| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

乱世の確率事象改変

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

黒に包まれ輝きは儚くとも確かに


 静寂に支配される場には幾重もの視線。二人の女を見つめる目、目、目。
 豊満な胸や艶やかな肢体に厭らしく向けられるモノであるのか否か……隣に侍っている焔耶よりも随分長く生きてきた厳顔――真名を桔梗――だけが気付き得る。
 男特有の視線は確かにある。兵士と言えば男ばかりだ、色気溢れる女が来ればやはり各所部位に目を奪われないわけがなく、自然と目で追ってしまうのも詮無きこと。
 桔梗は自分の肢体や美貌が男の目を惹くことを理解している。この年まで戦場での生き様に拘って来たからか男とのあれこれなどあったことは無いが、やはり街を歩けば男の視線を集めていることなど気付かぬわけもない。
 慣れたモノで、兵士達の見つめる視線を意にも返さず歩こうと……普段のように気当てを行って腰を抜かしてやるつもりだった。
 ただ、此処に集まる男共は益州の兵士達とは少しばかり違った。

 ぐ……と圧されたのは分かった。一人か二人か、確かに足が震えたのだろうことも分かった。だが、彼らはなんのことやあらんとその場で重心を保ち、鋭くぎらぎらと、生き生きとした視線を投げてきた。
 口元には不敵な笑みが、瞳の奥には純粋な歓喜が、表情には期待と渇望が溢れていた。

――将が上モノなら兵士も上モノ……くくっ、さすが……これが噂に聞く黒麒麟の身体かよ。

 焔耶は気が立っているのか、彼らがどれほどの上モノか理解していない。男に囲まれている事に対して不快感を隠そうともしていなかった。
 いや、待たされているという事が余計に彼女を苛立ちに染めている一番の理由であろう。
 落ち着きなく靴を鳴らし、兵士達の視線に耐えながらも待つこと幾分……漸く目当ての男が場に現れる。

 黒一色。夜に溶け込むかのような闇色。歩む速度は別段急ぎも感じさせずゆったりと、羽のような外套と背中に背負う異質な長剣が足を進める度に揺れていた。
 隣には眠たそうに目を擦る少女が一人。昼間に二人が出会ったモノとは違うことに一寸驚いたが、軽装を纏っている姿から武人だと理解し桔梗と焔耶の二人は気を僅かに引き締める。

「アニキぃ……あたい眠いんだけど」
「文句なら突然来た客人に言ってやれ」
「文句言うのもめんどくさい。ってかさ、アニキが出るなら寝かせてくれてもいいじゃん。詠だけずるい」
「えーりんはいいんだよ。俺への客に対応なんざしなくていい。第九の部隊長が兵士全員揃ってる中に居ない方が問題だっての」
「うぅ~……それでもさぁ……」
「ほら、しゃきっとしやがれ。奴さんが見てるぞ」
「む……」

 緩い会話が二人にも聞こえる。緊張感の欠片も無い彼らに対して、焔耶のこめかみにまた青筋が走った。

「桔梗様」
「よいよい。こちらが急に押し掛けたんじゃ、門前払いされんかっただけマシじゃろうて」

 ただ、桔梗は二人の様子を意にも介しておらず、楽しそうに声を上げた。
 やっと目の前まで辿り着い男と女に、彼女は会釈を一つ。

「夜分に失礼した。黒麒麟とは昼間に会ったがそちらは新顔じゃの。儂は厳顔、劉州牧の臣にして劉璋軍の総まとめをしておる一人じゃ。
 こっちは儂の弟子である魏延。一応は劉璋軍に所属しておるがほとんど劉備軍と変わらんて。では、よろしくのぅ」

 妖艶に笑いながらも、彼女は好戦的な気を瞳から溢れさせ猪々子を見やった。
 一寸の内で猪々子の表情がこわばる。先ほどまで眠気を訴えていたとは思えない程に。目の前のモノの実力を、彼女は正しく理解したのだ。

「……よろしく。あたいは文醜。徐晃隊第九番隊隊長の文醜だ」

 少し堅くなりながらも圧されずに、猪々子は桔梗の瞳をじっと見つめ返した。
 嬉しそうに吊り上った口。桔梗の目には獰猛な色が浮かび上がる。噂に聞いたことのある袁家二枚看板の片割れ、その心力の強さに歓喜していた。
 む、と眉を寄せた焔耶は、ジトリと猪々子を見据えて口を開いた。

「部隊長……なのか?」
「うん、そうだぞ。あたいはあそこに居る第四隊の隊長と一緒で部隊長だけど?」

 それがどうかしたか、と第四の隊長を指差しつつ首を捻って愛らしく問いかけた猪々子。秋斗は後ろでどこ吹く風。自己紹介に関わるつもりは無いらしい。
 猪々子の指の先を見て焔耶は余計に眉を寄せた。昼間に会ったことのある男が部隊長で、猪々子と同じ扱いなことに彼女は混乱していた。

「噂に聞く袁家の二枚看板が部隊長――――」
「あ! あたいのこと知ってんの!? にひひ、聞いたかよアニキぃ♪ あたいだって結構有名人みたいだぜ!」
「へー、良かったじゃないか」
「うっわ、てきとー……可愛い部下が有名だって分かったんだからもうちょっとなんかあるだろ?」

 焔耶の続きの言葉もおかまいなしに、猪々子はきゃいきゃいとはしゃぐ。
 客を無視するカタチになっているが、秋斗はおかまいなしに猪々子のはしゃぎに乗っかった。

「へいへい……うわー、文醜様さいこー。益州にまで名が知れ渡ってるなんてやばーい。なんかすごーい。なんかやばーい」
「ふざけんなクソ野郎! おちょくってんのか!」
「ああ、おちょくってるが?」
「く、クソ野郎めぇ……」
「クク……お前ら、猪々子が褒めて欲しいってよ!」

 その合図を待っていたと言わんばかりに、遠巻きで聞いていた彼らの口が吊り上る。
 一人遅れてきた隊員に掛ける情けなど持ち合わせていない、と言わんばかりに。

「文ちゃんすげー」
「文ちゃんやべー」
「いやー、マジすげーわぁ」
「マジでやべーわぁ」

「さすが文ちゃんですぅ」
「憧れちゃいますぅ」

「胸が無いけど」
「ちょっとバカだけど」
「色気なんて全然ないけど」

「「「「「文ちゃんってすげー」」」」」

 控えている彼らでさえ乗っかる始末。もはや客人への対応としては最悪の部類であった。
 ふるふると、焔耶は拳を固めて震えていた。桔梗は気にしていないようで、楽しい余興だと言わんばかりに喉を鳴らしている。

「てめぇら……いいぜ……あたい、久々に頭にきちまったよ……」
「来いよ文ちゃん!」
「武器なんざ捨てて掛かって来い!」
「ああ!? てめぇら――――」
「いい加減にしろ!」

 怒声一喝。
 ついにはち切れた怒りが焔耶の口から溢れ出た。背中には燃える炎を幻視しそうな怒気。
 睨みつけられた猪々子は、やっちまったというようにぽりぽりと頭を掻いて頭を下げた。

「ご、ごめん、なんか楽しくって」
「なんかとはなんだ! 客をほっぽらかしてふざけ合うのがお前らの流儀か! 軍の程度が低すぎる!」

 素で挑発を続けてしまった猪々子は、そういえばと秋斗のおちょくりを思い出して矛先をそちらに向けた。

「悪かったって! ってかアニキのせいだし!」
「まあそうだが……つまんねぇ空気になるくらいならこっちの方がいいと思ってな。非公式の会合で取り引きするわけじゃあるまいし、“武器持ってきてる将二人相手にまともな客対応なんざするわけねぇだろ”」

 すらすらと語りだした彼が最後の言葉を言い切ると共に、焔耶に鋭い視線が突き刺さる。
 細めた目からは殺気がにじみ出る。礼儀など取る相手では無い、お前らを客としてなど見ていない、そういった敵意を振りまいて。
 びくりと肩を跳ねさせた焔耶は、ぐっと少し身を引き言葉が止まる。

――こやつ、初めから焔耶に突っかからせるつもりで……これ以上は儂が相手にするべきか。

 内心でごちた桔梗が……す、と一歩足を進める。
 笑みを崩さず、圧されることもなく、黒瞳に確りと黄金を合わせ……ぺろりと己の唇を舐めとった。

「くくっ、入り口で外させろと言わんかった男がよう言う」
「殴り込みに来るってんなら武器を取り上げちゃ面白くない。間違いでも起こしてくれた方がこっちとしては助かるんでね」
「ほう……此処に居る誰かが死ぬことで利を得たかった、と?」

 突き詰めればそういうこと。彼の発言は、桔梗達が兵士を殺してくれた方が好都合だと言っているに等しい。
 意図して不審を与えさせるような言い方に、彼が感じるのは不快ではなく感嘆。

――なるほど、やっぱり好戦的な戦バカってわけじゃないらしい。こりゃあ骨が折れる。

 評価を下すのなら上手さではなく、狡さ。
 思考誘導は何も秋斗だけの専売特許では無いが、昼間の仕返しとばかりに行ってきた辺り、桔梗の経験が読み取れた。
 ただ、切り替えしには感嘆が浮かぶも、彼の心にはもう一つ別の感情が上がっていた。

――しっかし……あんまりバカ共を見誤らないで欲しいなぁ。

 それは呆れ。
 苦笑を零した彼は桔梗の瞳だけを真っ直ぐ見つめ、引き裂いた口はただ不敵に、冷徹な目は信頼のみを映し出す。

「クク、バカ言うなよ。此処を何処だと思ってやがる? なぁ……お前ら」

 ぐるりと彼が見渡せば、桔梗に向かう幾多の瞳が爛々と輝いていた。
 怒りは無かった。不快さも無かった。侮辱も無かった。
 只々あったのは、面白いと言わんばかりの不敵さだけ。自分達を簡単に殺せると思っている武将が居るからと、彼らの持つ渇望が荒れ狂う。
 秋斗に倣って見回した桔梗は、兵士達の表情を見てぶるりと震えた。恐れからでは無く……死地に立ったかのような武者震いであった。

「……ふふ……いいのう、お主の兵士達は」

 戦ってみたい。桔梗の心に浮かぶのはそんな想い。
 力と力、心と心、想いと想い……全身全霊、魂の一片に至るまで全てを賭けてこの部隊と、黒麒麟の全てと戦いたい。
 どうしようもない戦人の性を抑えるのに必死だった。武人として秋斗と一騎打ちはしてみたい……しかしそれよりも、戦人として、兵士を率いる将として、桔梗は黒麒麟と戦いたくなった。
 ぽつりと零された一言は羨望に染まっている。自分の部隊よりも遥かに強い想いを感じ取って、その部隊と共に戦える彼を純粋に羨ましく思った。

 数瞬の後、分かってくれたなら結構とばかりに彼は踵を返した。
 ゆっくりと歩くこと二歩、おざなりに据えてあった椅子に腰を下ろして脚を組む。尊大に、何処かの覇王のように。

「さて……せっかく来てくれたんだ。そろそろ話を聞こうじゃないか」

 凡そ客にするべきでは無い態度は焔耶をまた苛立ちに染める。素直な所は美徳だ、と彼は思うもさすがに口に出さず。
 礼儀を失している時点で、儒教を重んずるこの大陸で責められるべきは彼である。焔耶の苛立ちや怒りは当然のこと。昼間の焔耶の発言は、秋斗が今回行った数々の無礼に比べればまだ可愛らしい方だ。
 ただし、桔梗は何も責めるつもりはない。袁家大虐殺や真名開示と、常軌を逸した命令を下した二人の内一人である秋斗に対して、そんな事は些末事だと思えるが故に。
 礼儀を無視するのなら礼儀を無視して返せばいいだけ。元より堅苦しいのは苦手でもある。郷に入っては郷に従え、である。

「いやなに、実の所会って話したいとは言うたが、儂からは提供する話題など持ってきておらんのだよ」

 苦笑が一つ、続けられた言葉に呆気に取られたのは猪々子と秋斗、いや……場に居た全てである。焔耶でさえも目を丸くしていた。

「き、桔梗様……?」
「なんじゃ、悪いか? 儂はただ黒麒麟に興味があったから来た。こんなことで嘘をついてどうする」
「え、いや……あぅ、そ、それはそうですが……」
「ですが、なんじゃ?」
「いえ、だって……こいつは……そ、その……」
「ええい、まどろっこしい! 言いたい事ははっきりと言わんか!」
「ひっ、は、はいっ!」

 怒鳴られ、ビシっと直立した焔耶。そんな二人のやり取りを足を組んだまま眺めている彼は苦笑を零し、隣で目を真ん丸にしている猪々子に話し掛けた。

(なんかアレだ……こいつら俺らのこと言えねぇよな)
(う、うん。あたいが怒られたのって結構理不尽じゃねぇ?)
(クク、許してやれよ、おあいこってことでさ)
(うー……まあ、いいけど)

 お構いなしにぼそぼそと、そんな彼らを見つけてまた焔耶の苛立ちが増す。
 しかし今回は彼らに突っかかることなく、目を瞑ってゆっくりと深呼吸した後、桔梗に己が疑問を零した。

「……桃香様をあんな風にした男に対して、桔梗様はどうして興味を持たれるのですか」

 苦い吐息と悪感情。嫌悪と憎悪が滲み出ていた。
 ふむ、と一つ唸った桔梗は返答に時間を置きたい様子。真摯に見つめる弟子からの疑問に、しっかりと答えない師などいないのだから。

(おいアニキ、何してきたんだよ)
(黒麒麟の主に挨拶してきただけだ)
(それだけであんな恨まれるもんか!)
(知らん。俺が言った言葉で“あの女”がどうなろうと興味ない。此処が痛まなかった時点で“あの女”は俺に必要ないし)

 対して、猪々子も焔耶の発言から疑問をぶつけていた。返された答えはいつも通りに訳が分からないモノばかり。
 トン、と胸を叩いた秋斗から僅かに細められた瞳を見つめて、猪々子はぎゅうと眉を寄せた。

――こんな冷たい目ぇしてるアニキ……初めて見た。

 将にも王にも軍師にも、兵士であっても民であっても、誰に対してであれ確かな感情を向けるはずの彼が、その人物に対して何一つ感情を向けていない。
 言葉通りに、彼はなんら興味を持っていないのだ。敵対も、親和も、嫌悪も、好意も、何もかも。
 だからこそ違和感があった。否定も肯定もしない人間ではあっても、無関心の極限とも言える今の様子が、秋斗という人間に余りにも不釣り合いに思えた。

 胸に冷たい風が吹き抜ける。
 変わってほしくない。猪々子はそう思う。誰に対しても、例え敵であれども冷たいようで冷たくない彼のままでいて欲しいと。

(そんな冷たいアニキ、やだ)
(冷たい?)
(うん、冷たい。あたいはいつものアニキがいい)
(お前が違うように感じるなら……そうなんだろうな。自分でも分からないんだ。なんでこんなに興味を持てないのか)
(アニキに分からないことがあたいに分かるわけないけど……なんかやだ)

 思ったままを口にした猪々子に、彼も思っているままを伝えた。
 猪々子だけでなく、雛里さえも知らない。今の彼でさえ知ることは無い。
 黒麒麟が歪んでいたことは知っていても、どういった歪み方をしているか等、昔の秋斗でさえ気付いていなかったのだから。

 自分の描く平穏のみを見据えていた黒麒麟は、初めから桃香の理想になど興味が無い事と同義で……そして絶望の淵、桃香が自身の描く世界を作れないと知り、自身が“劉備”を演じて未来を作り上げようと画策し始めた事は無関心の最終到達点。
 桃香という人間ではなく、求めたのは“劉備”の名。世界を変える為に必要だからと、桃香という人間を上書きしようとしていたということ。

 積み重なった歪みと大きな絶望の果てに黒麒麟は桃香から興味を無くした。
 外れかけた心の鍵から溢れた黒麒麟の無関心が彼に影響を与えていることに、記憶の無い彼が気付くけるはずもない。

 ただ、猪々子が嫌だと言ったことで自身の危うさを知ることが出来たのは、彼にとって幸運だった。

 うるうると潤んだ瞳を向けられてふと気づく。
 猪々子にこんな簡単に話せたのは、彼女が本心しか言わないと知っているからだと。
 問いかけに対しての答えが、自分を留めてくれると分かっていたからだと。

(……詠や月のことも、バカ共のことも、曹操軍の皆のことも、あたいのことだって、いつか興味無くなっちまいそうだから怖い……そんなのやだよ)

 寂しく哀しい感情を乗せて吐き出された言は、彼に真っ直ぐ突き刺さる。

(そういう奴は誰かと居ても一人ぼっちじゃんか。いつか大切なモノまで失くす。誰のこと言ってるかアニキなら分かるだろ?)
 
 思い浮かぶのは狂い乱れた将。
 たった一人にしか興味が無かった紅の将は、無関心の盲目で大切なモノを失った。
 もうあんな思いは沢山だと、猪々子は伝えていた。

――ああ、そうだな。あんな思いは二度と御免だ。

 するりと掌から抜け落ちた命。救おうとしたのに、救いたかったのに……自身のちっぽけさを思い知らされたあの時。
 今もジクジクと痛む後悔の傷を、他の誰かに与えたくなど無かった。

 にへらと猪々子に笑いかけ、秋斗はふるふると首を振る。

(大丈夫、あいつみたいにはならないさ。確かに俺とあいつは同類だけどさ……友達は大事にする性質なんだ)

 何が大切なのかは間違わない。
 秋斗は雛里の幸せを望んでいるのだ。いつか黒麒麟に戻った時、自分を想ってくれる優しい友達がきっと止めてくれるから、彼は周りの者達から興味を失うことはない。
 そも、記憶を失っても秋斗は秋斗。絆を繋ぎ想いが繋がった友から興味を失うことなど有り得ず、いつだって信じ抜くことしか出来ないのだ。

 ほっと一息。
 彼の答えを聞いた猪々子は、にしし、と歯を見せて笑った。

(友達大事にすんならあたいと一緒だっ♪ じゃあアニキはあたいとも同類ってことだなっ)
(いて……まあ、否定はしない。俺もバカだし)
(あ! 遠回しにバカにしてるだろ)
(さあ、なんのことやら。それよりあいつら、いつまで黙ってるつもりなんだ?)

 気楽にバシッと肩を叩いて、いつも通りのやり取りを一つで話は終わる。
 目の前の客二人を置いてけぼりにしていたと漸く気付いた二人が視線を向けてみると、神妙に瞼を閉じて悩む桔梗と、じっと耐えている焔耶の姿。
 幾分、やっと桔梗が目を開く。瞳にあったのは普段焔耶に向ける厳しさよりもさらに冷たい輝きであった。

「……言うておくが、儂は劉備軍を認めておらん」
「そ、そんな……何故ですっ」

 師からの答えは、桃香を絶対視している焔耶にとっては衝撃的に過ぎた。
 一寸呆気に取られて、その理由が知りたくて悲痛な声を上げた。

「主の影でこそこそと動く輩が気に喰わん。臭いモノに蓋をして終わらせようとする性根に嫌気がする。
 確かに白黒のけじめを付ける事案というのは国を治める上ではかなり少ない……が、儂ら年寄りには、やりきれん思いも少なからずある」
「しかし……もし、桃香様と劉璋が争えば多くの人々が血を流すことになります!」
「そうじゃな。血を流さないことこそが、国を治めるモノの使命であり、責務じゃ。国の治め方として、劉備軍の取る方策はこの上なく正しい」
「なら何故っ」

 行いの正しさを理解していながら認めない、分かっているのに同じ側に立たない。そんな桔梗を理解出来なくて、焔耶はまた問いかける。
 目を細め、大きなため息を吐いた桔梗は武器を優しく撫でやった。
 瞳に浮かぶのは……悲哀と後悔。ただ意思の輝きだけは、誰にも消せない程に強く。

「……クソ坊主が目を覚ませばきっと……と、そう願うのは悪いことかよ、焔耶」

 静かな言の葉であっても、否定を紡ぐことは許さない圧力が其処にはあった。
 悪政に堕落し、愉悦に溺れ、栄誉を甘受した辺境の龍を、彼女はまだ信じている。

――洟垂れのガキがいっちょまえに州牧になったというのに、儂ら臣下が見放して……どうする。

 悪い奴だと言われようと、ほんの小さな子供の頃から世話を焼いて来た主。いつかはこの男が龍になると信じて、桔梗は長い長い時を雌伏して過ごしてきた。
 やっと来た乱世、漸く手に入れた機会、空へ羽ばたき舞い上がる龍と共に戦えるかもと思った矢先……戦わないままで奪われる全て。

「儂のように考えておるモノは成都以外にも多いぞ。張任、冷苞、鄧賢などは徐庶と諸葛亮に何度諭されても聞く耳を以っておらんのは知っておろうに。
 老害と呼ばれようと、儂らは先代に恩がある。クソ坊主を一人前の龍にしなければ顔向け出来んわい」

 個人的な感情が半分。やりきれなさが半分。桔梗の心情はそんな所。
 確かに民の血を流すことは為政者の一人としては失格ではある。だが、劉璋という太守の忠臣としては、ぽっと湧いて出たような新参者に国を牛耳られる事に不満を持つのは当然と言えば当然であった。
 ぎらりと輝く黄金の目に、焔耶は何も言い返せなかった。

「忠義……儂が示すのはそれよ。この中途半端な状況を打破できるのなら、やっと太守になれたクソ坊主が返り咲けるというのなら……」

 ふい、と視線が秋斗に向いた。足を組んだ体勢のままそれを受ける彼は、少しも気圧されることなく緩く笑う。

「お前が考えている策か何かに、乗っかってやろうと思うてな」

 ほう、と吐息が一つ彼の口から洩れる。
 その隣、あんぐりと口を開けている猪々子は、敵である益州の将が言った言葉を頭に取り込めていない。
 焔耶も同様に、桔梗が示した桃香との敵対示唆を受け入れることなど出来なかった。
 そんな彼女達を気にすることなく、秋斗は桔梗に片目だけ細めてみせた。口元は、いつもの通りに引き裂いて。

「クク……バカかお前は」
「なんじゃと?」

 返されたのは嘲笑。
 忠義モノの心情吐露は、普通の人間ならば称賛してしかるべき。きっと華琳が此処に居れば桔梗が欲しいとでも言ったはず、春蘭が此処に居ればその心に敬意を表していたはず。
 だが、目の前に居るのはこの大陸でも一番の異端者。褒めることも、同情することも、欲することも無い。心の機微に聡い彼は冷静に、冷徹に今の状況を見るしかしない。
 思わず殺気だった桔梗も、そんな返しが来るとは思いもよらなかったらしい。

「そんなに戦争がしたいなら勝手にしてろよ。お前が自分で仲間を集めてやればいい。誰かの手を借りようなんて、甘ったれたこと言ってんじゃねぇや」

 は……と呆れを零して彼は喉を鳴らした。
 蔑みは他人に頼るその姿勢に対して。忠義を貶めるつもりは無く、忠義があるのなら自分で動けと発破を掛ける。

「それに、魏延がいる時点で劉備軍にお前の裏切り情報は抜ける。二重スパイの可能性も……あー、どういえばいいか分からないな……まあ、不振の芽を与えらえると思ってのことだろうけど、んなもん対価にすらなりゃしねぇ。一人で来てても同じこと、曹操軍以外の将と手を結ぶ気は無い。
 だから俺の返す言葉はこれだけだ。“自分の好きにすればいい”……ってな」

 突きつける予測は桔梗の逃げ道を封じる為に。

 例えば、桔梗が内通者になったとしても、二重スパイとして動く可能性もある。
 裏切りと見せかけて本当は黒麒麟の思惑を潰す為に来ていた……なんて事にはさせないと、秋斗は突き放すことでそれを封じたのだ。

 敵でさえも受け入れて策すら呑み込むのは華琳の遣り方だ。
 秋斗は同じことはしない。裏切りは可能性から根絶する。絶対に味方になるという確信を持てなければ、明のように利用することすら無い。
 元より、たかだか五千の兵しか連れて来ていない彼が、ただでさえ危うい橋を自ら叩き壊して渡るような愚を犯すはずが無かった。

「……なんとまぁ、用心深いことよの」
「俺は臆病なんでね。クク……どうせお前がどう動こうと、この益州は戦火に沈むがな。お前の話は聞かなかったことにする。せいぜい俺が引き入れる乱世を楽しんでくれよ」

 腕を頭の後ろに、椅子をキコキコと揺らし、悪役さながらに彼は桔梗と焔耶を見据えるだけ。

――やはり、一筋縄ではいかん相手か。しかし……昼間といい今といい、何故こやつは……

 思考に潜る桔梗は彼の発言に引っ掛かりを覚える。
 どちらに転ぶにせよ情報くらい引き出そうと思っていた彼女ではあるが、引き出せない上にまるで舞台の観客のような立ち位置に居続ける彼を不気味に思った。

「お前は戦わんのか?」
「お前らが俺達を殺しに来るなら戦うさ。俺達全員を殺した後でボロボロのまま曹操軍と全面衝突する気概があるのなら掛かって来い」
「自分達は殺されてもいい、と?」
「ははっ」

 再び問いかけた……瞬間、彼の纏う空気が変わる。長剣の柄を握り、尖った視線が突き刺され、重苦しい戦場の空気が満たされていく。

「さっきもそうだったし昼間っからも思ってたけどよ……お前ら二人共、俺達を簡単に殺せると思ってやがるよな? たかだか五千余りの一部隊に何が出来るって思ってんだろ?」

 ビシリ、と場に流れる気が張りつめる。彼の口元から、笑みが消えた。

「……あまり俺の愛しいバカ共を舐めてくれるな」

 静かで緩い声音が耳に響くも……鋼のように重く、氷のように冷たい殺気が場を包んだ。
 背中に背負った長剣に手を掛けただけで、まるで此処が一騎打ちの場になったと同じく。
 たらり、と桔梗の頬に汗が伝った。緊迫した空気をこれほどまで張り詰めて感じたのは初めてのこと。
 先ほどは部隊の者達の心力に歓喜が浮かんだ。今度は……秋斗個人が部隊に向ける想いの強さに彼女は呑まれた。

――これが黒麒麟か……己の部隊に其処まで思い入れがあるのなら、袁家の二枚看板を部隊長程度に置くのも納得できるというモノ……。

 渦を巻く黒瞳の奥底には、怒りとは違う昏い感情が在った。
 それは信頼と似ているが余りに歪な……狂信、と誰もが評するモノだった。
 耐えきれずちらと隣に目を向け、嬉しそうに笑っている猪々子を見つけて呆気に取られる。

「そん中にあたい達も入ってる!?」
「……一応は」
「一応ってなんだよ!」
「クク、お前達はバカ共とちょっと違うだろ?」
「ひっでぇな! あたいだって……そりゃアニキの使うあいつらには勝てないけど……」
「いつかは勝てよ? 期待してるぞ、九番隊長殿」
「むぅぅ……期待してるって言われて嬉しく思っちまう自分がなんか口惜しい……」

 膨れる猪々子と苦笑する秋斗に着いて行けず。
 一寸で切り替わった緩い空気は、先程の重苦しさの欠片も無い。
 あの場がこうも簡単に崩れるのかと、桔梗はどっと溢れ出る安堵と共に釈然としない想いを胸に抱く。

 別段、彼らは目の前に誰がいようと気にしない。徐晃隊の頃から、秋斗が作る空間は変わらない。
 戦場であっても、死地の前であっても、絶望的な状況に落ちていても、彼が居る場所はいつでも曖昧に過ぎるのだ。
 楽観的で感情表現豊かな猪々子の気質は、秋斗の遣り方に何処かぴったりと嵌るモノであったらしく、だからこそ、彼ら徐晃隊も受け入れが速かったのかもしれない。

――黒麒麟に兵士がついて来るのは、兵士達が黒麒麟を好いておるからか……ああ、なんとも……。

 桔梗の心に浮かぶのは羨望。
 敵だった相手ともこうして仲良くなり、しかもコロシアイをしたはずの兵士達と元敵将が信頼関係まで築いている。乱世で育まれた絆を見せつけられて、羨ましい……と子供のような感情が湧いてしまった。

 そんな桔梗とは対照的に、やっと思考が追いついたのかハッとした焔耶は……彼が途中でした発言を思い出し……苦い表情で口を開いた。

「貴様……無駄に戦を振り撒いて、大徳とはよく言ったモノだな」
「……俺は黒だからな。劉備と一緒にすんなよ」
「人の血が流れることをお前はなんとも思わないのか」
「それが嫌だから乱世を終わらせる為に動いてる」
「意味が分からん。お前は乱世を広げるとさっき言ったじゃないかっ」

 言葉には言葉で、即座に切り返す彼の言は焔耶を苛立ちに染めるモノばかり。
 次第にヒートアップしていく焔耶。秋斗は淡々と答えを繋いで行った。

「人を傷つけることで作れるモノもある」
「傷つけなくていい方法を考えろ! 傷つけて得るモノなど……」
「誰も傷つかず、誰も失われない茶番な乱世なんてもんは有り得ない。失うモノがあるから人は大切なモノに気付ける。失うことが怖いから人は大切なモノを守ろうとする。ただそいつらはみんな何も無くしたくないから、誰かの大切を奪って喰らって幸せに手を伸ばすんだ」

 この世界で見てきたこと、感じてきたこと、聞いて来たこと……全てから判断して言の葉を並べる秋斗は、無表情の奥で心の中に想いを仕舞い込む。

「決めつけるな! しかも桃香様がそういう奴等と同じだと言いたいのか! お前達が何もしなければもうこれ以上の争いは起こらないって桃香様も朱里も藍々も言ってるぞ!」
「見解の相違だな。俺達はこんな程度の世界で妥協するつもりは無い。争いを起こすし人を殺すし国を滅ぼす。中途半端で妥協したら手に入らないモノがあるんでね」
「妥協だと!? 人が傷つかない今を妥協と、お前はそう言うのか!」
「叩き潰さないと安心出来ない。明確に示さないと確信出来ない。完全敗北しなけりゃ理解出来ない。隣の芝は青く見えるし、友達が食べるケーキは甘くて美味しそうに見えちまう。人間ってのはそういうもんだ」
「訳の分からない例えを……だから、決めつけるなと言っている! 現に今の益州は――」

――水掛け論をしても意味ないんだが、分かってないのかこいつ。

「ちっ……いいか魏延……これ以上は平行線だが言ってやる」

 舌打ちを一つ。珍しく苛立ちが湧いた秋斗は、焔耶の言葉を遮って睨みつけ、歯を剥いた。

「俺とお前が分かり合えないように、誰かと誰かは分かり合えない。人が人である限り、争いってのは無くならん。それを事前に防ぐ世界を作るのが俺達の目的なんだが、今の大陸じゃ不可能だ。
 言葉で言い聞かせようとしても、俺にとっちゃお前の理論はただの押しつけでしかない。説き伏せられない時点で落としどころを見つけるしかない……が、お前も俺もそれをしたくないってわけだ。
 そんな時、理論を推し通すには力付くで認めさせるしか方法は無い。だからお前が今語ってる借り物の、劉備の持論を……俺を力付くで叩き伏せることで認めさせるがいい」

――力付くな時点で矛盾してるが。

 内心で思うだけで、彼はそれ以上言わない。言うつもりもない。

 例えば、犠牲を増やすような策を非難していたモノが、心満たされたいからと乱世を広げるような矛盾。
 例えば、人の生死を慮るモノが、自分の幸福の為にと人の死をより増やす乱世を広げるような矛盾。

 桃香の矛盾はそういったモノに似ている。結局は力に頼ってしまうことこそ、彼女の矛盾で理論破綻。
 背反する二律事象を……受け止め、呑み込み、背負えるか否か。桃香の理想を語るというのなら、彼女の矛盾を理解して居直れるくらいでなければ秋斗との論舌には勝てない。

 昔の秋斗が桃香と話していれば、少し違いはあるが、きっと今の彼と焔耶のようなやり取りになったことだろう。
 分かり合えず、落としどころを見つけることも出来ず、互いが互いに距離を置き、内部から崩壊し全てが台無しになってしまう。
 根気よく語り掛け続けても変わらないモノはあるのだ。それほど、秋斗の思考は桃香の思想と相入れない。

――まあいい。これでやっと“俺の予定通り”だ。

 矛盾を突くことは出来る……が、彼はしない。内心でコトが進んだとほくそ笑んだ。

「ちょ、アニキっ! 何するつもりだ!?」

 椅子から立ち上がり、彼は剣に手を掛ける。どよめき立つ周りにも、猪々子さえ気にせずに。

「今此処で試合をして、俺を倒せたのなら益州には何もせず、ただの使者として仕事だけ終わらせて帰ってやる。なんなら俺一人、曹操軍との協力関係を切って劉備軍に戻ってもいい。お前如きに勝てないようじゃ曹魏五大将軍とは言えないんだからよ。ああ、俺が勝ってもお前らには何も求めんから安心しとけ。
 クク……“お前が劉備の代わりに俺を倒して、劉備の理想は正しいと証明してみせろ”」

 唖然。
 桔梗と猪々子は突然のことに着いて行けず、周りで見守っていた兵士達も彼の発言に度肝を抜かれた。
 よもや、争いごとを好まない彼の方からそんな提案をするとは思わなかった。
 わなわなと震える焔耶の瞳には怒りの炎が燃えている。桃香の論を解そうともせず、己よりも下だと見下され、此処まで言われては黙って居られない。

「私を侮るなよ……黒麒麟。いいだろう。その勝負、受けてやる。
 桔梗様、お許しください」
「……いいじゃろ。其処まで言われて受けぬは武人の恥。好きにせい」

 敵から仕掛けられた誘いではあっても、焔耶の心を思えば止めるわけにもいかず。

――始めっから戦うつもりじゃったな、黒麒麟め。何を狙っておる。

 挑発も不遜な態度も、全ては焔耶を煽る為だと遅れて気付く。
 何を狙っているのかは分からない。ただの力試しとも思えない。桔梗の判断では焔耶に勝ちの目は無いが……彼の得られる利が不明過ぎて不気味に思った。

「お前じゃ俺に勝てない。街でよく観察させて貰ったが……お前は俺の可愛い部下のこいつよりも弱い」
「ふぇ!?」

 ポンと頭に一つ手を置かれて、急ぎ彼の顔を見るとやはり楽しげ。ついと向けられた流し目には、信頼と期待だけが浮かんでいた。

「元袁家の二枚看板とはいえ、たかが部隊長に私が劣るだと?」

 遅れて、焔耶の鋭い眼差しが猪々子に向く。
 バトルジャンキーな彼女の心に一寸だけ戦いたい欲求が湧く。どうしようもない武人の性は、目の前のモノで力試しをしたくて堪らなかった。
 しかして、彼女は“そんなモノは二の次だ”と欲求を振り払った。合わされた視線から目を逸らすことによって。

「で、でもアニキが戦うんだろ?」
「お前が戦いたいって言うなら俺の代わりに戦ってもいいぞ。どうせあいつだって劉備の代わりなんだ。代役同士で戦うってのもいいもんだろ」
「ええ!? やだよ! それってアニキの行く末をあたいが背負うってこったろ!?」

 約束を守るのが彼だから、代わりに戦って負けたのならどうなることか。
 負けるつもりなどさらさらないが、さすがに他人を、しかも曹操軍にとっての最重要人物を賭けの対象にすることは出来なかった。
 彼女にとって賭けとは、自分のナニカを賭けるからこそなのだ。

「背負えないってか?」
「発言の責任は自分で取れって言ったのアニキだろ!?」
「別に強要はしてないんだが……なんだ、戦いたくないのか……じゃあいいや」

 ため息一つ、同時に猪々子の心になんともいえないもやもやしたモノが湧く。
 せっかくなのに、と悪戯好きな子供のように拗ねた彼は、ぐるりと辺りを見回した。
 一人一人兵士の顔を見定めて、にやりと笑う。

「……知ってるかお前ら。魏延はな、えーりんの護衛にはお前らじゃ足りないっていいやがったんだぜ?
 男などにえーりんは守れない、兵士では将には敵わない……だってよ」

 昼間の発言を聞いていたのは二人。あの時は軽く流していた。別に気にすることでも無いのだからと。
 それは“戦場で出会った時に分からせてやろう”と思っていたから気にしなかったのだ。今の状況で彼が何を言いたいのか、二人は理解出来た。

「隊長、そりゃ本当か?」
「言ったな、連隊長も聴いてるぞ」
「ああ、俺らのこと知らないから無理もねぇとは思ったけど」
「へぇ……俺らが守れない、ねぇ……」

 誰もが、その場に居る全ての第四部隊のモノ達が、不気味に笑いを浮かべていた。
 嘲りとは違う、侮蔑とも違う、呆れとも違う……彼らが浮かべているのは、面白い、とただそれだけの子供のような感情。
 連隊長と部隊長がふっと小さな吐息を漏らした。一歩前に出て、彼らに向けて手を広げる。

「誰か行きたい奴はいるかよ?」
「バカ言え、皆行きたいに決まってる。なぁ、お前ら」

 部隊長の返しには……ざ、と乱れなき軍靴の音が応えた。
 ばらばらと乱れていた彼らの列は一歩だけの動きで隊列を為し、胸に手を当てる小さな動きで想いの在りかを指し示す。

『応っ』

 一寸の間を以って、彼らは黒麒麟の身体としての姿に切り替わった。一糸乱れぬ確かな返答。重厚な彼らの声が夜天の空へと重なり合う。
 連隊長と部隊長がくるりと回り、彼に向けて不敵に笑い掛けた。

「楽しい舞台を用意してくれてありがとよ」
「文ちゃんが行かねぇなら、俺らの誰かが行っても構わねぇよなぁ?」

 ポカンと口を開けたのは猪々子。敗北すれば徐公明が劉備軍に入ると約束した戦いを、彼らが代わりに行いたいとそう言っているのだから驚いて当然。
 秋斗を見ると、楽しそうな顔で目を細めていた。何一つ不安を浮かべていない、其処にあるのは彼らへの絶対の信頼……否、狂信だけ。

「たった一人だけで?」
「それがどうした」
「相手は武将だが?」
「だからなんだってんだ」
「責任重大な戦いなんだぜ?」

 にやりと、全員が笑った。皆の意思を声にして上げるのは、腕を組んで一番前に立つ二人。

「「だからこそ面白ぇ!」」

 彼の行く末を賭けていようと、自分達の力を示せる機会を得たなら示さずに居られない。
 敗北の可能性など微塵も考えない。責任の重さなど理解しつくしている。それでも己の輝きを示さずして何が男か。
 例え黒麒麟ではない徐公明であろうと、同じ目、同じ心、同じ想いを持つモノが出来ると判断したのなら彼らに出来ないはずが無い。

――嗚呼、そういえばこいつらって……あたいよりもバカだった。あたいも自分の強さの証明出来たのに、勿体ないことしたなぁ……。

 先程湧いたもやもやの正体に気付き項垂れる猪々子。ではあってもその表情は楽しみに緩む。
 小難しいことよりも自分達の意地を優先するようなバカ達が、やはり好きで好きで堪らなかった。

「クク……じゃあ部隊長、行って来い。第三のあいつを追い抜くには今しかねぇぞ」
「おうよ! もう第三のバカにでかい顔はさせねぇ。お前ら悪いな、ご指名だ。こればっかりは譲れねぇ」

 選ぶのは一人だけ。それなら、彼らの代表である部隊長が行くべき。
 徐晃隊では、女になど負けたくない、そして多くを守りたいという渇望が隊の誰よりも強い男こそ部隊長になれるのだから。

「けっ、帰ったら皆に“ちょこれぇとぱふぇ”奢れよ」
「俺の給金じゃ無理だっての。徐公明がそれくらい出してくれるさ。だよな?」
「……善処しよう」
「「「「「よっしゃぁぁ!」」」」

 我慢させるのだから、皆にも褒美はあげるべき。言質は取ったとはしゃぐ大バカ共の前から、ずいと部隊長が進み出た。
 イラつきながらも黙ってそのやり取りを見ていた焔耶が秋斗を再び睨み、ギシリ、と歯を噛みしめる。

「貴様ぁ……何処まで私を侮辱するつもりだ」
「侮辱? バカ言え。侮辱してるのはお前だよ魏延」
「なんだと?」
「さっきも言っただろ?」

 背を向け、ゆっくりと椅子を持って歩いて行く彼は、少し離れた場所で優雅に腰かけた。
 また脚を組み、悪戯を企む子供の如き目を彼女に送る。

「“あんまり俺の愛しいバカ共を舐めてくれるな”」

 どれだけの想いが其処にあるのか知らぬ彼ではなく、どれだけ血反吐を吐いて来たか理解しない彼でも無い。
 凡人に生まれたことに絶望せず、来る日も来る日も鍛錬を積み上げ、かけ離れた武力を持つモノに勝って誰かを守る為に心を高めてきた。
 彼らの中にも、たった一人だけ凡人から副将に駆け上がった男が居る。悔しさともどかしさに打ち震えながらその背を追い続けて幾星霜……その男に出来たことを自分達に出来ないはずなどないだろう。

 その男と戦った将が、今や彼らの同志になった少女が、その男の強さを認めていた。一騎打ちで負ける可能性は確かにあったと。命令を優先しなければ、きっとその男――副長は猪々子と最悪でも相打ちしていただろう、と。
 それなら、自分達が負ける道理は微塵も無い。自分達の指標である“あいつ”に出来たなら……今も戦い続けている自分達に出来ないはずがないではないか。
 こんな絶好の機会を与えられて、黙っていることこそ間違いだ。

 秋斗は彼らの想いを間違えず、彼らも秋斗の理解を間違えない。

「あいつらは大陸で最強の一己大隊、袁家を絶望に落とし、孫呉を蹂躙し、幾多もの戦場を地獄に変えてきた……“徐晃隊”なんだぞ?」

 今は失われた部隊の名を聞いて彼らの心が震える。嗚呼、嗚呼、と涙さえ零れそうになる。

 血反吐を吐き続けて研鑽してきたのは誰の為か。 
 俺達はいつだってたった一人の主にしか従わない。
 正しい名で呼んでくれとどれほど願っただろうか。
 主の為の部隊で居させてくれとどれほど希っただろうか。

 まだ……まだ戻らないが、一緒に泥だらけ血だらけになって強くなってきた主なら、此処で俺達を信じぬはずが無い。
 主とは違えども、“俺達と同類の徐公明”がそう呼ぶのなら、今一度……真の名を以って我らの想いの華を此処に咲かせ、徐公明の心の内に居る“愛しい主”に届けよう。

 至り、個人個人の想いが最高潮まで昇りつめた。

「魏延の武器はそれしかないんだろ? 慣れない武器で戦われてもこいつらは満足しない。殺すつもりで掛かればいい。誰も恨みやしねぇんだから」
「ああ、構わねぇ。こんな場所で殺されるならその程度ってこった。第四部隊の隊長として相応しくねぇから死んで正解だ」

 何処からか、カラン、と槍と剣が投げられた。戦場で使うモノとは違う訓練用の武器を見て焔耶の怒りが頂点に達した。

「こいつを殺したらお前が戦え、徐公明」

 焔耶の前に進み出た部隊長を見て、直ぐに秋斗に視線を戻して呟いた。
 小さくため息を吐いた秋斗は焔耶と目を合わせようともしない。

「……いいだろう、勝てたらな」

 そんな事態にはならないと、秋斗は緩い笑みを浮かべて受け流す。
 部隊長が武器を拾うと同時に、ごそごそと懐を漁った彼が一枚の硬貨を取り出した。
 
「そろそろ始めよう」

 握った拳、親指の上に乗せた硬貨は戦いの合図。
 大きく息を吸った部隊長は腰を低く落とし、右手に剣を左手に槍を構えた。
 金棒を片手で軽々と一振り、肩に構えた焔耶はやっと部隊長と視線を合わせる。

「魏文長……お前を殺すモノの名だ。脳髄に刻むがいい」
「くくっ……俺は徐晃隊”第四部隊長。名は名乗らねぇが許してくれ」
「ふん、構わん。どうせすぐに忘れる」
「いや……お前が心の底に刻むのは俺の名じゃないからだ」
「なに?」

 部隊長は笑っていた。子供のように純粋でありながら、渇望に彩られた不敵さで。
 これほど嬉しいことがあるか。今の徐公明ではなく、部隊長の自分がこんな大舞台で戦える。徐州での絶望からいつだって願ってきた、“副長に追いつきたい”という願いを叶える機会を得た。
 歓喜こそすれ、怯えなど微塵も無い。

――見晒せ、俺が……俺達が……徐晃隊だっ

 自分が徐晃隊であるならば、敗北は決して許されない。

「我ら黒麒麟の身体っ!
 ……我らの名は全て……“御大将”と共に!」

 此処で全てを賭けていい。力も、想いも、命も……何もかもを賭けて目の前の女を倒すだけだ。

――あんたの重荷、今この時だけ俺が背負わせて貰うぜ……御大将っ

 失われた最精鋭と、亡き副長と、未だ帰還しない愛しき主……そして生き残る全てのバカ共の為に、抑えることなく“約束の言の葉”を紡ぐ。

「乱世に華を、世に平穏をっ」

 星の煌きが濃くなること幾重。
 小さな小さな金属音を合図に、二つの影は同時に動き出した。

 黒に包まれた空には、綺羅星として見られない小さな小さな星の一つ一つが、大きな光にも掻き消されず輝きを放っていた。


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。
遅れて申し訳ありません。

彼らはどうあがいてもバカ共で、徐晃隊なようです。
次は名も語られない大馬鹿者のお話。

ではまた 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧