彼に似た星空
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12.あの日
昨晩彼から渡された指輪をはめた左手を見るたび、私の顔は力なくにやけてしまう。もう何度、私は自分の左手を見ただろう。そして何度私は、その左手に輝くケッコン指輪を見ただろう。もはや数えるのをやめて久しい。
「んふふ〜…テートク…テートクぅう〜…愛してマース…デュフフ…」
「ひええぇ……お姉様が朝から何やら気持ち悪い…」
比叡から私への、希少価値の高い辛辣な言葉すら、今の私には耳に届かない。それほどまでに今日の私は有頂天だ。その後『でもそんなお姉様もフツクシイ…』とつぶやいているあたり、比叡は今日も平常運転だ。逆に言えば、いつも通りの比叡が辛辣な言葉を吐いてしまうほど、今日の私は浮ついていると言えた。
「お姉様がうれしそうなのはいいんですが…榛名はちょっと複雑です…」
一方の榛名は落ち込み気味だ。榛名もまた彼を慕っていたのだから当然だった。確かにちょっとだけ罪悪感はあったが、たとえ愛しい妹であっても彼だけは譲れなかった。
「金剛お姉様、そろそろ執務室に行きましょう。榛名もほら元気だして」
霧島は霧島で、今日はいつにもまして完璧な参謀具合だ。常に暴走した空回りを見せる比叡をのぞけば、妙にポヤポヤしている私と、そんな私の横で落ち込んでいる榛名…これは自分がしっかりしなければならないと思ったのだろう。
今日は私が出撃する日だ。私と共に出撃するのは比叡、榛名、霧島に加えて、重巡の青葉と、最近航空巡洋艦に改造された鈴谷。比較的鎮守府に来て日の浅い青葉と鈴谷の練度向上が、今日の出撃の目的だ。出撃する海域も危険度が低く、練度向上にはもってこいの海域だ。
「というわけでよろしく頼む。正直お前たち4姉妹が護衛につくのはコスト的にどうかと思うが、まぁギリギリを攻めて青葉と鈴谷を危険に晒すよりはいいだろう。資材より優先すべきは、二人の無事だ」
「鈴谷たち愛されてるねぇ〜」
「アホ。それよりお前、他の重巡の子に比べると火力がそんなに高くないんだから、その分瑞雲での先制攻撃をうまく使って、敵とのダメージレースに負けないようにしなよ?」
「りょうかーい。まー鈴谷に任せといてよ!」
鈴谷は鎮守府に来た時から、そのありあまる馴れ馴れしさで彼ともすぐに仲良くなった子だ。最初は彼を狙っているのかとも思ったのだが、他の艦娘たちとの接し方も同じだったため、単純に彼女は、友人を作るのが得意なタイプの子なのだと理解した。特に今では、こと提督に関しては私は誰にも負けない自信がある。左手にその証が輝いている。
「青葉は積極的に砲撃を狙っていけ。それと、いつぞやみたいに戦闘中に100万ドルの笑顔で“敵はまだこっちに気付いてない”とか世迷い言は言うな。ありゃおれの寿命に深刻なダメージがある」
「恐縮です! 青葉、今回は抜かりなく確実に索敵を行います!!」
「お前出撃の度に索敵も砲撃も雷撃もお任せって言ってるけど、その割に“相手は気付いてない”とか言うじゃんか…青葉が出撃の時はうちの胃薬がマッハで消えてくよ…」
青葉もちょっと変わった好奇心旺盛な子で、着任するなり“週刊青葉新報”なる雑誌の発行許可を彼に具申していた。青葉自身が取材し、記事を書き上げ、わざわざ印刷所と交渉して製本までやって酒保で発売している。時々私も買って読んでいるが、時に笑い、時に笑い、時に笑えるうさんくささの記事が満載だ。
「…うう…司令官、それは青葉へのモラハラとして週刊青葉新報に載せていいですか?」
「却下だ。そんなことしたらむこう10年は週刊青葉新報の発行を提督権限で禁止する」
「そんなぁ〜…」
彼は出撃の前には、毎回こうやって必ず一人ひとりに声をかけてくれる。死地に赴く私たちにとってこれがどれだけありがたいことか、私はよく知っている。出撃前にこうやって生きることへの執着を確認してくれるから、私たちはこのかけがえのない日常を守ろうと思える。同時に、このかけがえのない日常の中に戻りたいから、生きてこの鎮守府に戻ってこようと強く思える。彼がそれをわかってやっているかどうかは分からない。でも優しい彼のことだ。きっと心から心配で、出撃前の私たちに、こうやって語りかけてくれるのだろう。
「ではよろしく頼む。晩飯までには戻って入渠まで済ませることを厳命とする。今日は第六駆逐隊のみんなが作ってくれた甘口カレーだ。ちゃんと食べないと電泣いちゃうからな」
私たちが勢いよく返事し、敬礼を返す。彼も最後のこの瞬間だけは、真剣な眼差しで敬礼を返した。
「金剛、ちょっと残ってくれ」
出撃するため部屋から出て行こうとしたとき、私だけが彼からこう声をかけられた。視界の隅で榛名が少々つらそうな顔をしているのが見えた。罪悪感が少し湧いたが、それを顔に出してしまっては逆に榛名に対して失礼だ。私はあえて榛名の様子に気付かないふりをして、部屋に残った。
「テートク、どうしまシタ?」
「えーとだな…ゲフン」
「What? どうしたんデス?」
彼は顔を耳まで真っ赤にしながら、俯いてしまっている。一体どうしたというのか。
「テートク! 黙ってたら分からないデース! 日本男児ならハッキリ言うネー!!」
「あのな…? まず、こんなことは言いたくないんだけどな…?」
彼の隣で書類を片付けている五月雨が、笑いをこらえきれないらしく、自分の口を押さえてプププと笑っている。一体何がおかしいのか。
「んーとな…まず注意だ。金剛、気付いてる?」
「何デスカー? ワタシ、注意されるような悪いことは何もしてないでデスヨ?」
「気付いてないのか……どれだけ緩んでるんだ……さっきからずっと顔がニヨニヨしてるぞ?」
「……ぱーどぅん?」
「わざとらしくパードゥン?じゃないよ! おれが作戦説明してるときもずっと左手気にしてニヤニヤニヤニヤ……見てるこっちが恥ずかしいわ!!」
「ぇえ〜…だって昨日テートクから…うひひひ」
実は、自分の顔がずっと緩んでいたのは自覚していた。どれだけ顔を引き締めても、昨日のことを思い出してしまう。そして左手の指輪の感触を確かめて、それが夢ではないことが実感できると、自然と顔がほころび、自分でも気持ち悪いと思えるほど顔がにやけてしまうのだ。
「テートク……ワタシ、幸せデス……ドュフフフフフ」
「それはおれもだ……」
私は今、自分がそうしようと思わなくても、彼の一挙手一投足を目で追ってしまう。今なら彼のどんなに小さな声も聞き分け、どんなに小さな変化も見極めることが出来るだろう。だから、彼のこの小さなつぶやきが、私にはしっかりと聞こえた。
「んんー? テートクぅ〜今なんて言ったんデース?」
「なんでもないッ!」
「んんん〜? おかしいデース。私には確かにテートクのつぶやきが聞こえたデスヨー?」
「うるさいなー! おれも幸せだって言ったんだよちくしょー!!」
彼は立ち上がり、大声でそう叫んだ。少しからかいすぎたか。ついに五月雨はこらえきれないとばかりに口を隠しながらもブフォッと吹き出し、目に涙を貯めていた。いつもは可憐な五月雨にあるまじき反応だ。
彼は彼で、自分が叫んだ一言に恥ずかしくなったのか、さらに顔を真っ赤にしている。しかしそんな彼と目が合った途端……
「んふふ〜……んふふふふふふふふ……テートクぅ……ニヘラァ」
「んふ……んふふふふふ〜……こんごー……ニヘラァ」
私も彼も、気持ち悪い声を出してニヤケてしまう。我ながら浮かれている。私も彼も浮かれている。それほどまでに昨日の出来事は、私達二人にとって幸せな時間だった。昨日のことを思い出すたび、幸せな気分で胸が一杯になり、心の中が彼でいっぱいになってしまう。
「お二人ともマリッジ・ピンクはその辺にしておいてくださいね。きっとみなさん待ってますよ」
さっきまで呼吸困難になるのではないかと思えるほどに笑っていた五月雨にそう促され、改めて我に返った。確かに私はこれから出撃しなければならない。他のみんなが待っているのに、こんなピンク色の空間を展開している場合ではない。
「そ、ソウデシター…」
「う…失礼した。すまん五月雨…」
「いいえ〜。今日は私、金剛さんの代わりの秘書艦ですから」
大げさな咳払いをしたあと、彼はいつもの顔になり、私をまっすぐ見据えた。そこには先ほどまでのうわついた彼の姿はなく、この鎮守府を預かる、一人の提督の姿があった。
「今回の旗艦は青葉だが、いざという時は金剛を頼るよう、青葉に厳命してある。鈴谷と青葉はまだ練度が低いし、その上重巡としては二人共装甲が薄い。場合によっては軽巡の一撃すら致命傷になることも充分考えられる」
「そうネー。当たりどころが悪いと一発大破もあるかもネ…」
「応援で空母勢も出せないこともないが、資材量から考えると、金剛たち四人が護衛では限度だ。万が一の戦力も残しておきたい。砲撃戦なら金剛たちに勝てる相手はいないはず。鈴谷と青葉を頼むぞ金剛」
「わかったネ! テートクのためにも鈴谷と青葉はワタシが絶対に守り通してみせるヨー!!」
昨日までの私なら、恐らく鈴谷と青葉をここまで大切に扱う提督に対し、ヤキモチをやいていたことだろう。しかし今なら…絶対的な信頼と親愛の証を左手に宿した今なら、素直に彼のために二人を守ろうと思えた。彼が愛しているのは、私なのだから。
「じゃあ行ってきてくれ。いつものように無理はしないように。少しでも異変を感じたら、たとえ小破判定でも撤退するように」
「わかったネー!! それじゃあ言ってくるヨー愛しのダーリン!!」
「ダーリンはやめろッ!! 恥ずかしいからッ!!」
「五月雨ー! ワタシがいない間、テートクのことをよろしくネ!!」
「おまかせ下さい! 金剛さんも充分気をつけて、頑張ってくださいね!!」
「おーらい!! じゃあテートク、五月雨、行ってくるネー!!」
「頼んだ!!」
「いってらっしゃい!!」
踵を返して執務室を出る前に、私はもう一度彼を見た。いつもの優しい彼の顔がそこにあった。あの顔を見るだけで私は、何者にも負けない力が自分の中に沸き上がってくるのを感じた。指輪の力だけではない。彼との絆が私に力を与えてくれていることが、私には実感できた。それは彼も同じようで、彼もまた、私を見つめて力強く頷いてくれた。私はドアが閉じるまで、ジッと彼と見つめ合った。
私が見た彼の姿は、それが最後だった。
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