変化であり、これまでの報告で最も多かったのが『赤化』と『黒化』だ。『赤化』は典型的な変異種の特徴であり、『黒化』に至っては発生原理が『神威』の影響であることがほぼ確定している。

(ま、確定した段階で資料の話は終了してるのがちょーっとクサいっすけどね。普通こういうのって色々と実験や観察を繰り返して発生原理まで理論立てて説明出来る段階までやってから神のダンジョン入りを停止させるモンじゃないっすか?)

 ミリオンの個人的な印象からすると、判明から禁止までのスパンが異様なまでに性急だ。そのあたりの事情は偉大なる太鼓腹のロイマンが詳しいだろうと思ったビリオンは、一旦その思考を打ち切って黒竜の話に頭を戻した。

 ずいぶん脱線したが、つまりミリオンが疑問に思ったことは一つだ。

「あれだけバクバク魔石食ってたらもっと外見にハデな変化が出てもおかしくないと思うんっすけどね………見た感じ、古代の目撃例も現代の外見も全然変化がないのはなんでっすか?いくらダンジョンから直接的な恩恵を受けていないからって、あの量の魔石を平らげれば絶対に体の維持を引いても余剰エネルギーが体を変異させる筈っすよね?」

 余剰エネルギーは、いったいどこへ行ったのだろう。
 そして、そのエネルギーは何に使われるのだろう。
 結局その疑問は解消されることなく、彼女は小さな引っ掛かりを覚えたまま魔力回復ポーションを呷って監視を続行した。

 その後、煮詰まった彼女の疑問を聞いたロイマンが最悪の予測を弾き出すまで、数日を要した。

 そしてその予測は、奇しくも現在溶岩の蛹を破る黒い怪物を観察するオーネストと全く同じものだった。



 = =


 
 巨大な溶岩のゆりかごを破り這い出てきたのは、確かな質感を持った実体だった。腕は地面を叩き、這いずるように蠢きながら溶岩の内よりもう一方の巨腕を引きずり出す。滴る溶岩を飛び散らせながら巨大な物体が這い出てくる光景は、どうしてかグロテスクで圧倒的な光景に思えた。

 リージュがその異様さに圧倒されて唾を飲み込む。ユグーは反対に神々しく神秘的な瞬間を見つめるかのように恍惚の表情で涎を垂らす。そして俺ことアズラーイルは――押し寄せる「生命」の鼓動を浴びて、手が震えていた。武者震いか、恐怖か、歓喜か、どれとも判別のつかない曖昧で感覚的な衝動が全身を支配していた。

 生とは死と等価値だ。しかしあれは、あの塊から発せられる凶悪なまでの生命の鼓動は、死を押しのけて生を貫く生命賛美に満ち溢れている。死を迎えることでも永遠の束縛を彷徨うのでもなく、ただ前を見て力尽きるまで進み続ける愚直な意志。それは、ある意味で俺とは正反対の波動だったのかもしれない。
 と、沈黙を引き裂くようにオーネストが口を開く。

「蝶は幼虫から蛹の姿になる際、成虫になる際に再利用できない器官が液状化して肉体の大部分が命のスープになる。そして更なる時間をかけて自身の体を再構成し、成虫になる。あいつがやったのは恐らくそれと似た事だ。この周辺の階層で魔物を喰らい、貯め込んだ魔石のエネルギーを使って自分の体を再構成したんだろう」
「完全変態だっけ、確か。若かりし頃の俺は想像を絶する変質者の事だと信じて疑わなかったよ」
「それ以上おちゃらけて俺に無駄な時間を使わせるつもりならお前の顔面を完全変態させてやろう。心配するな、今よりいい顔にしてやる。脳みその方は溶けてしまうかもしれないがな」
「………すまん、静聴するから続けてくれ」

 オーネストのこちらを見る目が、絶対零度の筈のリージュの魔法より冷たく鋭く全身を突き刺す。もし視線に攻撃力があるのなら、今頃この脆い体は串刺しにされているのではなかろうか。オーネストならメンチビームで山の一つくらい吹き飛ばせそうだ……が、これ以上余計なことを考えているとリアル串刺しにされそうなので話に集中する。

「恐らく俺たちとの戦いを予測していたわけではなく、元より数千年前に設計された骨董品の体でいつまでも戦えるとは思っていなかったんだろう。だからダンジョンに潜りながらこいつは元の歪な体で騙し騙し戦いながら、自分の体を全てアストラル体に変換して自分自身を設計し直す手筈だけ整えていた」

 自身の体を設計し直す、という言葉そのものがオラリオの常識や認識から大きく外れた発想だが、オーネストは当たり前のようにそれを語り、事実それは正しいのだろう。
 何のことはない、あちら側の思想から考えればゲームや漫画のボスが第二第三形態を用意しているなど珍しくもないことだ。俺はそれを感覚で――そしてオーネストは感覚だけでなく理屈でも理解している。

 ただ、それでも人の話をはなから聞いていないユグーを省いてリージュだけは、全く想像の外側から飛び込んできた理屈に混乱しているようだった。
 それはそうだろう、と俺は思う。そもそもこの世界では魔物にまっとうな知性があること自体があまり知られていないのだ。外科手術の概念もほんの一部の医療系ファミリア以外は知らなければ、ダーウィンの進化論だって存在しない。元ある生物の形状が新たな形状に変化するという概念が確立されていないのだ。

「今の体で倒せればそれで良し、倒せなくても消耗はさせられる。そして自身の肉体を製錬する為の莫大な熱量………蒼炎を纏った黒竜は、強くなっているようで所々弱体化した部分があったな?」
「そうだな。熱はすさまじく厄介だったけど、逆を言えば熱対策さえあればむしろ最初の姿よりいなしやすかったくらいだ」
「ああ。あいつ、莫大な熱量で自身の骨格や鱗を製錬し直すついでに、余剰エネルギーで俺たちと遊んでいたのさ。新しい体を作り直している間に俺たちがくたばればこれもまた良し。勝敗がどちらに転んだにせよ、溶岩の繭に入ってしまえば狙いは達成される。なかなかに老獪(ろうかい)じゃないか」
「――あの、アキくん。どうやって体を作り替えたのかとか、体を構成するのに熱が必要だったのかみたいな疑問は多々あるんだけど、一つだけ教えて。あの溶岩から出てこようとしている黒竜は、以前の黒竜とどう違うの?」

 それは重要かつ切実な疑問だろう。次々に戦闘スタイルを変える黒竜相手ではどんな対策を取ればいいのか確信が持てない。オーネストの知識はそれに対抗しうる唯一の武器だ。オーネストはその質問に、彼にしてはすこしばかり回りくどく説明する。

「いいか、強い剣を作るには職人の腕もそうだが、いい金属とそれを溶かす超高熱の炉が必要不可欠だ。その金属が黒竜の骨格及び鱗や爪の部分。そして炉はあの灼熱――恐らく『聖灯(コルポサント)』辺りを食い散らかして燃料にしたんだろう。どんな歪な金属も溶かして形状を作り替えれば新たな姿に生まれ変わることが出来る」

 それは、つまり、そういうことなのか。
 これから訪れるであろう恐ろしい未来に、俺は気が付けば自分の口を手で覆っていた。

「端的に言うと――あの黒竜は攻撃力、防御力、俊敏性などありとあらゆる能力で以前の黒竜を超えている。加えて言うと、奴は恐らく………」

 言葉を遮るように、溶岩の繭から四つの巨大な槍がそり上がった。
 否、槍ではない。
 それは溶岩を撒き散らしながらゆっくりと重力に従ってしなり、広がり、やがて月光を覆う漆黒の天幕のようにばさりと空間を影で塗り潰す。雄々しく、巨大で、そして悪魔的なまでに鋭い4つのそれは次の瞬間、床に叩きつけるほどの威力で「羽ばたいた」。

 夢を喰らう怪物が、そのまま現実へ這いずり出る。

 其は邪悪と力の象徴にして、人が見た悪夢そのもの。

 太古の昔、人間という種を絶望の淵に追いやり神に牙を剝こうとした伝説の怪物の、更なる先。


「……失った飛行能力を完全に取り戻している。奴は元来空の支配者――今、この空間の全てが奴の絶対的優位を保証してしまった」


 独り言のように呟いたオーネストの言葉を押し潰す轟音が、空間を満たす。


『グゥゥゥウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!!』


 その咆哮を浴びた瞬間、俺は自分の体から魂が弾き飛ばされるような感覚に歯を食いしばった。
 心の底から湧き上がるその感覚は、いったい何なのだろう。20年にも満たない刹那の刻しか生きていない俺には、それを言葉で説明することが出来ない。それでもきっと、この光景を見る全員が俺と同じ思いを抱いている確信があった。

 ――俺たちに、もう明日は来ない。

 直後、黒竜は翼をはためかせ、ユグーへの意趣返しのように天井近くから急速降下し、その巨人のような黒脚を大地に叩きつけ、59層の分厚い岩盤が粉々に砕け散った。

「きゃあああああああッ!?」
「もっと深ク暗ク愚カシイ戦いへ、ワレを誘うカッ!!」
「な、ぁっ………でっタラメすぎんだろぉ……ッ!?」

 『真空の爆弾』とは比べるのも烏滸がましいほどの衝撃に喘ぎながら、俺たちは未知未開のダンジョン60層へと叩き落された。

「いつもそうだよな、テメェは……忌々しいぐらいに少しだけ手が届かねぇ癖していつも俺を殺し損ねる。今まで互いに殺しあってきたのに、互いに殺しきることが出来なかった。だから今日は――本当に終わるまで付き合えよ」

 オーネストは見下ろす黒竜にそう呟き、重力に身を委ねて60層への闇に沈む。
 二度と這い上がれぬ奈落へと、堕ちるように。



 = =



「うそ………」

 ウォノの張った相殺結界の中から、ココたちは呆然とその光景を見つめていた。
 次元の違う戦いを見つめる事さえ難しく、その場を吹き飛ばされないだけで精一杯だったココたちは目の前の光景に唖然とする他なかった。地震や地割れという言葉さえ耳に馴染のない彼らには、フロアの床が丸ごと崩落するなどオーネストとアズ以上に現実味のない光景に映っただろう。

 しかし、床が抜けるのはある意味では必然だった。岩盤を粉砕しながら戦った黒竜とそれに立ち向かった4人のせいで岩盤内部には大量の亀裂が走り、更にそれに追い打ちをかけるように超高熱の蒼炎による岩盤の融解と体積の急激な変化。止めを刺したのはフィールド全体を元の温度に引き戻したリージュの『絶対零度』だ。これいによって急速な温度変化に伴う体積変化を引き起こした地盤は極限まで脆く追い詰められた。

 それでも分厚いダンジョンの岩盤は形を保っていたのだが――黒竜の一点集中の叩きつけがとうとう最後の均衡を崩した。既にココたちから見えるのはただの奈落であり、底へ落ちていった黒竜とオーネストたちの姿など映らない。

 本当に、ココたちには何もすることが無くなってしまった。
 追いかけようにも60層に続く筈の洞窟への床は崩れ去り、空を飛べない彼らには行きつけなくなってしまっている。諦めたように首を振ったヴェルトールが、へたり込んでん大穴を覗くココの肩に手を置いた。

「もう、こうなったら外野にはどうこう言えないな。後はオーネストたちが勝って戻ってくるのを祈るだけだ」
「……………」
「元々参加させないって話だったのを、無理を言って着いてきたんだ。今更文句は言わないよな」
『イギありー!オーネストたちがシンパイだから帰りたくありませーん!!』
『異議なし、であるな。というかもう……結界の維持に力を使いすぎて……ぱわぁが……』
「お疲れさま!がんばりまちたねー、ヨシヨシ♪」

 相殺結界を張りっぱなしだったためにくたびれたように肩を落とすウォノの頭を撫でてキャロラインがねぎらう。流石の彼女も子供と人形は守備範囲外なのか性的なものは感じないが、撫でるためにしゃがんでいるせいで一部の露出が余計に強調されて結局エロい。ウォノが人間だったらかなり目に毒な光景だったろう。

 口惜しいけれど、もう本当に自分が出来ることはなくなってしまったのだな――と悟ったココの視界が微かに滲む。それが涙だと気付いたココは袖でごしごしと涙を拭い、立ち上がった。唯でさえ無力なのにこれ以上情けない姿を晒したら余計に惨めな気持ちになる。

「いこっか、ドナちゃん」
『ええっ、ココぉ?イイの、待ってなくて?』
「いいの。オーネストって祈りとか待つとかそーいう行動の伴わない感じのコト嫌いだし、どーせ勝ったらアズの鎖を使うなりなんなりして戻ってくるよ。それに59層レベルに長居できるほど私たち強くないから、早めに切り上げよっか」

 現在のメンバーはレベル5のココにレベル4相当のドナ・ウォノ、そして正真正銘のレベル4であるヴェルトールに加えてレベル3のキャロラインという構成だ。50層レベルで絶対に通じない実力ではないが、たった5人で長期間ウロついて無事でいられる場所でもない。幸い5人にはアズ支給の鎖を持っているので町に戻る分には問題ないはずだ。

 問題ない――筈だった。

「おや?もうお帰りになられるので?ぼくとしては在り難い話ですねぇ。宜しければ道を開けてもらえますか?」

 にこにこと、若い男が、その場の誰にも悟られずに立っていた。
 若い男だ。ココとそう変わらないかもしれない。顔立ちは童顔で親しみやすそうにも見えるが、張り付いた面のような無機質な笑みが言いようのない不安を掻き立てられる。そう、初対面で穏やかな口調なのに、その男はどこか――或いはすべてが作り物のような異質さを纏っていた。

 誰が何を言うよりも前に、キャロラインが刺すような視線で男の前に立つ。
 その眼には強い警戒の色が滲んでいた。

「この先、もう道がないんだよね。なのにこっちの道に何の用なの」
「いえいえ、私には空を飛ぶ方法がありますんで、ね」
「っていうかさ………おたく、冒険者とは思えないくらい軽装だよね。しかもこの階層で単独行動とか聞いたこともないんだけど?」

 いつ、どこから現れたのかも知れない男は、白いシャツに茶色のジーンズを身に着け、洒落たサスペンダーが肩にかかっている。革靴と手袋を装着した姿はギルド職員のようにも見えるが、靴の使い込みと本格的な革手袋、そしてベルトに仕込まれた戦鞭らしきものがそれを否定する。

 軽装すぎるのも不審だが、ここまで来て体に汚れの一つもないこともそれに拍車をかけた。普段から余裕綽綽のアズでさえ40層を超えると黒コートに汚れの一つや二つは出来るというのに、この男のシャツはまるで卸したてのように皺ひとつよっていない。
 あからさまな不信の目にもかけらも動じない男は、恭しく胸元に手を置いて微笑む。
 微笑むという形式にのっとった、感情のこもらない表情変化だった。

「ふふふ、こう見えて私は強いんですよ?それに一人の方が集団より逃げるのは楽なんですよねぇ」
「ふーん。ほぉーー……へぇぇぇーーー…………じゃ、最後の質問いいかな?」
「それで通してもらえるのでしたら、なんなりとお申し付けを」

 それを聞いたキャロラインは――背中に背負っていた自分の槍を抜き放って男の鼻先に突き付けた。

「あんたさぁ、なんで『生き物のにおいがしない』のかなぁ?」
「生き物のにおい………で、ございますか?」
「そーよ。オスにはオスの、メスにはメスの、人間には人間特有の体臭ってもんがあんのよ。フェロモンとか汗とか口臭とか体を洗う石鹸とか身近に触れているものとか、とにかく人間には必ず生活のにおいってモンがあんの」

 指摘を受けた瞬間、一瞬――ほんの一瞬だけ、青年の表情に生の感情が乗った。ほんの刹那の間に感じ取った、粘りつくように濃密な、こちらにとって不快感の塊を押し付けられたかのように受け入れがたい視線。余りにも瞬間的過ぎて形容する言葉が見つからないそれを感じた瞬間、この場の全員が確信した。

 ――こいつ、「敵」だ。

 気が付けば、ココは剣を握っていた。ヴェルトールはジャマダハル・ダガーを、ドナとウォノはヴェルトールの意を汲み取ったようにごく自然な動きで剃刀剣と杖を、それぞれがそれぞれの戦う準備を始めていた。

「あたしってホラ、オスのにおいにビンカンだから?だから………分かるのよ、アンタからは人間のにおいがしなくてさぁ………虫の内臓をグチャグチャに掻き混ぜて発酵させたような吐き気のする汚臭がする訳よ」
「ふむ、なるほど。におい……臭いですか。それほど臭うとは誤算でしたねぇ。獣人種なら鼻のいい者は気付くかもしれないとは想定していましたが、いやまっことこれは失敗でした。次からはそれも考えて『創りませんと』、ねぇ」

 瞬間、男とキャロラインの間に1M近くある巨大な蝶らしき蟲の魔物が割り込む。反射的にキャロラインは槍を振るってそれを薙ぐ。瞬間、虫の胎が破裂して強烈な悪臭を内包した液体が飛び散った。キャロラインはそれに顔色を変えて跳ね飛ぶように後方に下がり、自分の槍を見て息をのむ。

「溶けてる………カスタムとコーティングを重ねたあたしのアダマンタイト製の槍が……!」

 愛用の槍の刃先が、しゅうしゅうと不気味な音をたてて飴細工のように溶けている。
 もし撤退が遅れて顔に一粒でも触れていたなら――と、キャロラインは生唾を飲み込んだ。
 そして、その溶解液をモロに浴びたはずの男を見て絶句した。

 男の体には、溶解液どころかなにかが降りかかった痕跡さえ残っていなかった。

「えぇ、えぇ。この子『たち』の体液は『万物溶解液(アルカエスト)』という特殊な溶解液になってるんです。凄いでしょう?魔物としての能力はせいぜいが撃破推奨レベル1.5といった酷い有様なのですが、この溶解液の酸性は別格!現在検証している限りではなんと『不壊属性』を除くありとあらゆる物質を溶解させることが出来るのです!本来はもう少し先にお披露目する予定だったのですが、なんとオーネスト・ライアーとアズライール・チェンバレットを同時に始末できるチャンスかもしれないとお伺いいたしまして沢山連れてきてしまいました!!」
「おい、冗談だろ……お前ら、壁から離れろ!!」

 ヴェルトールの声にはっとして壁を見たココは、思わず悲鳴を上げそうになった。

 うぞうぞ、うぞうぞと――極彩色の羽を持った巨大な蝶たちが壁を這いながらこちらに近づいていた。そのすべてが、恐らく魔物。もしあれが一斉に飛び立って自分たちの下に殺到したら――。

「この先には始末したい連中がいる。貴方たちはそれを邪魔せず素直に帰っていれば何も知らずに脱出出来たのですが………まぁ、精々戦闘実験個体としてデータ収集に協力したのちに溶けて消えなさい。大丈夫、証拠は『万物溶解液(アルカエスト)』のおかげで跡形一つ残りませんので」

 前方には強烈な酸の雨、後方には足場のない崩落したエリア。
 前門の虎、後門の狼――いや、背水の陣。
 逃げ場を失ったことで、剣を抜かずに逃げる道が途絶えた。

 身命を賭する絶望的な状況。しかして、愚者の集いはそこに別の意味を見出した。

「時に皆や。黒竜とのドンパチ中にあんなもんが上から降り注いだら流石のオーネストも死ぬよな……?」
「当たり前………だよ、たぶんきっと流石に?アイツもそれ狙ってる訳だし………だとしたらさぁ、ここは友達として逃げる訳にもいかなそうだよね。どーやら私たち、まだオーネストの為に戦えるっぽいじゃん?」
「あーあ、どっちにしろ逃げ場ないんじゃしゃーないか。厳しいことこの上ない状況だけど………一丁恩の押し売りしちゃいましょっ!!」

 ――逃げる選択肢など、毛頭ない。

 未知の敵への不安や恐怖は皆無でもないが、それを上回る覚悟が全員の武器を握る手に力を与える。
 黒竜とは別次元の恐怖を内包した魔物との戦いが、オーネストたちの与り知らぬところで幕を開ける。
  
 

 
後書き
コキュートスにちなんで4つの地獄で終わらせるとか楽観的なことを考えてた愚か者がいたらしいです。
馬鹿ですね、きっとカルピス大好きな奴に違いありません。 
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