| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

何も覚えていなくても

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
次ページ > 目次
 

第四章

「あの人は」
「まあ歳考えたらな」
「有り得るよね」
「そうじゃないかも知れないけれどな」
 それでもというのだった。
「そうかもな」
「どっちかはわからないね」
「けれどな」
 それでもとだ、また言った彼だった。
「あの人相当苦労したのは確からしいな」
「満州とシベリアと警察で」
「身内の人にも先立たれてばっかりだっただろうし」
「長生きしていたら」
「奥さんにもだろ」
「そうだね」
「当然ご両親もな」
 そして他の親しい肉親達にもだ。
「あとお友達にもな」
「皆だね」
「先に、だろうしな」
「それじゃあ」
「そうした悲しいこともあったろうし」
「辛いことも一杯あった人なんだね」
「そうだろうな」
 彼はこう健一に話した、そして。
 そのうえでだ、健一は老人と会った時にだった。何気なく尋ねた。
「お爺さん今幸せだよね」
「ああ」
 にこりとしてだ、老人は彼の問いに答えた。
「凄く幸せじゃよ」
「そうなんだね」
「こうして暮らせるだけでな」
「何も覚えていなくても」
「ああ、それでもな」
 今もこう答えるのだった。
「歩けて見えて喋れて聞こえてな」
「御飯を食べられて」
「それで充分じゃ」
「そうなんだね」
「わしは本当に幸せ者じゃよ」
 こう健一に言うのだった、健一はその言葉に静かに頷いた。二人はゆっくりと暖かい日差しが照らす道を歩いた。老人はその明るい道をにこにことして歩いていた。何の憂いもなく。


何も覚えていなくても   完


                       2016・2・22 
次ページ > 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧