海牛
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4部分:第四章
第四章
しかしだった。大山田にはその氷がどうしても氷には思えなかった。それで望遠鏡まで取り出してそれで見ることにしたのだった。
望遠鏡を取り出したところで。ヴィシネフスカヤはそんな彼女に対して苦笑いを浮かべた。そのうえで彼女に対して言ってきたのだった。
「その几帳面なところは日本人かな」
「女だからかしら」
自分では笑ってこう言うのだった。
「何か見たら確かめずにはいられないのよ、女は」
「じゃあ浮気はできないな。疑われたらそれこそ」
「それは日本でもロシアでも同じではないの?」
「ロシア女は少しおおらかだよ」
笑って言葉を返す。
「日本人に比べたらね」
「そうなの」
「そうだよ。それで」
「ええ」
話が元に戻る。
「何が見えたんだい?潜水艦かい?」
「まさか。まだ見ていないわ」
望遠鏡のレンズを合わせているところだった。丁度今それが終わったところである。
「今からよ」
「そうなんだ」
「ロシア人なんでしょ。もっと気を長く持ちなさいよ」
「そうするよ。気が長いのと素朴で無欲なのはロシア人の美徳だからね」
「聞いていると随分いい人達なのね、ロシア人は」
「ああ、そうだよ」
こう言われると自然に誇らしげな顔になっていた。
「ロシア人の人のよさは世界一だよ」
「そうみたいね」
「一度ロシアでじっくり暮らしてみればいいさ。人の温かさに参って離れられなくなるよ」
「寒いのはね」
「寒いのは気候だけだよ」
「それでもう充分よ」
大山田も随分と言う。
「気候が寒いってだけで。それもロシアといったら」
「日本の方がずっといいんだね」
「少なくともあそこまで寒くはないわ」
こう述べてみせた。
「日本はね」
「四季があるんだったよな」68
「ええ。春に夏に秋にその冬ね」
「羨ましい話だ」
ロシア人としてはだった。遠いものを見る目で語っていた。
「そんなものがあるなんてな」
「ロシアにだってあるじゃない」
「あっても殆ど冬なんだよ」
彼は言う。
「それこそな。油断したらそれで凍死しそうな冬なんだよ」
「それは知ってるけれど」
「羨ましいよ。その暖かい気候が」
またそれについて述べる。
「こっちにはないものさ。望んでもな」
「人は暖かくてもね」
「そうさ。そればかりはどうしようもない。それに」
「それに?」
「日本人だってな。親切で欲がなくていい人達ばかりだよな」
「例外もいるわよ」
ヴィシネフスカヤの今の言葉には思わせぶりに笑って答える。
「言っておくけれど」
「例外は何処にだっているさ」
しかし彼はこう言ってそれはよしとしたのだった。
「それこそあちこちにな」
「そうかもね。そうした意味でも人それぞれだから」
「ロシア人にだって悪い奴はいる」
その通りだった。どの場所にもいい人間もいれば悪い人間もいる。神もいれば悪魔もいる。彼が言いたいのはそのことであるのだ。
「そういうものさ」
「そうね。ところで」
ここで大山田は話を戻してきた。
「どうしたんだ?」
「今見ているのだけれどね」
「ああ、そっちか」
話は仕事に戻った。見れば大山田はその望遠鏡で遠くを見ていた。その氷の集まっている海辺を。じっと見ていたのである。
「どうだい?どんな氷だい?」
「氷じゃないみたいよ」
彼女は言うのだった。
「どうやら」
「!?じゃあ何なんだい?」
「わからないわ。見たことがないわね」
「見たことがないのかい」
「そうなのよ。あれは動物だけれど」
見ながら首を傾げていた。
「トドでもセイウチでもないし。あれは」
「ラッコでもないよな」
「あんな大きいラッコはいないわよ」
こう答えた。
「何メートルもありそうよ」
「何メートル!?」
首を傾げるヴィシネフスカヤに対して答える。
「ここからだとよくはわからないけれどね」
「何メートルもか」
「そうよ、随分あるわね」
「見てみたくなったな」
ヴィシネフスカヤもまた興味を持った。興味を持てばいてもたってもいられなくなるのが人間というものだ。とりわけ見られるのならば余計にだ。
「よし、じゃあ私も」
「見てみるのね」
「うん。あの白い集まりだな」
「そうよ」
念の為に聞いてきた彼に答える。
「あそこよ」
「わかった。それじゃあ」
彼も望遠鏡を取り出して見てみる。するとすぐにその顔が強張っていた。
「まさか」
「まさか?どうしたの?」
「すぐに皆を呼んでくれ」
その強張った顔で大山田に対して告げてきた。
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