幸福の十分条件
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彼の世界
電子音で目が覚める。寝台の傍に置いてある時計の音だった。
重たい瞼を中途半端に開けつつ、記憶を頼りに腕を伸ばして適当なところを手で叩く。空振り、空振り、三度目でやっと時計に当たって、うるさい音が消えた。
そのまま起きずに俺は寝台に身体を沈めた。二度寝をする気はなかったがすぐに起きる気もなかった。
自分が使っている寝台は一応高級品らしく、沈み具合が心地良い。といっても子供の頃から使っているので特別感はないのだが。
眠気に抵抗もせず、夢と現を行ったり来たりしているうちに少しずつ目が冴えてきた。瞼を開ける気にもなり、次第に目が慣れてきて自室がはっきりと見えるようになっていく。
部屋は薄暗かった。なんということはない、部屋の窓についているカーテンを、全て閉め切っているせいだ。俺は朝日が苦手だったが、それ以上にこの部屋が外と繋がっているのが嫌だった。
自室は広い。畳数で言えば軽く二十畳ぐらいある。もっとも洋室なので畳数で言うのが正しいかは分からないが。部屋の床一面には濃い赤の絨毯。廊下にも似たようなものがあるが、こちらの方が高いらしく歩き心地はそれなりに良い。カーテンに遮られている窓も壁一面に広がるほどの大きさだった。本来の役割を果たさせてやれば、十分な陽光をこの部屋に注ぎ入れてくれるのだろう。
部屋のそこかしこには品の良さげな調度品もあったが、俺が使っているのは精々本棚と勉強用の机、椅子ぐらいだった。本棚の中身は哲学のやたらと難しい本や経済、経営について書かれたなにか、洋書やらなにやらがあって、もう長いこと手をつけていないものばかりだった。どれもこれも、親に読めと強要させられたものだ。
自分がよく読むものはそれらの本の後ろに隠してあった。大衆向けの娯楽本に、漫画、小説とは名ばかりの、読んでも役に立たなさそうな内容のもの。親に見つかってしまえば低俗だなんだと言われて捨てられるので、一応隠してあるわけだ。その低俗さが俺にとっては非常に良い。それらを読んでいる間は俺は見たくないものを見ずに済んだし、自分ではない誰かになる気分が味わえた。
勉強机の方にはもちろん、教科書類が並んでいる。それから学校へ行くための鞄も──そう、どうでもいいことなんだが、俺は学生なんだった。だから、今から学校へ行かなくてはならない。
気怠かったが時計を見る。針は程良い時刻を指していた。
寝台から降りて室内靴を履き、着替えを始める。学校に指定された制服に袖を通す。身嗜みにはかなり無頓着なので制服があるのは楽でいい。いちいち格好を考えずに済む。
洗面台へ行って歯を磨き顔を洗い、最後に髪を整えるために姿見の前に立つ。そこに映っていたのは陰気な男だ。気怠げな目、何を考えているか分からないと言われる顔、洒落っ気が欠片もない黒髪。背丈は平均的で、部屋の中に居てばかりなせいで筋肉は殆どない。どこを見ても良いところが全くなくて大勢の中に入ってしまえば埋もれてしまうような奴。居ても居なくても誰も気にしないような人間が俺だった。今まで毎日見てきて、これからも毎日見ることになると思うと嫌気が差してくる。そんなことを思っていても仕方ないので、感情を隅に押しやって忘れることにした。
手で適当に髪を整えた後、服装のどこかがおかしくないか確認。こういう細かい部分についても両親はうるさかった。そのことに疑問や苛立ちや、煩わしさはなかったが。幼いころからそう言われていたし、そういうものなのだと諦めていた。
結局、おかしなところは見当たらなかった。強いて言うなら鏡に映っているのが俺だということぐらいだ。
準備を終えてから扉の前に立つ。憂鬱な気分が心に広がった。安心していられるのはここまでだ。外に出れば否が応にも現実が襲いかかってくる。その全てに俺は晒されることとなる。気持ちを落ち着かせるために深呼吸をした。これもいつものことだと諦める気持ちが戻ってきてくれて、俺は扉に手をかけた。
部屋の扉を開けると、視界一杯に広がる陽光に目が眩んだ。
自室は廊下に繋がっている。廊下は中庭に面していて、中庭側には窓が連なっていた。それらが外の明かりを取り込んでいるのだ。窓の周囲や、反対側の壁は白を基調とした色合い。至る所が綺麗に磨き上げられていて陽光を反射している。おかげで廊下は俺の部屋とは正反対に、押し付けがましいほどに開放感に満ち満ちていた。
窓から外を一瞥すれば広大な中庭が見える。緑の茂みに色とりどりの花が飾ってあって……まぁ、どうでもいい。花の種類も教えられたがとっくの昔に忘れた。俺には色が沢山ある、程度の感想しか出てこない。今日も庭師が朝から働いていて、この風景も昨日と今日では違うらしいが俺には違いが分からなかった。昔から興味がない。
廊下の赤絨毯の上をゆっくりと歩いていく。足取りが重い。これもいつものことだった。外にいるときはほぼ常に気分が悪いがそのせいなのか、それとも元来の気質なのかもう区別がつかなかった。
しばらく歩くと使用人と出くわした。比較的最近入った、若い女の使用人だった。彼女は俺の姿を見ると深々と頭を下げてきた。
「雄二様、おはようございます」
こちらも会釈をして返す。こういうやり取りは苦手で、相手からすれば顔を軽く傾けた程度にしか見えないかもしれないが。
挨拶でさえ億劫だ。だから使用人と遭遇するのも嫌だった。彼女は少しの間、俺の顔色を伺うとそそくさと仕事に戻っていった。
廊下を進み、階段を降りて、また廊下を進むと食堂に到着した。何とか二人目の使用人と遭遇せずに済んだ。
食堂は二十畳ぐらいの広さで、中央に長テーブルが置いてある。十数人で食事をしてもなんら不自由ない構成だ。キッチンにも直結していて、必要なときには使用人が配膳をしたり、あるいは待機したりする。
すでにテーブルの上にはひとり分の食事が置いてあって、俺は席について食べ始めた。別に暮らしてるのが俺だけってわけじゃない。他の住民はもう出かけてしまっているだけだ。
家族は両親と妹が一人。両親は家にいることが少なく、妹は部活に入っているらしくて朝が早い。結果として、ここ最近は食事をひとりで取ることが多かった。少し前までは妹と二人だったのだが。
食事の気分はいつも複雑だった。この家に生まれて良かったと思える点があるとするなら、寝台の質が良いことと、食事が美味しいことぐらいだ。だから食事そのものは好きだったのだが、環境は良くなかった。妹と食べるのは少し辛いし、ひとりで食べるというのも、このいやに広い空間が孤独感を煽ってきて鬱陶しい。ひとりでいるのは好きだが、ひとりだということを意識させられるのは嫌いだった。
そういうわけで、俺は手早く食事を終えた。もしもなにも気にすることなく食べられるのなら、きっともっと美味しいのだろう。
席を立ったところで使用人が皿を下げるためにキッチンの方から出てきた。会話も面倒なので、俺はさっさと食堂を出ることにした。
足早に玄関へと行って靴を履き替え、扉に手をかける。後ろから気配がして、もっと急がなかったことを後悔した。
「いってらっしゃいませ、雄二様」
見送りにきたのはまた使用人だったが、初老の男だった。所謂執事というやつでこの家でもっとも長く勤めている。俺が子供の頃から居たはずだ。
正直言って、あまり好きではなかった。
「くれぐれも、外での振る舞いには気を遣われますように。雄二様の行いがこの家の名に影響を与えますことをお忘れなく」
このように毎朝毎朝律儀に俺に注意を促してくる。昔からこうだった。もっとも、彼としては職務を全うしているだけなので怒りは起こらない。確かに俺は注意されなければならないような人間だった。
「……いってきます」
小声で答えて今度こそ俺は外に出た。扉は重かった。まるで牢獄のように。
「…………はぁ」
外に出るなり俺は溜息をついた。安堵の息だった。
この世界で唯一安らげる場所があるとするならそれは自室だが、この世界でもっとも恐ろしい場所は自室以外の家の中だった。あそこは一歩進むごとに嫌なものがある。何十年もそうだったせいで、もう麻痺してきていたが。
無意味に大きい門を抜けて街道に出る。振り返ればそこには巨大な洋館がそびえ立っていた。これが俺の家で、生まれ育った場所だった。
両親は実業家というやつだった。何代も続く由緒ある家柄で、父はその何代目かの当主。母の家柄も誰も文句をつけない程のものらしく、誰から見ても完全なる成功者たちだった。
そんな彼らの唯一の汚点が俺だ。別に陰気だからというわけじゃない。
子供の頃から俺は、そういう一族の例に洩れず英才教育というものを受けた。教養や知恵を体得するために必要であろう全てを与えられた。最高の教師に最高の教材、完璧な管理。まるでベルトコンベアに乗せられたように、俺には教育という名の加工作業が行われた。
だが、それは失敗した。どれだけ金を費やしてどんなことをしても、俺にはなにかしら教養と呼べるものが備わらなかった。
両親の失望ときたらかなりのものだっただろう。なにせこういった家柄を気にするところは、長男が普通は後継ぎだ。それが大失敗に終わったのだから同情する。
そこで両親は苦肉の策に出た。後継ぎを俺ではなく妹に期待したのだ。俺に今まで行っていた最高の英才教育を妹に施し始めた。そしてこれが大成功した。もともと頭も良くて要領も良い妹は優秀だったが両親が集中して時間と金をかけたことで、今では妹はどこに紹介しても見劣りしないぐらいの才女となった。
──俺は妹が苦手だった。負い目があったのだ。妹がいることで両親も後継ぎが決まり、全てが丸く収まった。だが俺が無能なせいで妹に後継ぎというものを押し付けてしまった。それがどのぐらいの重圧なのかは、それこそ身を持って知っている。だから、俺は妹を避けるようになった。そういった意味では食事がひとりになったのは良かった。
人生を振り返ってる場合じゃなかった。さっさと学校に行こう。
学校までの道は平坦で、これといって語るところもない。住宅街を抜けて商店街を通り、軽い坂道を登っていけば学校だ。
俺は通学路というものが好きだった。道を歩いているときは皆が通行人だ。俺のことは誰も見ちゃいないが、俺は“通行人”というものの一部になれる。ひとりでありながら、ひとりでない気分が味わえる。
十数分後、俺は学校に到着した。それなりの家柄が集まる学校──ではない。共学制の市立学校だ。
この学校に入る頃には俺はもう両親に見放されていた。将来のない人間にかける金はないということだ。両親の判断は正しいと思う。
校門からは続々と生徒たちが校内へと入っていき、そのうち数人に教師が挨拶をしていた。それらの間を縫うようにして俺も中へ入った。今まで教師に声をかけられたことはないし、今日もかけられなかった。
靴を履き替えて真っ直ぐに教室へ。鞄を置いて、中身を取り出す。次の授業の準備に二分もかからない。俺に声をかける人は居ないので授業までは外を見て過ごす。こういうとき、窓際の席は都合が良かった。
通学路は好きだったが学校というものは嫌いだった。この中で確かに俺は“生徒”というものの一部だし誰も声をかけてこないからひとりだが、誰でも誰かしらと話し、関係性を持っている。誰にも見られないのは俺ぐらいだろう。
この中で俺はひとりで──完全にひとりだった。ある日居なくなったところで、誰も気がつかないだろう。
始業を知らせる電子音がスピーカーから響く。授業も大して好きではないが、義務なのでこなすことにした。
全ての授業が終了して帰宅の準備をする。
昼休みも当然ひとりだったので、これといって語ることがない。人が大勢いる食堂で食べたってことぐらいか。
部活に入っているわけでもないので早々に帰る。帰りの道は行きと違って少し気分が悪い。普通は学生服を着た連中は部活をやっているか、友人と帰っている。俺だけがひとりだ。
何も起こらずに家に到着。足早に帰るせいか行きより数分早く着く。
門をくぐって玄関から家の中に入ると早速使用人が出迎えてきた。
「お帰りなさいませ、雄二様」
今朝遭遇した若い使用人だった。執事よりマシだが会わないのが一番だ。相変わらず深々と頭を下げてくるのでこちらも会釈をする。首がぎこちなくしか動かないから、しない方がいいんじゃないかとさえたまに思う。
どうでもいいが、使用人は妹のことをお嬢様と呼び、俺のことは名前で呼ぶ。理由は知らない。恐らくは家の人間かそうでないかで区別するために、両親が命じたのだろう。何となくその意図は感じ取っていたし、そのせいで今まで気にしたことはない。当然の処置だとも思う。それだったらいっそのこと使用人に敬語を使わせるのをやめればいいのに、とも思ったが、それだと俺の世話をするのもやめるという話になる。洗濯はともかく、食事がなくなるのは少し辛い。
じっとしている俺を不審に思ったのか、使用人がこちらを見ていた。何でもない、なんていう意思表示はせずに俺は黙って階段の方へと歩いていった。
帰宅したらとにかく早く自室に戻る。二階に上がり、廊下を進み、自室に入って扉の鍵をかける。
「…………はぁ〜」
自然と安堵の息が口から漏れ出した。やっとあるべき場所に帰ってきた、そんな気分だった。
鞄を机の上に置いて、室内靴を履いたまま寝台に思いっきり横たわる。力を抜いて身体を沈めれば全身から疲労が抜け出ていくような感じがした。胸の奥が、少しすっとする。
十分に休んだ後で俺は机に向かった。勉強のためではない。勉強など今更する気も起きないし、赤点を取らなければどうだっていい。
机の上にはパソコンが置いてある。俺が自室にいるときにかなりの時間を費やす暇潰し用の道具だ。
基本的に俺の人生はこれを使っているか、読書しているか、“それ以外”をしているかのどれかだった。
ネット上のニュースを流し読みして、なんとなく気になった動画を見漁り、大型掲示板の無意味なやり取りを眺める。毎日やってるルーチンワークだった。
別に楽しいわけじゃない。暇潰し以外の何物でもなかったが、これをしている間も俺は“他のこと”を気にせずに済んだ。時間を浪費している自覚はあったが気にしたことはない。
そうしてあっという間に数時間が経過して夕食の時間になった。毎日決まった時間なので、今から向かうとちょうどいい。
扉を出て食堂へ向かう途中で、使用人が声をかけてきた。
「雄二様、今夜のご夕食は旦那様と奥様がご一緒されるそうです。お嬢様はご友人のところで食事を取られるそうで」
その一言で自分の顔が険しくなったのが分かった。妹がいないのはいいが、両親がいるのは最悪以外の何物でもない。
小さく頷いてから俺は再び歩き始めた。だがその足取りは最初よりもはるかに重かった。
食堂に入ると先に席についている両親がいた。軽く会釈をして俺も席につく。二人は俺を一瞥すると何も言わず視線を逸らした。両親からすれば俺は見るのも嫌なのだろう。俺もそうなのだからお互い様だ。
すぐに食事の用意がされて食べ始めることとなったが、ここからが厄介だ。両親は当たり前だったがテーブルマナーにうるさい。そのことを俺は知ってはいたが、月に一度あるかないかのこのときのために普段からマナーを保持しておく、という努力はできなかった。
些細なミスでも父が睨むように俺を見て、見下すように鼻を鳴らす。怒鳴られたり文句を言われたりということは、もう何年も前からされなくなった。だとしても俺には恐怖でしかなかった。今も手が軽く震えて冷や汗が出てくる。緊張のせいで味など分からない。
なるべく機械的に速やかに、目立たないように動作を続ける。まるで拷問されているような気分だ。 一体自分がなんの作業をしているのか、だんだん分からなくなってくる。心臓の音が煩いぐらいに大きい。親の視線を感じるだけでナイフを突きつけられるような気分になる。
ふと気がつくと両親は食べ終わっていた。一方で自分はまだ半分以上残っていた。
父が使用人になにかを話すと、二人揃って席を立った。これでやっとこの拷問から抜け出せる。そう思っていたところで、俺の後ろで父が立ち止まった。
「──食事もまともに取れない無能め」
小声でそう言うと何事もなかったように両親は食堂からいなくなった。これが、何ヶ月かぶりに聞いた父の言葉だった。
反論などなかった。全くもって父の言うとおりで、俺はこの家において無能以外の何物でもない。両親の反応や言葉は完全に正しい。どこも間違っちゃいない。間違っているとしたら俺だ。
だというのに、そんなことは分かりきっているというのに──突き刺されたかのように胸に痛みが走った。何かが胸の奥で広がっていき、圧迫されるように苦しくなる。抑えようとしても抑えきれずに破裂した。その瞬間、俺は嗚咽を漏らして泣き始めていた。自分がどうして泣いているのかが俺には分からなかった。
数分ほど経ってから食事を再開した。とっくに味を感じられなくなっていたし両親もいなくなったのでマナーを無視して口に放り込んだ。とにかく早く部屋に戻りたかった。
そうして今までの倍の速さで食べ終わって、俺は部屋に戻った。
洗面台の前に立って鏡で自分の顔を確認する。いつも以上に酷い顔だ。冷静になった頭が何故こんなことで泣くのだと責め立ててくる。そんなこと、俺が知るかよ。
顔を眺めていてもいいことはないので寝台の方に戻る。助けを求めるように、俺は本棚に隠してある本の一冊を手に取っていた。本の内容はよくあるもので、取り柄のない男がある日、急に違う世界で目が覚めてそこから色んな人間と出会い、冒険をして、なにかしらの成功を収めるという話だ。
読んだところでなんの知恵もつかないが、この現実味のなさを俺は気に入っていた。
今読んでいるところもちょうど、主人公である若い男が同じような若い女となにかハプニングを起こしては、その途中や結果で身体が密着するだのなんだのと、現実ではあり得ない展開が起こっている。俺もこういう状況には無意味に憧れる。
本に書かれた情景が脳裏に浮かび上がる。この世界では絶対にあり得ない幸運と成功が起こる世界を想像すれば、まるで自分がその中にいるかのように錯覚できる。その間は、ここではないどこかに居ることができるのだ。いい気分だった。
本を読み、そうしているうちに時間が過ぎ去ってくれる。眠気が来たところで俺は本を仕舞って寝台に入った。その頃にはもう、今日あった嫌なことを忘れたような気になれた。
本を読んでその世界に没頭している間だけ俺は救われた。いや、正確には、救われるような気分が味わえた。このなにもない現実から少しの間でも逃げることが、俺にとっては救いだった。本の世界には父も母も妹も、そして俺自身さえもいない。あるのは都合のいいものだけ。本当に、あり得ない世界だ。
分かっているからこそ、俺はその世界に浸るしかなかった。
寝台に入ってしばらくして。眠気が十分に広がってきて夢と現を行き来し始めたぼんやりした頭で、ふと考える。もしも俺が異世界に行けたら、どうなるのだろうか。
異世界に行く、なんてことはいつも考えている。ちょっとした憧れだ。だが果たして俺のような無能が行ったところで同じように成功できるのだろうか。話に登場する人物は現実にはあり得ないほどの幸運を持っているか、あるいは人に好かれるような性格をしている。俺は違う。
だからきっと仮にそうなったとしても俺ではなにもできずに終わるのだろう。当然の話だ。当然の話ではあったが、そのことを考えると少しだけ悲しくなった。俺が幸福を得る方法は、きっとどこにもないのだろう。その資格がないがために。
そのことを理解したところで、俺は眠りに落ちた。
これが俺の一日で、俺の世界だった。多少の変化はあれど大部分で違いはない。毎日学校という義務をこなし、無為に時間を浪費して、現実逃避をひたすらに続ける。無能らしい毎日だった。
そう──“だった”のだ。
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