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5部分:第五章
第五章
「日本一か。三連覇だな」
「そうだね。もう三連覇か」
「見ていろ、来年こそ」
書きながらまた言う。
「阪急が勝つからな」
「うん」
一言応えるだけだった。
「来年こそはな」
「それはそうとさ本田君」
「何だ?」
「今度結婚するんだって?」
「ああ」
今度は顔を小坂に向けた。普通の顔になっている。
「部長の紹介でな。部長の姪御さんとな」
「ふうん、そうなんだ」
「御前はどうなんだ?」
「僕は別に」
首を横に振って彼の言葉に応える。
「誰もいないけれど」
「そうか?何か立教出身の金持ちのお嬢さんとの縁談があるんじゃないのか?」
「まあそれは」
少しまんざらでもないといった顔になる小坂だった。
「彼女とは昔から付き合っていたし」
「そうなのか」
「だから。縁談ってわけじゃ」
「それでも結婚はするんだな」
「まあそうなるかな」
また随分と曖昧な返事だった。
「やっぱり」
「やっぱりとかそんなので結婚するんじゃないだろ?違うか?」
「それはそうだけれど」
それでもはっきりとしない返事を出す小坂だった。
「結婚するって実感がないんだよ」
「そうなのか」
「本田君はどう?」
「向こうが俺に興味があるらしいんだ」
「へえ、それはいいね」
世の中変わった趣味の人間もいる。そういうことだった。社内でも評判の破天荒人間である彼に興味を持つからだった。実際彼は若いながら新聞の看板記者の一人にもなっているが。その激情溢れる文章だけではなく緻密な分析や計算も平時でああるからだ。巨人を前にした以外は。
「ああ。まあ俺も結婚できるんだな」
「意外なんだ」
「考えもしなかった」
そもそも考えたこともなかったのだ。
「結婚なんてな」
「それでどうなの?」
あらためて本田に問うてきた。
「今の気持ちは」
「不思議だな」
一言だった。
「俺が結婚なんてな」
「やっぱりそうなんだ」
「そうなんだって。予想していたのか」
「何となくだけれどね」
これにはこう答える。
「そういうことならね」
「そうか。何か不思議なものだよ」
「僕もだよ。まあこれはプライベートだからね」
「ああ、幸せにな」
「本田君もね」
二人は目出度く結婚した。だが次の年もそのまた次の年も阪急は巨人に敗れその度に小坂の冷静な記事と本田の激情の記事が紙面を沸かした。それが最早風物詩になっていたが次の年の昭和四十五年はロッテが優勝したのでそれはなかった。しかしその翌年昭和四十六年は。本田復活だった。
「今年こそはやる!」
紙面でも社内でも挙句に通勤途中でも叫んでいた。
「阪急だ!阪急が優勝する!」
よりによってラッシュ時の山手線で豪語する。目立つことしきりだった。
「憎むべき巨人を完膚なきまで粉砕し今度こそ西宮にチャンピオンフラッグが立つ!阪急の栄光が今はじまるのだ!」
阪急の本拠地は西宮球場だった。今では懐かしい話だ。
「巨人を倒す!若き阪急が今!巨人を打ち砕く!」
「あれって本田記者だよなあ」
「多分な」
丁度電車に乗るサラリーマンや学生達は離れたところから彼を見て囁き合う。かなり引いている。
「記事を見ていたら凄い人だと思っていたけれど」
「実際にも凄い人だったんだ」
「極悪殲滅!」
下火になってしまっていた学生運動よりも酷い。
「巨人を滅し!阪急が王になる!今年こそ!」
「あの人あれで結婚してるんだってな」
「奥さんも大変だよな」
こうまで囁かれている。
「あの会社もえらい人飼ってるよ」
「全くだ」
「野放しにするなよな」
こうまで言われているが元々人の言葉は耳に入らないので意味はない。そうして騒ぐままにしていると遂にシリーズがはじまった。問題は第三戦だった。
九回裏。阪急のマウンドに立つのは若きエース山田久志。ランナーを二人背負いバッターボックスに立つのは王。その王のバットが一閃した。
「何じゃこりゃあああああああーーーーーーーーっ!」
当時人気だったジャンプの漫画山崎銀次郎の台詞がそのまま出た。
何とホームランだった。逆転サヨナラスリーラン。言うまでもなく阪急の負けだ。ボールはライトスタンドに突き刺さり山田は沈み込む。ついでに本田も前のめりに倒れ込んだ。
「終わった・・・・・・。何もかも」
「お、おい本田君」
隣にいた小坂がすぐに彼に駆け寄った。
「どうしたんだよ、大丈夫かい!?」
「このシリーズも終わりだ」
生きていた。だが完全に終わっていた。
「巨人の勝ちだ」
「何言ってるんだよ、試合はまだ」
「いや、わかる」
虚ろな言葉で語る。
「俺にはわかる。阪急の負けだ」
「負けだってまだ二敗しただけじゃないか」
日本シリーズは三敗までできる。これが重要なのだ。
「まだ。これからだよ」
「いや、無理な」
その虚ろな言葉をまた出す。
「あのホームランで。決まった」
「決まったんだ」
「御前もそれはわかるだろう?」
それを小坂に対して言う。肩を彼に担がれている。
「あの王のホームランはそれだけのものがあるんだ」
「それは」
「否定できないよな」
それをまた問う。
「御前なら。野球を知っている御前ならな」
「・・・・・・まあね」
彼もそれを認めた。遂に、であった。
「今のホームランはこのシリーズを決めたよ」
グラウンドをスタンドを見る。ナインも観客席も盛り上がっている。山田はマウンドに沈み込んだまま動かない。その彼を迎えに行くのは西本だった。
「だが。俺は最後まで見る」
「最後まで」
「ああ。見ろ」
弱々しい手でマウンドを指差した。そこにはやはり西本がいた。
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