幸福の十分条件
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別の世界
『天は自ら行動しないものに救いの手を差し伸べない』──シェイクスピア
耳障りな電子音で俺は目が覚めた。部屋の外にあるスピーカーからの、朝を告げる合図の音だ。ご丁寧に一分近くは鳴り続けて、必ず毎朝叩き起こしてくれる。非常に鬱陶しい。
起きたには起きたが、眠気がまだ周囲をうろついていた。急ぐ理由もないのでしばらくは寝台にしがみついて、眠気がどこかへ行くのを待つ。大体、五分ぐらいしたところで動く気になった。
妙に硬い寝台から降りて、寝癖も確認せずに部屋の外に出る。一歩出ればそこは通路だ。なんの飾り気もない鉄製の壁に床。大人が四人、横に並んでも通れるぐらいの幅があった。
やたらとガタイのいい男に女が通路を歩いていっている。俺もその後ろについて同じ方向へ歩きだす。
しばらく歩いて到着したのは広大な部屋だった。長テーブルに椅子が配置されていて、すでに五十人近くが座って食事をしていた。そう、ここは食堂だ。
いるのは男がほとんどで、女は数えられる程度にしかいない。基本的には誰もかれもが鍛えられた肉体を持っていて、見ていて暑苦しいぐらいだった。
指定席というわけではなかったが、たいてい誰がどこに座るかはなんとなく決まっていた。俺の席は端のほうで、隣には仲が良いらしいグループが陣取っている。
厨房とはカウンターのようなもので繋がっていて、そこから直接、食事を受け取る仕組みになっている。俺は食事の乗せられたトレイをカウンターで受け取ってから席に座り、朝食を食べ始めた。味はそこそこだ。だが、以前のような食事がときおり恋しくなる。
そう、俺がここに来たのは、つい一ヶ月ほど前のことになる。
信じがたいことだが俺はある日、目を覚ますと森の中にいた。確かに家の自室で寝ていたのだが知らない間に知らない場所に来ていたのだ。
そうして森の中で迷子になっているところを、この集団の人間に拾われた。彼らは『ヴェリタス』という名の、いわば傭兵集団だった。
彼らに対して事情を話していくうちに、俺はとんでもない事実に直面した。俺が来た場所はどうやら異世界らしかった。証拠として、この世界にある国はどれもこれも知らない名前で、地形もまったく違う。俺の知っていることがほとんど通用もしなかった。
そんなこんなで俺はこの組織に居候することになった。傭兵集団だというのに困っている俺は助けてくれるらしい。入るときにこの組織の何か崇高な理念だかなんだかを聞かされたが忘れてしまった。
なにはともあれ、俺はちょっとした憧れが叶ったわけだ。初めは困惑したが、今じゃすっかり慣れてしまった。そして思っていたとおり“俺の世界”というものに、大きな変化はなかった。
そう、世界が変わろうとも、そこにいるのが人間だということは変わらないし、俺が俺だというのも変わってはくれない。元の世界でさえ集団に馴染めなかった俺が、場所が変わった程度で馴染めるわけがなかった。実際、今も俺はひとりで食事をとっていた。一ヶ月もして、こちらでの生活に慣れたにも関わらず、だ。
初めこそ異世界にきたということに対して、漠然とした興奮と期待があった。それらが消えるのに大した時間は必要なかったが。無口で愛想が悪ければ、人が寄りつかないのはどこも同じ。当然のことだ。
ただ、大きな変化はなかったが小さな変化ならばあった。食事を終えて席を立ち、自室に戻ろうと通路に出たところで俺に声をかける男がいた。
「よう、雄二。おはよう」
声のしたほうを向けば、そこにいたのは俺と同じような黒髪の短髪に茶色の瞳、と日本人の見た目の男だ。背は俺より少し低く、身体つきも細身、と近かった。はっきりと違うのは顔か。陰気な顔つきの俺とは違い、なんとなくだが快活な感じのする顔つきをしている。ちょうど今も、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべていた。
こいつの名前は怜司という。俺と同じように異世界の日本から来たらしい。歳も十七で、たまたま一緒だ。そのあたりのせいか、俺にやたらと話しかけてくる。
「挨拶したんだから無視すんなよなー」
しばらく俺が黙っていると怜司が不満げな声をあげてくる。
「…………あぁ、おはよう」
このまま自室に入ろうかとも思ったが、わざわざ無視することもない。そう思って、挨拶だけは返した。そうすると怜司は満足げに笑うのだ。
よく話しかけてはくるのだが、正直言って俺はこいつが苦手だった。嫌いというわけではないが、理解ができなかった。俺のような人間なんて放置しておいてもなにも困りはしないというのに、わざわざこうやって見かけるたびに声をかけてくる。なんの得があるのかさっぱり分からない。
こちらから話すこともないので、そのまま自室に入ろうとしたところで、怜司の後ろから別の男が出てきた。
「あ、雄二だ。おはよ〜」
ひらひらと手を振りながら、そいつは少し間延びしている妙に高い声で挨拶をしてきた。
俺や怜司と同じ短い黒髪の日本人で、学校によくある学生服を着ている。背丈は怜司より更に低くて男にしては小さい部類に入るだろう。服装が大きめなせいか、体型はよく分からない。顔つきが俺や怜司よりは丸みを帯びているので、恐らく肉つきは俺たちより良いのだろう。
こいつは蒼麻といって、俺たちと同じ異世界出身だ。どういう偶然か、歳まで同じだ。こいつも俺にたまに話しかけてくるが、怜司ほどじゃなかった。むしろ、怜司に妙に絡んでいる印象がある。
今も、どういう理由なのか知らないが、怜司に横から抱きついている。正直言って気持ち悪いが、俺はそこになにか違和感を覚えていた。なんなのかは分からなかったが。
「ほーも、ほーも♪」
「あーもう、よせ、やめろ! 離せよ!」
なにやら薄気味悪い歌を口ずさむ蒼麻を、怜司が必死に引きはがそうとしている。男同士の絡みを見て喜ぶのは、同性愛の人間か一部の女たちだけだ。俺はどちらでもないので部屋に戻ることにした。
おかしなやつらだが、俺に話しかける人間がいるというのは、以前とは違う部分だった。俺は怜司のことが苦手なために、あまり嬉しくはないのだが。
変化についてはもうひとつある。そちらは生活に与える影響は小さいが、しかし、俺にとってはとてつもなく大きいものであり、かつ、かなり嬉しい変化だった。
軽く昼寝をしてから昼食をとり、自室にこもっている間に夜になっていた。
部屋には寝台、本棚、机が、四畳程度の広さに配置されている。机の上にはこれといってなにも乗っていないが、本棚にはいくつか本が揃えられていた。
こちらの世界にも小説の類はあって、基本的にはそれを読んで時間を潰している。ようするに俺の生活自体は、なにひとつとして変わっていないということだ──と、言いたいところだったがこちらにも小さな変化ぐらいはあった。実家暮らしではなくなったがために、労働をする必要があったのだ。内容はいたって単純で、倉庫にある武器の簡単な手入れだ。ここは傭兵集団なので、仕事もそれに関連したものが多い。
ちなみに怜司は掃除全般。蒼麻は夜中に大浴場の手入れをしているらしい。そういった仕事もあったが俺は肉体労働に向いておらず、さらに連携行動もとれないので、こういう地味で、ひとりでもできる仕事を割り当ててもらった。時間に関わらずできるという点も都合が良かった。人と出くわすのがとにかく嫌なので、主に他の住民が寝静まった夜中に俺は作業をしている。
寝台に寝転がって本を読んでいると、腹から空腹を知らせる音が鳴った。時計を見ると夕食の時間になっていたので、俺は本を棚に戻して部屋から出た。
通路に出ると、ちょうど目の前を女が横切っていった。俺の目が無意識に彼女を追ってしまう。
黒絹のように美しく、光沢のある艶やかな黒髪。それを頭の後ろでひとつに纏めている。細く長い黒眉に切れ長の目尻。煙水晶のように深い色合いの双眸。それらに整った鼻梁が続き、最後に朱色の唇で終わる。薄く焼けた綺麗な肌の首から下は和装に包まれていて、胸の僅かな膨らみ以外の体の線を覆い隠していた。歩くたびに見える白い足首や、髪型のせいで見えているうなじには、かなり色香があった。
控えめに言っても美人だ。目鼻立ちはそれほどはっきりしていなくて、格好からも俺たちのような東洋人に近いものを感じる。和装の着こなし、その美しさには思わず目を奪われてしまう。
彼女の名前は桜。この傭兵集団に所属している傭兵の一人で、俺の気に入っている相手だ。気に入っているというのはつまり、好きだってことだ。通路で初めて見かけた瞬間にそうなった。一目惚れというやつだ。
といっても、彼女とまともに話したことはない。怜司のやつがお節介で俺を勝手に紹介してきたときに、軽く挨拶と自己紹介を交わしたぐらいだ。そのときに分かったが、どうやら彼女もかなり口下手らしい。俺は余計に惚れ込んだ。
それでも話しかける勇気はなかった。それに、話さなくても見ているだけで十分だった。
彼女の後ろ姿が食堂へと消えていって、やっと俺の意識は現実に引きもどされた。俺も少し遅れて、食堂へと入る。
足を踏みいれた瞬間に、重厚な音が列をなして俺に打ちつけてきた。それぐらい、食堂は騒がしかった。食事の音に傭兵たちの野太い大声の会話が混ざりこんで、混迷を極めた音波が食堂そのものを震わせている。
食事をカウンターで受け取って、いつもの端っこの席につくが、騒々しさからは逃れられなかった。どうにも夕食どきの雰囲気は好きになれそうもない。
食事をとっている最中にも傭兵たちの食事風景が視界の端で見ることができるが、そこにはマナーなんてものは欠片もない。パンが飛び交い、フォークが交差し、食べ物の取りあいが勃発し、食事と会話が交互にどころか同時進行している。マナーが身につかず落ちこぼれと言われた俺でさえも、どれほど雑に食べたってああはならないだろう。
そんななかで、黙々と静かに食事をとっている人がいる。桜だ。
彼女の食事の仕方はかなり品がいい。俺でなくとも誰が見たってそう思う程度には。傭兵ではあったが、もしかすると育ちは良いのかもしれない。
彼女もまたひとりで食事をとっていた。そんなところにも、俺は一方的な親近感を覚えていた。品の良さも含めて、好きなところだ。
こうして彼女の姿をこっそりと見るのが俺の日課だった。一歩間違えば、よくニュースに載ってるストーカーやらなにやらになりそうだという自覚はあった。別にこれ以上のことをしよう、なんていう気はない。ただ、遠目に見ていられればそれで良かった──のだが。俺にも、たまには俺自身にとって良い部分というのがあるらしい。
食事をゆっくりと食べ終えた俺は席を立ち、厨房で食器を返すついでに、熱いお茶を一杯もらっていく。食堂はすでに人がまばらになっていた。
湯のみを持ったまま、俺は元いた席ではなく、桜の隣の席へと移動をする。彼女も食事を終えていて今は湯のみを傾けて一休みしていた。俺が近づくと、彼女は椅子を少しずらしてくれた。そのまま彼女の隣の席に座って、俺もお茶を飲み始める。
この奇妙な状況は怜司によって作り出されたものだ。以前にあいつが俺を強引に引っ張って、桜と合わせて三人で食事をさせられたことがある。その終わりにお茶を飲んでいた彼女に合わせてみたのがきっかけだ。いつもの俺ならその一回かぎりで終わったのだろうが、今回だけは続ける気になった……というか、続ける勇気が出た。それ以来、夕食の後はこうするのが恒例になっていた。
今振り返ってみても、よくこの状況を恒例にできたものだと自分で思う。怜司なしで彼女に近寄った昔の自分を珍しく褒めてやりたいぐらいだ。
二人の間に会話はなくて、二人揃って黙々と湯のみを傾けつづける。はたから見ればなにをしているのかと思われるのだろうが、俺にとってはこの静かな時間が心地よい。たいていの相手はなにかしら話しかけなくてはならなかったが、寡黙な彼女が相手ならその必要もない。こうやって黙ったまま一緒にいられるというのは良かったし、なによりこんな近くで彼女を眺めていられるというのが嬉しかった。
お茶が喉を通るたびに仄かな香りと苦味が口の中を広がっていく。この味は日本茶に近いものだ。今までは知らなかったが、食後にお茶を飲むというのは結構いいものだ。昔は両親の方針で紅茶を飲まされていたが、あれは苦すぎる。牛乳を入れてみたり砂糖を入れてみたりレモンを入れてみたりしたが、何をやっても慣れなかった。それと比べれば、これぐらいの苦味は美味いと感じる。
湯のみを手元で揺らしながら、横目で桜の様子をうかがう。彼女は感情の見えない表情でじっと机の上の湯のみを見ていた。
俺にとってこの時間は至福そのものだ。だが彼女はどうなのだろうか。なにも喋らない俺を奇妙に思ってはいないだろうか。彼女は口下手に見えたから、静かなのが好みなのだろうとは思う。しかしそれは俺の勘違いで、実はおかしなやつだと嫌われてはいないだろうか。
そんな不安が胸中に到来した。もしも俺が気がついていないだけで、実は桜は俺のことを不愉快に思っているとしたら、それだけで多分、死ねるだろう。
「……ん、どうした?」
俺が見ていることに気がついた桜が、こちらを向いて首を傾げてきた。動きに合わせて、纏められた髪が揺れる。曲線を描いた双眸、煙水晶の瞳が真っ直ぐに俺を見ていた。それだけで、俺の心臓は無意味に跳ね上がった。
「ぁ……いや……なんでもない……」
「ん、そうか」
小さく頷いて、また彼女は湯のみに視線を落とした。深呼吸をして胸を落ち着かせようとしたが、彼女の声が耳に残っていて、うまくいかなかった。女性にしては低くて、落ち着いている声色。そこも好きな部分だった。
たった二言だったが、彼女の声に不快感はなかったように思う。おかげで少しだけ安心できた。これが間違いでないことを願うばかりだ。
それにしても、普段は少し鬱陶しいぐらいの怜司だが、こればかりは感謝したい。あいつがいなければこうしていることもなかっただろう。
「お、雄二に桜さんじゃん。二人で黙ってなにしてんだ?」
そう思ってるところに怜司がやってきた。奴の能天気な声が俺の耳に届いた瞬間、胸中にあった感謝の念を怒りが叩き出していく。
「なにって、茶を飲んでいるだけだが」
黙り込んでいる俺に代わって、桜が怜司に答えた。
「黙ったまま? 喋ればいいじゃないっすかー」
怜司が馬鹿っぽく笑っている。うるさい黙れ、お前は蒼麻とでも乳繰り合っていればいい。
そう言いたくてたまらなかったが、そんな勇気はないし怜司にも悪気はないだろう。こいつはこういうやつだ……死ねばいいのに。
黙り続ける俺を不思議に思ったのか、怜司が首を傾げていた。さっき桜が同じ動作をしていたせいで無性に腹が立つ。怜司が悪いわけではないのだが。
「俺も混ざっていいっすかね」
俺がなにを考えているかは分からないらしく、怜司は桜の隣に座ろうとしていた。本当に空気の読めないヤツだ。
もう湯のみの中身は空っぽになっていたので俺は席を立った。桜も同じだったが、彼女は怜司の相手をするようだ。
「またな」
席を離れようとした俺に桜が声をかけてくれた。その一言に、俺は嬉しさのあまり小さく頷くのが精一杯だった。
次の日。俺は怜司に誘われて一緒に食事をした後、何故だか掃除の仕事まで付き合うはめになった。
モップをかけながら、通路を端から端へと往復運動をする。一時間しかやっていないのに、すでに腕が痛かった。怜司は俺と同じぐらい細身にも関わらず、慣れているせいか平気そうだ。
足元に感触。視線を落とすと、俺の足に小人がぶつかってきていた。尻餅をついていたが、起き上がると手に持った極小のモップで掃除を再開。
ファンタジーな世界らしく、この世界にはこういった小人がいる。造形はほぼ人間だが二頭身になっていて背丈は五センチ程度。なんだかよくわからない鳴き声をするが、こっちの言葉は分かるらしい。俺たちが掃除している周囲に数十匹ぐらいいて、一部を除いて掃除っぽいことをしている。
怜司のやつは彼らに指示が出せるらしい。どうやって意思の疎通をしているかしらないが、小人たちは怜司に従っていた。彼らはいつの間にかこの施設に住み着いていたらしいが、彼らが従うのは怜司だけのようだ。
自分で言っていてなにがなんだか分からない。だが、とにかくそういうことで、怜司は小人を使役して掃除をさせていた。本当に役に立ってるかは大いに疑問だが。
疲労の溜まってきた腰を逆方向に折りながら、俺は怜司を見た。単調な作業を、嫌な顔ひとつせずに続けている。
この世界にきてから、以前と比べて変化した部分は二つ。どちらも怜司によってもたらされたものだった。変化の片方は、俺にとって幸福そのもので、そこは感謝している。
だがそれを差し引いても、俺はこの男が好きではなかった。
「怜司殿に雄二殿。掃除でござるか」
唐突に、真上から声。続けて、俺たちの前に影が降り立つ。
現れたのは小柄な少女だった。一四五センチぐらいの小さな背丈に黒装束。黒い頭巾の隙間から白い髪が覗いている。口元も黒い布地で覆っていて、目元だけが表へと出ていた。俺たちの世界でいうところの、忍者そっくりの格好だった。
この子は十兵衛という。なんでもこちらの世界に来た直後の怜司と出会い、それ以来付き従っているらしい。名前が男っぽいのはこう見えてなにかの師範代だったか党首だったかで、引き継いだものだと以前言っていた。
年齢は十代前半と言っていたような気がする。異世界人であるために、見た目から年齢が推測しづらい。
「あぁ、俺が誘ったんだよ。たまにはどうだ、って」
俺が口を開こうとしたとき、怜司が先に答えた。
「ふむ。たまには拙者も手伝うでござる」
そう言った十兵衛の足元から煙が吹き出し、晴れたときには箒を持っていた。ますます忍者っぽい。
二人から三人に増えて掃除を続けていると、そこにまた別の少女がやってきた。
十兵衛より少しは伸びた背に、袴姿と草履。群青色の髪を左右で房にしていて、毛先が胸近くまできている。
こっちの子は紅葉という。まだ十四、五の少女だがここの傭兵だそうだ。戦場では長槍をぶん回しているらしいが、とても想像がつかない。この子はこの子で、怜司に何故だか懐いている。
「わたしも、手伝う」
ゆっくりと、しかしはっきりとした声で紅葉はそう言って、箒を手に持った。
「お、ありがとう。じゃあ紅葉はあっちのほうを掃いてくれるか?」
怜司が指差した方向を見ると、彼女は「わかった」と言って小さく頷いた。
そしてなにを思ったのか、床に箒の先端を押し付けると身を軽く屈め、爆走! 埃の軌跡を残しながら、瞬く間に紅葉の背中が数十メートル先に到達する。そこからさらに加速。あまりの速さに道中にいた小人たちが、突風に煽られたかのように吹き飛ばされていく。ついでに埃も吹き飛んでいる。これでは掃除の意味がない。
呆然としている俺たちの脇を、別の風が走り抜けていく。十兵衛が箒を持ったまま疾走していた。紅葉以上の加速を見せて、一秒も経たないうちに彼女に並んでいた。
「紅葉殿。それでは掃除にならんでござる。もっとゆっくり丁寧にしなくては」
「……そうなの?」
十兵衛の言葉を聞いて紅葉が急停止。草履で通路が擦られ、車でいうところのブレーキ痕ができあがっていた。十兵衛は減速せずに跳躍。壁から天井に跳ね上がり、さらに逆さになって天井を蹴り反転。見事な三点飛びで、紅葉の隣に着地した。
二人が駆け抜けた周辺にはぶっ倒れた小人たちが散乱。まるで戦場のようだったが、俺たちがいるのはただの通路で、やりたいのは敵の一掃ではなく汚れの一掃だ。
「……人間びっくりショーだったな」
「……ああ」
怜司と俺は開いた口がなかなか塞がらなかった。怜司は驚愕を通り越して呆れ顔になっていたが、俺もきっと同じような顔をしているのだろう。こいつと同じというのが腹立たしいが、こればかりは仕方ない。
結局、俺たちの数十分は完全に無駄となった。それどころか作業員である小人たちがダウンしたために、むしろマイナスとなった。
仲間たちの怒りを晴らすべく、小人たちが抗議の声を怜司に向かってあげている。いや、別に小人たちは死んだわけじゃなかったのだが。
「まったく。十兵衛も紅葉も加減ってものを知らないからなぁ」
「む、何ゆえ拙者まで」
呆れて溜息をつく怜司に十兵衛が心外だという声をあげる。
「おまえまで爆走するから被害が広がったんだろうが。二人ともちょっとは反省しろ」
腰に手をあてながら二人を叱る怜司だったが、十兵衛は紅葉のせいだと言わんばかりに彼女のほうを向いているし、紅葉は気に入らないのかそっぽを向いている。あまり効果はなさそうだ。
そのことに怜司も気がついたのか二度目の溜息。
「けどまぁ、手伝ってくれようとしたことは感謝するよ。ありがとな、十兵衛、紅葉」
そう言って怜司は二人の頭に手を乗せると、優しく撫ではじめた。
十兵衛は目元しか見えないせいでよく分からないが、満足げに見える。紅葉は少し顔を赤らめているような気がするが……。
──そう、俺はこいつの、こういうところも嫌いだった。年下の少女に対しては当然だろう、と思われるかもしれないが、しかしこういった部分からどうにもいけ好かない雰囲気が漂ってくる。
もちろん、これが主な理由ではない。もっと別の、決定的な要因があった。
「なんだか騒がしいけど、なにしてんの?」
騒ぎを聞きつけて今度は蒼麻がやってきた。
「お、いいところに来たな。掃除をしてたんだけど、人手が足りないんだ。おまえもやっていけ」
「えー、めんどくさーい」
そう言いながらも蒼麻は掃除道具を受け取るとせっせと動き始めた。紅葉と十兵衛もそれに倣って、今度は慎重に箒で掃き掃除を行う。
めんどくさがっていたわりには、蒼麻の手際は良い。風呂掃除が主な仕事だから、慣れているのだろう。紅葉と十兵衛も身体能力が高いおかげか、動きが良かった。
そうなってくると一番役立たないのは俺になるわけだが、まぁそれはいい。
手を止めて少し休んでいると、最後のひとりが現れた。桜だ。
「……通路掃除にしては、大所帯だな」
通路にいる五人を見るなり、彼女は静かな声で感想を述べた。驚いているようには見えなかったが、表に出にくいだけで、驚いているのかもしれない。
「このさいだから桜さんもご一緒にどうっすかね? 多いほうが俺、楽なんで」
怜司が適当なことを抜かしながら箒を桜に差し出すと、彼女は少し悩むそぶりをしてから、それを受け取った。
「ん。たまには、いいだろう」
こうして掃除係が六人に膨れ上がった。
十分もすれば、十兵衛と紅葉によって帳消しになった分を取り戻すことができた。ただし当たり前だが、俺の体力は戻ってくれなかった。引きこもりに肉体労働は辛い。
少し集団から離れたところで休憩をとる。怜司が十兵衛に指示を出し、紅葉のやり方を褒めて、ちょっかいを出してくる蒼麻をいなし、桜に話しかけていた。
そう、あいつは人に囲まれていた。俺はそれが、無性に気に入らなかった。あの男を見るたびに、やりきれない思いがして、胸の奥がざわついた。
あいつが人に囲まれていることそのものは疑問に思わないし、俺がひとりだということにも不思議なところはない。どちらも、当たり前の話だ。だから、嫉妬しているわけではなかった。
だが、異世界に偶然やってくるという同じ境遇にも関わらず、これといった困難もなく順応して、いつのまにか成功しているあいつを見ると、怒りに似た感情が沸き起こってきた。あいつはまるで、俺が今まで読んできた本に出てくる主人公そのものだった。あまりにも、運が良すぎる。
対して自分はどうか。以前とほとんど変わらない生活。問題はなにひとつとして解決しないままだ。
ああ、分かっているさ。それが自分のせいだっていうことは。自分がどれだけ無能で、怠慢であるかはよく理解しているつもりだ。
それでも、ああやって似たような境遇の男が成功しているのを見ると、なによりも現実を突きつけられた気分になる。俺がどういう人間なのか、浮き彫りにされたような気分になる。
だから──俺は、怜司が嫌いだった。
「おい、どうした。疲れたか?」
じっとしたまま動かないでいた俺を不審に思ったのか、怜司が声をかけてきた。俺はすぐに、持っていた掃除道具を怜司に押し付けた。
「……ああ。悪いが、休ませてもらう」
俺は返事も聞かずに自室へと向かい、さっさと部屋の中に入った。
この世界も以前の世界も大差はない。ただ、現実が最悪の形になって、目の前に現れただけだ。
深夜。今日の分の仕事はする気が起きなかったので、俺は早々に寝台の中に潜りこんだ。足腰が痛むし、相変わらず寝台は硬い。この中に入ると、異世界にいるのだということをはっきりと意識する。
昼間の仕事は散々だった。特に、最後の状況は精神的な辛さが大きかった。
俺が怜司を嫌っていることについて、怜司に非がないことは分かっている。客観的に見れば、積極的に俺に声をかけるあいつは、俺に気を使っているとさえ言えるのだろう。人が人を嫌いになるということは、こんな風に理屈に合わないことなのかもしれない。とはいえ、酷い反応だと自分でも思う。自己嫌悪というものが、俺の中にはあった。
もしも俺がもう少しでもまともなのであれば、怜司との関係を良好にして、友人というものに囲まれる可能性もあったのだろう。だが、今の俺はそれを望みさえもしていなかった。自分が友人に囲まれている状況どころか、友人がいるという状況を想像することさえ、違和感があった。それほどまでに、俺にとってはかけ離れたことなのだ。
俺が、俺であることをやめないかぎり、状況は好転しないだろう。そしてそんなことは、不可能だった。一歩が、どうしても踏み出せない。
眠気を言い訳にして、俺はまた考えることをやめた。現実を直視することなど俺にはできなかった。
──このとき、俺がもっとこのことをよく考えていれば、本当に俺の人生は変わっていたのかもしれない。
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